翌日。
私立水明館高校の放課後は、昨日と寸分違わぬ橙色の夕陽に包まれていた。
「――というわけです。納得していただけましたか、橘くん?」
旧校舎3階、かつて物置だった部屋を半ば強引に改造した『トワイライト・クラブ』の部室。
パイプ椅子に深く腰掛けた俺の前に立ち、冷ややかな眼光を放っているのは、生徒会長の霧島冴香(きりしま さやか)だった。
黒髪のロングヘアに、乱れのない制服の着こなし。知性を感じさせる銀縁眼鏡の奥で、彼女の切れ長な瞳が威圧的に細められている。
「納得というか……脅迫に近くないですか、会長」
「心外ですね。これは等価交換です。あなたたちが『屋上を勝手に撮影拠点として占拠する非公式サークル』から『正規の部活動』へ昇格するための実績作り。それに、この件はすでに近隣住民からの苦情も入っているのです」
冴香は手元のクリップボードをトントンと指先で叩いた。
「問題の場所は、体育館裏にある『旧プール』です。数年前に新プールが完成して以来、立ち入り禁止区域となっている場所ですね」
「あそこなら、水も抜かれずに放置されてるって聞きましたけど」
「ええ。安全管理上の問題で近々埋め立て工事が入る予定なのですが……ここ最近、夜間になると不審な水音が聞こえるという通報が複数寄せられています。さらに気になるのは……」
冴香は一瞬、言葉を区切った。眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げながら、いささか非科学的な単語を口にするのをためらうように吐き出す。
「……目撃した警備員によると、夜間の旧プールは『水面が固まっている』ように見えるとのことです」
「水面が固まる?」
「ええ。風が吹いても波ひとつ立たず、光を反射して一枚のガラス板のようになっていると。気温が二十度を超えるこの時期に、氷が張るはずもありません。物理的に不可能な現象です」
俺は手の中にある愛用の眼一眼レフカメラに視線を落とした。
昨日、屋上で感じた17時45分の『一瞬の世界の停止』。そして、旧プールの『固まる水面』。 単なる都市伝説や見間違えで片付けるには、あまりにもタイミングが合いすぎている。
「わかりました。今夜、俺が現地に行って確かめてきます」
「頼みましたよ、橘くん。……なお、不法侵入で警察沙汰にだけはしないでくださいね」
冴香はそれだけ言い残すと、カツカツとヒールのような足音を鳴らして部室を去っていった。
一人残された部室で、俺は窓の外を眺めた。
校庭の渡り廊下を、水泳部の部員たちが歩いている。その中心で、一際弾けた笑顔を見せているのが幼馴染の浅倉葵(あさくら あおい)だ。
水泳部のホープとして期待されている彼女は、誰からも愛される太陽のような存在だった。
だが、俺の脳裏には昨日の夕刻、葵が見せたあの暗い表情が焼き付いていた。
「……よし、行くか」
俺はカメラのストラップを首にかけ、部室の鍵をかけた。
渡り廊下で追いつくと、葵は友達と笑い合いながら校門へ向かうところだった。 湿ったショートカットの髪から、ほのかに塩素の匂いが漂っている。
「あ、蓮! 生徒会室からのお説教、終わったの?」
葵が手を振りながら駆け寄ってくる。
「お説教じゃない。最初の依頼だ。例の旧プールの件、今夜調査することになった」
「え……」
葵の動きが、ピタリと止まった。 さっきまでの眩しい笑顔が、まるで仮面が剥がれ落ちるように消え去る。
「今夜……行くの……?」
「ああ。夜間に奇妙な現象が起きるらしいからな。……葵? 顔色が悪いぞ」
「あ、はは……なんでもないよ! ちょっと部活で泳ぎすぎて疲れちゃっただけ!」
葵は慌てたように両手を振ると、強引に笑顔を作ってみせた。だが、その瞳は明らかに泳いでいる。
「そういえば蓮、今夜は一緒に帰れないや! 私、ちょっと用事があって……! じゃあね!」
「あ、おい葵――!」
呼び止める間もなく、葵は背を向けて走っていってしまった。
遠ざかる彼女の背中を見送りながら、俺は強い違和感を抱いた。 葵の髪から漂っていた塩素の匂い。あれは、毎日手入れされている新プールのクリアな匂いじゃない。どことなくカビ臭く、埃っぽい――長年放置された旧プールの匂いと同じだった。
時計を見る。 17時44分。
あと一分。 俺は立ち止まり、ファインダーを覗き込んだ。
17時45分になった瞬間。
やはり、世界が止まった。
走り去る葵の足が、途中で静止する。舞い散る落ち葉が空気中で固定される。風の音が消え、静寂が耳を刺す。 時間にしてわずかコンマ数秒。
だが、確実に世界は「動画のポーズボタン」を押されたようになり、そして何事もなかったかのように再び動き出した。
葵の後姿はすでに校門の向こうへと消えていた。 俺は手の中で固くなったカメラを握りしめ、言葉にならない胸騒ぎを覚えていた。
夜の20時。 月明かりだけが頼りの校舎は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
俺は懐中電灯の光を足元に向けながら、体育館の裏手にある鬱蒼とした雑木林の小道を抜けていった。足元で落ち葉や小枝が踏み砕かれる音が、やけに大きく響く。
「立ち入り禁止」と書かれた黄色いテープが張り巡らされたフェンスの切れ目から、旧プールの敷地内へと足を踏み入れる。
静かすぎた。 虫の鳴き声すら聞こえない。 懐中電灯の光をプールの水面に向けると、俺は言葉を失った。
冴香の言っていた通りだった。
プールに張られた濁った水は、風が吹いているにもかかわらず、完全に静止していた。波ひとつ立たない。それは液体というよりも、漆黒の巨大な強化ガラスのようだった。懐中電灯の光を当てると、光は水中に透過することなく、均一な反射となって俺の顔を明瞭に映し出した。
「なんなんだ、これ……」
俺が足を踏み出し、プールサイドの縁に近づいた、その時だ。
サァ……と、風の音が途切れた。
「――誰!?」
プールサイドの影、飛び込み台の足元から鋭い声が上がった。 驚いて光を向けた先。そこに立っていた人物を見て、俺は息をのんだ。
濡れたスクール水着に、大きめのジャージを羽織った少女。 ポタポタと水滴が垂れるショートカット。 光の中に浮かび上がったのは、他でもない――葵だった。
「葵……!? なんでお前がこんなところに……」
「蓮……? どうして……来ちゃったの……?」
葵は目を見開き、信じられないという顔で俺を見つめていた。その体は、寒さからか恐怖からか、激しく震えている。
「お前こそ、こんな時間に何やってるんだよ! それに、その格好……」
「来ちゃだめ!」
葵が叫んだ。俺が歩み寄ろうとした一歩を、悲痛な声が遮る。
「来ないで、蓮! 見ないで……! お願いだから、見ないでよ……!」
「葵……」
「私……私ね、沈めないの」
葵の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。 涙は頬を伝い、プールサイドのアスファルトへと落ちていく。 だが、奇妙なことが起きた。その涙の雫は地面に染み込むことなく、まるで硬質ガラスの小玉のようにコン、と音を立てて弾け、水面へと転がっていった。水面に触れた瞬間、パチンと弾けて消える。
「どれだけ飛び込んでも……どれだけ足掻いても、水が私を弾くの。私、水泳部なのに……水に拒絶されちゃったの……!」
葵はその場に泣き崩れた。
俺は懐中電灯を地面に置き、駆け寄って彼女の肩を抱きしめた。
冷たい。
葵の体は、氷水に浸かっていたかのように冷え切っていた。
「葵、落ち着け。冷えてるだろ、ジャージを着ろ」
「蓮……ごめんなさい、ごめんなさい……」
俺の胸に顔をうずめ、子供のように泣きじゃくる葵。 俺はその背中をゆっくりとさすりながら、固まったままの水面を見つめた。
これは怪談や都市伝説の類じゃない。 この異質な現象の中心には、間違いなく葵の心が存在している。
「葵。……水泳のタイムが落ちてたこと、これと関係があるんだな?」
俺の問いかけに、葵の身体がピクッと跳ねた。
彼女は俺の胸の中で、小さく、静かに頷いた。
「部室に行こう。暖をとって、ちゃんと話を聞かせてくれ」
旧校舎の部室に戻り、石油ストーブを着ける。
葵に温かい緑茶の入った紙コップを渡し、毛布を肩からかけてやると、彼女は小さく「ありがとう」と呟いた。ストーブの橙色の光が、彼女の青ざめた横顔を照らしている。
「……タイムが伸びなくなったのは、半年前から」
葵はお茶の湯気をじっと見つめながら、ポツリポツリと語り始めた。
「コース台に立つとね、足がすくむの。水に入った瞬間、息ができなくなって……視界が真っ暗になるの。昔の『あの事故』の時のことが、頭から離れなくなっちゃって」
「昔の事故……?」
俺の脳裏に、遠い記憶の断片が甦り始める。
「忘れちゃった? 私たちが小学三年生の夏休みだよ」
葵の言葉に、俺の記憶の霧が晴れていく。
そうだ。小学三年生の夏。 俺と葵は、学校の旧プールに二人で忍び込んだことがあった。
夜の探検ごっこのつもりだった。だが、足を踏み外した葵が、深みへと落ちた。
当時、まだ泳げなかった葵はパニックになり、助けを求めて泡を吹いて沈んでいった。
俺は夢中でプールに飛び込み、葵の髪を、手を掴んで、必死の思いでプールサイドへ引き揚げたのだ。
「あの時、蓮は私を助けてくれた。すごく格好よかったし、嬉しかった……。でもね」
葵は哀しげに目を伏せた。
「あの事故のせいで……蓮の大事にしてたお父さんのお下がりカメラ、水没して壊れちゃったでしょ?」
「……あ」
すっかり忘れていた。 親父からもらった、初めての金属製の一眼レフカメラ。 あの救出劇の弾みでプールに落ち、二度と動かなくなった。
「蓮は『葵が無事でよかった』って笑ってくれた。……でも、私ずっと忘れられなかったの。私がドジだったから、蓮の大切な宝物を壊しちゃった。私が水に関わると、大切な人を傷つけちゃうんじゃないかって……」
葵の指先が、紙コップを強く握りしめる。
「水泳部に入ったのは、そのトラウマを克服したかったから。速くなって、蓮に『もう大丈夫だよ』って見せたかった。でも……大会が近づいてプレッシャーが強くなるほど、怖くなっちゃったの。そうしたら、一ヶ月くらい前から……夜、旧プールに来ると、水がカチカチに固まるようになっちゃった」
「葵の恐怖心が……水面を固めてるっていうのか?」
「わかんない! わかんないよ蓮! でも私……『沈むのが怖い』の。水に入ったら、また何か大切なものを失う気がして……身体が拒絶しちゃうの……!」
葵の告白を聞きながら、俺は強烈な違和感を拭えずにいた。
トラウマによるイップス。それは分かる。 だが、人間の精神的な恐怖が、『現実の物理現象として水面を固める』なんてことが、本当にあり得るのだろうか?
まるで、この世界そのものが葵の心の世界と同調し、彼女の望む通り(=水に入りたくない)に物理法則を書き換えているかのような――。
「蓮……気味悪いよね。私、頭がおかしくなっちゃったのかな……」
不安そうに俺を見上げる葵。俺は思考を打ち切り、彼女の肩を強く掴んだ。
「気味悪くなんてあるか。お前が一人でそんなものを背負い込んでたなんて、気づけなくてごめん」
「蓮……」
「明日、もう一度あのプールに行こう」
「え……?」
「俺も一緒に入る。今度はカメラなんて持ってない。お前が沈みそうになったら、何回だって俺が抱きしめて引き揚げてやる」
葵は目を見開き、やがて瞳に涙を溜めながら、今日一番の温かい笑顔を見せた。
「うん……! ありがとう、蓮……!」
翌日の放課後。 俺と葵は、再び旧プールへと向かった。
太陽が沈みかけ、あたりが朱色に染まっていく。 17時45分。 やはり世界が一瞬だけ静止し、そして動き出す。
「行くぞ、葵」 「うん」
ジャージを脱ぎ、水着姿になった葵が、意を決してプールサイドの縁に立つ。 プールに張られた水は、相変わらず硬質なガラスのように光を弾いていた。
俺はまず、自分で足を入れてみた。
踏みつけた瞬間、ズン、と硬い感触が靴底に伝わる。 まるでコンクリートの上に立っているようだ。体重をかけても、波一つ立たない。
「本当に……固まってるな」
「私が……近づくと、こうなっちゃうの」
葵が恐る恐る足を踏み出す。 彼女の足が水面に触れた瞬間、水面全体にバリバリと幾何学模様のような光の亀裂が走り抜けた。
「ひっ……!」
「大丈夫だ、葵。手を繋ごう」
俺は葵の手を強く握りしめた。彼女の手は汗で湿っており、激しく震えている。
「葵、思い出せ。お前は水が好きだったはずだ。風を切って、水の中を滑る感覚が好きだったろ?」
「うん……好きだった。でも……怖いよ、蓮。足がつかないのが……底に引きずり込まれるのが……!」
葵の恐怖が高まるにつれ、水面の硬度が増していくようだった。亀裂の光が強まり、プール全体がキーンという甲高い金属音のような不協和音を響かせ始める。
その時だった。
『――アサクラ……アオイ……』
どこからか、くぐもった声が聞こえた。 プール底の濁った水深深くから、無数の「影」のようなものが蠢きながら浮上してくる。
「な、なんだこれ……!?」
影の正体は、手だった。 黒い、泥のような液体で形成された無数の『手』が、固まった水面を突き破ろうと、下からドンドンと突き上げてくる!
「いやあああッ!」 葵が悲鳴を上げ、俺にしがみついた。
「蓮、これ……私の恐怖……!? 私が水に抱いてた、ドロドロした気持ち……!?」
「くそっ、離れろ!」
俺は葵を庇いながら後ろへ下がろうとしたが、遅かった。 水面を突き破った黒い手が、葵の足首を掴んだのだ!
バリイインッ!
ガラスが割れるような凄まじい音とともに、固まっていた水面が一瞬で弾け飛んだ。 冷たい水しぶきが全方向に爆発する。
「蓮――ッ!」 「葵――ッ!」
引きずり込まれる葵の手を、俺は咄嗟に掴んだ。 しかし、黒い手の力は凄まじく、俺の身体ごとプールの中へと引きずり込まれた。
ドッバーン!
視界が真っ暗になる。 冷たい、濁った水が耳や鼻に侵入してくる。
水中は、異様な空間だった。 旧プールの深さは本来1.5メートル程度のはずだ。なのに、どこまで落ちても底に着かない。まるで底なしの深海に落ちていくかのように、俺と葵は暗闇の水中を沈んでいく。
(息が……っ!)
水圧が肺を押し潰す。 すぐ近くで、葵が泡を吹きながら苦しそうに暴れていた。 黒い影たちが葵の身体に巻き付き、さらに深くへ引きずり込もうとしている。
葵の瞳から光が消えかけていた。 『もうダメ……私、やっぱり沈んじゃう……誰かを傷つけて、自分も溺れて……』 彼女の絶望が、直接頭の中に流れ込んでくるかのような感覚。
(ふざけるな……!)
俺は水中で必死に手足を動かし、葵の元へと泳いだ。 足にまとわりつく水圧を振り払い、葵の細い腰を抱き寄せる。
俺たちの視線が、濁った水中で交差した。
俺は葵の唇に、自分の唇を重ねた。
空気を送り込む。 葵の瞳に、パッと光が戻った。彼女が目を見開く。
俺は水中の中で、彼女の手を強く、解けないように握りしめた。
(葵! 思い出せ! お前は誰かを傷つけるために泳いでるんじゃない!)
心の中で叫ぶ。伝われ。俺の想い、俺の記憶!
(俺が写真を撮り始めたのは、お前のおかげなんだ! カメラが壊れたあと、悔しくて、でもお前が元気に泳ぐ姿があまりにも綺麗で……それをもう一度残したくて、バイトして新しいカメラを買ったんだ!)
葵の表情が変わっていく。驚きと、溢れ出す涙。
(お前は俺の宝物を壊したんじゃない! 俺に『写真を撮る理由』をくれたんだよ!!)
葵の胸の奥で、何かが弾ける音がした。
彼女を縛り付けていた黒い手――『罪悪感』と『恐怖』の象徴が、眩い光となって弾け飛ぶ。
葵が、俺の手を強く握り返してきた。 彼女の瞳から恐怖が完全に消え去り、かつての、いや、それ以上の強い意志の光が宿っていた。
葵が水中で脚を大きくしならせる。 美しい、しなやかなフォーム。 水泳部のホープとして、誰よりも水と親しんできた彼女の本領が覚醒する。
葵は俺の手を引っ張り、力強いキックで水面を目指して急上昇を開始した。 濁っていた水が、見る見るうちに透明なクリスタルブルーへと変わっていく。水面から差し込む夕陽の光が、彼女の体を黄金色に照らし出す。
バッハアアッ!
俺たちは水面を突き破り、息を吸い込んだ。
「ハッ……ガハッ……! ふうっ、ふうっ……!」
「蓮! 蓮、大丈夫!?」
プールサイドにしがみつきながら、空を見上げる。 水は、もう固まっていなかった。 やわらかく、温かく、俺たちの身体を優しく包み込んでいる。風が吹き抜け、水面に美しい波紋を描いていた。
夕陽が沈み、群青色の空に一番星が輝き始めている。
「葵……」
「蓮……私……泳げた。沈まないで、ちゃんと泳げたよ……!」
葵はプールサイドに肘をかけ、水中で俺に向き直った。 濡れたショートカットから雫が滴り、夕陽の残り香を受けてキラキラと輝いている。その顔には、一切の迷いも影もなかった。
「私ね、ずっと怖かったの」
葵は俺の顔をじっと見つめ、優しく微笑んだ。
「蓮に嫌われるのが怖かった。自分が原因で蓮の大切なものが壊れるのが怖かった。でも……蓮はいつだって、私を助けてくれてたんだね」
「当たり前だろ。幼馴染なんだから」
「ふふ、幼馴染……か」 葵は水の中で、俺の首にそっと手を回した。距離が縮まる。息が触れ合うほどの近さ。
「もう『幼馴染』のままでいるの、やめてもいい?」
「え……?」
「私、蓮が好き。小学生の時からずっと……助けてくれた時からずっと、蓮のことが大好きなの」
まっすぐなストレートパンチのような告白。 逃げ場のない、純度百パーセントの恋心。
俺の胸が、激しく高鳴った。
「葵……俺も――」
「言わないで、まだ!」 葵は俺の唇に人差し指を押し当てて、いたずらっぽく笑った。
「次の大会で、私が県大会の記録を更新したら……その時に、蓮の口から答えを聞かせて。だから、それまではお預け!」
「……勝手だな」
「いいでしょ? その代わり、一番いい席で私の写真、撮ってよね!」
葵は弾けるような笑顔で、バシャッと俺に水しぶきをかけた。 俺は思わず吹き出し、プールサイドに置いてあったカメラを手にとった。
ファインダーを覗く。 そこに映るのは、世界で一番眩しい、俺の大切な少女の姿だ。
カシャ。
シャッター音が響く。 液晶画面に映った葵の笑顔は、一切の歪みのない、完璧な青春の1ページだった。
こうして、旧プールの怪奇現象は解決した。 葵はトラウマを乗り越え、再び水泳部のエースとしてプールに飛び込むようになった。
――だが。
その夜、俺は一人部室で現像した写真を眺めていて、ある異変に気づいた。
葵がトラウマを克服したことで、旧プールの水面は正常に戻った。 なら、あの『固まる水面』という物理現象は一体何だったのだ?
写真に写る、葵の背景。 旧校舎の時計塔。
17時45分。
その針の位置を拡大した瞬間、俺の背筋に冷たいものが走った。
写真の中の時計塔の針が――微かにブレて重なっている。 まるで、二つの異なる時間が、一つの空間に無理やり重ね合わされているかのように。
「……まだ、終わっていないのか?」
俺の呟きは、誰もいない放課後の部室に静かに吸い込まれていった。