「……ごめん、お待たせ……ティーナ?」
背後から響いたレツィの声に、視線を運河から外す。振り返った先には何やら首を傾げる友人の姿。
「……どうかしたの?狐につままれたような顔して」
「んー……なんかさ、今日のティーナ変じゃない?全体的にふわ~って感じがするんだけど」
数冊の古本を大事そうに抱えて、何でもないような声色で彼女は語る。そうは言われても、自分としては思い当たる節など全く無い。練習中も何も言われなかったし、やっぱりレツィの思い違いだろうか。まあ一番確実なのはフォールに聞いてみることかもしれないが……
「ほら、今!今ふわ~って顔してたって、絶対!」
「だからそれはどういう顔なの……」
「それよりさ、今何のこと考えてたの?」
「……まあ、彼のこと」
ひんやりとした風に乗って誰かの歌声が耳に入る。道端で歌手や音楽家が己の腕を披露しているのは、この街では極々ありふれた光景だ。かなり上手だと思うし私好みでもあったけれど、そちらに足を向けるほどの元気は今日は無くて。惰性で運河沿いの道を行くと戸惑いながらもレツィが追ってくる。
「フォール君と何かあったの?喧嘩ってことはないと思うけど」
「……別に。ただ、最近の彼はちょっと疲れて見えるってだけ。あと彼の名前出さないでって言ってるでしょ、聞かれると面倒だから」
ケッセルという街で何があったのか、帰って来た日に彼から聞いた。『捜査が不発に終わった』の一言で要約できそうな内容の割には暗い顔で。多分、私に話していない部分にその理由があるのだとは思うのだけれど。
(やっぱり触れない方がいいとは思うんだけどなぁ……けど、このまま見守ってるだけっていうのも……)
次の公演までもう二週間もないのもあって、私とフォールが一緒にいる時間は間違いなく減っていた。夜には同じベッドで寝ているわけだし、特段気にする必要もないのかもしれないが。今の彼にはどことなく危うさを感じるし、叶うことなら少しでも隣に居たいというのが本音だった。
(直接聞くよりも、ミランちゃんに聞いた方がいいのかな?あの子なら最近のフォールの仕事内容も知って……いや駄目だ、絶対機密事項に決まってる)
フォールも大概だけど、それより更に若い身で厄介そうな任務に従事する彼女に同情して。不意に、聞き慣れない音を拾った。気のせいかと思ったが、レツィの反応を見るとそうでもないらしい。
「……何、今の音?」
「路地裏の方から、かな……」
それが何の音か、という問いは無視する。聞き慣れないとはいえ、聞き覚えはある音だった。昔フォールと遊びに行った時に、内緒で聞かせてもらった音。人気のない山中で彼が銃を撃つのを見せてもらった際聞いた、つんざくようなあの音。
(……警察の人に言うべき?けど本来、私は本物の銃声なんて聞いたことがあっちゃ駄目だし……どうにか誤魔化せるかな)
考えながら軽い気持ちで路地の方を覗き込む。別に何かを見つけることなんて期待してない、申し訳程度の動作だったのに。
「……えっ?」
路地の向こうで赤い髪が揺れた気がした。微かに見覚えがある……十日ほど前に話した、そしてついさっき思いを馳せた彼女のような髪色に、視線が路地の一角から動かせない。
「……ティーナ?今度はどうしたの?」
私の顔を覗き込んだレツィが、視線をなぞるように路地を見て。私たちが見つめる先を、今度は黒服の男が足早に通り過ぎて行った。この街の路地裏には似合わないその姿に胸騒ぎがする。
「……ちょっと見てくる」
「正気?絶対止めておいた方がいいって、何があるかわからないでしょ?」
「いいよ、レツィはここにいて」
一応足音を殺して近づく私に、何故か付いてくる彼女。僅かな好奇心と抑えきれない恐怖心を抱えながら、恐る恐る覗き込んだ先の路地には――誰も、いなかった。
「……なんだ、誰もいないじゃん」
黒服の男が去った方向を見ても結果は変わらず。拍子抜けしたようなレツィに頷きながら辺りを見回すと、何かが目に入った。路地の端に落ちた、小さな黒い箱。これもまた、最近見たような。
「なんだっけ、これ」
まるで誰かが落としたようなそれを拾い上げ。表面に描かれた紋様を目にして、ようやく思い出した。この前フォールが持って帰ってきた、帝都の菓子屋の品。貰い物だと言っていたそれの贈り主の姿が脳裏に浮かんで、全てが細い線で繋がる。
「やっぱり、ミランちゃん……!?」
「……誰?新しい友達?それとも、彼の知り……」
多分何もわかってないレツィを置いて駆け出す。背後から聞こえる声には知らないふりをして。さっき見た一人目がミランちゃんなら、彼女にはこれを投げ捨ててまで急がなければならない理由があったはず。それは多分、さっき聞こえた銃声と関係している。
(だとしたら……ミランちゃんに何か悪いことが……!)
入り組んだ路地を勘に頼って走る。この街に住んでいる私でさえわからなくなりそうなその道を数分駆けても、探し人の姿は見えない。血痕のような手掛かりもない以上、当てずっぽうで彼女を探し出すこと自体そもそも無謀極まりないのだが。あっという間に走る体力もなくなり、衝動に駆られた自分の愚かさに呆れながら十何個目かの角を曲がったとき。
「……ミランちゃん……!?」
路地の壁に背を預け力無く座り込む彼女に駆け寄る。苦しそうに瞼を開けた彼女は、私を見て数秒唖然としたものの、すぐに小さく首を振った。服の脇腹の辺りが赤く染まっているが、全て服が吸ってくれているのか血痕は残っていない……ように見える。
「……早く、離れて……追っ手が……げほっ……」
「追っ手!?それって一体誰なの!?」
警察とAEIが不仲というのはこの前フォールから聞いた。とはいえフォールの仕事仲間を警察が追いかけ回し、傷つけるだろうか?あるいは警察以外の誰か?けどそんな存在を、この街の警察が許すとも……
(……違う、そんなことどうでもいい!早くミランちゃんをどこかに逃がさないと……)
いくらミランちゃんが小柄な女の子とはいえ、私では彼女を運ぶことはできない。助けを呼ぶにしても、彼女を無防備なまま残しておくわけにはいかないし……焦りながら周囲を見渡すと、路地の端に木箱が二、三段積まれているのが目に入った。飲食店の裏口でよく見かける、仕入れに使われた後の空箱だ。回収を待っているのだろうその一つを開けると、案の定中には何も入っていない。
「ミランちゃん、ここ入れる!?」
「えっ……まあ、可能では……」
「フォール……それか警察の誰かを呼んでくるから、それまで隠れていて。すぐに戻ってくるから!」
少々強引に彼女を木箱に押し込むと蓋をする。一体何が起きているのかはさっぱりだが、フォールならどうにかできるという信頼があった。息も満足に吸えない身体に鞭打って歩き出し、三つ目の角を曲がった時。
「……っと、これは失礼」
「わっ……ごめんなさい、お怪我……は……」
見上げた瞬間息が止まる。そこにいたのはフォールよりも背の高い男。全身黒で統一された格好のその人は、さっきミランちゃんを追うように歩いていた……
「ごめんなさいっ、急いでいるので……」
男の横を通り抜けようとした私の腕が掴まれる。見上げた男の顔は完全なる無表情。
「……失礼。一つお尋ねしたいのですが……」
どれだけ力を入れても彼の腕はまるで動かない。性別、体格、全てが私に勝ち目のないことを教えてくる。
「この辺りで、赤い髪の少女を見ませんでしたか?歳は十五ほどなのですが」
「……いえ。それよりも、まずは手を放してくれませんか?」
「ええ、構いませんよ。貴方が事実を話してくれたら」
一歩踏み出した男の身体によって壁際に追い詰められる。視野の半分以上が彼の陰に収まり、触れられてもいない首が絞められるような感覚が走った。
(どうする……!?一か八か横をすり抜けて……いやそれ以前に向こうは銃持ってるから……誰か来てくれることに賭けて、叫ぶしかない……?)
思考がまとまらない。手足が震えすぎて感覚がない。こういう時の対処法も、彼から何度か聞いたはずなのに。実際に己の命に手がかけられると、心と身体が分離したかのように動けない。
「ああ、誰か呼ぶのはお勧めしませんよ。ここは特に入り組んでいるから、呼ばれた方も中々辿り着けないでしょうし……何より、貴方にそれだけの気概は残っていないでしょうから」
「……っ…………」
「……貴方の身の上は存じませんが、死ぬには若いでしょう。私も時間がない。大人しく彼女の居場所を吐けば……」
「…………」
本当は、色々言ってやりたかった。私の年齢は気にするのにもっと年下のミランちゃんは殺そうとするのか、とか。私なんかに目撃される時点でこの街の警察から逃げきれるわけがない、とか。けれどもそれは叶わなそうだから、代わりに男を睨み上げる。
「……吐かないか。ならば仕方がない」
額に突き当てられる銃口。死神の鎌ってこんなに冷たいんだ、と場違いな思いを抱く。急速に、かつ無意味に加速する思考の中で脳裏に浮かぶのは、知ってはいたけれど、やはり彼の姿で。
「……フォール」
思わず漏れた言葉に、引き金にかけられた指が止まった。男の瞳が僅かながら揺れる。フォール・ヴァルトルーデの名がこんな小娘の口から出たのが想定外だったのだろうか。ともかく、彼の名は一瞬であっても二人の時を止めた。そして、それを最後に”二人の時”は終わった。
「いた!!急いで、あの男です!!」
路地裏に響いた聞き慣れた声。銃口は動かないものの男の視線もそちらに持っていかれる。二人の視線の先に現れたのはレツィと……一人の警察官。
「!?そこの男、銃を捨てろ!!」
「チッ……おい、それ以上前に出ると……」
私を人質にするつもりなのか、一層強い力で押し付けられる銃口。けれどもその視線と注意は明らかに警察官の方に向けられている。そこに一筋の希望を見出した私は、震える腕に鞭打って銃身を掴んだ。
「このっ……!!」
「!?」
私の力では男から銃を奪い取ることはできない。けれども、銃口を私から逸らすことくらいはできる――はず。あらん限りの膂力で銃口を空に向ける私と、押し戻そうとする男。両手対片手でようやく勝負になるその鍔迫り合いは、一発の銃声によって終止符を打たれた。
「……警察ごときが……!」
ぽたり、と血が石畳を濡らす。肩の辺りを撃ち抜かれた男は、一瞬私を見たもののすぐに踵を返した。逃走するその背をぼんやりと見つめていた視界が、飛び込んできたレツィの身体で塞がれる。
「ティーナ大丈夫!?怪我は、血は出てない!?」
「……レツィ……もう、大げさだって」
「何が大げさよ、あともう一歩で……!あなたを死なせたら、私は……彼に、どう謝れば……」
もし私が死んだとしても、それはあなたのせいじゃないのに。そう何度伝えても私を抱き締める彼女の腕は緩まない。どうにかこうにかそれを外すと、左右を確認してからそっと囁く。
「……ごめんなさい、一つ頼みが。警察の人に話を済ませてほしいの……あの赤い髪の少女のことは伏せて。困ったら……フォールの名前を出せば、どうにかなると思うから。埋め合わせは必ずするから……お願いしてもいい?」
「それは構わない、けど……ティーナは?」
「私は……やらないといけないことが。あの子を隠さないと、次の刺客が……」
我ながら不義理極まりないと思う。ミランちゃんのことを知らないレツィに何も伝えず、警察相手に嘘をつけと要求しているのだから。それでも彼女は、数秒考え込んだ末に力強く頷いた。
「……わかった。けど、フォ……彼の力は借りない。その代わりに、さっさと家に帰るよう言っておくから。よくわからないけど……多分ティーナの隣に居た方がいいでしょ、彼は」
私の頬に素早く口付けして、彼女は走り去る。その背を見送ってから立ち上がる。相変わらず足は震えているけど、それでも。
「……すぐ行くから……もうちょっとだけ待っててね」
ざらついた壁に手をつきながら、私はあの木箱の方へ歩き出した。