「はぁ……」
何度目かもわからないため息が、北風に溶けて夜空に消えていった。良くないとはわかっているが、それを抑えるほどの気力は今の俺には無かった。むしろ、今のうちに吐き切ってしまったほうがいいのかもしれない。時折揺れる街灯の光に照らされながら、俺は石畳の道を早足で歩いた。
劇場などの活気に背を向けるように歩く俺の周囲からは、徐々に人の姿が消えていく。それと反比例するように人々の生活感が増していき、ある意味ではウェルトハーツらしさを失っていく。そうして辿り着いた住宅街の一角、ありふれた集合住宅に入ると、一段飛ばしで階段を上がる。慌ただしく鍵を回す。扉を閉めきるよりも早く、廊下の向こうから彼女がぴょこんと顔を覗かせた。
「……!お帰り、フォール!」
「ああ……ただいま、ティーナ」
鞄を床に置くと、両腕を広げる彼女にゆっくりと歩み寄る。俺よりも頭半分ほど低い彼女を抱き寄せると、彼女の体温が俺のそれと混ざり合う。互いの輪郭が、境界線が曖昧になっていく。
「……ティーナ」
漏れ出た声に、彼女は緑色の双眸をこちらに向けた。その瞳に映る己の姿すらはっきり見えるその距離で。どちらからともなく近づくと、そっと唇を重ねた。
「…………君ってさ、結構寂しがり屋だよね」
呆れるような揶揄うような、雲の隙間から覗く陽光のような笑みを向ける彼女が眩しくて、思わず視線を逸らす。言葉を探す間もなく、彼女は手を引いて無邪気に笑った。
「ほら、早く入って。もうすぐご飯できるから、ちょっとだけ待っていてくれる?」
そんな彼女の笑顔を見るだけで、胸にこびり付いていた憂鬱さも薄れていった。
「久しぶりじゃない?こんなに帰り早いの」
狭い台所の方に踵を返しながら呟くティーナ。その声は至極普段通り、暗さなど感じさせない。それ故に、今から伝えなければならないことに胸が痛んだ。
「……少し面倒な事件を押し付けられて。その代わりに部長が他の仕事引き取ってくれたから、今日は早く終わった」
「……面倒な事件?」
一瞬、彼女が振り向きかけたように見えた。けれども視線を上げた先に見えるのは、こちらに背を向け火の様子を確認する彼女の姿。
「AEI……というかまあ……外の組織が警察に『フォールを貸せ』って言ってきたらしくて。こういう時は碌なことにならないって相場が決まってる」
「……危険な任務なの?」
「わからない、けど……長引くことはあっても、危なくなることはないんじゃないか?」
あのミランとかいう子供の話を信じれば、俺に命じられた仕事は所詮スパイ探し。どうせ向こうも今頃逃げ支度をしているだろうし、本人を拘束できる可能性がそれほどあるようには思えない。せいぜいその足跡を二、三個押さえられたらいい方で、銃撃戦など命の取り合いにはならないはず。そんな憶測を伝えると、安堵したのか彼女の声が少し柔らかくなった。
「フォール、ちょっと机の上空けといてくれる?もうそろそろできるから」
「んー……わかった」
整理の済んだ鞄を壁際に放り投げ、机の方に戻る。その上に積み重なっていた大量の紙、そこに見えるのは五本の線とその上に浮かぶ音符たち。次の公演の楽譜だろうか、などと推察しながらそれを整え、本棚に仕舞い込む。
「お待たせいたしました、お客様……なーんてね」
ウインクしながらポトフの皿を置いた彼女に苦笑しながら椅子に腰掛ける。フォークを手に取って一口食す。
「……美味い」
率直すぎて、あまりに芸のない感想だった。
「……それさ、私が料理した日は毎回言ってない?」
「いいじゃん、本心なんだし」
「まあ……それならいいけど」
まんざらでもない、といった表情で自身もフォークを握るティーナ。暫しの間、二人の間には普段通りの会話が流れた。未来への不安など何も感じさせないような、普段通りの。
「そういえばさ、さっき話してた……えっと、AE……」
「……AEI?それが何かって話?」
「うん、そういうこと」
己の考えを当てられたことには何の反応も示さずに、軽く首を傾げるティーナ。それにどう答えるか悩みながら、フォークを肉に突き刺した。
「……AEI……正式名称は帝国維持委員会。議会からも軍からも独立した、皇帝陛下直属の組織らしいんだが……それ以外は何も知らない。誰が、何のために動かしてるのかも。ある種の秘密警察というか……帝国に不都合な人間を消したりしてる、って噂は聞いたことあるけど」
「帝国維持委員会って名前なら、帝国の維持以外に目的なんてあるの?それこそたまに街にいる、帝政解体とか言ってる人を捕まえるとか……」
「……程度にもよるけど、あんまりうるさいようなら俺たち警察で対処できるんだよ。それを潰すために変な組織一つ作るとは思えない」
自分の考えを即座に潰されたせいか、僅かに頬を膨らませるティーナだったが。すぐにこちらに向き直ると、真剣な眼差しで問い質す。
「……で、その謎の委員会様はどうして君を呼んだの?」
「………………さあ、ね。そればっかりはわからない……本当に」
俺を始末するため、という部長の推測が脳裏によぎる。流石にそれを恋人に言える程俺の精神は図太くない。とはいえ彼女も、こちらが何かを隠していることには感づいたらしい。
「……そっか。大したことない用事ならいいんだけど」
「…………ティーナ、」
何を言おうとしたのか、自分でもよくわからない。ただ、何かを無理矢理我慢したような彼女の表情に、黙っていてはいけないと思った。それなのに、開いた口は彼女の指一本に制されてしまう。
「……そんな顔しないで。大丈夫、わかってるから」
「…………ああ」
「ほら、冷める前に食べちゃお?」
いつの間にか普段の平然とした顔に戻ったティーナ。そんな彼女から目を逸らすように、グラスに手を伸ばした。
夕食後。
「いいよフォール、私が片付けるから」
「いや、俺がやる日だろ今日は」
「いいってば。明日仕事の人は大人しく休んでてください!」
私は明日暇なんだし、と呟きながら俺の手から皿を奪い取る彼女にため息を吐く。罪悪感はあるが、こういう時のティーナは何を言っても聞かないので引き下がるしかないだろう。
「……わかった。じゃあ頼む……ありがと」
「ん、素直でよろしい」
彼女に背を向けて本棚に手を伸ばす。応急処置で詰め込んだ楽譜を一枚一枚捲って眺める。この音符の位置がそれぞれの音の高さを表している、ということは辛うじて知っているが、見たところでこれがどういう曲なのかはさっぱりだ。
「……ネブラによるガイヤルド……これが曲名?」
「それ?うん、今度の公演の曲。来月の皇紀六百年記念公演で演奏するんだけど。凄い大きな公演でね、あの場で演奏できるってだけでも緊張するのに……ソリストだから、余計に」
「……そっか」
「大丈夫だよ。君の仕事と違って失敗しても死ぬことはないから」
「……笑った方がいいやつか、これ?」
僅かに背中を震わせる彼女に呆れて、再び楽譜に目を落とす。その公演日……十二月二十八日までは、あと一か月と少し。それまでにこの事件に終止符を打てれば、何の憂いもなくその公演を楽しめることになる。その日までに、全てを終わらせたら。
「…………」
見たところで何もわからない楽譜を一枚ずつ捲る。数分かけて終わりまで目を通すと、再び一枚目に戻る。穴があくほど見つめても、その楽譜は音一つ奏でてはくれないが。ティーナが弾くこの曲はこれ以上ないほど綺麗なんだろうな、と思った。
「……フォール」
背後から伸びた彼女の手が俺の肩に回される。楽譜から離した手を彼女のそれに重ねると、緑色の瞳がこちらを見下ろす。
「さっき言ってた仕事ってさ、もしかしてこの公演までには片が付かないものだったりする?」
「…………わからない。まだ詳しいことはほとんど聞いてないし……けど、もしかしたら一月以上かかるかもしれないし、その公演の間この街にいないかもしれない。だから……必ず聞きに行くとは言えない」
「……そっか。ごめんね、意地の悪いこと聞いて」
「……ごめん、本当に」
絞り出すように漏れた声に彼女は答えない。代わりに俺の髪を指で梳きながら、時折愛おしそうに微笑む。何かの本に出てきた、幼い我が子をあやす母親を思い出す。一応俺の方が二つ年上なのだが、今この場において年長者の威厳のようなものは俺にはなかった。それが不満かと問われれば、別にそうでもないのだが。
彼女に身を委ねているうちに、自然と身体から力が抜けていく。瞼の重さが増していき、瞬きの時間も少しずつ長くなってきた頃、彼女の手が俺の頬に添えられた。
「……お疲れみたいだし、そろそろ寝よっか?」
「……大したことはしてないはずなのにな……」
今日あったことといえば、あのミランとかいう女に訳の分からない仕事を振られただけ。あくまで話を聞かされただけで、実際に仕事らしいことはしていないのに。妙な疲労感に少し苛立ちながら寝間着に着替えると、狭いベッドに座り込む。同じく着替えるティーナをぼんやりと見つめていると、こちらの視線に気づいた彼女は困ったように微笑んだ。
「もう、どうしたの?」
「……なんでもない」
逃げるようにベッドに横になると、すぐに彼女が隣に潜り込む。少し大きめとはいえ、おそらくは二人で使うことを想定されていないベッド。同棲を始めた頃はその狭さから仲良く寝不足で朝を迎えることも多かったが、半年も経つとすっかり慣れてしまった。下手をすると、互いの体温を感じられない夜の方が寝付きにくいほどに。
「……ねえ、フォール?」
「何……?」
「仕事が仕事だし、そう簡単じゃないのはわかってる……つもりだけど。それでも……生きて、帰ってきて」
宝石のような瞳が夜の闇の中で一層煌めく。その美しさに見惚れながら、彼女を抱き返そうとして。何故か腕が重く感じた。ほんの僅かな動作なのに、いつもの数倍の力が要る気がして。それでもなんとか腕を伸ばすと、彼女の身体を引き寄せた。
「…………善処する。大丈夫、これでも元軍人なんだから……そう簡単には死なないし、殺されないさ」
軽く背を叩きながら、諭すように囁く。どこか蕩けたような瞳を向けていたティーナは、やがてその細い腕を俺の背に回すと、胸元に顔を埋めた。
「……愛してるよ、フォール。この世界の誰よりも」
「……俺のことを愛するような物好きなんて、君以外にいないだろうな」
「ふふっ……よかった、世の中の人に見る目が無くて」
その言葉を最後に、二人の間から言葉は消えた。瞼を閉じた俺に感じられるものは、腕の中の彼女の熱と息遣いだけだった。