病院を飛び出し、大通りに出て。時折通行人から話を聞きながら辿り着いたそこはロザイア駅だった。ウェルトハーツよりはマシだが、それでも多くの人が行き来するホームで一瞬立ち尽くす。
(落ち着け、考えろ……ここは帝国領の端だから、出入りする列車は少ない……逃げるとしたら旅客列車!今停まってるあれ、まずはそれを塞ぐ……!)
とにかくこの街の外に出さなければいずれは見つけられる。そう自分に言い聞かせると、近くの駅員に駆け寄り、フォールさんからもらった許可証を押し付けながら説明を試みる。息も切れて頭も回っていない少女の、聞くに堪えない説明に彼はかなり戸惑っていたけど、それでもなんとか理解しようとはしてくれた。
「……えっと、つまり……あのハプトヴルフ行きの列車に、あなたがたが探しているスパイがいるかもしれない、と……?」
「そうっす、十三歳……か十二歳くらいの、金髪の少女が!とにかくそいつの有無を確かめるまで、列車は止めてください!後でフォールさ……フォール・ヴァルトルーデも来て、説明してくれますから!」
「ふぉ、フォール・ヴァルトルーデが!?あの、斬殺卿を倒し……」
「いいから、はや……」
そう叫ぼうとした私の耳に、汽笛の音が突き刺さる。私と駅員の視線の先で、一つの列車がゆっくりと動き出そうとしていた。半分ほどは貨物用の車両なのだろうか、全体的に無骨というか、人を快適に運ぶことに重きを置いていないように見える。
「……あれは?」
「あれは山間部の鉱山行きの列車です。この時間帯だと……食料か採掘用の器具などを載せているのかと。人間はおそらく載せていないと思うのですが、私は担当ではないので、あまり詳細には……」
「その鉱山って、そこから先に行けます?このロザイア以外の街に」
「それは不可能です。その先にも深い山々が広がっているだけですし……この時期ですから雪もありますし、場所によっては熊も出ます。そこを抜けて他の街に、というのはあまりにも……」
「わかったっす、鉱山はどうでもいいから、あなたはハプトヴルフの列車を止めて!」
強引に話を打ち切って、出発準備を進めている列車に向けて駆け出す。彼女の悲鳴とそれが生んだ周囲の不可解な行動、ここにいるかもしれない協力者、不安材料はいくらでもあるけど。それ以上に向こうに準備時間を与えたくなかった。仮に私がどうにかなっても、フォールさんが到着してしまえばどうにでもなる。勝利を半ば確信し、緩みそうになる心を無理矢理押さえつけて、私は客室に乗り込んだ。
「スパイが鉱山に逃げた!?!?」
「うるさい……頭が痛くなるから止めてくれ、その声」
驚愕に震える私をあしらって、フォールさんは淡々と歩を進める。その足取りはかなり早く、時折小走りにならないと置いて行かれるほどだ。
「病院を出た後……市庁舎の側を通った時くらいかな。多分ロザイア駅発、鉱山行きの貨物列車とすれ違って、その中から覚えのある視線を感じた」
「……さっき病院で感じたスパイの?」
彼の足取りは早くても確かで、明確な目的地を持っているようだった。しかし、実際に私たちは市の中心部をどんどんと離れている。通り過ぎる人の数も順調に減っていく中で、僅かな不安が私の胸の中で育っていく。
「やっぱり、あの少女がスパイ本人なんですかね」
「そう考えるべきだろうな……エンベルトの家で見たあいつも、わかりにくいが小柄だったのは間違いないし」
病院の人間から聞いた、と前置きしてから、彼は再び口を開く。
「マノン・メスナー……約一年半前からあの病院で看護師として勤務していたらしい。といっても見習いみたいなものらしいけど」
「それ以前の経歴は?」
「何年か前に家族でこの街へ移住して、ロザイアの戦いで孤児になったらしい。裏取ろうかとも思ったんだが……どこかの馬鹿が、戸籍情報を保管していた市庁舎を吹き飛ばしたからな」
「あー……余計な事する人もいるもんっすねぇ……」
市庁舎が残っていたらいたで、偽造情報くらい用意していそうだが。軽く首を振ってその考えを頭から追い出し、彼の後を追いながら思考を切り替える。
彼の情報を信じるなら、マノンという少女は一年半前からロザイアに潜伏していたことになる。しかし、そうなると一体何のためにエーデ帝国に潜入し、これまで何をしていたのか。そもそも今より一歳以上幼い彼女を、共和国は何故潜入役に任じたのか。
(……エンベルトと接触できた以上、あの少女まで協力者ってオチはないはず……ロザイアに拠点を置いてるってことは、ロザイアで何かをしたいのか?二年前と同じように、共和国が侵入する手引きをするとか?けど、どうやって?)
スパイ本人には近付いているのに、彼女の企みの全貌はまるで見えない。蜃気楼でも追いかけているかのような気持ち悪さが胸にこびり付く。とはいえそれを推測するには情報が少なすぎて、無理矢理話題を切り替えた。
「……そういえば、あのマノンって子が逃げた時、なんで他の看護師や患者は向こうの肩を持ったんですかね?」
「……知らん。ただ俺も一瞬……表現が難しいけど、頭がぼーっとしたから。なんかそういう類の第六感じゃないのか?他者の同情を誘うとかそういう」
「そんな第六感あります!?あれって……なんかこう、自分の能力を広げるとか、そっち方向で……他人に直接影響を及ぼす能力なんて、聞いたことが……」
私の言葉に、彼は小さく唸りながら考え込んだ。第六感所有者候補だけで構成された部隊、タリオンに所属していたフォールさん。彼なら私以上に何か知っているかも、と思ったものの、この様子を見るに即答できる話でもないらしい。
「……まあ、俺もそういう……自分の外側に広がって影響を及ぼす第六感なんて見たことないけど。ただ強い弱いで評価するなら、あのガキの数十倍強い第六感だって知ってるから……いてもおかしくはないんじゃないか?」
「そんなもんすかねぇ……」
お互い憶測でしか語れない以上、この話は長くは続かなくて。あの少女を前にしたら気の迷いが生じる前にさっさと撃つべき、という結論だけを出して、無言のまま足を進める作業に戻る。民家すら疎らになった頃、私たちはようやく目的地に辿り着いた。
「……墓参り……ですか?」
「……どちらかというと、確認の方がメインだけど」
無数の墓石が並ぶ暗く静かな空間を、彼は迷いながらゆっくりと進んでいく。彼が何を探しているかわからない私は、付かず離れずの距離を保ちながらあちこちを見て回る。特段変わったところなど見られない普通の墓地だったが、やがて一際背の高い、石碑のような黒い何かが見えてくる。興味本位で近づいてみると、そこには、
『ロザイアを護るために散った勇士たち ここに眠る』
との白文字が刻まれている。さらにその下には数百にも及びそうな数の人名。おそらくは、二年前にこの地で戦死した人たちのものだろうか。
「……噂は聞いていたけど。ここにあったんだ、慰霊碑」
「ああ……そういえば、あれ以来初めてでしたっけ、ロザイアに戻ってくるの」
「……うん」
遠い目をしながら石碑を見つめる彼は、心ここにあらず、といった様子で。そっとしておこうか、と一歩下がった私の気遣いを裏切るように、早々に彼は捜索作業に戻る。せめて何を探してるかくらい教えてくれないかな、とも思うが……それを直接聞くのも気が引けて、私はただ無言で彼の後を追った。
「……あった」
それなりに広い墓地だからか、その言葉を聞くのには十分ほどを要した。早歩きで彼の側までいくと、その眼前には一つの墓石。刻まれた名前は、『ニュート・アークライト』。
「この人って……あなたの部下でしたよね、タリオン時代の……」
「ああ……そうだな。あの戦いを生き残って……しばらくして、音信不通になって。次に名前を聞くのが、こんな形になるとは……」
列車の中で聞いた、二年前の話。彼の部下四人の内、イリスという人はこの地で戦死し、エーリヒとディルクは一年ほど前に亡くなり……そして今、最後の一人の死亡をこうして知ることになった。
「……その……死因とか、わかったり……」
「病死だってさ。死んだのは半年くらい前。遺族がそう言っているだけで、本当かはわからないけど」
どうしてその情報を病院側が握っていたのか。数秒考えて、一つの結論に辿り着く。戦争神経症とその治療法について調査していた軍にとっては、ニュートという人も貴重な被検体の一人だったのだろう。だからこそ、一旦回復して退院後も容体を確認……あるいは監視していた。そう考えればとりあえず筋は通る。
「……神経症で精神的におかしくなって、その結果首吊ったりしたら……それは病死ってことになるのかな」
自嘲気味に微笑んで、彼は墓を真っすぐ見つめる。痛ましさすら感じるその姿に、何と声をかければいいのかわからない。けれどもやはり彼は、早々に踵を返すと出口に向かった。
「帰るぞミラン。駅の人間と話をして、明日の準備をしないと」
「……いいんですか?もう少しくらい……それに、イリスって人もここに眠っているんですよね?そちらは行かなくて大丈夫なんですか?」
言った瞬間、しくじったかも、と思った。僅かに悲痛を滲ませながら表情を歪める彼の姿に、どう取り繕うべきかと慌てて言葉を探す。けれども何も思いつかず、彼も口を開かず。気まずい沈黙が流れた末に、やがて彼は感情を押し殺したような笑みを浮かべた。
「いいんだ。今回の件が片付いたら、ちゃんと話しに来るから」
「……わかりました。ごめんなさい、余計なこと言って」
「気にするなよ。というかちょっと複雑なんだ、四つも年下の人間に気を遣われるの」
冗談めかしてそう言うと、彼は淡々と歩き出す。その足取りは確かだったが、墓地を出る前に一度だけ、あの慰霊碑を振り返った。
「……それで、彼を送り出したの?」
「うん。ロザイアにね」
ウェルトハーツ市、カフェ・サリエンテ。閉店後の店内に響いていたピアノの音色は数分前に姿を消し。それを奏でていた少女は、今は私の前で疲れたように座り込んでいる。
「……よかったの?」
「それは……どういう意味?」
「もし彼が、そのスパイと殺し合って。大きな怪我をしたり……もしかしたら、命を落とすかもしれない。それがあなたではなくて、他の女のためだったら……あなたは納得できるの?」
ティーナの緑の瞳が一瞬私を捉えて、すぐに俯く。カップから上がる湯気の向こうで、彼女はしばらく考え込む。それを一瞥してから、私は店内の清掃に戻る。テーブルを三つほど拭き終えた頃、ソラ、と彼女に名を呼ばれる。
「フォールはね、私の隣で少しずつ死んでいたの。例えるなら……大怪我をした人に麻薬を投与したら、きっと痛みは薄れるでしょ?けど別に傷が塞がったわけではない。私は多分、その麻薬みたいなものなの」
自身を貶めるようなその例えに、私はきっと眉を顰めていたのだろう。彼女は苦笑いしながらカップを持ち上げると、一口啜って。どこか遠くを見るような瞳で言葉を紡ぐ。
「もしミランちゃんが死んだら、彼はもう耐えられない。自分のせいであの娘が死んだ、って彼は己を責めて、私では届かないところまで行ってしまう。彼もそれをわかってるから、どうにかあの娘を助けようと足掻いてる。なら私にできることは、フォールの背中を押して送り出すことくらいだからさ。ミランちゃんと違って、私は戦えないから……ああ、けど」
一度言葉を切ったティーナは、少し躊躇うように目を伏せて。
「もし二人が一緒に死んだら……その時は、ミランちゃんに嫉妬しちゃうかな。彼が誰かの隣で死ぬなら、それは私であってほしいから」
無邪気に、どこか妖しく彼女は微笑む。その姿に目を奪われて、私はしばし硬直する。フォールという男が魅入り、狂ってしまうのも納得するほど、今の彼女は美しかった。
「……もう少しだけ弾いてもいい?まだちょっと不安な部分があって」
「ええ……もう三十分くらいなら、迷惑にはならないと思う」
あの大ホールでの彼女の演奏まであと十日。最初はフォールに対し、『間に合わなかったら許さない』とすら思っていたけど。今はもう、生きて帰ってくれたらそれでいいとすら思っていた。
(……二人も友人を喪うのは、私には辛すぎるから)
彼が死んだ際に、ティーナが何を望むかは容易に想像がつくから。その光景を頭から追い出し、私は清掃作業に戻る。彼女が奏でる音に耳を傾けながら。