葵の事件が解決してから数日。
水泳部の練習に復帰した葵の弾けるような笑顔とは対照的に、俺の胸に落ちた不穏な影は日増しに大きくなっていた。
現像した写真に映り込んでいた、二重にブレた17時45分の時計塔。
物理法則を無視して固まっていた旧プールの水。
あれらは本当に、葵の心の問題『だけ』が原因だったのだろうか。
「――橘くん。少し、お時間よろしいでしょうか」
放課後の部室でひとり考え込んでいた俺に、静かな声が掛けられた。
ドアの隙間からすっと入ってきたのは、薄藍色の長い髪を後ろで一つに束ねた少女――2年生の図書委員長、一ノ瀬凛(いちのせ りん)だった。
切れ長で聡明そうな瞳に、いつも抱えている厚装丁の文庫本。
彼女は学年トップの成績を誇る秀才でありながら、必要最低限のことしか喋らない「図書室の地蔵」として知られている。
「一ノ瀬? トワイライト・クラブに何か用か?」
「ええ。生徒会長の霧島さんから伺いました。この部活は校内の『説明のつかない不具合』を調査していると」
「まあ……名目上はな。図書室で何かあったのか?」
凛は無表情のまま、手に持っていた紺色のファイルを開き、数枚の紙を俺の机の上に並べた。
それは、図書室の本の返却期限や貸出履歴を記録する、昔ながらの紙の『貸出カード』だった。
「これを見てください」
指示されたカードを覗き込む。古い名作小説のカードだ。
一番上の欄には『橘 蓮』、その下には『浅倉 葵』など馴染みのある名が並んでいる。だが、中ほどにある数行の記入欄を見て、俺は眉をひそめた。
「……文字が、掠れてる?」
「ただの掠れではありません。時間を追うごとに、インクが『蒸発』するように消えているのです」
凛は冷静な口調で説明を続けた。
「最初は一週間前です。クラシックな海外文学のカードから、特定の貸出者の名前だけが薄くなっていることに気づきました。今朝確認したところ、完全に白紙に戻っていました。筆跡が消えるのではなく、文字そのものが最初から存在しなかったかのように、紙の繊維ごと漂白されているのです」
俺はカードを指でなぞってみた。凹凸すらない。ボールペンの圧痕すら消えている。
「変色や薬品によるイタズラの可能性は?」
「化学室の試薬で検証しましたが、該当する物質はありませんでした。それに……消えている名前には、ある共通点があります」
凛の瞳が、ふっと影を帯びた。
「消えているのはすべて、『一ノ瀬凛』という名前です」
「な……ッ!?」
俺は思わずカードを見直した。 確かに、文字が消えかかっている箇所の前後の日付から推測すると、彼女が図書委員として貸出手続きをした、あるいは彼女自身が借りたと思われる欄ばかりだった。
「私がこの学校で本を借りた記録、図書委員として署名した記録だけが、過去に遡って世界から消去されています」
凛は淡々と、しかしどこか冷え切った声で言った。
「私という人間が存在した証拠が、少しずつ、この学校から消えているのです」
俺と凛は、放課後の静まり返った図書室へと向かった。
西日が差し込む本棚の隙間は、鬱蒼とした本の森のようだ。紙とインクの匂いが充満する空間で、凛は奥の「開かずの書庫」の前で足を止めた。
「ここで貸出カードの整理をしている時に、異変に気づきました」
凛は書庫の鍵を開けながら言った。
「一ノ瀬、念のために聞くけど……身体の不調とか、物忘れが激しくなったとか、そういう自覚はあるか?」
「いいえ。記憶は鮮明です。昨日の夕食のメニューも、3年前に読んだ本のページ数も暗記しています。……消えているのは、私の外側にある『記録』だけです」
カチャン、と音を立てて重い木製ドアが開く。
薄暗い書庫の中には、廃版になった旧蔵書や、過去の生徒名簿、卒業アルバムなどがズラりと並んでいた。
俺たちは過去数年分の図書委員の活動日誌や、生徒名簿を引っ張り出して調べ始めた。
「……やっぱりだ」
俺は息をのんだ。 一昨年の生徒名簿。確かに「一ノ瀬凛」の名はある。だが、その文字は鉛筆で書いたものを消しゴムで強く擦ったように、文字の輪郭がボヤけ、紙が透けかかっていた。
「私の記憶では……私はこの水明館高校に外部受験で入りました」
凛がポツリと呟く。
「でも、中学時代の記憶を思い出そうとすると、霧がかかったようにモヤがかかるのです。自分がどこの中学校に通っていたのか、どんな友達がいたのか……アルバムも、思い出も、何一つ手元にありません」
「中学時代の記憶がない……?」
「ええ。ただ『勉強をして、本を読んでいた』という事実だけがある。……橘くん、私は本当に、実在する人間なのでしょうか?」
凛の問いかけは、あまりにも静かで、だからこそ切実だった。
彼女はいつも完璧だった。冷静沈着で、誰にも甘えず、本の世界だけに没頭しているように見えた。
だがその実、彼女は自分が「世界から消えていく恐怖」と、ひとり静かに戦っていたのだ。
「実在するに決まってるだろ。現にこうして、俺の目の前で喋ってる」
「ですが、記録が完全に消えた時……私の身体も消えてしまうのではないかと、毎夜恐ろしくなるのです」
凛の手が、かすかに震えていた。彼女は抱えていた文庫本を強く胸に抱きしめた。
その時だ。
時計の針が、ガチリと音を立てた。 壁の時計を見る。
17時45分。
キィン……と、耳鳴りのような高音が発生した。
窓から差し込んでいた橙色の光が静止する。空気中のホコリが浮遊したまま動きを止め、風の音が途絶えた。
「――っ!?」
凛が喘ぐような声を上げた。 彼女の指先が、透け始めていた。
「一ノ瀬……!? 手が!」
「橘……くん……私……ッ!」
凛の輪郭が、まるで水に溶けるインクのように滲んでいく。
彼女が立っている足元の床から、黒い文字の羅列――本から剥がれ落ちた活字の群れが、蛇のように這い出し、彼女の脚を縛り上げていた。
『存在しない者』 『空白』 『偽物の過去』
不気味な文字の群れが、凛を闇へと引きずり込もうとする。
「離れろッ!」
俺はカメラを投げ捨て、凛の手を掴んだ。
触れた瞬間、氷のように冷たい感触と、激しい脱力感が俺を襲う。凛の存在そのものが、世界からログアウトしようとしているかのような強烈な引っ張る力!
「駄目です、橘くん! 離してください! あなたまで消えてしまう……!」
「黙って握られてろ! 消えさせたりするかッ!」
俺は必死で腕に力を込めた。だが、文字の蛇は容赦なく凛の腰、胸へと巻きついていく。
「私には……過去がないのです!」
凛が絶望に満ちた叫びを上げた。
「私は中学時代、引きこもりでした! 学校に行けず、部屋でずっと本だけを読んで……誰とも繋がれなかった! この高校に来てやり直そうとしたけれど……私の根底にあるのは『誰からも必要とされていない空白』なんです!」
凛の口から吐き出された、本当のトラウマ。 完璧な秀才という仮面の裏に隠されていた、痛切な孤独。
「だから……世界が私を『いなかったこと』にしようとしているんです! 最初から、私なんていなかったんだ……!」
「消えてたまるかあああッ!」
俺は踏ん張り、凛の身体を抱き寄せた。 しかし、次の瞬間、書庫の床が抜け落ちた。
正確には、床が『本ページのようにめくれ上がった』のだ。 俺と凛は、無数の活字が渦巻く、紙とインクの暗黒空間へと落下していった。
ドサッ……!
衝撃とともに着地した場所は、果てしなく広がる「文字の海」だった。 足元には無数の本が敷き詰められ、空からは切り抜かれた単語や文章が雨のように降り注いでいる。周囲を見渡すと、そこはまるで図書室を模した、巨大な迷宮のようだった。
「ここは……私の……頭の中……?」
凛が呆然と呟く。 彼女の足元からは、依然として黒い文字の鎖が伸び、彼女を束縛していた。
『お前は逃げた』 『部屋の隅で本を読んでいただけの幽霊』 『誰もお前を覚えていない』
周囲の書棚から、凛の過去を拒絶する「文字の影」たちが湧き出してきた。黒い影たちは本を手にして、俺たちへ向かって迫ってくる。
「一ノ瀬、立てるか!?」
「無駄です……橘くん。彼らの言う通りです。私は中学の三年間、誰とも口をきかなかった。両親すら、私を忘れたがっていた。私がここにいるのは、ただの偶然……ううん、この完璧な高校生活自体が、私のつくり出した『嘘』なんです」
凛は膝を折り、俯いた。涙が文字の床に落ち、小さなインクのシミを作る。
「本当の私は、暗い部屋で本を読むことしかできなかった惨めな少女。だから、記録が消えるのは当然なんです。最初から、私は誰の記憶にも残っていないのだから……」
影たちが凛を取り囲み、彼女を完全に塗りつぶそうと黒いインクを伸ばす。
「ふざけるな……!」
俺は凛の前に立ち塞がり、迫り来るインクの影を突き飛ばした。手に持っていた重い辞書で影を殴りつける。だが、殴っても殴っても、文字の影は無限に溢れ出てくる。
「橘くん、逃げてください! あなたには関係ないことです!」
「関係あるに決まってんだろ!」
俺は叫んだ。手に擦り傷を作り、服をインクで汚しながら、影たちを遠ざける。
「記憶がないなら、過去がないなら、今から作ればいいだろ!」
「え……?」
「俺は知ってるぞ! お前が毎朝、誰よりも早く図書室に来て本にカバーをかけてること! 借りに来た生徒が探してる本を、目録も見ずに一秒で見つけ出して渡してやること!」
俺は影を払いのけ、凛の元へ膝をついた。彼女の涙に濡れた顔を両手で包み込む。
「お前がこの高校で過ごした時間は、偽物なんかじゃない! お前が本を愛して、図書室を守ってきた努力は、全部本物だ!」
「でも……過去の私が……」
「過去の自分が何だ! お前が自分を嫌いでも、俺はお前を知ってる! 図書室で静かにページをめくるお前の横顔が、どれだけ綺麗か……俺のカメラは、もう覚えてるんだよ!」
「橘……くん……」
凛の瞳が、大きく見開かれる。
俺はポケットから、昨日現像したばかりの写真を取り出した。 それは、図書室の窓際で、夕陽を浴びながら本を読む凛の姿だった。
「記録が消えるなら、俺が何千枚でも撮ってやる。紙のカードから名前が消えたって、俺の記憶と、俺の写真から一ノ瀬凛は絶対に消えない!」
写真を見た瞬間、凛の瞳から涙がボロボロと溢れ出した。
それは、自分を拒絶する涙ではなく、温かい生への執着の涙だった。
「あ……あぁ……っ!」
凛の胸の奥から、眩い白光が放たれた。 彼女を縛り付けていた黒い文字の鎖が、一瞬にして砕け散る。
『私は……ここにいる』
凛が静かに、しかし力強く呟いた。
『私は本が好き。物語が好き。……そして、この学校で、橘くんと出会えた私自身が……愛おしい!』
凛が立ち上がった。彼女が本を開くと、そこから眩い光のページが溢れ出し、周囲の文字の影たちを黄金色の光で包み込んで消滅させていった。
文字の海が揺らぐ。 迷宮の空間がガラスのようにひび割れ、砕け散っていく。
崩壊する世界の中で、凛は俺の手を強く握りしめた。
「橘くん! 私を……現実へ連れて行ってください!」
「ああ! 一緒に行くぞ!」
光が二人を包み込んだ。
ハッと気がつくと、俺たちは旧校舎の書庫の床に倒れ込んでいた。
窓からは、美しい群青色の夜空と、輝く月光が差し込んでいる。 懐中電灯の光が、埃の舞う書庫を静かに照らしていた。
「……一ノ瀬? 大丈夫か?」
俺が声をかけると、俺の上に覆いかぶさる形になっていた凛が、ゆっくりと顔を上げた。 彼女の手を見る。――しっかりと実体がある。透けてなどいない。
「……橘、くん」
凛は自分の手を凝視し、それから俺の顔を見つめた。 彼女の頬が、朱色に染まっていく。
「消えて……ない……」
「ああ。戻ってきたんだ」
棚の上に置かれていた貸出カードと生徒名簿を手に取る。
そこには、しっかりとハッキリとした綺麗な筆跡で『一ノ瀬凛』という名前が復活していた。文字が消える現象は、完全に収まっていた。
「よかった……本当に、よかった……」
凛は安堵のあまり、俺の胸にぽすんと額を預けた。 いつも冷静で完璧だった彼女が、子供のように俺の服の裾をキュッと握りしめている。
「橘くん」
「ん?」
「私……忘れていた記憶を、少し思い出しました」
凛は静かに語り始めた。
「中学時代、私は確かに部屋に引きこもっていました。でも……ある日、窓から外を眺めていた時、カメラを持った男の子が、近所の公園で一生懸命に空を撮影しているのを見たんです」
俺は目を見開いた。
「その男の子が、すごく真面目な顔で、でも楽しそうにシャッターを切っていて……それを見て、『外の世界も、捨てたものじゃないかもしれない』って、少しだけ思えたんです。それが……私が高校へ行こうと決めたきっかけでした」
「それって……まさか」
「ええ。きっと、あの男の子はあなたです。……私はずっと前から、あなたに救われていたのかもしれません」
凛は俺の胸から顔を上げ、至近距離で俺の目を見つめた。 その瞳には、かつてないほど濃密な感情が宿っていた。
「橘くん。私を……あなたの写真のモデルにしてください。これから毎日、私という人間が存在している証を……あなたが記録してください」
「一ノ瀬……」
「これはお願いではありません。図書委員長としての……いいえ、一人の女子生徒としての、決定事項です」
凛は少しだけ悪戯っぽく微笑むと、俺の頬にそっと自分の額を押し当てた。 言葉以上の温もりが、肌を通じて伝わってくる。
「……覚悟してくださいね。私のページは、これからすごく長くなりますから」
こうして、図書室の怪異は解決した。 凛は過去の恐怖を打ち破り、自分自身の存在を誇れるようになった。
――だが。
凛を送り届けた後、俺は部室で、事件の最中に撮れた写真を改めて確認していた。
文字の海に飲み込まれる直前、俺が反射的に切ったシャッター。 そこに写っていたのは、崩壊する書庫の背景――そして、窓の外に見える時計塔だった。
17時45分。
写真の中の時計塔の文字盤。 そこに刻まれた数字が、あろうことか『アラビア数字』と『ローマ数字』で重なって二重に印刷されているかのようにブレていた。
まるで、異なる二つの世界、二つの現実が、無理やり接合されているかのように。
「一体……この学校で何が起きているんだ?」
葵のプール。凛の読書カード。 少女たちのトラウマに呼応して歪む世界。 そして、必ずその中心に存在する『17時45分』。
俺は深まりゆく謎の深淵に向かって、足を一歩踏み入れざるを得なかった。