ふと聞こえた物音にキッチンを飛び出す。視線の先では、ベッドの上に座り込んだフォールがぼんやりとこちらを見つめていた。どうやらたった今意識を取り戻したらしい。
「……おはよう……でいいのか?」
「まあ、いいんじゃない?夜の八時だけどね、今」
「……ああ、あの後ずっと寝てたのか」
「寝てたっていうか、気絶していたというか……?それより大丈夫、どこか痛いところとかない?」
「それは…………ない、な。少し喉は乾い……ってか待て、ミランのやつは!?」
ベッドから跳ね起きた彼は、すぐに頭を押さえながら立ち尽くす。そんな彼の肩を掴んでそっと押し戻すと、大した抵抗もなくベッドに座り直した。それでも意識ははっきりしているし、相変わらず外傷の類は見られない。単なる立ち眩みだろうか。
「まだ無理しちゃ駄目。ミランちゃんはね……ええと、二つ隣の部屋わかる?階段側の、二週間前くらいから空き部屋のとこ。大家さんに頼んで一晩だけ借りたから、今はそこにいるよ」
「……なんで?」
「あの子が、すぐにウェルトハーツを出ていくって言い張るから……けど逃げるにしても、汽車の方が追っ手を撒きやすいでしょ?それに夜だと警察の目もあるから、明日まで待った方が良いって言ったの。本当は、君が目覚めるまで時間稼ぎをしたかっただけなんだけどね……」
嘘を言ったつもりはない。けれども本音は隠した。そんな中途半端な私は、ミランちゃん……彼女の第六感には、どう見えたのだろうか。割とあっさり受け入れた様子からして、嘘だと判断されなかったのか……あるいは彼女がそれを見逃してくれるくらいには大人だったのか。
「間違ってはないだろうけど……逃げるにしたってなぁ……一体どこに……」
「……どこか、安全な所って思いつかない?それこそ、いっそこの国の外とか……」
「無理。むしろ国外に逃げた方がAEIが本気になるだろ。外にだってAEIの工作員はいるだろうし」
「そっか……」
つまり、ミランちゃんは今もかなり危険な状況にいるということ。レツィや警察の人のおかげでどうにか危機を脱した、などと思っていた己の愚かさにため息が出る。やがてフォールは、額に手をやりながら何やら考え込み始めた。
彼が目覚めるまで、どうすればミランちゃんを逃がせるか考えてはみたものの、私の頭では何も閃かなかった。この手の頭脳労働は彼に任せるしかないだろう、と開き直ると、キッチンに向け一歩踏み出し。不意に、視界の端を枕が通り過ぎた。彼が投げ出したとしか思えない速度と軌道で。
「……もう、疲れた」
聞き間違いかと思うほどにか細い声。振り向いた私の耳に、酷く小さな音が届いた。何かが床に落ちるような、本当に本当に小さな音が。
「俺は何人殺せばいいんだ?イリス、エーリヒ、ディルク、ケーグル、ヴァーグナー……今度はミラン……あと何人殺せば、世間は俺を見放してくれるんだ……?あと何人、仲間を死に追いやれば……俺は、”英雄”じゃなくなるんだ……!?」
一筋の光も見えない双眸から、涙がぽろぽろと床に落ちる。こんなに感情的な声を漏らすのも随分珍しいのに、私の意識は彼の涙に持っていかれていた。彼が泣いてる姿を見るのは、恋人の私でもこれが二回目――エーリヒという人が亡くなった時以来。
最初の三人は、彼が軍にいた時の仲間。ケーグルとヴァーグナーというのは警察の人だったはずだ……彼と同じ特別警務課の先輩で、あの斬殺卿事件の際に殉職された。
「……フォール。前も話した気がするけど……君はちょっと、色々背負い過ぎだと思う。部下だったり同僚の人が殺されて、責任を感じるのはわかるけど……それにしても、限度ってものがあるでしょ?何より、ミランちゃんがこうなったのが君のせいなわけ……」
「……うるさい」
その一言を境に、部屋の温度が数度下がった。聞き慣れないどころか、聞いた覚えすらない彼の乱暴な声。冗談など欠片も含まれていないそれを向けられて、手足に痺れのような感覚が走る。
「あいつの話聞いてなかったのか?言ってただろ……タリオンが成功したから、AEIはミランを拾ったんだって」
「……たしか、そんなことを言ってた気がするけど……じゃあ何、ミランちゃんが狙われたのはあの子がAEIに入ったからで、AEIに入ったのはタリオンが共和国に勝ったからだから……それも全部自分のせいだと?」
詰るような私の声に、彼は俯いたまま何も答えない。癇癪を起こした子供みたいなその様子にほんの少し苛つく。それと同時に、彼を哀れんでもいた。この人はこれほど追い詰められて、怒りに身を任せないと、涙一つ零せないのだと。
「………………ねえ、フォール?」
隣に腰掛けると、怯えるように彼の肩が跳ねた。その背に手を伸ばすと、労わるようにそっと撫でる。これまでに亡くなった彼の親しい人の分まで、彼を慈しむように。今まで彼が奪われた分以上に、彼に愛を注ぐように。
「私はね、君のことが好きだよ。この世の誰よりも愛してるし、君が苦しいなら支えたいと思ってる……君のこと、少しでもわかってあげたいと思ってる。けど、私は……君と違うから。警察がどうとかAEIがどうとか、政治のことはわからないし……人を殺したこともない。だから、何が君を苦しめているのか……君が話してくれないと、私は一生理解できないと思う」
「…………」
「……ごめんね?けど、その代わり……になるかわからないけど。君が何を抱えていても、私はそれを受け止めるし、肯定する。そう約束するから……話してくれる?」
その言葉を最後に、私たちの間から声が消える。彼の背を擦り続けていると、彼の息遣いが少しずつゆったりとしたものに変わっていく。相変わらず俯いたままだったけれど、時折覗く彼の顔は眠気に抗う子供のようにも見えた。
数分ほどそうしていただろうか。不意に、彼を撫でていた手が掴まれる。男の人らしい確かな力が込められたそれにも、不思議と拒絶の色は感じなかった。
「……全部、二年前……ロザイアでイリスが逝った、あの日に始まった。エーリヒに恨みの矛先が向いたのも、ディルクが現実から逃げたのも、あの二人が斬殺卿から俺を庇ったのも、ミランがAEIに入れられたのも、何もかも……あの日、俺が下した決断のせいだ」
「……エーリヒさんが恨まれたのって……タリオンが共和国軍を追い払う時に、エーデの民間人も少し巻き込んじゃったから、だよね?その決断……共和国軍を攻撃するってことを、君が決めたってこと?」
「……ああ」
「けど、それは仕方ないんじゃないの?だって……私は戦争には詳しくないけど。あの街の中で戦いになった時点で、誰も巻き込まないってことは難しいだろうし……それに、それも本当は君たちじゃなくて、ロザイアに配属されていた軍の人たちの仕事なんでしょ?その人たちが負けたから代わりをやった君たちが、少し犠牲を出してしまったからって……」
「……そうじゃなくて……逆、なんだ」
「……ぎゃく……?」
意味がわからず首を傾げる私を前に、彼は一度深呼吸して。
「俺たちは……俺は、『敵を殺すのに味方を巻き込んでしまった』ことになってるけど。『味方を殺すついでに敵も巻き込んだ』というのが本当で……俺が一番葬りたかった人間は、味方の中にいた。だから殺した」
淀みない口調でそう告げて。言葉を失う私と目を合わせてから、再び語りだした。二年前、ロザイアという街で起きたことを。