「いらっしゃいませ、お客様……当店をご利用いただき誠にありがとうございます……もう閉店時間は過ぎていますが」
「……それは……えっと、ごめんなさい」
声も視線も、こちらを責めるような様子は窺えない。ただ異常にテンションが低いというか、暗い。実は幽霊なんです、と言われたら半分くらいは納得してしまいそうなほどに生気のないその店員は、
「いえ……フォールに言われましたので。お気になさらず……どうぞ、お好きな所にお掛けください……」
そう言い残すと、金色の髪を揺らしカウンターの奥に消えていく。営業時間終了後のカフェはどこか物寂しい空気に包まれている。店内に響くピアノの音は非常に拙く、十秒もしないうちに途切れてはまた音を奏で始める。見ると、まだ十にも達していなさそうな少女がピアノの前に座り、その小さな指を鍵盤の上に置いていた。
「そうそう、上手くなったね。次はちょっと難しいから、良く見ててね……」
その少女の隣では、私より少し年上の女性が教師のように立っている。結った茶色の髪を揺らしながらピアノを弾く彼女の表情は慈愛に満ちていて。
(……綺麗な人だなぁ)
呑気にそんなことを考えてしまう。数秒後、ようやく我に返ると並ぶ椅子の一つに向かって歩み寄る。
「……ようこそ、カフェ・サリエンテへ。一週間ぶりくらいか?」
「六日ぶりっすよ。それより……ここ、あなたの店なんですか」
おどけたように言う彼に冷たく問うと、彼は軽く舌を出しながら椅子の背もたれに身を投げ出した。
「んなわけあるか、ただの客だよ……」
椅子を傾けて戯れる彼の前には、十数枚の紙が乱雑に広げられている。あちこちにメモが書かれた地図や何かの契約書、数枚の便箋……それらから意図的に目を逸らし、彼の顔を見つめる。
彼がこの店の常連客であるなら、閉店後にこうして屯することを許されていてもそれほど不思議ではないが。だとしてもいくつか引っ掛かる点はある。どれから聞こうか悩みながら店内を見回して、目に留まるのはやはりあの二人。
「……私はよくわからないんですけど、この街のカフェだとああいう……家庭教師みたいなことも仕事の内なんですか?」
「なんか誤解してそうだから言うけど、あの教えてる女はこの店の従業員じゃないからな?いやまあ実質そうかもしれないが……」
どうにもよくわからない説明に首を傾げると、彼は雑に髪を掻きながら長い息を吐いた。
「ここは、腐っても芸術の都だから。この街にはその手のものを生業としている人間が溢れてる。で、溢れるくらいいるわけだから、そいつらの間での競争も恐ろしいほどに激化してて……本業だけで食べていける人間はかなり少数派なわけ」
「……だから、何かしらの副業を?」
「実家が滅茶苦茶太いとかじゃなければな。音楽家なら、そこそこ良い家の子供の教師やったり、カフェとかレストランで金貰って演奏してたり……あとはまあ……」
「……なんです?」
「……貴族の愛人とか」
「ああ……そういう……」
なんとなく微妙な方向へ進み始めた話に、少々反応に困る。それを察したのか、彼もどこか申し訳なさそうに咳払いをすると話を強引に戻した。
「……ええと、つまりあのピアニストは、この店であのお嬢様の先生やったり演奏してたりしてるわけ。実際この店の常連にも、彼女の演奏を聴きに来てる奴は多いし」
「なるほど……それにしても、随分詳しいっすね。まああなたも常連客なら当然ではありますが……」
そう尋ねた私に、彼は不自然に黙りながら背もたれに身を預けた。まるで何かを悩んでいるようなその姿に、こちらから口を開くこともできずに待つこと数十秒。やがて緩慢な動作で持ち上げられた彼の指が、件のピアニストを指し示した。
「……あそこでピアノ教えてるあいつ」
「ええ……あの方が、なんです?」
「俺の恋人」
俺の、恋人。至極一般的な単語で構成されたその短い文章が、不思議と頭に入ってこない。つまり、あのピアノを教えている人はフォールさんの恋人ということで。
「……………………えっと、本当ですか?」
「……あのさ、お前の第六感って何のためにあるの?」
心底呆れたように吐き捨てる彼に、慌てて彼を見つめ直す。表情、呼吸、どこをとっても嘘をついている様子は見られない。
「…………あの、おめでとうございます」
「おめでとうございます?」
「いや、なんて言えばいいのかわからなくて……」
「別に、無理に何か言う必要もないだろ……数日前に知り合ったばかりの、ただの仕事相手だぞ、俺たち……」
そう言ってため息を吐くフォールさん。とはいえその表情は僅かながら緩んでおり。時折ピアノの方に動く視線を見ても、これは相当彼女に惚れこんでいるんだなぁ、と思う。
「……それにしても、意外と目立つところにいたんですね、恋人さん。てっきり人前に出てこない、どこかのお嬢様とかだと思ってたんですけど……公になったらちょっとは噂になるんじゃないですか?」
「だから隠してるんだよ……金にはならないのに面倒ごとばかり付いてくる、これだから英雄扱いは嫌いなんだ……文句言えないのはわかってるけどさ」
殺気すら感じる冷たい視線で机を見下ろす彼に、思わず背筋が震える。その視線が今後こちらに向かないことを祈らずにはいられないが……それにしても、この話を私にした意味はあるのだろうか。少なくとも、彼はAEIという組織のことは信頼していないはず。
どうにも腑に落ちない彼の行動に内心首を傾げていると、不意にすぐ横から足音が聞こえた。振り向くと、先程の店員が生気の薄い瞳で私たちを見下ろしている。その手の中には、静かに湯気を立ち昇らせるカップが二つ。
「……ブラウナー二つ……でよろしかったでしょうか」
「……俺さ、注文した覚えもなければ希望聞かれた覚えもないんだよね。俺はともかくとして、初来店の客にそれやるか?」
「…………うるさい。もう閉店時間は過ぎてるんだし、出してやってるだけ感謝しろ、カスフォール」
忌々し気にそう吐き捨てて、踵を返す店員の少女。その後ろ姿にため息を吐くと、彼はゆっくりカップを持ち上げた。
「……あいつ、俺に対してだけ滅茶苦茶当たり強いんだよな」
「何か怒りを買うようなことでも?」
「……私からティーナを奪ったとかなんとか。俺が恋仲になる前からティーナとは友人だったから。別に今でも友人なんだし、奪ってはないだろっていつも言ってるんだけど」
苦笑交じりに呟いた彼に、こちらも苦笑を返す。言葉とは裏腹に柔らかいその表情を見れば、彼があの店員の態度を悪く思っていないことは容易にわかる。やはり天下の英雄様ともなれば、あれだけ邪険に扱ってくれる人間も希少なのだろうか。
「まあいいや、お前も飲みなよ。この前のカフェのよりは間違いなく美味いから」
「……では、お言葉に甘えて」
軽く頭を下げると、持ち上げたカップを傾ける。ふわりと伝わる香り高さ、豆の苦みと旨み、その棘を包み込んで和らげるクリーム。舌の上に広がる複雑でありながらまとまった味に、感嘆の息が小さく漏れた。眼前で似たり寄ったりの反応を示しているあたり、彼がこの店をお気に入りにしている理由にはこの味もあるのだろう。暫しの間その味を堪能すると、鋭さを取り戻した彼の瞳が私を突き刺した。
「……それで、なんでこの店まで?」
「この前の件の調査が終わったので、報告しようと。警察署には不在だったので、日を改めようと思ったんすけど……あてもなくふらついていたら、たまたま見かけて」
「……そんなことある?」
天を仰ぎながら絶句する彼に思わず笑みが漏れる。即座に睨みを利かせてくる彼から逃げるように一枚の資料を取り出すと、テーブルの上を滑らせた。
「……ヘルマンが持っていた拳銃ですが。ティルピッツ社のクルードC700という製品だと判明しました」
「……聞いたことない型番だな」
「ええ、開発途中で没になった製品ですから。プロトタイプ20丁の製造後、コスト面の問題で廃案になったそうです。我々がティルピッツ社に送り込んでいたスパイからの情報で……ああ、これは黙っていてくださいよ?」
「……その20丁しかない銃が、あの家に?」
その一言を最後に黙考するフォールさん。途切れ途切れのピアノの音の合間に、二人分のコーヒーを啜る音と息遣いだけが小さく響く。時折瞼を閉じながら考え込むこと数分、彼の唇からぽつりと声が漏れた。
「……普通に考えるなら、それがスパイにとって一番調達しやすい銃だった……ってことか?」
このエーデ帝国では、拳銃など対人間用の銃器は法律で所持を規制されている。基本的に全ての銃が軍・警察・AEI・武器会社・軍事企業のいずれかの管理下にある以上、入手が容易な銃を探して廃棄予定のものに行きつくのは自然に思える。彼が少々不機嫌そうに見えるのは、なんにせよウェルトハーツという街に銃の流入を許してしまったからだろうか。
「……で、そのクルードC700とやらがどこから出てきたのかはわかったのか?」
「ええ。ケッセルにあるティルピッツ社の工場で生産されて、その地から出荷されることなく廃棄処分されたことになっているらしいっす」
「じゃあケッセルに行けば何か手掛かりを拾えるかもしれないと……悪いちょっと待ってくれ」
中途半端なところで話を切ると、彼は店の扉の方に目を向けた。その向こうに見えるのは、何やら高そうな装いに身を包んだ女性の姿。誰だあの人、と思う私の横を、さっきまでピアノを習っていた少女がぱたぱたと駆け抜けていった。
(……ああ、あの人が母親なのかな)
彼女に話を聞かれるのを警戒して彼は黙ったのだろう。だからその親子がフォールさんの恋人に挨拶して、店を後にした時点で話を再開してもよかったはずなのに。何故か、その二人から目線を外せなかった。淡く照らされる道を、手を繋いで楽しそうに歩く二人がやけに眩しく見えた。
「……ミラン?おーいミラン、聞いてるか?」
「ごめんなさい、聞いてませんでした」
「……まあ素直なのはいいことだが……悪い、少し席外していいか?ソラの奴が呼んでる」
「ええ、お構いなく。行ってらっしゃいっす」
「どうせしょうもない力仕事だろうな……なるべく早く終わらせる」
憂鬱さを隠そうともせずに立ち上がった彼が、ソラという名前らしい店員に続いて店の奥に消える。ピアノの音も会話も消え去ったカフェは、先程からの落差か妙に不気味に感じられて。薄っすらと漂う寒気から逃げるようにカップを手に取ると、テーブルに人影が重なった。
「フォールもソラも、お客様を一人残して……しかも色々散らかしたままだし」
かけられた声に顔を上げる。ついさっきまで少女にピアノを教えていたはずの彼女は、テーブルに広がった書類を少々憂鬱そうに眺めて。不意にこちらに目線を映すと、朗らかに微笑んだ。
「はじめまして、ミランちゃん……で合ってるかな?」
「……はい、合ってますが」
何故名前を、と見上げた私の正面、さっきまでフォールさんが座っていた椅子。そこに腰かけた彼女は首元のチョーカーを外し机に置くと、こちらに軽く頭を下げた。
「ドゥランテ楽団ピアニスト、ティーナ・エルマーニ。いつもフォールがお世話になってます」
「いっ、いえ……私はそんな、お世話になってる側ですし……そもそもあの人を世話できるほど大層な人間ではないっすから……」
「……そう?あれでも彼、結構子供っぽいところない?」
首を振った私に、彼女は少し考え込むような素振りを見せた。間近で見た英雄様の姿は、大人びていると感じることこそあれど子供っぽいという印象を抱くことはなかった。彼自身まだ二十歳になっていないとは信じられないほどに。
「普段はね、放っておくと食事抜こうとしたり、最近は私から誘わないと休みの日は家に引きこもっていたり……ちょっとだけ手のかかるところもあるんだけど。まあでも、ミランちゃんの前だと頑張ってるのかな?」
「ええ……?」
あまりに想定外な言葉に遠くなる意識を慌てて引き戻す。それほどまでに、私から見た彼の姿とエルマーニさんから見た彼の姿は違っていた。素を曝け出せるくらい恋人の前でリラックスできている……と捉えられないこともないが。その場合は、彼女から見たフォール・ヴァルトルーデこそが真実ということになる。そうすると、私が見た彼……色々文句を言いながらも、私を危険から遠ざけようとしてくれる警察官としての彼も。ヘルマンと対峙した際に見せた、どこか空虚な元軍人としての彼も。全て、張り付けた偽りの姿なのだろうか。考えれば考えるほどわからなくなるその問いを振り払って深呼吸すると、一度目を閉じて。再度開いた目は、自然と彼女の顔に引き寄せられていく。
「……どうかしたの?ミランちゃん」
「いえ……その、綺麗な人だなぁって……」
「……ミランちゃんって私より年下だよね?その年でお世辞言わないといけないって、大変な職場なんだね……」
「……お世辞のつもりではなかったんですけど」
仕事柄人を観察……あるいは監視することは多いが、その記憶の中でも彼女の容姿はそれなりに抜けている。滅茶苦茶目立つ、というわけでもないが、いざ相対すると目が離せなくなるタイプと言うべきか。どこか捻くれているあの人が惚れるのも無理はないと思うし、気を遣ったつもりなど微塵もなかったのだが。それでも彼女は苦笑を浮かべると、コーヒーを一口啜り、
「ありがとうね。けど、この街は……ウェルトハーツにいる女の子は、皆もっと綺麗だから。劇団員の娘とか見た後には、私なんか藁人形にしか見えないと思うよ?」
そう自嘲的に呟いた。まあ確かに、劇団員ともなればそれなりに容姿も求められるだろう。彼女よりも上の女性が普通にいる、ということは理解できるのだが。理解できることと、それを恐ろしいと感じることは両立する。
「……怖いっすね、ウェルトハーツって街は。ここだと私なんか女とも見られないかもしれないっす」
「そんなことはないよ、ミランちゃんも可愛いし……まあでも、この街が怖いのは間違いないかな。ミランちゃんが気に入るかどうかはわからないけど……やっぱり、この街はちょっと変わってるから。あんまり長居したり……住んだりするのはおすすめできないかな」
「なんか……結構容赦なく言いますね、ご自身が住んでる街のこと」
世間一般から見れば、ウェルトハーツというのは”煌びやかな文化の街”くらいの認識なのだが。やっぱり中から見ると違うものなのかな、と呑気に考える私を前に、彼女は軽くカップを揺らしながら唸った。
「んー……まあ色々ね。結構な頻度で人がその辺の運河に浮いてるし……お客さんとして来て、劇とか見て帰る人の目には入らないけど。住んでみると結構暗いっていうか、鬱屈とした街ではあると思うな……多分、フォールが最近疲れてるのも……」
最後の一言は、きっと私に向けた言葉ではなかった。憂いを帯びた瞳を窓外に向けながらカップを傾ける彼女は、並みの絵画よりもよっぽど絵になっていた。そういえばそのコーヒーってフォールさんが飲んでたものだと今更気づく。
「……ミランちゃん?えっと……何か不安なことが?」
「えっ……?」
彼女の声にようやく我に帰る。思えば少々黙り込んでしまっていたが、己がどんな表情をしていたかまではわからない。彼女の言葉からすると、どうも暗い顔をしていたのは間違いないらしい。
「……もしかして、だけどさ。私が実は幸せではないんじゃ、みたいな心配してくれた……とかだったりする?」
かなり躊躇いがちに放たれた言葉。そんな高尚な感情かどうかは怪しいが、じゃあ何なのかと言われると答えに窮するし余計にややこしくなりそうで。
「……まあ、そう言えなくもない……というか」
俯きがちに言葉を濁した私に、彼女は一瞬目を丸くして。
「…………そっか。ありがとうね、ミランちゃん」
私が受け取るには眩し過ぎる微笑みをこちらに向けた。
「けどね、大丈夫。私は十分幸せだよ。もちろん、それなりに問題……というか、悩みは持ってるけど。それを忘れられるくらい、私に良くしてくれる人がいるから。フォールだったり、ソラだったり、他の友達だったり……あっ、ソラってのはさっきフォールと一緒に裏に行った娘ね?ここの店長さんの娘なの」
まだ帰って来ないのかな、と二人が消えた扉の先を見ながら彼女は呟いた。その眼差しは柔らかかったが、ほんの少し嫉妬するような色も見える。
「…………好きなんですね。フォールさんのこと」
「……うん。昔はね、そんな立場じゃないと思ってたっていうか……なんでこの人が、私なんかに惚れてるんだろうって不思議だったのに。今じゃ彼のこと笑えなくなっちゃった」
「えっ、惚れたのあの人の方が先だったんすか?」
あの人が……容疑者相手とはいえ、躊躇いなく民間人に銃弾をぶっ放す英雄様が、誰かに惚れて言い寄る姿など中々に想像できない。たとえその対象が、今目の前に座っている人だとしても。
「……まあそういう反応になるよねー……聞きたい?初めて会った時のこと」
その提案に、思わず頬が緩んだ。本当にいいのか、と目線で問うと、彼女はため息混じりに呟く。
「だってお客様を退屈なまま待たせるわけにもいかないでしょ?本当はソラの仕事なんだろうけど帰って来ないし……私は他に面白い話もできないし……」
残りを飲み干すようにカップを傾けて。どこか遠くを眺めるような瞳で、彼女は語りだした。