六人が駅前から商店街へ入ってしばらく経つ頃には、当初どこへ行くかすら決めていなかった放課後の散策も、それなりに形を持ち始めていた。
佐天が気になった雑貨店へ入れば全員で付き合い、初春がショーウィンドウの小物へ目を留めれば少し足を止め、美琴はキャラクター商品が並んでいる店の前を通るたびに露骨に視線だけを向けてから、誰にも気づかれていない顔で通り過ぎる。黒子だけは当然のように美琴の動きを逐一追いかけ、何かにつけて隣へ入り込もうとしては押し返されていた。
そして食蜂操祈はというと、少し前に由良から「普通に歩くなら隣でも困らない」と言われて以来、驚くほど素直にその条件を守り、由良のすぐ横を機嫌よく歩いていた――少なくとも、最初の十分ほどは。
「佐天さん、この店も見ます?」
「見る見る。初春、あの辺ちょっと可愛くない?」
「はい。でも佐天さん、さっきも同じこと言ってませんでした?」
「雑貨屋に入るたびに可愛いものは増えるんだよ」
「理屈になってませんよ」
前を歩く二人のやり取りを聞きながら、由良も店先へ視線を向ける。その隣には先ほどまで食蜂がいたはずだったが、何となく返事がないことに気づいて横を見ると、いつの間にかそこだけが綺麗に空いていた。
「……あれ」
由良が足を止めると、美琴も振り返った。
「どうしたの?」
「食蜂さんがいません」
「は?」
美琴が周囲を見回し、黒子も後方を確認する。佐天と初春も遅れて立ち止まったが、つい数分前まで由良の横に収まっていた金髪の少女の姿は、通行人の中にも近くの店舗にも見当たらない。
「いつからいないの?」
「分かりません。さっきまではいたと思うんですけど」
「相沢さんの隣にいたのに、気づかなかったの?」
「ずっと見てるわけじゃないので」
「まあ、それはそうだけど……」
食蜂が単独行動を取ったこと自体に問題があるわけではない。中学生とはいえ学園都市第五位であり、保護者が必要な人物でもないのだから、行きたい店へ寄ったのならそれで済む話なのだが、ここまでの食蜂の行動を考えると、美琴と黒子の表情にはほとんど同時に同じ種類の警戒が浮かんだ。
「お姉様」
「何よ」
「黒子も、非常に嫌な予感がいたしますの」
「奇遇ね。アタシもよ」
「御坂さんたち、食蜂さんへの信用なさすぎません?」
佐天が苦笑すると、美琴は真顔で答えた。
「佐天さんも今日中に分かると思うわ」
「そこまでですか」
「そこまでよ」
そこへ初春が「あ」と声を上げ、人混みの向こうを指さした。
「戻ってきましたよ」
視線を向けた全員がまず確認したのは、何食わぬ顔でこちらへ歩いてくる食蜂本人ではなく、その右手に提げられている、出ていった時には存在しなかった紙袋だった。厚手の紙には控えめな箔押しが施されており、ブランドに疎い者が見ても安価な店の包装ではないことくらいは分かる。
「食蜂」
「何よぉ?」
「その袋、何」
「あらぁ、気になる?」
「気になるというか、嫌な予感しかしないんだけど」
「御坂さんは失礼ねぇ」
食蜂はまったく気にした様子もなく、そのまま由良の前まで来ると、紙袋を両手で持ち直して差し出した。
「由良ちゃん」
「はい」
「これ、あげる」
「……何ですか?」
「開けてみて?」
「はあ」
差し出されたものを反射的に受け取った由良が中を覗くと、丁寧に包装された箱が入っていた。食蜂が嬉しそうに顔を寄せてくるので、由良は促されるまま箱を取り出し、包装を解いて蓋を開ける。
中から現れたのは、小ぶりなショルダーバッグだった。
黒を基調とした落ち着いたデザインで装飾そのものは派手ではないが、細部の金具や縫製まで妙に整っており、服飾品に詳しくない由良にも、安価な品ではなさそうだということくらいは分かった。
「バッグ?」
「そうなのよぉ」
食蜂の顔が一気に明るくなる。
「さっき偶然見つけたんだけど、見て。これ、私が普段使ってるものと同じシリーズなの」
言いながら、自分の肩に掛けていたバッグを由良のものの横へ並べる。色と細部の仕様こそ僅かに違うものの、確かによく似ていた。
「お揃い?」
「そう!」
食蜂は嬉しそうに両手を合わせた。
「まったく同じものじゃないけど、同じシリーズの限定仕様。こういうのって、欲しい時に都合よく見つかるものじゃないでしょう? それが今日、たまたま私たちが一緒にいる時に残ってたのよぉ」
「食蜂」
美琴の声が低くなる。
「アンタ、この前アタシが何言ったか全然分かってないでしょう」
「あらぁ、何の話かしら?」
「高いものを勝手に押しつけるなって話よ!」
「押しつけてないわよぉ。プレゼント」
「言い換えただけでしょうが!」
「でも御坂さん、これは事情が違うじゃなぁい」
「何が違うのよ!」
食蜂は本気で理解してもらえないことが不思議らしく、由良の手元にあるバッグを示した。
「だって、お揃いなのよ?」
「だから何よ!」
「そうそう見つかるものじゃないの! 限定仕様なんだから、次に探したって残ってる保証なんてないでしょう? 私はただ、お姉様として由良ちゃんとお揃いのバッグを持ちたいだけで――」
「お姉様じゃないです」
由良が淡々と訂正する。
「そこは今いいでしょう!?」
「よくないです」
「でもバッグは可愛いでしょう?」
強引に話を戻された由良は、改めて手元の品を見る。
少なくとも品物そのものに問題はなく、落ち着いたデザインで普段使いもできそうだった。食蜂が本当に自分と同じシリーズを偶然見つけたというだけなら、以前のように何の脈絡もなく大金を渡そうとするよりは、まだ贈り物として理解できる。
「まあ、本当にたまたま見つけたお揃いなら……」
「でしょう!?」
食蜂が身を乗り出した。
「由良ちゃん、受け取ってくれる?」
「そういう理由なら――」
「少々お待ちくださいまし」
由良が頷きかけたところで、黒子の声が割り込んだ。
黒子は食蜂の肩に掛かっているバッグと、由良が手にしている新しいバッグを交互に見たあと、何かを思い出したように目を細める。
「食蜂さん」
「何かしらぁ?」
「そのバッグ、確か海外の有名メゾンが出した限定ラインではございませんの?」
「そうよ」
隠すどころか嬉しそうに即答した食蜂に、美琴は嫌な予感が的中したことを悟ったように顔を引きつらせた。
「……いくら」
「何が?」
「それ、いくらしたの」
「細かい金額なんて覚えてないわぁ」
「買ったばっかでしょうが!」
「でもぉ、限定品だから通常ラインより少し高いくらいで――」
「少しってどのくらいよ」
黒子が静かに補足する。
「お姉様。黒子の記憶違いでなければ、そのシリーズは通常品でも中学生が気軽に贈答できる価格帯ではございませんの。限定仕様となれば、少なくとも数十万円はするかと」
「数十万!?」
佐天の声が裏返り、初春も由良の持つバッグを見て固まった。由良自身も、受け取りかけていた手をそのまま止める。
「食蜂さん」
「何?」
「これ、そんなにするんですか」
「値段なんてどうでもいいじゃなぁい」
「よくないです」
「でもねぇ、由良ちゃん」
食蜂はまったく悪びれず、むしろ嬉々としてバッグを指した。
「今日みたいな新しい記念日に、たまたま私とお揃いの限定品が残ってるなんて、そうそうあることじゃないでしょう? こんな偶然力が重なるなんて、きっと運命よぉ」
「何の記念日よ!」
美琴が即座に突っ込む。
「それは後で説明するわぁ」
「嫌な予感しかしない!」
由良はバッグを箱へ戻し、蓋を閉めた。
「食蜂さん」
「なぁに?」
「これは受け取れません」
「な、なんで!?」
「高すぎます」
「でも由良ちゃんに似合うのに!」
「値段の問題です」
「じゃあ値札を見なければ――」
「そういう問題じゃないです」
「由良ちゃぁん!」
「食蜂」
美琴が紙袋を取り上げる。
「返品してきなさい」
「御坂さん!」
「今すぐ!」
「でも限定品!」
「返品!」
「お揃い!」
「返品!」
「運命!」
「返品!」
「少しくらい話を聞いて!」
「聞いた結果よ!」
最終的に由良本人まで「これは無理です」と首を振ったため、食蜂も抵抗を続けることができず、世界的ブランドの紙袋を抱えて、先ほど立ち寄った店へ渋々戻っていく羽目になった。
それから十分ほど後、紙袋を失って戻ってきた食蜂は、見るからに不満そうな顔で再び由良の隣を歩いていた。
「まったく……」
美琴は歩きながらため息を吐く。
「アンタ、この前あれだけ言われたのに何にも分かってないじゃない。相沢さんが高いものはいらないって言ってるんだから、普通の付き合いしなさいよ、普通の」
「分かってるわよぉ」
「分かってないから返品する羽目になったんでしょうが」
「でも限定品だったのよ?」
「まだ言うか!」
「御坂さんには分からないのよぉ。お揃いが持つ特別力というものが――」
「食蜂?」
反論の途中で声が途切れたため、美琴が横を見ると、ほんの数秒前まで隣で言い訳をしていたはずの食蜂がまたしても姿を消していた。美琴のこめかみに青筋が浮かぶ。
「アイツ……!」
「御坂さん」
初春が少し離れた場所を指さした。
「あそこじゃないですか?」
全員が視線を向けた先には、通りの一角に構えられたガラス張りの高級ジュエリーショップがあり、その照明に照らされたショーケースの前で、金髪の少女が店員と何かを話している。指先が示しているのは、細いチェーンに小さな宝石をあしらったネックレスだった。
「食蜂ぉぉぉぉぉ!」
美琴が走った。
「ちょ、御坂さん!?」
佐天たちも追う。
店へ飛び込んだ美琴は、店員へカードを差し出そうとしている食蜂の腕を横から掴んだ。
「何してんのよアンタは!」
「離して御坂さん!」
「離すか!」
「これは絶対に由良ちゃんに似合うの!」
「バッグ返品した直後に何でジュエリー買ってんのよ!」
「見てよこの色! 由良ちゃんの雰囲気に絶対合うでしょう!? こんなの、由良ちゃんのために今日ここにあるんだから!」
「あるわけないでしょうが!」
「あるの!」
「ない!」
「離して!」
「絶対離さない!」
店内へ追いついた佐天と初春は、その光景を見て揃って言葉を失い、黒子もさすがに呆れたように目を細めた。
由良だけが数秒ほど食蜂を見つめたあと、ゆっくり佐天の方へ顔を向ける。
「……あの人、いつもこうなの?」
佐天が小声で尋ねる。
「今日は特にひどいです」
由良も同じくらいの声量で答えた。
「いつもはもう少し良識があります」
「今日でこれなら、普段も結構すごくない?」
「それは否定できません」
結局、美琴が文字通り食蜂を引き剥がし、店員へ何度も頭を下げながら店を出ることになった。
このまま何事もなかったように歩かせれば、三度目があるかもしれない。
そう判断した一同は、商店街に隣接する複合施設の屋外休憩広場へ移動した。ベンチとテーブルのほか、子ども連れでも休めるよう広めの人工芝が敷かれており、買い物客が軽食を取ったり、荷物を整理したりするためのスペースとして使われている。
その人工芝の上で、食蜂操祈は正座させられていた。正面には由良、左右には美琴と黒子、少し離れたベンチには佐天と初春が座っており、学園都市第五位に対する事情聴取としては、かなり異様な光景である。
「食蜂さん」
由良が口を開く。
「はい」
食蜂は妙に素直だった。
「どうして今日はこんなに高いものを買おうとするんですか」
「それはもちろん、今日が特別な日だからよぉ」
「何が特別なんですか」
「由良ちゃん」
食蜂は正座したまま、胸元へ片手を当てた。
「今日あなたは、私が隣を歩くことを受け入れてくれたでしょう?」
「普通に歩くなら、とは言いました」
「つまり」
「はい」
「これから先も、私と一緒に人生を歩んでくれるってことでしょう?」
「違います」
「即答!?」
佐天が吹き出しそうになり、初春が肘で小さく突く。
「だってぇ、隣にいても困らないって言ってくれたじゃない!」
「今日、商店街を一緒に歩く話です」
「でも『隣』と『歩く』が同時に成立したのよ!?」
「成立すると何なんですか」
「一生をともに歩む象徴じゃなぁい!」
「違います」
「由良ちゃぁん!」
食蜂の肩が落ちるのを見て、美琴は頭痛を堪えるように額を押さえた。
「アンタ、さっき言ってたことをどこまで拡大解釈してんのよ……」
「拡大解釈じゃないわ。発展的解釈よぉ」
「同じよ!」
それでも食蜂は諦めず、正座したまま由良へ向き直る。
「つまり今日は、私たちが真の姉妹として同じ道を歩み始めた記念すべき日で――」
「姉妹じゃないです」
「そこから否定するの!?」
「ずっと否定してます」
「でも妹候補くらいには――」
「なってません」
「な、なんでぇ!」
佐天と初春は揃って微妙な顔になり、黒子も腕を組んだまま、珍しく食蜂へ引き気味の視線を向けている。
「食蜂さん」
「何よぉ」
「黒子もお姉様への愛情については人後に落ちぬ自負がございますが、その解釈はいささか飛躍しすぎでは?」
「白井さんにまで言われた!」
「黒子を何だと思っておりますの」
「比較対象」
「失礼ですの!」
「そこ二人で張り合わない!」
美琴がまとめて止める。
由良は正座している食蜂をしばらく見たあと、何かをしてくれようとしている意図そのものまで否定する必要はないと考えたらしく、少し声音を和らげた。
「食蜂さん」
「なぁに?」
「何かしてくれようとしていること自体は分かりました」
食蜂の顔が上がる。
「由良ちゃん……!」
「でも高いものはいりません。バッグもネックレスもいりません」
「うぅ……」
「何か奢りたいなら、クレープくらいで十分ですよ」
落ち込みかけていた食蜂の目が、一瞬で輝いた。
「クレープ?」
「はい」
「私が買っていいの?」
「一個くらいなら」
「買ってくる!」
食蜂は正座からほとんど跳ねるように立ち上がると、数十メートル先に停まっているクレープのキッチンカーへ嬉々として向かっていった。
その背中を見送った佐天はしばらく黙っていたが、食蜂がこちらを一度も振り返らず、むしろ妙に楽しそうな足取りで注文口へ向かっていくのを確認すると、思わず呟いた。
「……学園都市第五位が、ものすごく嬉しそうにパシリになってる……」
「本人があれだけ喜んでいるなら、パシリって言うのも少し違う気がしますけど」
初春は苦笑した。
「でも『クレープ買ってきて』で、あんなに目を輝かせて走っていく第五位って、たぶん想像したことないよ」
「私もありません」
美琴は遠ざかっていく食蜂の背中を眺め、大きなため息を吐いた。
「……最初からあのくらいで済ませればいいのよ」
「食蜂さんにとっては、クレープ一個でも由良さんに奢れることが嬉しいんでしょうね」
初春がそう言うと、由良は今ひとつ実感がないらしく首を傾げた。
ほどなくして食蜂が戻ってきた時、その両手には四つのクレープがあり、まず由良へ真っ先に一本を差し出した。
「由良ちゃん、チョコバナナで合ってる?」
「はい。ありがとうございます」
「どういたしましてぇ!」
満面の笑みで由良へ渡したあと、食蜂は佐天と初春にもそれぞれクレープを差し出した。
「はい、あなたたちも」
「え、私たちも?」
佐天が驚く。
「何でですか?」
初春も受け取る前に尋ねた。
「由良ちゃんのお友達でしょう?」
食蜂は当然のように答えた。
「由良ちゃんが普段お世話になってるなら、これくらいはねぇ」
「お世話っていうか、普通に友達ですけど……」
佐天はそう言いながらも、結局ありがたく受け取る。
「ありがとうございます」
「ありがとうございます、食蜂さん」
「いいのよぉ」
そこで黒子が食蜂の両手を確認し、何かがおかしいことに気づいた。
「食蜂さん」
「何?」
「黒子の見間違いでなければ、いま四つお持ちでしたわね」
「そうだけど?」
「由良さん、佐天さん、初春、それからご自分の分」
「そうねぇ」
「黒子とお姉様の分は?」
「ないわよ」
「なぜですの!?」
食蜂は、むしろ質問の意味が分からないとでも言いたげに首を傾げる。
「だって、あなたたちは由良ちゃんのお友達枠じゃないでしょう?」
「お姉様は由良さんのお友達ですの!」
「御坂さんはまあ知り合いでしょうけどぉ、白井さんは?」
「黒子も友人ですの!」
「いつから?」
「食蜂!」
美琴が割り込んだ。
「アタシはいらないからいいけど、わざわざ黒子だけ煽るな!」
「だって本当のことじゃなぁい」
「何ですって!?」
黒子と食蜂が睨み合う横で、佐天は自分のクレープを一口食べ、思わず頬を緩めた。
「……おいしい」
「ですね」
初春も頷き、由良も普通に食べている。
そこで佐天の視線が、少し離れたキッチンカーのメニュー看板へ向かった。通常のクレープの下には、季節のフルーツを何種類も使い、アイスや焼き菓子まで盛りつけた数量限定の豪華なメニューが載っている。普段の佐天なら値段を見て一度は躊躇する金額だったが、先ほど数十万円のバッグを躊躇なく買おうとしていた食蜂の姿が頭をよぎると、クレープ一個くらいなら誤差なのではないかという、少々よろしくない考えが浮かんできた。
「由良ちゃん」
「何ですか」
佐天はできるだけ何気ない顔を作った。
「これ、美味しいね」
「そうですね」
「もう一個くらい食べたくない?」
「二個目ですか?」
「ほら、せっかくだし。今度はあっちのちょっとお高いやつ」
佐天がメニューを指し、由良もそちらを見る。
「……まあ、もう一個くらいなら食べられますけど」
「だよね!」
狙い通りの返答に佐天の目が光った、その直後だった。
「由良ちゃん!」
食蜂が即座に反応する。
「もう一個食べるの!?」
「佐天さんが食べようって」
「いいわよ! 何がいい!?」
「えっと、あの限定の――」
「分かったわ!」
最後まで聞く前に、食蜂は再びキッチンカーへ向かっていた。その迷いのなさを見送りながら、佐天が小さく「……ちょろい」と呟いた瞬間、初春の半眼が横から突き刺さる。
「佐天さん」
「何?」
「今、完全に食蜂さんを利用しましたよね」
「利用ってほどじゃないよ。クレープ一個だよ?」
「さっき数十万円のバッグを買おうとしてた人ですよ?」
「だからクレープくらいなら誤差かなって」
「そういう問題じゃありません」
「でも由良ちゃんも食べたいって」
「私はもう一個くらいならって言っただけです」
「由良さんまで乗らないでください」
「乗ったつもりはないんですけど」
初春が頭を抱えかけた、その時だった。
キッチンカーの方から、食蜂の楽しそうな声が聞こえてきた。
「じゃあ今日一日、このキッチンカーを借りるわぁ」
今度は全員が揃って動きを止め、店員の困惑した「……はい?」という声まで、妙に鮮明に聞こえてきた。
食蜂は財布を取り出しながら、まるでクレープを一枚追加注文するのと大差ない話であるかのように交渉を続けている。
「営業を止めてって話じゃないわよぉ? 今日一日だけ、このまま私たち用に貸してくれればいいの。材料費も普段の売上分もこっちで持つからぁ」
「え、いや、でも……」
「店員さんもそのままでいいわぁ。今日のお給料、二倍でどうかしら?」
「ちょっと待ってください!?」
店員の声が裏返った。
佐天の口が開いたまま閉じなくなり、初春も完全に固まる。黒子ですら一瞬言葉を失い、由良は手元のクレープと、キッチンカー一台を丸ごと確保しようとしている食蜂を交互に見比べた。
「……佐天さん」
「な、何?」
「クレープ一個って言いましたよね」
「言った」
「キッチンカーになりましたね」
「……うん」
「どうしてこうなるんでしょう」
「私に聞かないで」
初春がゆっくり佐天へ顔を向ける。
「佐天さん」
「はい」
「悪知恵を働かせる相手を間違えましたね」
「……反省してます」
その直後、美琴の堪忍袋がとうとう限界を迎えた。
「食蜂ぉぉぉぉぉ!」
怒声が休憩広場全体へ響き渡り、ようやく食蜂が振り返る。
「何よ御坂さん、今ちょうど交渉中――」
「クレープ一個奢れって言われて何でキッチンカーごと借りようとしてんのよ!」
「店ごとじゃないわよぉ。キッチンカーを一日借りるだけ」
「同じようなもんでしょうが!」
「だって由良ちゃんがもう一個食べたいって言ったのよ!?」
「一個買えばいいでしょう!」
「でも、その後また食べたくなるかもしれないじゃない!」
「ならその時もう一個買え!」
「効率が悪いわ!」
「効率の問題じゃなあぁぁぁい!」
美琴が食蜂の肩を掴む。
「離して御坂さん!」
「今日二回目ね、この台詞!」
「由良ちゃんが好きなだけ食べられるようにしたいだけでしょう!?」
「限度ってものを覚えなさい!」
「クレープに限度なんてないわ!」
「金の使い方の話よ!」
佐天たちは言葉を失ったまま、その光景を眺めていた。
最初は、第五位ともなれば金銭感覚も違うのだろうかと思った。しかし、おそらく違う。これは単に金銭感覚の問題ではなく、由良が絡んだ瞬間、食蜂操祈の中にある「どこまでなら普通なのか」という判断基準そのものが、綺麗さっぱりどこかへ消えてしまうのだ。
「……由良ちゃん」
佐天が小声で呼ぶ。
「何ですか」
「やっぱり、今日は特にひどいんだろうね?」
「はい」
由良はしばらく、美琴に引き剥がされながらなおキッチンカーへ手を伸ばしている食蜂を眺めた。
「いつもは、もう少し良識があります」
「それ、今日二回目聞いたけど」
「私も言いながら自信がなくなってきました」
初春が苦笑しながら二人を見る。
「とりあえず、佐天さん」
「はい」
「次から食蜂さんを煽る時は、結果まで考えてください」
「もうしません」
「本当ですか?」
「たぶん」
「佐天さん」
「善処します」
その横で黒子が静かに息を吐き、美琴と食蜂の方へ視線を戻した。
「しかし、由良さん」
「はい」
「あなた、本当に大変な方に目をつけられましたのね」
「最近ちょっとそう思います」
「ちょっとなのですか……」
黒子が珍しく引き気味になった視線の先では、学園都市第三位が第五位の襟首を掴み、第五位の方はそれでも「せめて限定クレープだけでも全種類買わせて!」と往生際悪く交渉を続けていた。
結局その日、キッチンカーが貸し切られることはなかった。
ただし食蜂は、由良と佐天、それから初春へ数量限定の豪華クレープを一つずつ追加で購入することには成功し、それだけでも十分な成果を挙げたとでも言いたげな満足顔で戻ってきた。
美琴はその三つを見た瞬間、嫌な予感を確信へ変えたように目を細める。
「……アンタ、いつの間に買ったのよ」
食蜂はにっこり笑った。
「細かいことはいいじゃなぁい」
「よくない!」
その日何度目になるか分からない美琴の怒鳴り声が、再び商店街へ響き渡った。