「……ここ?」
ウェルトハーツの中心部から離れた、市庁舎近くの住宅。どこまでいっても芸術の都であるウェルトハーツという街では、行政機能は目立たないように配置されがちである。市庁舎自体も際立った外観はしておらず、外の街から来た人間の目には留まらないだろう。
住宅街の端のその家は非常に地味だった。一軒家ではあるが見るからに狭そうであり、日当たりも悪い。なんでこんな家に、と言いたくもなるが、スパイにはスパイの事情があるのだろう。どうせ家賃も安いだろうし、他人の目を避けられると考えれば最適かもしれない。
「はい、ハンネス・エンベルトの住居です。ここに居住するようになったのは四年前、市庁舎に勤務するようになったのとほぼ同時みたいですね」
手元の紙を見ながら歩くミランに続いて屋内へと足を踏み入れる。入ってすぐに目に入るのは、黒い制服の成人男性二人。ミランも何も言わないのを見ると、AEIの職員か何かなのだろう。玄関付近は特筆するべきところもない普通の家であったが、廊下の辺りから様子が変わってくる。壁にはこの街や帝国各地の地図が貼られ、数え切れないほどの印や書き込みが加えられている。その書き込みはほとんどがクルセンド語であり、残念ながら俺には読めない。
「なあミラン?浅学にして無知蒙昧な俺に教えてほしいんだが、このクルセンド語はどんな内容なんだ?」
前を行くミランにわざとらしく尋ねると、彼女は俺が指差す先の文字を覗き込んで、
「……ああ、これっすか。大体翻訳は終わってるはずなんですけど、読んだところであんまり意味はないとか……ああそれと、私個人は全く読めないっす」
なんでもないかのように、一切の気後れなく言い放った。あまりに堂々としたその姿に、何か言うのも馬鹿らしくなって。生返事を返しながら奥の部屋に向かうと、そこは寝室兼居間のようであった。
「……つまんねえ部屋」
無。それ以外に感想など湧かない、抱きようがないほどの無。飾り気のないベッドと机と椅子、それ以外には何もない部屋。ティーナが来る前、一人暮らししていた頃の俺の家ですら、本棚はあったし小物とかも置いていたのに。果たしてこの部屋で睡眠と食事以外の何かが可能なのだろうか、と訝しむ俺の隣に並ぶと、ミランは部屋の床を指差した。
「一応あの辺りに、合計二百枚ほどの書類が積み重なっていました。その中には盗み出したと思われる公的書類、彼が独自に作成したであろう書類、落書きのようなものまで色々ありましたが……」
「……けど別に、この部屋が死ぬほど無味乾燥なものだってことは変わらないのな」
「それは間違いないっすね。一般人に溶け込むなら、もう少し生活感を出そうとするとは思うのですが……まあ誰も家に上げないのならこっちの方が楽だったのかもですね。誰かが来るどころか、覗かれることもなさそうな立地ですし」
ベッド横の窓を覗き込みながら呟くミラン。それに倣うと、薄暗い路地の向こうに寂れた建物が数軒だけ見えた。ふと視線を感じて振り向くと、こちらをぼんやりと眺める彼女と目が合う。
「そういえば、結構洒落た服着てるんですね」
「……警察と思われなさそうな服にしろって指示したのはお前じゃなかったか?」
昨日受け取った書類にそう書いてあっただろ、と軽く睨むと、彼女は弁解するように両手を振った。
「いや、別に皮肉とかじゃなくて!あんまりそういうの気にしなそうな人だと思っていたので、少し意外で……もしかして、恋人に選んでもらったりしたんですか?」
「生憎、俺のことを好きになるような変人とは縁がなくてな。店員に見繕ってもらったものをそのまま買っただけだ」
俺の返事に、彼女はわざとらしく唇を尖らせると机の方に歩き去っていく。人の色恋沙汰に興味津々な姿は年相応に感じるが、AEIとして俺の親交を探っていると思った方が良いだろう。とりあえずティーナのことは隠しておいたが、上手く隠せたかどうかはあまり自信もない。
(まあいいや……考えても仕方ないし、とりあえず捜査に戻るか)
とはいえ、捜査といっても何をすればいいのかさっぱりだ。手掛かりになりそうなものはほとんどないし、二百枚の書類とやらもおそらくはAEIが解読中につき手元には無い。壁に貼ってある地図の類いは残っているが、まさかこいつは俺にその解読を期待しているのだろうか。
(……いや、それなら書類の山は俺に見せようとするよな……やっぱり、俺を探るために架空の事件をでっち上げたのか?ただそれにしても、こんな手の込んだことする意味が……)
「……何か閃いたりします?」
思考を妨害するように響いた声に、反射的に舌打ちする。こちらを横目で見る彼女の顔からは感情一つも読み取れない。割と幼いというか、表情をコロコロ変えがちな彼女のその無表情は、何かを見定めているようにしか見えなかった
。
「……いいや、癪だが何もわからない……そういや昨日言ってたよな?そのエンベルトって男が、この街で誰かと接触する予定だったって。その情報はどうやって入手したんだ?」
時間稼ぎも兼ねて逆に探りを入れると、
「ああ、それは別のスパイが吐きました。そっちの調査には関わってないのであんまりわからないですけど、そいつは帝都で活動してたらしいっす」
特段動揺した様子もなく、むしろ上機嫌そうに答えるミラン。詰まることもなくスラスラと語るその様子に、あらかじめ答えを用意していたのでは、という邪推が膨らむ。
(十五の子供なのがなぁ……疑わしい所作が合っても、年相応に抜けてるだけって可能性がどうしてもチラつく……まあ、そうやって油断させるためにこの女を選んだんだろうけどさ)
実体があるのかもわからない任務、あるにしても皆無に近い手がかり、唯一の協力者にして全く信用できないAEIの少女。考えるほどに不快感が胸を埋め尽くし、息が浅くなる。せめて気分転換にでもなれば、と窓に近づいた瞬間、首の辺りに熱い感覚が走った。
「っ……!?」
「……?どうかしたっすか?」
途端に速くなる鼓動を抑え、窓に背を向け壁に寄りかかる。一度は消えたその感覚も、数秒待つとうなじから後頭部の辺りに戻ってきた。思わず緩む口元を引き締めてから、僅かながら不安そうにこちらを見つめるミランに視線を向ける。
「…………ミラン。とりあえず、絶対に外を見るな」
「……はい?」
「いいから、窓の方を見るな!今まで通り部屋の中を捜査してるフリでもしておけって」
「はあ……まあ、わかりましたけど……」
怪訝そうな顔で部屋を無意味に歩き回るミラン。それを一瞥してから瞼を閉じると、第六感を限界まで研ぎ澄ます。呼吸が深くなるにつれ、首筋のヒリつくような感覚が強くなっていく。
(……多分一人……通りの向こうの何処かか?あっちは普通に住宅街だからな、探すとなると面倒だ……そもそもそれ以前に、このガキにどこまで俺の能力を話すか……)
「あのー、フォールさーん?私はいつまでこの馬鹿みたいな作業を続ければいいんですかー?」
「もう少しやってろ、今考えてんだ」
ようやく掴んだ唯一と言ってもいい手がかり。兎にも角にも、このスパイ事件が実在するのかだけは早急に突き止める必要がある。そしてそのためにはミランにそれなりの情報を晒さなければならない。少々遺憾ではあるが、そもそも今の俺にはあまりにも手札がない。AEIの思惑がどうであれ、俺の手元にあるこの女を使わない手はないだろう。
たっぷり数十秒も使って覚悟を決めると、壁を軽く蹴って歩き出す。何かを言いたげな彼女を指で制すると、軽く笑みすら浮かべながら、
「……とりあえず、カフェでも行こうか」
そう誘うと、彼女は二、三度瞬きをして。
「………………は???」
これまで聞いた中で一番冷たい声が部屋に響いた。