「悪いわね、スピーチ代わってもらって」
「いいよ、気にするな」
二月十三日、パトラク宮殿の一角。軍服姿のリーゼロッテとフォールは、周囲から離れた壁際で小さく言葉を交わす。会場は華やかな雰囲気に包まれ、表面上は和気藹々としているのに。二人が陣取るその場所は、殺気にも似た寄り付き難い空気が漂っていた。
「……頭が痛い」
「なんで?……ああ、視線?」
がくりと頷いたフォールは、周囲に苛立ちの籠もった視線を向ける。会場の人間――政財界の大物や名門貴族たちは、談笑しながらも時折二人を盗み見ることに余念がない。それらの目線を全て感知してしまうのは、フォールにとって確かなストレスだった。
「……あなたの第六感、点けたり消したりできないんだっけ」
「まあね……けど、話しかけられるよりはマシだ。特に貴族の相手は御免被りたいし」
二人だけの世界に入っている彼らは、事情を知らぬ者には恋仲のようにも見える。それ故周囲の人間は話しかけるのを躊躇っているし、そうなることを彼らは狙っていた。実際には彼らの間に恋愛感情など微塵も存在しないし……むしろ、フォールの視線は時折別の女に向いていたりするのだが。
「……はぁ……」
ため息と同時に、リーゼロッテの手の中でグラスが砕けた。破片となって床に落ちるそれを見つめるフォールの双眸には、僅かながら恐怖の色が浮かぶ。
「あなたの相手は飽きたから……人避けはハルトにでも頼むわ」
「……は?いやちょっと待て、それだと俺が……」
「他の女の人にでも頼めば?というか口説きにでも行けばいいじゃない、あなた英雄なんでしょ?」
髪を靡かせて立ち去る彼女を呆然と見送るフォール。グラスの片付けに来た使用人に声をかけられるまで立ち尽くしていた彼は、やがて天を仰ぎながら壁に背を預けた。
(……そんなにわかりやすかったか、俺……)
他人の視線は手に取るようにわかるのに、自分の視線にはまるで鈍感。己の愚かさを鼻で笑った彼は、会場の一角に目をやって……首を傾げた。
(……いない)
先程まで片付けに従事していた茶髪の少女は、もうそこにはいなかった。彼女が所属しているであろう音楽団自体既に役目は終わったようだし、もう帰ったのか……それとも、逃げられたか。数秒視線を左右に動かした彼は、やがて諦めたように瞼を閉じて……数秒もせずに再び開いた。すぐ側から己に向けられる視線に気づいて。
「……お隣、いいですか?」
隠し切れない緊張を、それでもなんとか隠そうとしながら。見習いピアニストのティーナ・エルマーニは、ふわりと微笑んだ。
数時間後。
「で、あの女は口説き落とせたのか?」
「……そこまで器用じゃないんだよね、俺」
ハルトナーに問いかけられたフォールは、座っていたベッドに身を投げ出す。叶うことならそのまま夢の世界に旅立ってしまいたかった彼だが、眼前の友はそれを許さないだろう、と判断し目を開ける。
「そう言う割には話弾んでなかったか?」
「んー……そう見えた?」
「俺とリーゼにはな。それよりその紙切れはなんだ?」
「これ?これはあの娘……の友人から渡されたやつ」
フォールが差し出したそれを、目にも留まらぬ速度で引ったくるハルトナー。畳まれたそれを開いた先には、
『三月十六日、ウェルトハーツ市のヴァレンシュタイン・ザールで。ティーナが弾くかはわからないけど、会えるようにはしておきます』
急いで書かれたのだろう、少し乱れた文字でそう記されていた。
「……いけるんじゃね?」
「その内容に本人の意思が介在しているのかは怪しいけどね……あー、どうしよっかなー……」
ベッドに身を投げ出した彼を、ハルトナーは呆れたような目で見る。悩む理由があるのか、と問うような視線に、彼は天井を見据えたまま口を開いた。
「所詮、俺は人殺しだから」
「……お前まさか『軍人には恋愛する権利も結婚する権利もない』とか思ってるのか?」
「………………」
「理由はともかく、お前が命がけで共和国のカエル共を駆逐したのは事実だからな。惚れた女に言い寄る権利くらい褒美で貰ってもいいと思うが……あの女がそれに靡くかは別問題として」
「……初めて見たよ、君がこの手の話題に真剣になるの」
揶揄うように呟いたフォールに、ハルトナーは無言で殺意を示す。それを宥めながら立ち上がった彼は、どこか幼なげな笑みを戦友に向けた。
「……けどありがとう。ちょっと気が楽になった……どうせ他にやることもないし、会いに行ってみる」
「……そうか。まあ好きに……ああ、けど一個教えろ。お前あの女の何に惚れたんだ?」
「全部」
一切の躊躇なく言い切ると、フォールは再びベッドに横になる。数分で寝息を立て始めた彼を見送って、ハルトナーは手にした本を己のベッドに投げ捨てた。
「……気色悪」
率直にそう呟くと、彼は頬杖をつきながら考え込む。その脳裏に浮かぶのは、あの宮殿で一瞥しただけの少女の姿。フォール・ヴァルトルーデという男に見初められてしまった、どこか儚げな音楽家の姿。
(どっちに転んだとしても、あの女は苦労するだろうな……哀れというか、何というか)
話したこともない少女に同情する自分自身を嘲笑ってから、彼も就寝の用意を始めるのだった。
皇紀六〇〇年二月三日。ロザイアの戦いから一年以上が流れた、ある冬の日。
ウェルトハーツから馬車で一時間ほど。キュレイという街の一角にある墓地に、フォール・ヴァルトルーデは佇んでいた。小雨の中傘も刺さずに立ち尽くす彼に、通行人は時折視線を向けてはすぐに興味を失う。一年ほど前に紙面を賑わせた青年がそこにいるとは気づかずに。
「……ディルクが死んだってさ。まあお前はもう知ってるかもしれないけど」
彼が話しかける先には、まだ新しい一つの墓石が立つ。刻まれた名前はエーリヒ・プラッテ、享年十七。二ヶ月ほど前に亡くなった戦友、その墓に語り掛けるフォールの瞳は僅かに澱んでいた。
「この前、あいつの母親から手紙が来てさ。酔って川に落ちて、そのまま溺死したと。馬鹿みたいだろ……あいつ、泳ぐのは割と得意だったのにな」
天を仰ぐ彼の頬を雨が叩く。
「……ロザイアから帰ってきた後、段々酒に溺れるようになったとかでな……あんな液体の何がいいのか、俺にはわからないけど……けど案外変わらないのか?酒に溺れたあいつも、女に溺れてる俺も。どう思う?おい、答えろよ」
己の恋人を思い浮かべて、フォールは一瞬口元を緩ませた。けれどもすぐに元の無表情に戻り、墓石に帰って来るはずのない返事を要求する。その姿は痛ましさすら感じさせるものだったが、感じる以前に彼を見る者はいない。
「イリスは戦死、お前は殺された、ディルクは事故死……リーゼとニュートは音信不通だし、ハルトは一度も帰国しないし……ヴィルも仕事のせいか、たまにしか返事寄越さないし。タリオンもすっかりバラバラになって……お前が居なくなったら、俺は誰にティーナとのこと相談すればいいんだよ」
一際強い風が吹く。墓石の前に置かれた花が連れ去られるのを視線だけで追って、フォールは小さく嘆息した。
「……心配するなよ、喧嘩したわけじゃないからさ。まあいいや……今日はもう帰る。またな、エーリヒ」
かつて友に向けていたものと同じ微笑を浮かべて、彼は踵を返す。物言わぬ白い石だけが、その背を見送っていた。
五月九日、ウェルトハーツ市立病院の地下一階。薄暗い照明に照らされ、泣き叫ぶ声が漏れ聞こえるその空間は、そこにいる人間の精神を蝕むようでもあった。声の出所である霊安室、そのすぐ外の廊下に座り込む青年に、二人の人間が歩み寄った。
「……部長」
「斬殺卿の殺害、ご苦労だったな。フォール」
「あの二人に命令したでしょう。何かあった場合はフォール・ヴァルトルーデを庇えって」
誰のものかもわからない血に塗れて、フォールはエマヌエルを見上げる。その瞳にも、声にも、感情の類は何一つ読み取れない。
「ああ、確かにそう命じた」
「……何故?」
「一警官としては、お前は知名度も人気もあり過ぎる。おまけにこの署では最年少の十八だ。そんなお前に死なれると、世間が警察に向ける目は一層厳しくなるだろう」
「…………」
「何より、クーゲルとヴァーグナーはそれなりに腕も立つが……お前と組むには足りない。力不足だ。お前の足を引っ張るくらいなら、お前の盾として殉じる。そうしてお前が“あれ”に勝つことに賭ける。それが先日、俺があの二人の同意の上で考え、命じたことだ。どうやら賭けには勝ったようだが」
「……はは」
乾いた笑いがフォールの口から漏れる。力の無いその音は泣き声に掻き消されたが、彼はそれでも虚ろな瞳で笑い続けた。
「勘違いするなよ、フォール。お前はよくやった。帝国民を恐怖させた凶悪殺人鬼を討ち取った、英雄的な警察官だ。クーゲルやヴァーグナーの殉職、それ以外の人間の死も全て、我々が責を負うべきである」
「…………」
「俺は二人の遺族と話してくる。悪いが、後を頼む」
そう言い残し霊安室に向かうエマヌエル。彼の背後に控えていた少女は、恐る恐るといった足取りでフォールの側に屈んだ。
「……フォール?」
己の恋人を前にしても、彼は目を合わせすらしない。その姿にも眉一つ動かさず、ティーナは彼の肩についた埃を払った。
「お疲れ様。酷い血だけど……大丈夫なの?診てもらわなくて」
「……いい……俺の血……もあるけど、今は塞がってるから」
「……そっか。それは……ちょっと安心したかな」
霊安室から響いた叫び声に、彼女の肩が跳ねる。子供の声らしきそれは、亡くなったどちらかの方の遺児だろうか。その可能性に思い至ったティーナの口元が歪んだ。
「今日は一旦帰ろ?さっきの部長さんにも、しばらく休んでていいって言われてるからさ。私も、側にいるから……ね、フォール……」
そっと伸ばされた彼女の腕がフォールを包む。一瞬痙攣したように身を震わせたフォールは、すぐに恋人の身体を押し返そうとした。
「ティーナ……止めて、君まで汚れるから……」
男と女、二つ年上と年下、警察官とピアニスト。どの要素を抜き出しても負ける理由などないはずの彼は、けれどもティーナに押し切られるように抱き締められていた。
「大丈夫だよ、フォール……大丈夫、大丈夫だから……」
力なく下がっていたフォールの腕が、震えながら彼女を抱き返す。血に染まった彼の指がティーナの背に触れて、僅かに赤黒い痕を付けた。