皇紀五九八年二月十三日、帝都ゲルシュヴァイトにて。前年に起きたロザイアの戦い、それを受けた勲章授与式の会場であるパトラク宮殿は多数の客人で溢れていた。宮殿の外にまで報道陣などが詰め寄せるその喧騒の中央にいたのは、弱冠十七歳ほどの少年たちであったが。その中央からほんの数歩だけ離れたところで、一人の少女が演奏の片付けに追われていた。
「ティーナ!」
演奏も終わってしまうと、この会場に音楽家を必要とする人間はいない。それがまだ見習いに過ぎない、特に取り柄もない十五歳の小娘ともなればなおさらだ。政府や軍のお偉方や貴族の皆様が奏でる話し声と、無遠慮に私を呼ぶ声を無視しながら片付けを続ける。それでも後者は引き下がらず、背中を突かれながらなおも呼ばれては、流石に無視を続けるわけにもいかず。
「……何、レツィ?一応仕事中なんだけど」
両手で持った譜面台を下ろしてため息を吐く。それなりに不機嫌さを出そうとしたのだが、当の彼女は気づいていないかのように楽しそうな顔を向けるだけ。
(……気づいてはいるけど無視してるパターンかな、これ)
基本的に真面目なのに、面白そうな何かを見つけた瞬間これだ。こうなった彼女には誰の話も届かないのは周知の事実。周囲に目をやっても、皆『あとはよろしく』と言わんばかりに目を逸らしていく。どうやら助けは期待できないらしい。
「……で、どうしたの?」
「ね、ほら、あの人なんだけどさ……」
いっそう声を潜めて、レツィは大広間の一角を指した。そこには、周囲の談笑から隔絶されるように2人の人間がいた。1人は男の人でもう1人は女の人。どちらも同じ軍服に身を包み、壁にもたれかかるようにして何やら言葉を交わしている。
「……あの男の人って、さっき代表としてスピーチしてた人……だよね?それで、あの2人がどうかしたの?」
「あの男の人、さっきからずっとティーナのこと見てたけど……気づかなかった?」
「…………気のせいでしょ」
馬鹿馬鹿しいと背を向けようとしても、腕を掴まれて止められる。
「気のせいじゃないって、多分十……二十回くらいは見てたよ……!?絶対貴女に惚れてるって……!」
いくらなんでも夢見すぎな彼女の言葉に眩暈がしてくる。言葉の内容の割に、声を潜めないと、という理性だけは働いているのが不思議で仕方ない。
「あのねレツィ、そもそも私は可愛くないから。おまけにさっきあの場で演奏してたわけでもない、ただの雑用係。そんな女に対して何か感情を抱くわけないでしょ?」
「いやそれはない、ティーナは普通に滅茶苦茶可愛いから。私が保証する」
「…………そう」
「それに惚れてることも間違いない。大体、お伽話でもよくあるでしょう?目立たない、召使い同然の女に一目惚れした王子様とか」
「王子様、ねぇ……」
視線の先では、話が終わったのか女の人が彼から離れていくところだった。多分私より幾つか年上程度であろう彼らが、国を守った英雄と呼ばれている事実はどうにも現実感がない。そんな人が私に惚れているなんて話はもっと現実感がない。そろそろレツィの与太話も終わらせよう、と友人を窘める覚悟を決めた次の瞬間、手にしていた椅子が誰かの手によって抜き取られた。
「……えっ?あの、ペルツさん?」
いつからこの馬鹿げた会話を聞いていたのだろうか、私たちより五つも年上のビオラ奏者は私に悪戯っぽく微笑んだ。
「いいじゃない、話して来たら?こんな片付けなんてすぐに終わるし、一人くらいいなくても誰も気づかないでしょ。それに、天下の英雄様に見初められたって理由なら誰も文句言えないだろうし」
そう言い残して去っていく彼女を呆然と見送る。だから、その”見初められた”のくだりがレツィの勘違いだろうって話をしているのに。どうしてこの楽団は話を聞かない人ばかりなのか……あるいは、単に私が舐められているだけか。
(……ああ、なんか苛ついてきた)
舐められるのは仕方ない。この楽団で最年少の、親の名前込みでなんとか拾ってもらったような見習いを、堂々と実力で舞台に立っている人間と同等に扱ってくれだなんて思ったことはない。けど、なんか苛つく。レツィだってペルツさんだって悪意はないと思うけど、癪に障るものは仕方ない。表に出さないようには頑張っているのだから、心中で少し呪うくらいは許してほしい。
「……なら、少しだけ話してみようかな」
「!いいじゃん、行ってきなよ!」
半ば自棄で言ってみると、餌を期待する池の鯉のように食いついてくるレツィ。早速一抹の後悔が心に浮かぶも、もはや彼女に何か言うのも面倒になって。念のため変な所がないか尋ねてから、私はその英雄様に向かって小さく一歩踏み出した。
「……お隣、いいですか?」
ほんの少し上ずった声に、彼はゆっくりと視線を上げた。夜の闇のように、吸い込むような藍色の瞳に私の姿が映って止まる。彼は何も答えはしなかったが、少なくとも拒絶の色は見られず。とりあえず少し間を空けて隣に立つと、短く息を吐いた。
(……どうしよ……流されるまま来ちゃったけど、何話せばいいんだろ……?)
同じくらいの歳の男の人と話すこと自体かなり久しぶりなのに。それが軍人、それも国を守った英雄となれば、余計に緊張して仕方がない。
「…………フォール・ヴァルトルーデ……一応さっき言ったけど。俺の名前は覚えにくいと評判だから……」
「ああ、スピーチの最後に仰ってました……よね。えっと、私はティーナ・エルマーニ……ドゥランテ楽団の、見習いピアニストです」
ヴァルトルーデ。聞いた覚えはないけれど、なんとなく高貴そうな名前だと思う。とはいえ、人混みを退屈そうに眺める彼の素性を見ただけで判断できるほど、私に人を見る目はない。軍人にしては纏う雰囲気が柔らかい気がするが、そもそも軍人と話したこともないし……
「……なんで?」
「えっ……?」
「なんで、わざわざ俺と話しに来たの?ヴィルの方行った方が数十倍は楽しいと思うけど」
気怠そうに彼の人差し指が伸びて、少し離れた一団を指した。上流階級のお嬢様など、女性比率高めの人垣に囲まれるように立つのは、彼と同じ軍服姿の青年。多分ヴィルという名前の、前髪をかき上げながら話すその人の姿は、遠目に見ても絵になっている。そのまま劇場の舞台に立たせても通用しそうな色男なのだから、あれだけ女性陣が群がるのもまあ当然だろう。
「えーっと……私はちょっと、あの場に入っていけるような女ではないというか……格が足りてないというか……」
家柄も容姿も私とは天と地ほどに違うお嬢様方を、視界から追い出すように視線を彼に戻して。今の言葉が、彼と話しに来たことの説明になっていないことにようやく気付いた。
「……その、あなたが私と話したそうにしてた……って、友人から聞いて。ご迷惑でしたら、今すぐ……」
口にしてみると、その自惚れ具合に我ながら愕然とする――いや、元はと言えばレツィのせいなんだけど。これであの娘の勘違いだったら私はどうすればいいのだろうか。もう喉を貫いて自害するのが一番潔い気もする。
「…………いや、いい……合っては、いるから」
ぶっきらぼうにそう言い放って、彼は床に視線を落とす。頬を赤らめたりなどはしなかったものの、その反応はレツィの推測がそれほど的外れではないことを物語っていて。
「……そ、そうですか……えっと、よっ、よかったです……」
私はといえば、妙に熱を帯び始める頬を隠すように俯いて、そう声を絞り出すのが精一杯だった。
「……じゃあ、あの人はどこ行ってもあんな感じなんですね」
「ああ……あいつと仲が良い男は全くモテないって評判になるくらいだし」
「ちなみに、あの中にヴィル……さん?のお眼鏡にかないそうな人はいるんですか?」
「……多分いないんじゃないかな……あいついつも話は弾むけど、それ以上の仲になることないし。なるつもりもなさそう」
「……モテるのに?」
「モテるのに」
気が付けば頬の熱も去り、彼のことも直視できるようになっていた。他愛もない会話に花を咲かせながら、私の胸に浮かぶのは酷く単純な感想。
(……不思議な人)
軍人という肩書に身構えてはいたものの、彼の口から語られる話はごく普通のもの。軍隊という特殊な空間を舞台にしていることを除けば、その辺の街で話されていてもおかしくないような、ある意味では年相応な話。全然わからない話されたらどうしよう、という懸念が杞憂に終わったことに内心安堵しながら、ふと一つの疑問が心に広がる。
(……どうして、こんなに暗い顔してるんだろう?)
さっき偉い人が言っていた話が頭の中で再生される。共和国軍に占領された砲台を奪還し、逆に敵の陣地に撃ち込むことで敵の司令部を一掃。それを同じような年齢の少年だけでやってのけたのだから、神業も神業、奇跡のようなものなのだろう。国を挙げてこれほど大きな式典を催したという事実も、その功績の凄まじさを保証している……はずなのに。
当の本人の彼はといえば、憂鬱そうに人の輪から外れて壁際に引きこもるだけ。その表情に誇らしさは一欠片たりとも見出すことはできず、むしろ式典が終わる瞬間を待ち侘びているように見える。部隊の代表として話していたのだから、数歩前に歩くだけであっという間に囲まれて、雨あられと賛辞を浴びられるだろうに。そうしない理由は気になるのだが、それを尋ねる程に私は無遠慮ではなかった。
(……そういえば、友人が亡くなったってさっき言ってたっけ……そうだよね、勝ったからってそれだけで喜べるものじゃないよね……戦争って)
勝手に想像して勝手に納得して。冷静に考えるとだいぶ失礼な思考に耽る私に、不意に躊躇いがちな声がかかった。
「……えっと、エルマーニ……さん?」
「あっ、あの……えっと、呼び捨てでいいですよ?全然年下ですし……というかティーナでいいです、むしろその方がありがたいというか……エルマーニって呼ばれるの、割と苦手なので」
「……そう?」
動揺して早口でまくし立てる私に、彼は少々首を傾げたが。やがて納得したように頷くと、確かめるようにティーナ、と呟いた。そこでようやく、男の人に名前で呼ばれるのは初めてだと気が付いた。幼い頃も友人なんてほとんどいなかったし。初対面の人に名前で呼ぶよう要求するのってどうなんだろう、と今更考え直すも、多分もう遅い。
「……なら、俺のことも名前で呼んでいいよ」
「え……その、いいんですか?」
「うん……ヴァルトルーデって、自分で適当に付けた名前だから。最近ちょっと後悔してるくらいで……まあ俺が悪いんだけどさ」
「わかりました……それで、どうしましたか?……フォールさん」
元はと言えば私が彼に呼ばれたんだ、とようやく思い出して尋ねると、彼は数秒思い出すような素振りを見せてから。
「ティーナは、いつからこの楽団にいるの?」
僅かに首を傾げてそう尋ねた。
「ええと……二年半くらい前、でしょうか。私が十三になったすぐ後で……それまでは田舎に住んでいたんですけど、ウェルトハーツまで出てきて、選抜試験を受けて……そうして、ドゥランテ楽団に拾ってもらったんです」
「十三歳で?凄いな……」
「いえ……私は、そんなに上手くなくて。楽団でも控えの控えみたいなものというか……」
「そうなの?俺は正直疎いけど……ドゥランテ楽団って、この国でも指折りの楽団って聞いてたから……その歳でそこに所属してるってだけで、凄いことだと思ってた」
一瞬、どんな表情をすればいいのかわからなくなる。彼の言うことが間違っているわけではない、実際客観的に見ればその通りだと思う自分もいる。けれど、それを素直に受け取れない自分の方が優勢だったし……なにより、それを彼が言っていることが酷い皮肉だった。勿論、彼に悪意などないのだろうが。
「……私の母も、ピアニストだったんです。この国で一番格式高い楽団の、一番手のピアニストとして活躍したくらいにはすごい人で……そこにいた時期は短かったんですけど、この業界ではとても有名で。本当に、上手な人なんです……私なんかとは、比べ物にならないくらい。だから多分、私がこの楽団に入れたのも、母の名前のおかげというか……あの天才の娘なんだから将来性もあるだろう、みたいな期待込みで拾ってもらった感じで。オーディションのときも、私より上手かったのに入れなかった人もいましたし……あなたのように、年齢からは想像もつかない実力を示したから、ってわけではないんです。情けない話ですけど」
言葉を切ると、思わず大きなため息が漏れる。カラカラに乾いた口の中が気持ち悪い。言葉にするとより実感する己の情けなさと、こんな話を初対面の人に聞かせてしまう配慮の無さに自己嫌悪していると、不意に隣で小さな声が零れた。
「……俺も、同じようなもの。別に実力が抜きんでてるわけでもないし……部隊の中でも、良くても上から三番目とかそんな感じで。ただ俺より上の奴らが、こういうちゃんとした場で演説させるわけにはいかない問題児だから代表面してるだけで……俺はただ引き金を引いただけ……それだけの、何も凄くも偉くもない……ただの子供だから」
「……フォール、さん……?」
数秒考えて、『引き金を引いた』という言葉が比喩だと結論付ける。ただ、それが何を表しているのかはさっぱりわからない。どうしてそんなに暗い顔をしているのかもわからない。”虚無”という言葉を人の形にしたように、光のない瞳を床に向ける彼に、何か言うべきだと思うのに何も思いつかない。無様に口を開けたり閉じたりしている間に、気が付けば彼はさっきまでのような微笑を取り戻していて。
「……ごめん、急に変なこと言って」
「い、いえ……元はと言えば私のせいですから……」
「……じゃあ、お相子ってことにしておこうか。それと……楽団の人が呼んでるみたいだけど」
「えっ?」
慌てて彼の見つめる先に視線を向ける。そこにはこちらに向かって軽く手を振るレツィの姿があった。その表情を見るにそろそろ撤収の時間らしい。
「えっと……どうやら、お暇しないといけないみたいです」
「そっか……まあ仕方ないか。俺はこのパーティが終わるまで出られないらしいから……ここに骨を埋めることにするよ。またね、ティーナ」
「はい、また……いずれ……」
本当に?ふと湧いた疑念が瞬く間に胸を覆い尽くす。その”また”とやらは本当に訪れるのだろうか?帝国の英雄として今後も輝かしい人生を送るであろう彼と、誰の眼にも留まらない空気のような私。ほんの一瞬交わっただけの二人の運命が、再度交わることなどあるのだろうか?
(……ない、かな)
ほんの数秒の思考の末に導き出たその答えが、何故か喉に引っかかる。もしかすると、自分は彼との別れを惜しんでいるのだろうか。そんなことはない、あってはならない。少なくとも自分には、そんなことに現を抜かしている余裕などないのだから。
「……また、いずれ。さようなら、フォールさん」
飲み込めない答えを無理矢理飲み込んで、仮初の笑みを張り付けて。彼に一礼してからレツィと共に帰ろうとした私のすぐ横を、彼女は見向きもせずに通り過ぎた。
「……は?」
困惑する私を他所に、フォールさんの側まで歩み寄ったレツィは彼の耳元で何かを囁く。すぐに終わるかと思っていたのに、数十秒経ってもその内緒話はまだ続いていて。二人共時折こちらに視線を向けてくるのが、私の話をしているのだと教えてくるようで気分が悪い。結局一分くらい話し続けたレツィは、最後に彼の手に何かを握らせるとパッと距離を取った。
「……お時間を取らせて申し訳ありませんでした。それでは私はこれで……さ、帰ろ?ティーナ」
「え?ああ、うん……えっ?」
慌てて彼にもう一度頭を下げると、レツィに手を引かれるまま彼の前を退く。色々と彼女に問い詰めたいことはあったが、お偉方が多くいらっしゃる場では何も言えず。ようやく裏に引っ込めたタイミングで逆に彼女の腕を掴むと、至近距離まで顔を近づける。
「レツィ、あなた何考えてるの……!?彼に向かってあんな失礼な……!」
「し、仕方ないでしょ!彼に渡してくれってオーナーに言われたんだし……」
「……あのねレツィ、私はあなたのこと友人だと思ってるから、あなたにどれだけからかわれても気にしないけどね?それに他の人を巻き込まれると話が変わるの。しかもよりにもよって、彼みたいに立場のある人を……」
「まあ、流石にちょっとやり過ぎたかなぁって思ってるし、反省もしてるけど……あの人、怒ってはないと思うよ?」
一度”反省”という言葉を辞書で引いてこい、と言いたくなるような表情でレツィは語る。今度はどんな言葉で責めればいいのか……そう考えて、肝心のことを聞きそびれていることに気が付く。
「待ってレツィ、あなたそもそもあの人に何を話して、何を渡したの?」
「……”恋は真珠よりも煌びやかで、蜂蜜よりも甘美だ”」
「……何それ」
「私の好きな詩人……四百年くらい前の人が書いた文章。私は恋なんてしたことないからわからないけど……どう?本当に甘かった?」
何も答えられずに立ち尽くす私の肩に軽く手を置いて、レツィは立ち去る。どれほどそうしていただろうか、やがてこっそりと会場に戻った私は、ある一点に目をやった。壁際の一角、先程まで私と彼が話し込んでいた場所には、人影一つ見えなかった。