常盤台中学の校門を出てしばらく歩いたところで、食蜂操祈はようやく、自分が先ほど何をしでかしたのかを落ち着いて振り返るだけの余裕を、少なくとも表面上は取り戻しつつあった。
正確に言えば、本当に余裕が戻ったわけではない。相沢由良本人から「食蜂さんも暇なら誘ってあげたらどうですか」と言われたと知った瞬間、派閥員たちの前で勢いよく立ち上がり、「行くわ! 何時!? どこに集合なの!?」と叫んだ事実が、時間の経過とともに徐々に記憶の表層へ浮かび上がってきた結果、それをどうにかして「特に取り乱してはいなかった」という筋書きへ再構成できないものか、頭の中で必死に辻褄を合わせ始めただけだった。
「……ねえ」
不意に食蜂が口を開くと、隣を歩いていた美琴が、これから始まる話の内容をすでに察したような嫌そうな表情を向けた。
「何よ」
「一つだけ、認識を合わせておきたいことがあるんだけどぉ」
「嫌な予感しかしないんだけど」
「今日、私が一緒に行くことになった経緯についてよ」
「うん」
「私は別に、誘われたから嬉しくなって飛びついたわけじゃないの」
美琴は返事をせず、そのまま前へ向き直った。少し後ろを歩いていた黒子まで何も言わずに食蜂を見るものだから、二人分の沈黙を浴びた食蜂は、さすがに居心地が悪くなったらしく眉を寄せる。
「何よ、その反応」
「いえ」
美琴は前を向いたまま答えた。
「続けて」
「だからぁ、私は御坂さんたちが他校の子とどういう付き合い方をしているのか、少しくらい確認しておいてもいいかなぁと思っただけ。そこへたまたまお誘いが来たから、それなら顔を出してもいいかしらって――」
「『由良ちゃんが!? 行くわ! 何時!? どこに集合なの!?』」
かなり忠実な再現度で黒子が割り込んだため、食蜂の足がそこで止まり、ゆっくりと振り返った顔から、それまで作っていた余裕がわずかに剥がれ落ちた。
「白井さん」
「はい?」
「どうして一字一句覚えているのかしらぁ」
「つい先ほどの出来事ですので」
「忘れて」
「嫌ですの」
「その記憶、少しくらい都合よく整理してもらおうかしら」
「丁重にお断りいたしますの」
「食蜂、能力使うのはやめなさいよ」
美琴が横から釘を刺すと、食蜂は「冗談じゃなぁい」と鼻を鳴らしたものの、能力の性質を知っている美琴からすれば到底笑える冗談ではないらしく、なおも疑わしそうな視線を向けられた。
「アンタが言うと冗談に聞こえないのよ」
「失礼ねぇ。とにかく、私は事実関係を整理してるだけなの。取り繕ってなんかいないわぁ」
「じゃあ事実その一。相沢さんが参加するって聞いた瞬間、ティーカップ鳴らした」
「ちょっと手元が狂っただけ」
「事実その二。来ないって言い張ってた」
「予定があったもの」
「事実その三。相沢さんがアンタを誘っていいって言った瞬間、立ち上がった」
「だから、それは――」
「『由良ちゃん待たせられないから!』」
「白井さん?」
「はい?」
「本当に楽しそうねぇ、あなた」
「ええ、大変」
黒子が悪びれもせず微笑むのをしばらく睨んでいた食蜂だったが、これ以上反応すればするほど相手を喜ばせるだけだと悟ったらしく、やがて諦めたように前へ向き直った。
「そもそも、ちゃんと潤子に残りを任せてから出てきたでしょう? 派閥の用事を放り出したわけじゃないんだから、そこまで言われる筋合いはないわよぉ」
「そこだけ妙に仕事はしてるのよね……」
呆れながらも少し感心したらしい美琴の声音を聞き分け、食蜂はすぐさま胸を張る。
「当然でしょう? 私だって一応、派閥を預かってるんだから」
「一応じゃなくて最大派閥でしょうが」
「あら、分かってるじゃなぁい」
「褒めてないわよ」
食蜂は満足そうに髪を払い、そのまま何事もなかったように歩き続けたものの、本人の悠然とした態度とは裏腹に歩調だけは先ほどから微妙に速く、美琴はそれをしばらく横目で観察してから、とうとう呆れた声を漏らした。
「……アンタ、歩くの速くない?」
「別に?」
「待ち合わせ場所は逃げないわよ」
「知ってるわよぉ」
「じゃあ、もう少し普通に歩きなさいよ」
「時間は有限なの」
「さっきからそれ便利に使いすぎでしょうが!」
三人がそんなやり取りを続けているうちに、待ち合わせ場所として指定されていた駅前の広場が見えてきた。放課後の時間帯だけあって制服姿の学生は多かったが、先に到着していた三人を見つけるのは難しくない。
「おーい、御坂さーん!」
真っ先に気づいた佐天涙子が大きく手を振り、その隣では初春飾利もこちらを見ている。
食蜂の視線は二人を確認したあと、そのさらに隣へ立っている少女へほとんど吸い寄せられるように移った。
相沢由良は柵川中学の制服を着て、特に何をするでもなく佐天の傍らに立ち、近づいてくる三人を見ていた。ただそれだけの姿なのに、食蜂の歩調がほんの一瞬だけ鈍り、美琴と黒子が揃って横目を向ける。
それでも食蜂は何もなかったように歩き続け、口元には常盤台最大派閥の女王らしい余裕のある微笑まで戻してみせた。
派閥の前では一度失敗した。だからこそ、佐天や初春の前でまで妙な醜態を重ねる必要はないし、まして由良本人の前なら、多少は年上らしい余裕を保ったまま普通に挨拶をすればいい――そう自分へ言い聞かせるほど、食蜂の表情はかえって慎重に整っていった。
「食蜂さん」
由良が呼んだ。
それだけで肩がごく僅かに跳ねたものの、まだ耐えた。
「来てくれたんですね」
今度は耐えられなかった。
食蜂はその場で足を止め、由良を見たまま数秒ほど完全に反応を失ったため、美琴は即座に額へ手を当て、黒子は期待通りの展開を目撃したように口元を持ち上げる。一方、佐天と初春だけは何が起きたのか分からず、揃って食蜂の顔を眺めていた。
「食蜂さん?」
「……え?」
呼びかけられてようやく我に返った食蜂は、確認するように由良へ一歩だけ意識を寄せる。
「今、何て言ったの?」
「来てくれたんですね、と」
その言葉をもう一度聞いた途端、食蜂の口元がじわじわと持ち上がっていった。
「それってぇ、私が来たことを歓迎してるってこと?」
「普通に考えたらそうじゃないですか」
食蜂の両手が胸元でぎゅっと組まれる。
「由良ちゃん……私、来てよかったのね?」
「誘っていいって言ったのは私ですから」
「毎日誘ってくれてもいいのよ!」
「毎日は多いです」
「な、なんで!?」
合流してから一分も経っていないにもかかわらず、常盤台最大派閥の女王として整えてきた余裕は早くも跡形もなく消え、佐天は目を丸くし、初春も数度瞬きを繰り返している。美琴だけは予想していたらしく肩を落とし、黒子に至ってはとうとう口元を手で覆って笑いを堪え始めた。
「ちょ、ちょっと待って」
佐天が食蜂と由良を交互に見比べる。
「食蜂さんって、普段からこんな感じなんですか?」
「違うわよ」
美琴が即答した。
「相沢さんの前だと特にひどいの」
「御坂さん!」
食蜂は勢いよく振り返った。
「どうして余計なことを言うのよ!」
「事実でしょうが!」
「事実かどうかと、口にしていいかどうかは別問題でしょう!?」
「事実って認めた!」
「言葉の綾よ!」
佐天はその応酬を聞いてから、今度は由良の方へ顔を向けた。
「由良ちゃん」
「何ですか」
「私たち、今すごいもの見てる?」
「最近はだいたいこんな感じですよ」
「慣れてる!?」
「慣れました」
「由良ちゃぁん……!」
自分の壊れ方を日常風景として処理されたことの方が傷つくらしく、食蜂は目に見えて肩を落とした。
「それはそれで嫌なんだけどぉ」
「どうしてですか」
「もう少しくらい、私が来たことで特別な反応があってもいいじゃなぁい」
由良は少し考え、それから食蜂が想定していなかったらしい答えをあっさり口にした。
「来てくれて嬉しいですよ」
今度の食蜂は言葉を失うだけでは済まず、そのまま由良の顔を見つめて完全に固まった。
美琴が目を閉じ、黒子が肩を震わせる一方、佐天と初春は、ようやくこの場で起きていることに一定の法則があるらしいと理解し始める。
「……食蜂さん?」
「もう一回」
「嫌です」
「どうして!?」
「何となくです」
「今のはもう一回くらいいいでしょう!?」
「一回聞いたなら十分じゃないですか」
「十分じゃない!」
由良は騒ぐ食蜂の顔を少し眺めてから、別の事実へ気づいたように淡々と言った。
「食蜂さん」
「何?」
「顔が赤いです」
「誰のせいだと思ってるのよ!」
「知りません」
「由良ちゃんのせい!」
「理不尽ですね」
「そういうところ!」
とうとう佐天が腹を押さえて笑い始め、初春が困ったようにその袖を引く。
「佐天さん、笑ったら失礼ですよ」
「でも初春、見てよ。第五位だよ?」
「それは知ってます」
「学園都市第五位が、由良ちゃんに一言『嬉しい』って言われただけで止まった」
「言い方!」
食蜂が佐天へ鋭く振り向く。
「別に止まってないわよぉ」
「止まってましたよ」
「初春さんまで?」
「すみません。でも、止まってました」
佐天だけならまだ反論できた食蜂も、比較的冷静な初春にまで断言されると少し自信を失ったらしく、最後の確認先を求めるように由良へ視線を戻した。
「由良ちゃん」
「はい」
「私、止まってた?」
「止まってました」
「……長かった?」
「三秒くらいです」
「具体的に答えなくていいのよ!」
「聞かれたので」
「そういうところなのよぉ……」
「何がですか」
「分からないならいいわ」
食蜂が拗ねたように顔を背けると、その横で黒子が実に楽しそうな笑みを浮かべた。
「完全に手玉に取られておりますの」
「由良ちゃん本人は何もしてないでしょう!?」
「そこが一番面白いのですわ」
「白井さん!」
いつまで経っても待ち合わせ場所から動けない一行に、美琴がとうとう頭を掻いた。
「もういいから、いつまでもここで騒いでないで行くわよ」
「そうですね。佐天さん、どこへ行く予定だったんです?」
初春も話を進める方向へ切り替えたことで、佐天はようやく笑いを収め、商店街の方を指さした。
「とりあえずあっちへ行って、お店見ながら決めようかなって。ゲームセンターでもいいし、何か食べてもいいし」
「賛成です」
由良もそれに頷き、六人はようやく駅前広場から移動を始めた。
最初の数歩では佐天と初春が前を歩き、その後ろに美琴と黒子が続き、由良が少し遅れて歩き出す形になった。食蜂はその配置を一瞬で確認すると、いかにも偶然そうなっただけだという顔で由良の隣へ滑り込む。
「あらぁ、ちょうどここが空いてるじゃなぁい」
「そうですね」
由良は特に気にした様子もなく、自分の横に食蜂が入れる程度の間を自然に空けた。
「どうぞ」
その一言を聞いた食蜂は、反射的に由良の顔を見た。
「何ですか?」
「今、どうぞって言った?」
「言いましたけど」
「……隣、いいの?」
「歩くだけですよ」
由良にとってはそれ以上でもそれ以下でもないのだろうが、食蜂の頬は分かりやすく緩み、先ほどまで美琴たちへ見せていた余裕とは別種の嬉しさが顔へ滲んでいく。
「そうよね。歩くだけよねぇ」
「はい」
「じゃあ、今日を記念日に――」
「しません」
「まだ最後まで言ってないでしょう!?」
「だいたい分かりました」
「せめて聞いてから断って!」
「では、何ですか?」
由良に促され、食蜂はほんの少しだけ迷ったあと、さも重大なことを宣言するように胸元へ手を添えた。
「……由良ちゃんが私を隣に受け入れてくれた記念日」
「言い方が重いです」
「事実でしょう!?」
「歩くだけです」
「その『歩くだけ』を私がどれだけ大事にしてると思ってるのよぉ!」
「知りません」
「由良ちゃん!」
前方から振り返った美琴が、呆れた顔で二人を見る。
「アンタ、隣歩くだけで何やってんのよ!」
「別にいいでしょう!?」
「相沢さん困ってるじゃない」
「困ってませんよ」
由良が先に答えた。
その言葉に食蜂の注意がすぐさま美琴から由良へ戻る。
「由良ちゃん」
「はい」
「私が隣でも困ってない?」
「はい。普通に歩くなら」
食蜂はその条件を頭の中で確かめるように一拍置き、それから妙に素直な顔で前へ向き直った。
「じゃあ普通に歩くわ」
「素直だ」
思わず漏れた佐天の感想に、初春が苦笑する。
「そこですか?」
「でも佐天さん、確かに由良さんに言われるとすぐ聞きますね」
「確かに」
「聞こえてるわよぉ。私だって人の話くらい聞くわ」
食蜂が振り返って反論すると、美琴が待っていたように口を挟んだ。
「昨日あれだけ距離取れって言われて、ずっと交渉してた奴が?」
「御坂さん」
「何よ」
「昔の話をいつまで引っ張るつもりなのかしらぁ」
「昨日よ!」
「時間の感じ方なんて人それぞれじゃなぁい?」
「無理ありすぎでしょうが!」
「今日は普通にしてるでしょう?」
「隣歩くだけで記念日にしようとしてたでしょうが!」
「別に記念日くらい――」
「重いです」
由良が横から一言差し込むと、食蜂は言い返しかけた口を閉じ、そのまま数秒だけ考えてから頷いた。
「……分かったわ」
その従順さに佐天がまた吹き出す。
「由良ちゃん強すぎるって!」
「何がですか」
「第五位が一言で止まる!」
「そんなつもりないんですけど」
「そこが一番すごいんだよ!」
六人はそのまま駅前を離れ、商店街の方向へ歩いていった。周囲から見れば、少し人数の多い学生の集団にしか見えないだろうが、その中には学園都市第三位と第五位が同時に混じり、しかも第五位の方は、隣を歩く一人のレベル0へ時折視線を向けるたびに、何でもない顔を作り直すという妙な努力を続けている。
「食蜂さん」
「な、何?」
「前見ないと危ないですよ」
「見てるわよ」
「今ずっとこっち見てました」
「気のせいじゃなぁい?」
「三回くらい目が合いましたけど」
具体的な回数まで出されると食蜂もすぐには反論できず、僅かに口を尖らせた。
「ちょっとくらいいいでしょう」
「何がですか」
いつもの食蜂なら、ここで何か気の利いた理屈を持ち出し、相手を煙に巻くこともできたはずだった。しかし由良を前にすると、そうして取り繕うこと自体が急に面倒になったらしく、一度言葉を飲み込んだあと、小さく息を吐いた。
「……誘ってくれたの、嬉しかったのよ」
さっきまでの大騒ぎとは違う、妙に素直な声音だった。
由良は隣を歩く食蜂を見て、その言葉を特別深読みするでもなく受け止める。
「そうなんですか」
「そう」
「じゃあ、誘ってよかったです」
食蜂の足がまた僅かに鈍った。
それを見た由良が不思議そうに視線を向ける頃には、食蜂はもう完全に言葉を失っている。
「食蜂さん?」
「…………」
「また止まってますよ」
「由良ちゃん」
「はい」
「今の、もう一回言って」
「嫌です」
「何で!?」
食蜂の悲鳴が放課後の通りへ響き、佐天が堪えきれず笑い出すと、初春もつられて口元を緩め、美琴は呆れたように肩を竦めた。黒子だけは、これも予想通りだったとでも言いたげに笑いながら、常盤台では最大派閥の女王として振る舞う少女が、由良の一言だけでこうも簡単に平静を失う様子を面白そうに眺めている。
その視線の中心にいる由良本人だけは、自分の何気ない一言が食蜂にどれほど強く作用しているのか、相変わらずほとんど理解していなかった。六人はそのまま商店街へ向かい、まだ行き先すらきちんと決まっていない放課後の時間を、騒がしいまま歩き始めていた。