夕陽の幾何学   作:黒川よふね

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時間が止まるステージと届かない歌

一ノ瀬凛の事件を解決してから数日。

放課後になると、凛は当然のように『トワイライト・クラブ』の部室へ姿を現すようになった。

彼女が持ってきてくれる淹れたての紅茶と、どこか吹っ切れた表情の葵が差し入れるスポーツドリンク。

部室は少しだけ賑やかになりつつあったが、俺のノートに書き殴られた「歪みの仮説」は混迷を深めていた。

 

葵の『沈まないプール』。

凛の『消える読書カード』。

 

二つの怪異に共通していたのは、彼女たちの深い心の傷に呼応して現実の物理法則が歪むこと。

そして、その引き金となる瞬間、必ず『17時45分』に世界の時間がコンマ数秒止まるということだ。

 

「蓮先輩っ! 大変です! 大ニュースですーっ!」

部室のドアがバシャーンと派手な音を立てて開いた。

飛び込んできたのは、黄色いパーカのフードを揺らした小柄な少女――1年生の星野まひろ(ほしの まひろ)だった。

演劇部に所属しながら「将来は世界を笑顔にする超絶トップアイドルになる!」と豪語している、校内でも有名な名物後輩だ。大きなタレ目とキャンディのようにくるくると変わる表情は、どこか小動物を思わせる。

 

「落ち着け、まひろ。部室のドアは壊すなよ」

「それどころじゃないですよ~! ついに……ついに、まひろの圧倒的アイドルオーラが、物理的に世界をひれ伏させちゃいました!」

「……は?」

まひろは腰に手を当て、フフンと鼻を鳴らした。

 

「実は最近、駅前の広場で放課後ライブをやってるんです。でもね、まひろがサビの一番いいところを歌い出すと……聴いてるお客さんがみーんな、金縛りみたいにピタッと止まっちゃうんです!」

「金縛り?」

「そうなんです! 拍手しようとした手が途中で止まったり、歩いてたおじさんの足が浮いたまま止まったり……! まひろの歌声が凄すぎて、みんな感動で時間が止まっちゃってるんですよ!」

俺は背筋に冷たいものが走るのを感じた。

まひろは自慢げに笑っているが、それは決して「アイドルオーラ」などという生易しいものではない。

「……まひろ。それ、いつ頃からだ?」

「えっと……一週間くらい前かな? いつも放課後、夕方の17時45分くらいに歌う時に起きるんです!」

 

まただ。 またしても『17時45分』。

「橘先輩、カメラ持って一緒に来てください! まひろの伝説の瞬間を、バッチリ写真に収めてほしいんです!」

目を輝かせるまひろの手前、俺は「危険だからやめろ」とは言えなかった。

むしろ、その現場をこの目で確かめなければならない。

俺はカメラバッグを手に取り、まひろの後を追った。

 

駅前広場に到着したのは、ちょうど陽が落ちかける頃だった。

まひろは慣れた手つきで小型のポータブルアンプを設置し、マイクを握りしめる。彼女の周りには、学校帰りの高校生や買い物客がチラホラと足を止めていた。

 

「みなさーん! 今日もまひろのスマイルライブ、スタートしまーす!」

明るい声が広場に響き渡る。まひろのパフォーマンスは一生懸命で、観客たちも微笑ましい表情で彼女を見ていた。

 

腕時計を見る。17時44分。

「――次の曲は、まひろの特製オリジナルソング!『一番星のジオメトリ』!」

まひろが息を吸い込み、マイクを両手で強く握りしめた。 その瞬間。

 

17時45分。

 

キィン――と、鼓膜を刺すような甲高いハウリング音が脳内に直接響いた。

次の瞬間、俺は息をのんだ。

広場を行き交う人々、飛んでいたハト、街頭の街頭ビジョンの映像、風にたなびく旗――そのすべてが、ピタリと動きを止めた。

まひろの言葉通りだった。観客たちは笑顔のまま、あるいは歩こうとした姿勢のまま、彫像のように静止している。

 

だが、まひろだけは違った。

彼女は止まった世界の中で、ただ一人、マイクに向かって歌い続けていた。

「~♪ 届いて、私の声……誰もいない暗闇でも……♪」

その歌声は、普段の天真爛漫な彼女からは想像もつかないほど、切なく、透き通り、そして壊れそうなほど悲痛だった。

そして――俺は見てしまった。 静止した世界の中で歌うまひろの足元。

彼女の『影』だけが、彼女の動きとは全く違う形で、苦しそうに頭を抱えてのたうち回っているのを。

 

 

ライブが終わると、何事もなかったかのように時間は動き出した。

人々は自分たちが一瞬停止していたことすら気づかず、「いい歌だったよ」と拍手を送って去っていく。

 

俺はまひろを近くの公園に連れ出し、ベンチに座らせた。

「まひろ。お前、自分が歌ってる時のこと……本当に覚えてないのか?」

「え……? みんなが集中して聴いてくれてるなーって思ってましたけど……」

まひろはジュースの缶を両手で転がしながら、不思議そうに首をかしげる。

「嘘をつくな。さっきの歌……『一番星のジオメトリ』なんて曲、お前のいつものアイドルソングじゃないだろ。それに、あの時の影……」

「か、影……?」

まひろの顔から、スーッと血の気が引いていった。 いつものオーバーなリアクションが消え、彼女は膝の上で固く拳を握りしめた。

「……先輩、見ちゃったんですか?」

「ああ。世界が止まってた。お前以外の全部がな」

「あはは……やっぱり、気のせいじゃなかったんだ」

まひろは自嘲気味に微笑んだ。その瞳に溜まった涙が、夕暮れの光を受けてキラリと光る。

 

「私ね……本当は分かってたんです。みんなが私の歌で感動して止まってるんじゃなくて……私が、みんなを遠ざけてるんだって」

「遠ざけてる?」

「私、本当はアイドルなんて向いてないんです」

まひろの声が小さく震える。

「中学の頃、劇団のオーディションをたくさん受けたんです。でも、全部一次審査で落ちちゃって……審査員の人に言われたんです。『君の表現には、本当の感情が入っていない。上手だけど、誰の心にも届かない空っぽの歌だ』って」

まひろはギュッと目を閉じた。

「ショックでした。だって私、みんなに笑顔になってほしくて、一生懸命練習してきたのに……。それから、歌うのが怖くなっちゃって。人前で歌おうとすると『どうせ私の声なんて誰にも届かない』って、声が出なくなっちゃうんです」

「だけど、お前は今、こうして街頭で歌ってるじゃないか」

「それは……強がってただけです!」

まひろが叫んだ。

「高校に入って、演劇部に入って……明るく振る舞っていれば、いつか本当の自分になれると思ってた! でも、歌えば歌うほど、胸の奥が冷たくなっていくんです!『誰も私を見ていない』『私の声なんて届いていない』って!」

まひろは自分の胸を抱きしめるように体を丸めた。

「そうしたら……ある日から、17時45分になると、世界の音が消えるようになっちゃったんです。みんなの時間が止まって、私だけの『誰もいない世界』になっちゃう……。私の心が『届かないのが怖いなら、最初から誰も聴いていない世界で歌えばいい』って、世界を止めちゃってるんです……!」

葵の水、凛の文字、そしてまひろの『静止した時間』。 すべては彼女たちの「トラウマ」と「拒絶」が引き起こしている現象だった。

 

「私……もう歌うの、やめます」

まひろは静かに立ち上がった。

「みんなの時間を止めてまで、自分の独りよがりな歌を歌いたくないです。……ごめんなさい、橘先輩。変なこと巻き込んじゃって」

 

去っていくまひろの後姿を、俺は止めることができなかった。

 

 

翌日、まひろは演劇部を休んだ。部室にも顔を出さず、街頭ライブも取りやめた。

俺は放課後、無人の体育館のステージにいた。 まひろが一人で自主練習に使っていた場所だ。パイプ椅子の上に、彼女が書き殴った歌詞ノートがポツンと残されていた。

ページをめくると、そこにはビッシリと消しゴムの跡と、必死な想いが綴られていた。

『もっと上手に』 『笑顔になってもらいたい』 『でも、怖い』 『誰も私を見てくれないなら、私は何のために歌うの?』

 

「……バカ野郎」

俺はノートを強く握りしめた。 空っぽなんかじゃない。彼女の歌には、痛いほどの熱量が、誰かに届けたいという切実な願いが込められている。

時計を見る。 17時40分。

俺は一眼レフカメラを抱え、走った。 まひろが向かう場所は、一つしか思い当たらなかった。

駅前の広場。

案の定、まひろは夕暮れの広場の片隅に立っていた。 マイクもアンプもない。ただ一人、呆然と沈みゆく夕陽を見つめている。

「まひろーッ!」

「橘……先輩……? どうして……」

「歌え、まひろ!」

俺は息を切らしながら、彼女の前に立ちはだかった。

「嫌です! もう歌いません! 歌ったら、またみんなの時間が止まっちゃう……!」 「止まってもいい! 俺がいる! 俺が最後の最後までお前の歌を聴いてやる!」

俺はカメラを構え、ファインダーをまひろに向けた。

「届かないって誰が決めた! 審査員の言葉なんて知るか! お前が届届けたいと思った瞬間に、その歌は本物になるんだよ!」

「でも……怖いんです……! 誰も聴いてくれない世界で、一人で歌うのが……私、本当は寂しくてたまらないんです……!」

まひろが涙を流して叫んだ。

その瞬間――。

 

17時45分。

ゴウン……と、世界からすべての音が奪われた。 車のエンジン音も、人々の話し声も、風の音すらも。 広場の人々が完璧に停止し、夕暮れの街全体が精巧なジオラマのように静止する。

世界の崩壊が始まった。

静止した街の空が、まるでガラスのようにヒビ割れ始めた。 黒い亀裂から「拒絶の影」――音を呑み込む無数の巨大なスピーカーのような怪物が、空から降り立ってくる。

 

『ムダダ』 『オエの歌ハ届かない』 『無音の箱庭で踊れ』

怪異が重低音のノイズを撒き散らし、まひろを押し潰そうと迫る。

「きゃあああッ!」

「まひろッ!」

俺はまひろの手を掴み、背中に庇った。 ノイズの衝撃波が俺の体を打ちつけ、皮膚が裂け、血が滲む。だが、俺は一歩も引かなかった。

「橘先輩! 逃げてください! 私のせいで先輩まで……!」

「逃げるわけねえだろ! 俺は『トワイライト・クラブ』の部長だぞ!」

俺はファインダー越しに、涙に濡れたまひろの顔を力強く見つめた。

「まひろ! 俺を見ろ! 世界が止まっても、みんなの時間が止まっても、俺の時間は止まってない! 俺はお前のファン第一号だ! ここで歌わなきゃ、永遠に届かないままだぞ!!」

 

まひろの瞳に、小さな火が灯った。

彼女は俺の傷ついた背中を見つめ、それからギュッと自分の胸に手を当てた。

「……私の……ファン第一号……」

「そうだ! 俺に向かって歌え! 橘蓮一人をひれ伏せさせてみろッ!」

まひろは涙を拭った。 彼女は息を吸い込み、両足を大きく広げて地面を踏みしめた。

マイクなんてない。アンプもない。

だが、彼女の喉から解き放たれたのは、世界中のどんな音よりも美しく、力強いアカペラの歌声だった。

 

「~♪ 見上げてごらん、一番星のジオメトリ……! 誰にも届かない夜でも、私がここで叫ぶから……!♪」

歌声が、振動となって空気を揺らした。 空から降り注いでいたノイズの衝撃波が、まひろの歌声に押し戻されていく。

「~♪ 届いて! 届いてよ! たった一人でもいい……私の生きた証を、聞いてーーーッ!!♪」

まひろの全霊の叫び。 その歌声は光の波となって広がり、空を覆っていた黒いスピーカーの化物を一瞬で粉砕した!

 

バリィィィィンッ!!

空のヒビ割れが弾け飛ぶ。 と同時に、止まっていた世界の時間が、怒涛のように動き出した。

ガヤガヤと戻ってくる街の喧騒。 車のクラクション。人々の足音。

そして――。

広場にいた人々が、一斉に足を止め、まひろの方を振り返った。

「な、今の歌声……すごい……」

「どこから聞こえたんだ?」

「あの女の子か……?」

ざわめきが広がり、やがて一人の客が拍手を始めた。 パチ……パチパチパチ……! それは瞬く間に広場全体へと広がり、割れんばかりの大歓声と拍手の渦となった。

「届いた……?」

まひろは呆然と、自分を取り囲む観客たちを見回した。

「届いたんだよ、まひろ。お前の歌が」

俺が微笑むと、まひろはその場にへたり込み、ボロボロと大きな涙をこぼした。

「うああああん! 橘先輩ぁぁぁっ!」

まひろは俺の腰に飛びつき、子供のように泣きじゃくった。

「届いた……私、歌ってよかった……! 歌ってよかったよおぉぉっ!」

俺はまひろの頭を優しく撫でながら、彼女の最高の瞬間をカメラに収めた。 夕陽をバックに、涙と笑顔がぐちゃぐちゃになった、最高に輝くアイドルの写真を。

 

こうして、時間の止まる街頭ライブの怪異は解決した。 まひろはトラウマを克服し、本当の意味で観客の心に届く歌を歌えるようになった。

 

――だが。

その日の夜、部室で写真を現像していた俺の手に、激しい震えが走った。

まひろが歌い、世界が動き出した瞬間の写真。 背景に写る、駅前広場の大型からくり時計。

17時45分。

その文字盤の数字が――完全にひっくり返り、鏡文字になっていた。

左右が反転した時計。 あり得ない。写真のフィルムが反転しているわけではない。まひろの顔も、周囲の看板も正常なのだ。時計だけが、鏡の向こう側の世界のように反転している。

「葵のプール……凛の読書カード……まひろの時間……」

俺は額に冷や汗をかきながら、三枚の写真を並べた。

二重にブレる時計塔。 アラビア数字とローマ数字が重なる文字盤。 そして、鏡文字になった時計。

世界が、少しずつ、着実に『壊れて』いっている。

そして俺は、まだ最後の『歪み』に気づいていなかった。 生徒会長・霧島冴香。 彼女が抱える、この学校の最も深く、最も冷たい謎に――。

 

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