数分後。つい先ほどまでは年若い軍人たちの声に溢れていた宿舎は完全に沈黙していた。その一角、照明もなく闇に覆われた部屋の中で。
「……見られた」
窓際に立ったフォールが呟いた。次の瞬間、その足元から伸びた腕が彼を引きずり倒す。
「痛っ……!!」
「黙れ馬鹿……!早く伏せろ、さもないと撃たれるぞ……!」
ハルトナーのそれは的外れな予想ではなかった。フォールの第六感を思えば、彼が”見られた”と感じたことは、誰かが彼のことを見つけたことと同義なのだから。にも関わらず、二人が潜伏する部屋には一発の銃弾も飛んでこない。
「……あー、君は知らないだろうけどさ。俺の第六感は……んー……なんていうか……」
「……何?」
「まあ、”見られる”と”見つかる”は違うんだよ。俺もあんまわかってないけど」
第六感は人知を超えた能力であり、所有者であってもその全容を理解してはいない。自身の能力すらよくわからないのだから他者のそれなど理解を試みるだけ無駄だ、とハルトナーは早々に思考を切り上げた。
「……まあいい、見つかってないならな」
再び部屋は静寂に包まれる。全神経を聴覚に集中する彼ら、その宿舎の横を男たちが走り抜けていった。
(……五人……十人はいるか?まあ十人ってことにしよう)
(言語からして、やっぱり共和国のカエル共か……ロザイア駐屯部隊は何してるんだ?)
その足音が消えるまで、二人の青年は銃を握り締めて潜伏していた。やがて立ち上がった彼らは頷き合うと、階段を駆け下りる。先発したイリス麾下の九人を追いかけて。
フォールとハルトナーの二人を宿舎に残し、先に九人が逃走する。両隊長は追っ手を見張り、確認した場合はそれを見過ごしてからその後を追う。いずれイリスたちに追いつく追っ手のさらに背後を取るために。フォールの立てたその計画は、隊長抜きで放り出される八人を統率できる能力の持ち主――イリス・シルトホルンの存在を前提に成り立っていた。潜伏のために第二陣の人数は極力減らしたい、けれども戦力的には申し分ない人間を置きたい、その上で第一陣も問題なく逃がしたい。あまりに強欲なそれを可能とするほど、彼はイリスの能力を信頼していた。
「……銃声の数が増えてる。こっちの軍も仕事はしてるらしいな」
「だとしても変だ。国境の街に配備された部隊が、敵軍の渡河を見過ごすなんてあり得るのか?」
「……わからない。ただ嫌な予感がする」
フォールが縁起でもないことを言った次の瞬間、銃声が響く。今度は、走る二人の前方から。
「急ごう」
「ああ」
足音を隠そうともせず加速するフォールに僅かばかりの不安を抱えながら、ハルトナーも強く地面を蹴った。
「エーリヒ、右!右にいる!」
「わかっ……くっそ、何人いるんだよ……!」
「二人とも、声を……!」
イリスの声に、ニュートとエーリヒは左右に分かれ木陰に転がり込む。木々が鬱蒼と茂る林の中、しかも夜ともなればそれだけで身を隠すには十分。おまけに彼らは斜面の上側に位置しているのもあって、追っ手の銃弾は的外れな方向に飛んでいく。
(ま、こっちからも見えないんだけどな……)
リロードしながら汗を拭うニュート。敵がそれほど多くないことには少し安堵したものの、自分たちがたった九人という事実は変わらない。突然火蓋を切られた殺し合い、覚悟を決める暇もなく飛んでくる銃弾。未だ十代の彼らにはあまりに酷なその状況でも、折れることなく引き金に手をかけられているのは、二人に対する期待だった。すなわち、いずれ追っ手の更に後ろから奴らを急襲する予定のフォールとハルトナーに対する信頼。
(二人が来るまでは身を隠すことを最優先し、適当に撃ち合ってるフリをする。二人が到着したら左右に広がり、同士討ちを避けながら敵を包囲する、だよな……)
イリスからの指示を思い出しながら、ニュートは牽制として数度引き金を引いた。聞いたときは良い計画だと納得したものの、時が経つに連れ彼の胸には次から次へと不安が湧いていた。いくら第六感を扱える実力者とはいえ、あの二人だけで人数不利を覆せるのか。同じ部隊とはいえ競い合う敵でもあったベータ分隊と連携が取れるのか。そして、あの二人が到着するまで死なずに持ちこたえられるのか。そういった不安を胸に押し戻しながら這うように木陰を抜け出すニュート。数秒後、さきほどまで彼がいた空間を数発の銃弾が通り過ぎた。僅かに遅れて、痛みに呻く声が彼の背後から響く。
(早く来いよ、フォール……!!)
心の中でそう叫んだニュートに。同じ言葉がよぎりながらも、それを押し殺したイリスに。震える身体に叱咤し交戦を続けるエーリヒに、ディルクに、ベータ分隊の青年らに応えるように、四丁の銃が一斉に火を噴いた。
「……来た!!全員散開!!」
イリスの指示に八人が動く。潜伏を半ば放棄した彼らに、共和国軍は意識の半分程度しか向けられなかった。その更に背後から襲来した、正体不明の敵のせいで。
「新手だ、対処しろジル!!」
「無理です、数が多すぎる……!」
「多い!?そんなわけが……」
「馬鹿、上のガキ共から目を離すな!!」
月明りも届かぬ林の中を、幾つかの影が踊るように走る。その位置を捉えられず、かといって同士討ちを恐れ乱射することもできない共和国の兵士は瞬く間に平常心を失い、そのまま各個撃破される。気が付けば彼らは、タリオンに包囲されるような位置に追い込まれていた。
(あれ、フォールだよな?二丁拳銃で自分たちを多数に見せかけてるのか……多分ブラントの奴も同じことを)
敵の銃撃を平然と躱し、敵だけをその銃で穿ち続ける。化け物じみた技量を披露する彼に、恐怖と感謝を同じくらい抱いたニュート。次の瞬間、彼の胸に一つの疑問が湧き上がった。
(……なんで、あいつは敵の位置がわかってるんだ?敵だって、フォールのことは見つけられないだろうに……)
ニュート・アークライトは、フォールやイリスには劣るとはいえ、決して愚かではない。あと数秒その思考を続ければ答えに辿り着くことはできた。けれども彼はその思考を放棄した。そんなことよりも、目の前の共和国軍を駆逐する方が重要だと判断して。また、答えなど後でフォール本人から聞けばいいと考えて。
フォールとハルトナーの乱入により、共和国軍は瞬く間にその数を減らし、今や片手で数えられる程度の残数しかいなかった。そのうちの一人――腹部に風穴を開けられ、銃も失い地に伏していた男――は辛うじて立ち上がると、己に背を向けたイリスに襲い掛かった。彼が仮に生きていたとしても脅威にはならない、そう判断したイリスの慢心を咎めるように。
「イリス、危ない!!」
叫ぶと同時に引き金を引いたエーリヒ。イリスが振り向いた時には、肩口を撃ち抜かれたその男は彼女の足元で絶命していた。
「!?嘘……ごめん、ありがとう……!」
エーリヒの方に向き直りながら、イリスはそう礼を言う。自身の足元にある男の死体、その右手に握られた黒い卵型の物体に気づくこともなく。
次の瞬間、それは爆ぜた。
鼓膜を揺さぶる轟音、舞い散る土埃。タリオンも、共和国軍も、生存者は大なり小なりその爆心地に意識を持っていかれる。その硬直からいち早く復帰したハルトナーの銃が、残り二人の共和国兵を葬った。
「……これで全員始末したか?」
「それより、今の爆発は……!?」
「焦んなよフォール、どうせ手榴弾か何かだろ。まあこっちも何人か持っていかれたかもしれないが……」
共和国兵の死体を蹴りながら呟くハルトナーを置いて、フォールは駆け出す。斜面を登り、立ち尽くすディルクやニュートを押し退けた先には、地面に倒れるイリスの姿があった。
「……フォール……イリスが、イリスがぁっ……!!」
彼女の側に跪きながら嗚咽を漏らすエーリヒ。彼の両手はイリスの身体から流れ出た血で真っ赤に染まっている。当のイリスはといえば、どこか虚ろな瞳で空を見上げるだけ。彼女の身体からは、右脚の全てと左脚の膝から下、右腕の半分ほどが欠け落ちていた。
「………………いり、す」
掠れた声がフォールの口から漏れて消えた。すすり泣くエーリヒ以外は誰も声を発さない。遅れて駆け付けたハルトナーも、珍しく視線を揺らしながら立ち尽くすだけ。追っ手の共和国兵に勝利したとは思えない空気が一体に流れ、彼らを押し潰す。
「…………れ…………たい、ちょう……?」
不意に、彼女の双眸に光が戻った。半ば麻痺していた意識が復活し、自身を覗き込む隊員からフォールを見つけ出す。それと同時に、手足を失った痛みが彼女に一斉に流れ込む。
「がっ……ああああああ……!!!!」
その悲鳴がすぐに掠れ切り、声にならないものになったのは不幸中の幸いだろう。それでも、悶え苦しむ彼女の姿を見ていられないのか、多くの青年たちが瞼を閉じたり顔を背けていた。そうしている間にも出血量は増え続け、付近を塗り潰していく。
しゃく、と軽い音が鳴った。大地を覆う枯葉を踏みしめイリスの方に歩み寄るフォールの瞳はこれまた虚ろで、どこを見つめているのかもはっきりしない。何も言えずに彼をただ見ていた隊員たちも、彼の右手が銃を掴んだ瞬間に全てを悟った。イリスに生還の可能性がない以上、誰かがやらなければならないこと。それを、フォールが行おうとしているのだと。
「……先に行く。全員着いて来い……ベータもデルタも、全員だ」
座り込んだままのエーリヒの腕を掴み、有無を言わせぬ口調でハルトナーが言う。九人がイリスとフォールに背を向け歩き出すまではほんの数秒だった。もっともデルタ分隊の三人は勿論、先頭を行くハルトナーでさえ、数秒おきに振り返りながらの出発ではあったが。
それらを一瞥もせず、フォールは彼女の側にしゃがみ込むと、そっと彼女の髪に触れた。目の辺りにかかっていた銀髪を退けると、青色の鏡に彼自身が映る。
「……フォール……おねが、い……たいの、たえら……ない……!」
「イリス……もう、いい。お前が……苦しむ必要は、ない、から……!」
彼女の額に突きつけられた銃口、それを握るフォールの手は酷く震えていた。さきほどまで迷いなく共和国兵を射殺していた人間と同一人物には見えないほどに。歯を食いしばり落涙することを拒絶しながら、彼は鋼の塊を握り直した。
「……あなた、の……側に、い…………しあわせ、でした……」
「…………ああ……俺、も……」
「……あり……がとう……」
そう絞り出すと、彼女は自ら瞳を閉じた。抱えきれない苦痛をそれでも押し殺し、微笑すら浮かべながら。一目見れば瘦せ我慢だとわかるその笑みは、それでも彼女の強さを示していた。
「…………さよなら、イリス」
一発の銃声が響く。流れた血が彼の服を染める。銃声も、血も、今やこの街では珍しいものではない。それでも目の前で鳴った、流れたそれを、十七歳の青年は受け止めきれず。
「……………………行かないと」
次に彼の意識がはっきりした頃には、もう夜は更け、日付すら変わっていた。目の前に横たわる少女の遺体が、さきほどまでの全てが現実だと彼に教える。立ち上がりながら銃を掴もうとしたフォールの右手が、金属の破片に触れた。
(……これ…………ああ、俺が壊したのか)
彼女を介錯したそれを、激情に駆られるまま踏み壊した。その事実をようやく思い出した彼は疲れたようにため息を吐く。理由がどうあれ、戦場で己の武器を壊す行為は愚かとしか言いようがない。迷うように泳いだ彼の視線が、イリスの左手近くに落ちた拳銃を捉えた。銃身に刻まれた『I・S』の二文字は、その持ち主――イリス・シルトホルンのイニシャル。
「……ごめん。本当は、埋めてあげたいけど……まだ、戦わないといけないから」
近くの落ち葉で彼女を覆い隠すと、彼は暫し黙祷した。願わくば、この戦いが終わるまで彼女の遺体が誰の目にも触れず安置されるように。遺体が見つからず、棺にこの銃だけを納める、などとならないように。その願いを数度繰り返してから、フォールは彼女に背を向けて歩き出した。