「…………寒いっすね」
「……口閉じてろ、息で位置がバレる」
「人間の視力じゃ見えませんよ、あそこからここまでなんて……」
11月も後半になると夜は酷く冷え込む。雪が降ってもおかしくないような気温の中、ある集合住宅の屋根の上に俺とミランは潜んでいた。
「もしかしてですけど、これってあのスパイが出てくるまでずっと張り込む感じですか?これから毎日?」
不満を隠そうともせずに唇を尖らせるミランにため息を吐いてから、軍用の双眼鏡を覗き込む。その先に見えるのはエンベルト宅。捜査を始めた一昨日から、今日の数時間前まで俺やミランやAEI職員が調査を行っていた、今は無人の住居。
「……まあ、そうするしかない気がするけど。他に手もないし……というか文句言うなら帰れよ。監視なんて俺一人で足りるって言ったよな?」
「そうは言ってもっすねぇ……もしスパイを見つけて追跡……それか戦闘になったら、一人だと危ないじゃないっすか」
「……仮に戦闘にもつれ込んだとして、お前は役に立つのか?その歳なら本気で殺し合った経験も無いだろ?」
「まあ……それはそうなんですけど」
目を逸らす彼女に双眼鏡を押し付け、横になりながら短く息を吐く。この集合住宅は全体の二割も埋まっていないほぼ空き家であるから、屋根の上で多少音を立てても問題にはならない。我ながら監視には最適なポジションを見繕えたと満足している。問題は、この監視自体が徒労に終わりそうということだが。
(これでノコノコ出てきてくれたら話が早いんだが……そこまで馬鹿じゃないよな、あのスパイも。何週間張り込めばいいのか、AEIは何週間この計画に付き合う気があるのか……)
考えなければならないことの多さが憂鬱で、重い気分で吐いた息が白い煙となって宙に消えた。これならもう少し着込んでくればよかったかもしれない。もう一週間もすれば寒さも増すだろうし、一晩中こうしていたらこっちが低体温症でくたばる恐れもある。やはり急造の監視計画、だいぶ穴が多いことは認めざるを得ない。奇跡が起きて数日中に尻尾を出してくれないかな……と空虚な思考に耽る俺の二の腕辺りを、不意に彼女が突いた。
「……あの、フォールさん?私の眼が腐ってなければ、人影みたいなものが見えるんですけど」
「あの家に?」
「はい」
慌てて双眼鏡を受け取ると、息を殺して覗き込む。円形のレンズの中央には、黒い外套を着た人影がエンベルト宅の扉を押し開く様子が写っていた。成人男性にしては小柄な印象を受けるが、暗すぎてよくわからない。
「……あれ、俺たちが探してるスパイだよな?」
「あの家に用がある人間なんて他にいます?」
「……とりあえず捕まえるか」
「了解っす」
取り出した銃を確認しながら屋根から飛び降りる。たった数十メートルの距離を詰めるだけの作業が、やけに冷たく長く感じる。
(俺らが撤収したその日に来るとは、焦ってるのか誘っているのか……罠だとしても待てないが)
足音を殺し、周囲に油断なく目を配りながら石畳の上を進む。手にしたリボルバーのグリップにほのかな熱を感じるくらいには外気が冷たい。手でミランに合図しながらドアノブに手をかけると、音もなく開いて俺たちを迎える。
(……俺が先に突入するから、着いて来い)
事前に警察のハンドサインくらい教えておけばよかった、と一つ後悔。とはいえニュアンスは伝わったのか、力強く頷く彼女にひとまず安堵する。息をするのも憚られるような沈黙の中で慎重に足を進めること数十歩ほど。一本道の廊下の奥、寝室兼居間の壁際に屈みこむ人影が見えた。明らかにサイズの合っていない外套のおかげで性別も年齢も全く予想できない。何かを探しているらしいそいつの顔は、黒いフードに遮られて何も見えない。もう少し観察していたい気持ちもあったが、こちらが先手を取れるうちに動いてしまった方がいいだろう。背中越しにミランに合図すると銃口をスパイに向けながら告げる。
「警察だ、投降し……」
一瞬、それがこちらを向いた。深く被られたフード越しに、ほんのひと刹那交錯する視線。次の瞬間そいつは床に何かを叩きつけると、部屋中が白い煙に覆われた。
「煙幕!?」
「私は裏に回ります!!」
遠ざかるミランの声を背中で感じながら、白煙に向けてリボルバーを数発撃つ。窓ガラスの割れる音がしたが、それが俺の銃弾によるものなのかはわからない。視線は感じないので向こうもこちらを認識してはいないらしいが、既に窓から逃げたのか部屋の中に潜んでいるのか……
(裏に回られると面倒だな……突っ込むか、不意打ちは第六感で避ける)
リロードを終えた銃を構え部屋に侵入する。足音と息を殺し、どんな音も聞き逃すまいと聴覚が限界まで研ぎ澄まされる。が、不気味な沈黙を破り俺の耳に飛び込んできたのは、
「フォールさん、こっち!!奴が逃げた!!」
聴覚を研ぎ澄ますまでもなく聞こえるミランの叫びだった。一体俺は何のために覚悟決めたんだよ、と悪態を吐きながら部屋を縦断し、割れた窓から飛び出す。破片が手足に数箇所刺さり唇を噛む。通りにいる人々の視線の先、こちらに背を向けて駆けるミランの赤い髪が見えた瞬間、彼女を追って走り出した。
「クソが……」
不安定な体勢でなんとか弾を込めると、逃げるスパイに一応銃口を向けてすぐ諦める。ハルト並みに射撃が上手ければここで撃って終わりだったのに、という泣き言が一瞬浮かぶ。けれども幸い人通りは皆無だし、多分俺の方が足が速い。このままこの追跡劇を続けていれば、いずれは追いつく……と思うのだが。
(この先は行き止まりのはず……どこかで横道に逸れる気か?随分道知ってやがるな)
いくらこの街に住んでいるとはいえ、この辺りの細かい路地などを全て把握しているわけではない。そこに潜られる前に終わらせる、とリボルバーを握る手に力が入る。幾度もの曲がり角を通り抜けて、先を走るミランにほとんど追いついた頃、視界から逃げるスパイの姿は消え失せていて。代わりに、一棟の住宅がそこにあった。
「この建物!?」
「はい、入ったのは見えたんですけど……この裏って道あります?」
「……確かある。けどそれには、この建物の中を突っ切るか一旦戻らないと」
「じゃあ私がそっちを塞ぎます、フォールさんはここを見張っててください!」
今通って来た道へ駆け出すミランに頷いて、銃口を眼前の建物に向ける。俺の家とほとんど変わらない、三階建ての一般的な集合住宅。この距離ならどこの部屋に前に現れようと、ドアを開けるより先に俺の銃弾が届く。今は階段の影あたりに隠れているのか、それとももういずれかの部屋に侵入したのか、姿は見えない。
(……何も聞こえない。押し入った気配はない。通り抜けたか、あるいは隠れたか)
仮に逃走が目的なら、ミランが裏に回るのと奴が逃げるのとどちらが先かの勝負。潜伏が目的なら、両側を抑えたので詰めればいいだけ。問題なのは、ここにいるのが俺とミランの二人だけであり、増援を呼ぶ手段もないということ。動かなければこの睨み合い状態が続くだけだし、こちらから動けば向こうにも動く隙を与えることになる。結局、この膠着状態を維持することが最善だと判断した俺は、舌打ちを零しながら銃口を向け続けた。夜も更けた今、物音一つ立てぬその住宅は妙に大きく映った。
息の詰まる沈黙が始まってから数分だろうか。寒気に抗いながら監視を続ける俺の背に、誰かの視線が突き刺さった。ここの住人かと思ったが、振り向いた先で揺れる赤い髪に一瞬思考が止まる。
「どうした?」
「ごめんなさい、逃げられました」
「は?」
息の上がった彼女は、膝に手をつきながら申し訳なさそうにこちらを見上げる。逃げられたという内容にも困惑したが、一体彼女はそれをどうやって知ったのか。
「黒い服の怪しい人間がこの道を走り去っていった……と通行人から聞いて。私が回る数十秒前だったらしいです」
「待て、その通行人とやらは信用……ああ、お前の場合はできるのか」
やっぱりこいつの第六感便利すぎないか、と改めて感じる。人と人との会話なんて、多少なりと嘘が混ざっていること前提で行うものだろうに。その前提を丸ごと破壊できるその能力に、僅かに身震いする。
「……あのー、フォールさん?どうかしました?」
「悪い、少し考えてた。まあつまりは、見失って追跡不可能になったってことだろ?」
「……そうっすね、残念ながら。けど、まだ手がかりは残っているかと」
そう呟くと、彼女は廊下……そこに規則正しく並ぶ扉に鋭い視線を向けた。警察官にも劣らない真剣な視線に、唾を飲み込みながら頷く。
あの逃走者がミランよりも先に建物の裏に回れた理由。それはこの建物のどこかの部屋をほとんど最速で通り抜けられたから、と考えるのが妥当だろう。そこから考えられる理由は二つ。一つは、ここに空き部屋があることをあいつが知っていた可能性。その場合、こんな街外れの空き部屋を把握だけしておく意味もないと思うので、おそらくはそこを拠点の一つにしているのだろう。そしてもう一つの可能性は、どこかの部屋の居住者がスパイの協力者……あるいは、そいつもスパイであること。
「とりあえず、一階から探しましょうか。階段上がる余裕もなかったでしょうし、上の階ではないでしょう」
そう言って歩き出すミランを、思考を中断して追いかける。とりあえず1番近くのドアをノックしようとする彼女を押し退けて、前に一歩出る。
「俺がやる、お前は後ろにいろ」
「危ないっすよ?最悪、開けた瞬間にナイフか何か飛んで来ても……」
「危ないから俺がやるっつってんだよ、いいからガキは退け」
不満そうな彼女を全力で無視してノックする。二度、三度と繰り返しても物音一つ帰ってこない。もしやと思って軽く扉を蹴ると、軋む音はすれど何の抵抗もなく開いた。
「警察だ、誰かいるなら返事しろ」
少々面食らいながら、薄暗い室内に銃口を向ける。慎重に部屋の奥へと足を進めるが、何の気配もしないし視線も感じられない。ものの一分ほどで部屋の隅々まで確認し終わったが、所々に家具や小物が散見されるだけで誰かが居住しているわけではないらしい。
「……で、この確認作業を繰り返すわけか?」
「そのつもりっす。ああでも、これならあなたに代わってもらって正解だったかも……こんな夜更けに叩き起こされても、相手が帝国の英雄様だったら文句も言えないでしょう?」
「……都合のいい話だなあ、おい」
悪戯っぽく笑う彼女を軽く一睨みしてから隣の部屋に向かう。ホルスターに戻した銃を一瞥してから強めに扉を叩くと、十数秒の間を空けてゆっくりと開かれる。中から顔を見せたのは、不機嫌そうな三十歳ほどの男。
「……チッ、こんな夜中にうるさくしやがって……」
「夜分遅くに失礼します、ウェルトハーツ署の者ですが」
男の眼が取り出した身分証の上をなぞり、不意に見開かれた。俺の顔と身分証を交互に見た彼は、やがて掠れた声を振り絞るようにして、
「……あんた、フォール・ヴァルトルーデか?この前新聞にデカく載ってた」
そう問うた。
「ええ……そのフォール・ヴァルトルーデですが」
「そうか……そりゃ悪かった、すまねえ。それで、警察様が何の用だ?俺はやましいことなんか何も……」
「スパイ容疑のある人間を追っていたところ、この建物を通り抜けるように逃げられまして。何か目撃されたり、ご存じだったりしないかと」
「…………悪いが、俺は何も知らねえな。ノックの音で起きるまで夢の中だったし」
「……そうですか。ご協力感謝します」
扉が閉まるのを見届けると、背後から小さく手を叩く音がする。振り返ると、揶揄い半分感嘆半分といった表情のミランと目が合う。
「さっすが、フォールさんは違うっすね。名前を出しただけで皆ひれ伏す」
「ひれ伏すは言い過ぎだし、喧しいから少し黙れ。ああもう、あと何人の安眠を妨げればいいんだ……」
正直かなり気が進まない職務内容に肩を落としながら廊下を歩く。とはいえ、ある程度文句を封殺できると考えれば己が前面に出た方がいいことも理解できて。行き場をなくしたやるせなさを拳に込めると、ぶつけるように隣の部屋のドアを叩いた。