先生と〇〇 作:幻獣ハンター(ケモナー)
人間は弱い。
そんなことは、医者をやっていれば嫌というほど分かる。
転んで骨を折る。食事を喉に詰まらせる。風邪をこじらせる。酒を飲みすぎて肝臓を壊す。
そして、医者に「大丈夫ですよね」と聞く。
大丈夫かどうか分からないから診ているのだが、患者にそう答えると嫌われる。医者というのは、知識のほかに、多少の愛想を要求される仕事だった。
「先生」
「何だ」
「キミも含めて、みんな弱いね」
俺は隣を見た。白い髪。赤い眼。猫に似た耳と尾。
その身体の一部は、今も俺の念で繋ぎ止められている。
退院させたとはいえ、完治したわけではない。脳にも心臓にも、まだ俺の作った組織が残っていた。
そんな患者から弱いと言われるのは、どうにも納得がいかなかった。
「一つ訂正しておく」
「何?」
「俺はお前より弱いかもしれんが、お前は今、俺がいないと困る」
「知ってるよ」
「なら、もう少し敬意を払え」
「先生、弱いのに?」
「弱い奴にも払え」
患者は首を傾げた。本気で分からないらしい。弱肉強食のキメラアントらしいと自らを納得させた。
俺は諦めて歩き出した。退院させてから半日。まだ街にも着いていない。隣の患者が好奇心で寄り道をしまくるのだ。外の世界が新鮮なのはわかるが、先が思いやられた。
街へ出るまでに、二度ほど患者を見失いかけた。
一度目は、鳥を追って木に登った。二度目は、道端で何かの気配を感じたらしく、藪へ消えた。
どちらも俺が呼ぶと戻ってきた。戻ってくるのだから、まだましなのだろう。
犬を飼ったことはないが、少なくとも犬なら首輪を買うことができる。こいつに首輪を提案した場合、俺の首がどうなるかは考えたくなかった。
「勝手に遠くへ行くなと言っただろ」
「遠くじゃないよ」
「俺から見えなくなった」
「先生の眼が悪いんじゃない?」
「お前の手足が消えても、俺の眼のせいにする気か」
患者は口を閉じた。それから、俺の隣へ戻ってきた。距離制限というのは、なかなか便利な躾の道具である。
もちろん、医者として患者を躾けようなどとは思っていない。思っていないが、何事にも限度というものがあった。
街の入口が見えたところで、俺は足を止めた。
「その耳、隠せるか」
「何で?」
「目立つからだ」
「先生は目立たないの?」
「俺は普通の中年男だ」
「……普通?」
「そこに疑問を持つな」
患者は自分の耳に触れた。白い耳が、指先を避けるように動く。
「隠すの、嫌だ」
「人間の街で騒ぎになりたくない」
「人間」
その言葉を、患者は妙にゆっくり繰り返した。通りを歩く人々を見る。買い物袋を提げた女。荷物を運ぶ男。走り回る子供たち。
患者の眼が、一人ずつを追っていく。
俺には、道行く人間を見て何を考えているのか分からなかった。
ただ、近くを通った男が患者と眼を合わせたとき、男の方が先に顔を逸らした。隣の患者は不思議そうに、その背中を見送った。
「……逃げた」
「お前が睨むからだ」
「睨んでないよ」
「じゃあ、見つめすぎだ」
「弱いね」
「だから、それを言うな」
衣料品店を見つけ、俺は患者を連れて入った。
フードのついた上着。ゆったりしたズボン。尾を隠せるよう、裾の長い服も選ぶ。
患者は服を手に取るたび、匂いを嗅いでいた。
「いい加減やめろ」
「何で?」
「店の商品だ」
「匂いがする」
「そりゃ、するだろう」
「人間の」
「……買うぞ」
店員が近づいてきた。
「お連れ様ですか?」
「ええ、まあ」
患者が俺を見た。
「先生、ボクは――」
「試着室はどちらですか」
俺は店員へ尋ねた。
患者が何を言おうとしたのか、聞かないことにした。十分ほど後。
フードを被った患者が、試着室から出てきた。白い髪の大半が隠れ、耳も見えない。尾も服の下に収まっていた。
少なくとも、一目でキメラアントだとは分からない。
「どうだ」
俺が聞くと、患者は袖を引っ張った。
「動きにくい」
「慣れろ」
「破いていい?」
「今から買う服だぞ」
「じゃあ、脱ぐ」
「破くな。脱ぐな。お願いだから着ろ」
「先生、注文が多いね」
「患者が言うな」
店員が小さく笑った。患者の耳が、フードの下で動いた。
「……何?」
「何でもないですよ」
店員は笑顔で答えた。患者はしばらく、その喉を見ていた。
嫌な予感がし、俺はすぐに会計を済ませた。余計な事故は、起こさないに限る。
街を出て、次の交通機関へ向かう道すがら、患者は何度も振り返った。
「何だ」
「人間、いっぱいいた」
「街だからな」
「みんな、あんなところに集まって何してるの?」
「暮らしてる」
「暮らす?」
「食って、働いて、寝る。たまに遊ぶ」
「それだけ?」
「それだけで忙しいんだよ、人間は」
患者は考え込んだ。
「先生も?」
「俺もだ」
「先生は、いつ遊ぶの?」
「……最近は、あまり」
「じゃあ、ずっと働いてるの?」
「そういうことになるな」
「何で?」
俺は歩きながら、空を見た。どうしてだったか。昔は、理由があった気がする。
医者になりたかった。患者を助けたかった。
自分の腕で、誰かの人生を少しでも長く繋ぎたかった。
それがいつから、失敗を数える仕事になったのだろう。
「……ほかに、やることがないからだ」
「つまらなそう」
「そうでもない」
「嘘」
「お前は、医者の嘘を見抜くのが好きだな」
「先生、分かりやすいもん」
俺は返事をしなかった。患者は少し先へ歩き、振り返る。
「先生」
「何だ」
「ボク、何をしてたんだろうね?」
また、その質問だった。俺は足を止めなかった。
「さあな」
「何か、しなきゃいけなかったんだ」
「そうか」
「誰かを探してたのかな?」
「……かもしれん」
患者は俺の横へ戻った。
「先生についていったら、分かる?」
俺は答えに詰まった。名前なら知っている。何をしていたのかも、少しは聞いた。
だが、俺が知っていることと、こいつが知りたがっていることは、同じなのだろうか。
「俺は記憶の専門家じゃない」
「医者なのに?」
「医者にも専門がある」
「じゃあ、記憶の先生を探してよ」
「……考えておく」
「また、それ」
患者は不服そうだった。俺も不服だった。
こんなところで、あいつの記憶を取り戻す手助けをする約束など、したくなかった。
だが、記憶障害の患者に「思い出さない方がいい」と言う医者にも、なりたくなかった。
まったく。
自分の仕事を嫌いになるには、十分な理由だった。
事故は、唐突に起きた。最初に聞こえたのは、鈍い衝撃音だった。金属が擦れる音。続いて、短い悲鳴。
振り返ると、交差点で車が一台、道路の端へ大きく傾いていた。トラックに横から追突されていのだ。
タイヤが歩道への段差を乗り越え、車体が横転する。窓ガラスが砕けた。荷物が散らばる。
瞬間に俺は走った。
「先生?」
「そこで待ってろ!」
言い終える前に、患者の気配が横を抜けた。
速い。
あっという間に車のそばへ辿り着く。
俺が追いついたとき、患者は横転した車を見下ろしていた。
「……人間、入ってる」
「分かってる。手を貸せ」
運転席の男が呻いていた。意識はある。助手席には女。後部座席に、少女がいた。俺は少女を見た。
小柄な身体。折れ曲がった座席。頭部と腹部から、血が流れていた。
「……くそ」
俺は車内へ手を伸ばした。少女の呼吸は浅い。意識は無い。出血量も多い。
ほかの二人も負傷していたが、今すぐ命を失いかねないのは、この子だった。
「おい、車を支えられるか」
患者が俺を見た。
「これ?」
「そうだ。大きく動かすなよ。中に人がいる」
「……分かった」
白い手が車体へ伸びた。車が、片手でいとも簡単に、わずかに浮いた。
「そのまま」
「うん」
周囲に集まり始めた人間へ声をかける。
「救急車を呼んでくれ! 交通事故、負傷者は三人だ!」
携帯電話を取り出した男が、慌てて頷いた。俺は少女へ向き直った。
頭部、腹部の損傷。腹部は車の破片が刺さり大量出血。
内部にも傷がある。
このまま搬送を待つだけでは、間に合わない可能性がある。
「……手術室を出したいところだが」
俺はほかの二人を見た。
ここで少女と一緒にシュレディンガーへ入れば、外に残した患者たちを診られない。
それに、手術室へ入ったところで、問題が一つ残る。
俺の念は、すでに別の患者へ大量に割かれている。
今、車を支えているあいつだ。
少女の腹部を補うには、足りない。俺は出血を抑えながら、考えた。
一瞬、脳裏にピトーへの能力行使を中止するという案が浮かんで、すぐに消えた。
目の前に新しい患者が現れたからといって、前の患者を壊していいわけがない。
あの日と同じだった。判断を迫られている。
俺は手を動かした。
考えるのをやめたわけではない。考えながら、手を止めないことにした。
「先生」
「何だ」
「この子、死ぬの?」
「……死なせたくない」
「できないの?」
「できることをやってる」
患者が、車から手を離した。
「おい、待て――」
車は倒れなかった。車の重心をかけ、安定させてから離していた。
白い影が、少女のそばへ来た。赤い眼が、傷を見た。
その瞬間。
患者の動きが止まった。
「……あ」
隣の患者が、小さく声を漏らした。俺は顔を上げた。
「どうした」
患者は少女を見ていた。眼が、いつもと違った。
俺を警戒するときの眼でもない。人間の強さを測るときの眼でもない。
何かを、必死に探している。
「……先生」
「何だ」
「どいて」
「は?」
「ボク、これ……」
患者が手を伸ばした。俺は反射的に、その腕を掴んだ。
「何をする」
赤い眼が俺を見た。耳が伏せられる。
「……直せる」
「何?」
「前にも、こんなふうに……」
言葉が途切れた。患者は、自分の手を見た。
「……分からない。でも」
その身体から、念が立ち上った。俺は息を呑んだ。異様な気配だった。
死体の上で見た、あの念に似ている。
だが、違う。
今度は、生きている患者自身の意思がある。念が形を取った。念人形。奇妙な姿をした、医療用の人形。
見間違えるはずがなかった。
あの日、欠けた脳と心臓を修復しようとしていたもの。
俺が不足分を補ったあと、血液を巡らせ、心臓を動かしたもの。あれと、同じだった。
「……おい」
患者は、答えなかった。
眼が、少女の傷へ向いている。その手つきが変わった。
つい先ほどまで、俺の処置を不思議そうに眺めていた患者とは思えなかった。
傷を確かめる。損傷を見極める。修復すべき箇所へ、迷わず触肢を伸ばす。
ただし、完全に自動で動いているわけではなかった。
患者は、考えていた。何を先に直すべきか。どこを繋げば、次の処置ができるか。
それを、自分で選んでいる。
「……先生」
「何だ」
「こっち、押さえて」
俺は言われた箇所を見た。
確かに、そこを押さえれば処置が進む。
俺は手を動かした。
「こうか」
「うん。もう少し」
「ここはどうする」
「……待って。今、直す」
人形が動く。少女の身体に、修復が進んでいく。
俺は呼吸を確かめた。
まだ浅い。脈も弱い。
だが、さっきまでとは違う。
救命できる可能性が、目の前に現れていた。
「……そうだ」
俺は言った。
「そこを先にやれ」
「分かってる」
「出血は」
「今、止める」
「呼吸が浅い」
患者は、ほんの一瞬だけ俺を見た。
「先生、うるさい」
患者は、また少女へ向き直った。俺は自分ができる処置を続けた。少女の処置が軌道に乗ったことで、俺は残りの2人を見ることができた。
少女の身体が、少しずつ戻っていく。目の前の俺の患者が、直している。
俺が拾った、あのキメラアントが。
少女の呼吸が落ち着いたとき、俺はようやく肩の力を抜いた。
まだ、安心はできない。
事故による損傷は、治療した瞬間にすべて終わるものではない。経過を見なければならないし、ほかの負傷者もいる。
それでも。助かった。
少なくとも、今ここで失われるはずだった命は、繋がった。
「……よし」
俺は少女の状態をもう一度確認した。
患者は、隣で黙っていた。あの人形は、まだそこにいる。
「お前、それ……」
俺が言うと、患者は顔を上げた。
「何?」
「いつから使えた」
「……知らない」
「名前は」
「知らない」
「どうやって出した」
「……分からない」
俺は人形を見た。医療用の念能力。
しかも、ただ傷を塞ぐだけではない。
俺が正常な細胞を基に代用品を作り、患者自身の回復を待つのに対して、こいつの能力は、損傷した身体そのものを修復している。
医者として、念能力者としても、興味が湧いた。
そして、人間としては、ひどく嫌な予感がした。
記憶が戻り始めているのではないか。
「……何かを思い出したのか?」
患者は、少女を見た。
「誰かがいた」
「誰だ」
「分からない」
「何をしていた」
「……守ってた」
患者は胸元を押さえた。
「ボク、誰かを守らなきゃいけなかった」
耳が伏せられる。
「その人が傷ついたら、直さなきゃいけなかった」
「……そうか」
「でも、誰だったのか分からない」
患者は自分の手を見た。
「先生」
「何だ」
「ボク、これができたんだね」
「ああ」
「先生と同じ?」
「……似てるところはある」
「先生より、上手?」
「調子に乗るな」
患者の尾が、一度だけ動いた。
だが、笑わなかった。赤い眼が、まっすぐ俺を見た。
「ボクは、何者なの?」
俺は答えなかった。
答えを知らないからではない。知ってしまったからだ。
救急隊が到着した。
俺は少女の負傷箇所と、それまでに行った処置を説明した。
念能力による治療については、説明に少し苦労した。
医者をやっていて、治療方法を説明するのに困ることは珍しくない。だが、「猫耳の患者が出した人形で修復しました」と正直に言うのは、さすがに難しかった。
少女の搬送先を確認する。
ほかの二人についても、分かる範囲で状態を伝えた。
運転席の男は、担架へ移される途中で、少女の名前を呼んでいた。俺は、娘も搬送されることを伝えた。
男は何度も礼を言った。俺は頷いた。
礼を言われるのは、嫌いではない。
ただ、今回ばかりは、俺が受け取るのも違う気がした。
振り返る。
患者は、少し離れたところで救急隊の動きを見ていた。
白い耳が、フードから覗いている。
俺は指で示した。
「耳」
「……あ」
患者はフードを直した。救急車が去っていく。サイレンが、遠ざかった。
俺は道端に座り込んだ。
疲れた。
ひどく疲れた。
今日一日で、何度か人生を間違えた気がした。
数える気にもならなかった。
「先生」
「何だ」
「さっきの子、助かった?」
「ああ。今のところはな」
「ふうん」
患者は、救急車が去った方角を見た。
「人間って、すぐ壊れるね」
「そうだな」
「先生も?」
「俺もだ」
「……でも、直せる」
俺は顔を上げた。患者は自分の手を見ていた。
「ボク、直せた」
「ああ」
「先生も、直してた」
「それが仕事だからな」
「……仕事」
患者は、その言葉を確かめるように繰り返した。やがて、俺の隣へ来た。
近すぎない距離。
手を伸ばせば届く。
だが、どちらも伸ばさない。
「先生」
「何だ」
「ボク、ついていく」
「……今さら何を言ってる。離れたらお前が困るだろ」
「それだけじゃない」
俺は患者を見た。
「先生についていけば、思い出せるかもしれない」
尾が、静かに揺れていた。
「ボクが誰だったのか。何をしなきゃいけなかったのか」
俺は、すぐには返事ができなかった。
こいつは記憶を取り戻したい。俺は、取り戻されたら困る。
少なくとも、今は。
記憶が戻れば、王直属護衛軍としての忠誠も戻るのか。
人間への敵意も。ゴンをあそこまで追い詰めた理由も。
それとも、今のこいつに、何か別のものが残るのか。
分からない。
俺には、分からないことが多すぎた。
「……先生?」
「好きにしろ」
「いいの?」
「どうせ、しばらくは離れられん」
「それだけ?」
「それだけだ」
患者は、俺の顔を覗き込んだ。
「嘘つき」
「……患者に言われたくないな」
この患者は、医者の診察には従わないくせに、こういうところだけ妙に鋭い。
「……お前の記憶については、もう少し調べる」
「ほんと?」
「ああ」
「約束?」
「医者に安易な約束をさせるな」
「……けち」
患者は、少しだけ口を尖らせた。
俺は立ち上がり、荷物を持つ。
次の街へ行かなければならない。補給も必要だ。休息も必要だ。
そして、次の患者も。
もっとも、今は一人分の治療を終えたばかりだった。
その治療を行なったのは、俺が最も警戒すべき相手だった。
「行くぞ」
「うん」
軽やかな足音が、隣へ並んだ。