常盤台中学の敷地内には、在校生ですら存在を意識しないまま三年間を終えるような場所がいくつかある。
長い歴史の中で校舎の改築や増築を繰り返してきた結果、現在の授業ではほとんど使われなくなった準備室や、倉庫としての役目すら別棟へ移された小部屋が残っており、そのうちの一つが、旧校舎寄りの渡り廊下からさらに奥へ入り込んだ場所にある資料準備室だった。
名目上は地理関係の古い教材や、現在では電子化された資料の原本を保管するための部屋らしいが、実際には棚の中身を確認する教員すら滅多に来ない。少なくとも白井黒子は、ここ一か月ほどの間に何度か足を運んでいるものの、自分以外の人間と遭遇したことは一度もなかった。
「お姉様ぁ……」
昼休み。
誰も来ないはずの資料準備室で、白井黒子は一人、窓際から離れた古い机の前へ座り、そこに十枚を軽く超える御坂美琴の写真を几帳面に並べていた。
頬杖をついて少し眠そうにしている美琴、飲み物を口に運んでいる美琴、中庭で誰かに話しかけられて振り返った美琴、少し不機嫌そうに眉を寄せている美琴――どれも黒子にとっては甲乙つけがたい逸品らしく、中央に置いた一枚を両手で持ち上げると、慈しむような眼差しでじっくりと眺め始める。
「今日もお美しいですの、お姉様……。こちらの少し眠たげなお顔など、普段の凛々しいお姿とはまた違った趣があって……むふっ」
口元へ手を添えた黒子の肩が小さく震え、そのうち堪えきれなくなった笑いが「むふふ……ふふふふ……」と漏れ始めた。
「この憂いを帯びた横顔も、なんと神々しい……。ああ、お姉様。同じ学舎におりますのに、どうして黒子は授業中までお傍にいることを許されないのでしょう……」
完全に悦に入っている。
もちろん、寮の自室で美琴を見ることができないわけではない。むしろ黒子は本人と同室なのだから、日常的に美琴を眺められるという意味では、これ以上に恵まれた環境もそうそうないだろう。
しかし本人がいるからこそ、こうして十数枚もの写真を机いっぱいに並べ、「この角度が」「この表情が」と一枚ずつ堪能するわけにはいかない。そんなことをすれば、美琴はまず間違いなく写真を没収し、その後で黒子本人にも相応の制裁を加えるはずである。
学校にいたところで、美琴と学年も授業も違う以上、一日のすべてを共にできるわけではない。同じ校内にお姉様がいるにもかかわらず、その姿を拝見できない時間が存在する――黒子にとっては、その理不尽こそが重大な問題だった。
「ですが、その苦しみを和らげるためにこの場所がありますの。誰も来ず、誰にも邪魔されず、思う存分お姉様を堪能できる……まさに黒子だけの聖域」
満足げに頷いた黒子は、手にしていた一枚を丁寧に戻して別の写真を取る。
「こちらは先週、中庭でお飲み物を買われた時のお姉様……。この少し眉を寄せたお顔も、また……むふふ」
本人の中では、あくまで純粋で崇高な愛情の発露ということになっているらしい。
そんな黒子の至福の時間を破ったのは、廊下の向こうから近づいてきた足音だった。
「――――」
肩を震わせていた黒子の動きが止まり、次の瞬間には写真から顔を上げて扉を見た。
足音は遠ざかるどころか、明らかにこちらへ近づいている。
「なっ……」
ありえない、と黒子は思った。
この部屋は普段誰も使わず、教員が古い資料を確認するにしても、昼休みに突然一人でやって来る理由など考えにくい。だが現実として足音は扉の前まで迫っており、机の上には片づけるには多すぎる美琴の写真が広がったままだった。
「しまっ――」
取っ手が動く。
黒子は写真を回収することを諦めると、反射的に部屋の奥へ身を滑らせ、古い教材箱が積まれた大型収納棚の陰へ飛び込んだ。その直後、扉が静かに開き、誰かが室内へ入ってくる。
息を殺して収納棚の隙間から覗いた黒子は、侵入者の正体を認めた途端、警戒とは別の意味でゆっくり目を細めた。
食蜂操祈だった。
金髪の少女は部屋へ入るなり足を止め、左右へ視線を送り、さらに一度廊下を振り返ってから扉を閉めた。その動作は妙に慎重で、誰にも見られていないことを確認しているのが明白だった。
「……?」
黒子は眉を寄せる。
食蜂は室内をもう一度見回したものの、収納棚の陰までは確認せず、黒子が美琴の写真を広げた机とも反対側にある古い机へ向かった。
どうやら食蜂も、この部屋を「誰も来ない場所」と認識しているらしい。
本来なら、この隙にテレポートで出てしまえばいい。
しかし、常盤台最大派閥の女王である食蜂操祈が、どうして周囲をあれほど警戒しながら、こんな使われていない資料準備室へ一人で入ってきたのか。その不自然さが気になり、黒子は身を潜めたまま様子を見ることにした。
食蜂は椅子を引いて座ると、膝の上に置いたバッグを開き、中から一枚の写真を取り出した。
続いて二枚目、三枚目。
さらに次々と机の上へ並べていき、十枚を超え、十五枚目が置かれたあたりで、黒子はそれが自分の机に並べた写真より明らかに多いことへ気づいた。
「…………」
何とも言えない顔になる。
そして写真の人物が見えた瞬間、黒子の表情はさらに険しくなった。
相沢由良だった。
飲み物を片手に歩いている由良、書店の前で足を止めている由良、佐天と話しながら笑っている由良、ベンチに座って本を読んでいる由良。中には完全に横を向き、撮影されていることなど微塵も意識していない写真まで混じっている。
黒子はしばらく無言で写真の群れを見つめた。
少なくとも、自分が思っていたよりずっと本格的だった。
「こっちはこの前の放課後ねぇ」
食蜂は一枚を手に取り、頬を緩ませる。
「由良ちゃん、こういう時ほんとに無防備なのよねぇ……。あ、この顔かわいい」
すぐに次の一枚へ移る。
「これもいいわぁ。このちょっと眠そうな目……普段あんなに淡々としてるくせに、たまにこういう顔するのずるいわよねぇ」
隠れている黒子の目が少しずつ大きくなっていくが、食蜂はまるで気づかず、今度は由良がストローを咥えて飲み物を飲んでいる写真を持ち上げた。
「これ……由良ちゃん、ほっぺちょっと膨らんでる……」
食蜂の肩が僅かに震える。
「かわいい……」
しばらく写真を見つめた後。
「……グヘヘ」
「…………」
収納棚の陰で、黒子の目が完全に据わった。
「グヘへへ……この顔で『何ですか』とか言われたら……無理……」
ついには写真を胸元へ抱き、幸せそうに目を細めている。
その姿を見た黒子の脳裏に浮かんだ感想は、極めて単純だった。
――この女、本物ですの…!
ほんの数分前まで自分も美琴の写真を十数枚並べ、「むふふ」と笑っていた事実については、都合よく思考の外へ追いやられていた。
自分とは違う。
黒子のお姉様への想いは、もっと純粋で崇高で神聖なものなのだから、由良の盗撮らしき写真まで持ち込み、それを眺めながら「グヘヘ」と笑う食蜂操祈と同列に扱われる理由など一つもない――少なくとも黒子自身は、本気でそう信じていた。
「由良ちゃん……この横顔もいいわぁ。こっちは何か考えてる時ねぇ……あ、これは佐天さんに何か言われて困ってる時」
食蜂の笑みがさらに深くなる。
「困ってる由良ちゃんもかわいい……」
「…………」
黒子は心の底から少し引いた。
そして、その姿をもう少し見やすい位置から確認しようと体勢を変えた瞬間、膝が収納棚の下に置かれていた古い金属ケースへ触れた。
カン。
小さな音が室内へ響いた。
食蜂の反応は一瞬だった。
つい先ほどまで緩みきっていた口元が消え、写真を持っていた手が止まると、ゆっくりと顔だけを音のした方向へ向けた。
「……誰?」
声音まで変わった。
黒子の背筋に冷たいものが走る。
食蜂は立ち上がると、机の写真には手を触れないまま右手をバッグへ入れ、見慣れたリモコンを取り出した。
「誰かいるのぉ?」
今度の声は柔らかい。
しかし、その柔らかさがかえって怖い。
「出てきた方がいいわよぉ。今なら、少しくらい優しくしてあげられるかもしれないからぁ」
黒子は収納棚の陰で息を殺しながら、出るものですか、と即座に判断した。
ここで姿を見せれば、自分が何を目撃したのかを食蜂に知られる。ならばテレポートで部屋そのものから離脱する方が――そう計算へ意識を向けかけた、その時。
「……そこね」
「っ!」
食蜂が正確に振り向き、収納棚の隙間越しに視線がぶつかった。
「白井さん?」
「…………ごきげんよう」
もはや隠れていても意味がないと悟り、黒子は何事もなかったかのような顔を作りながら、ゆっくりと棚の陰から姿を見せた。
食蜂の顔から、今度こそ完全に笑みが消える。
「いつからいたの?」
「さて、何のことでしょう?」
「いつから?」
「ですから、何のお話なのか黒子にはさっぱり――」
「白井さん」
食蜂がリモコンを僅かに持ち上げた。
「私は今、あんまり冗談を楽しめる気分じゃないのよねぇ」
「奇遇ですの。黒子も、リモコンを向けられながら談笑する趣味はございませんわ」
「へえ」
リモコンの先端が、はっきり黒子へ向けられる。
逃げられるか、と黒子は考えた。
自分を座標移動させるだけなら可能ではある。しかし空間移動には演算が必要であり、その間に食蜂の指が先に動けば、《心理掌握》によって認識や記憶そのものへ触れられる可能性がある。
「見た?」
「何をですの?」
「写真」
「存じませんの」
「由良ちゃんの写真」
「何のお話でしょう?」
「机いっぱいに並べた写真」
「見ておりませんわ」
食蜂のこめかみが僅かに動いた。
「じゃあ、私が写真見ながらどんな笑い方してたかも知らない?」
「もちろんですの。『グヘヘ』などという笑い声は一度たりとも――」
「見てるじゃない!」
食蜂の顔が一気に真っ赤になった。
「白井さん!」
「誘導尋問ですの!」
「完全に覚えてるじゃない!」
「聞こえてしまったものは不可抗力ですわ!」
「やっぱり忘れてもらうわぁ!」
「横暴ですの!」
食蜂の親指がリモコンへ掛かり、黒子は反射的に身構えた。
「待ちなさい、食蜂!」
「待たない!」
「そのような私的事情で人様の記憶を操作するなど、能力の濫用にも程がありますの!」
「私の秘密を勝手に覗いた人に言われたくない!」
「黒子は望んで覗いたわけでは――」
「写真の感想まで全部聞いてたでしょう!」
「それはそちらが勝手にグヘヘと――」
「言わないで!」
食蜂がさらに顔を赤くし、羞恥と苛立ちのままリモコンを握り直したため、黒子もさすがに本気でまずいと判断した。
「人に見られたくないものを見られたという点では、黒子も同じですの!」
「…………」
食蜂の指が止まった。
黒子自身も、口にしてから自分が余計なことを言ったと気づいたらしく、表情を固める。
「……何?」
食蜂の目が細くなる。
「今、何て言ったのぉ?」
「何でもありませんの」
「白井さん」
「何でもありません!」
黒子の声が分かりやすく上ずった。
食蜂は訝しげに黒子を見つめたあと、ふと何かに気づいたように視線を横へ動かした。
部屋の反対側。
黒子が隠れる直前まで座っていた机。
そこには片づける暇のなかった御坂美琴の写真が、十数枚ほとんどそのままの状態で並んでいた。
頬杖をつく美琴、飲み物を持つ美琴、眠そうな美琴、横を向いた美琴。その中には、本人が撮影されていることに気づいていないとしか思えない写真も混じっている。
「…………」
食蜂は黙った。
黒子も黙った。
食蜂の視線が、美琴の写真から黒子へ移り、もう一度写真へ戻る。
数秒後。
先ほどまで《心理掌握》を使おうとしていた少女の口元が、ゆっくりと、実に嬉しそうに持ち上がった。
「……白井さん」
「何ですの」
「あなたも、こっち側なのねぇ」
「誰がですの!?」
黒子の声が盛大に裏返った。
食蜂は右手にリモコンを持ったまま、改めて机いっぱいに広がる美琴の写真を眺め、その中に本人が撮影を意識していないものまで含まれていることを確認すると、ますます楽しそうな顔になった。
「この写真の量……白井さん、思ってたよりずっと愛情力が高いのねぇ」
「あなたのそれと黒子のお姉様への愛を一緒にしないでくださいまし!」
「あらぁ? 写真を集めて、誰も来ない部屋で一人きりになって、会えない時間を慰めてるところまで一緒なのに?」
「表面的な行動が似ているだけですの!」
「そうかしらぁ?」
食蜂は右手にリモコンを持ったまま、左手を黒子へ差し出した。
満面の笑顔だった。
敵を捕らえた顔ではない。
仲間を見つけた顔だった。
その笑顔を見た黒子のこめかみが引きつる。
――この変態、黒子を仲間だと判断してやがりますの…!
許しがたい。
白井黒子の御坂美琴へ捧げる愛情と、相沢由良の写真を並べて「グヘヘ」と笑っていた女の変態性など、本質からしてまったく別物である。
たとえ傍から見れば、数分前まで自分も美琴の写真を机いっぱいに並べ、「むふふ」と笑っていたとしても。
それはそれ。
これはこれ。
少なくとも黒子の中では、断固として別物だった。
「……その手は何ですの」
「友情」
「いりませんの」
「同志の握手」
「もっといりませんの!」
「同じ悩みを抱える者同士じゃなぁい」
「一緒にしないでくださいまし!」
「でも御坂さんの写真、すごい数ねぇ」
「っ!」
「しかも何枚か、どう見ても撮られてることに気づいてない顔してるけどぉ?」
「…………」
「白井さん?」
食蜂は差し出した手を引っ込めることなく、楽しそうに首を傾げた。
「私と何が違うのかしらぁ?」
「すべてですの!」
「具体的には?」
「それは……」
黒子は詰まった。
言葉にできないだけで違う。
絶対に違う。
だが、その違いを第三者にも納得できる形で説明しろと言われると、机の上にある証拠の数々が猛烈な勢いでこちらの主張を妨害してくる。
しかも食蜂は満面の笑顔で左手を差し出したまま、右手のリモコンだけは下ろしていなかった。
そこが何より重要だった。
「さあ、握手」
「嫌ですの」
「あらぁ、いいの?」
食蜂がリモコンをほんの少しだけ持ち上げる。
黒子の顔が引きつった。
「……脅迫ですの?」
「選択肢を提示してるだけよぉ」
「片方が記憶消去でしょうが!」
「あらぁ、まだ何をするか決めてないわよ?」
「今の状況で信じろという方が無理ですの!」
「じゃあ握手」
「どうしてそうなりますの!?」
黒子は歯を食いしばりながら、差し出された手と、食蜂のリモコンと、その向こうに並んでいる由良の写真を順番に見た。
ここで拒否すれば、食蜂が自分の秘密を守るために何らかの精神干渉を試みる可能性は高い。少なくとも黒子には、《心理掌握》がどこまで細かく記憶へ干渉できるのかを確かめるために自分の脳を差し出す趣味などなかった。
「……お姉様」
机に並んだ美琴の写真を見る。
愛しいお姉様。
この握手をすれば、自分はあの食蜂操祈と同類であることを認めるようなものではないか。
否。
違う。
黒子のお姉様への愛はもっと純粋で、もっと崇高で、もっと高次元の何かであって、由良の盗撮写真を広げて「グヘヘ」と笑うような変態性とは断じて異なる。
ただし、その主張を裏付けるはずの机の上には、美琴本人が撮影を意識していない写真が何枚も並んでいる。
「お姉様……黒子は、黒子は……!」
食蜂は急かさない。
ただ最高にいい笑顔で待っている。
それが腹立たしい。
そして何より、その右手にはまだリモコンがある。
「……お許しくださいまし……!」
黒子はついに覚悟を決め、屈辱に震える左手をゆっくり伸ばすと、差し出されていた食蜂の左手を握った。
「…………」
「…………」
その瞬間、食蜂の笑顔が一段と輝いた。
「同志ねぇ」
「違いますの!」
黒子の絶叫が、誰も来ないはずの資料準備室へ響き渡る。
食蜂はそれでも嬉しそうに黒子の手を握り返した。
「じゃあ白井さん、今度からここ使う時は時間決めましょうかぁ」
「共同利用するつもりですの!?」
「だって用途が同じじゃなぁい」
「違いますの!」
「写真を並べる」
「違います!」
「好きな子を見る」
「言い方!」
「会えない時間を慰める」
「…………」
「ほら同じ」
「違いますのぉぉぉぉ!」
常盤台中学の片隅にある、誰も使っていないはずの小さな資料準備室で、こうして決して互いを同類とは認めたくない二人の少女の間に、本人たちの意思とは少し違う形で、ひどく奇妙な秘密協定が成立した。