葵の水面、凛のカード、まひろの歌。
三人の事件を解決し、彼女たちの抱えていた心のトラウマは解消されたはずだった。
だが、俺の手元に残された現像写真――異様なブレや鏡文字を示す時計の存在は、世界の「歪み」が限界に達しつつあることを告げていた。
そして、その歪みの中心がどこにあるのかを、俺はすでに悟っていた。
旧校舎の最上階に聳え立つ、古びた大時計塔。
私立水明館高校のシンボルでありながら、数年前から安全上の理由で立ち入り禁止となっている「開かずの場所」だ。
「――橘くん。また不吉な顔をしていますね」
放課後、生徒会室。 書類の山を前にして、寸分の狂いもなくペンを走らせていた生徒会長・霧島冴香(きりしま さやか)が、眼鏡の奥の鋭い瞳を俺に向けた。
「霧島会長。ひとつ、聞いていいですか」
「なんでしょう。私に答えられることなら」
「あの時計塔……どうして修理されないんですか? ずっと『17時45分』で針が止まったままです」
冴香の手が、一瞬だけピタリと止まった。
しかし彼女はすぐに何事もなかったかのようにペンを動かし、冷淡な声で答えた。
「内部の歯車が複雑に噛み合い、現代の技術では修繕費用がかさむからです。放置していても実害はありません」
「実害はありますよ」
俺はポケットから三枚の写真を出し、彼女のデスクの上に並べた。
二重にブレた時計塔。アラビア数字とローマ数字が重なった文字盤。そして鏡文字になった時計。
冴香の表情が凍りついた。 眼鏡の奥の瞳がかすかに見開かれ、息を呑む音が静かな室内に響く。
「……これは、何です」
「葵たちに起きた怪異の現場で、17時45分に撮影した写真です。会長、あなたは知っていたんじゃないですか? この学校で起きている異変と、あの時計塔の関係を」
「……バカバカしい」
冴香は視線を逸らし、冷ややかに言い放った。
「単なるレンズの光線異常か、合成写真でしょう。私は生徒会長として、根拠のない怪異譚に付き合っている暇はありません。……退室してください」
「会長!」
「退室しなさい!」
冴香が珍しく感情を露わにして叫んだ。
その瞬間、バチッと静電気が弾けるような音がして、生徒会室の天井の蛍光灯が一斉に明滅した。
壁の掛け時計の針が、狂ったように高速で逆回転を始める。 ジリジリと機械が軋む音が鳴り響き――そして、17時45分を指した位置で叩きつけるように停止した。
「くっ……!」
冴香が頭を押さえて膝をついた。
彼女の制服の袖口から見えた手首に、黒い「歯車の刺青」のような幾何学模様が、打刻されたように浮かび上がっていた。
「会長! その腕は……!」
「見ないで……! 橘くん、私に関わらないで……!」
冴香は突き放すように俺の手を振り払うと、鞄を抱えて生徒会室から逃げ出すように走り去っていった。 廊下に残された俺は、彼女が落とした一枚の古い写真を拾い上げた。
そこに写っていたのは、今より少し幼い冴香と、旧校舎の時計塔の前で微笑む一人の少女の姿。
そして写真の裏には、こう書かれていた。
『永遠の17時45分を、あなたに。』
俺は冴香の後を追い、旧校舎の最上階へと向かった。
ギシギシと音を立てる木製の階段を上り詰めると、重厚な鉄の扉が半開きになっていた。「立ち入り禁止」の鎖は引き千切られている。
扉の向こう――時計塔の内部は、巨大な歯車が複雑に組み合わさった無機質な空間だった。 高窓から差し込む赤い夕陽が、立ち込める埃を黄金色に照らしている。
その中心、巨大な振り子の下に、冴香はひとり佇んでいた。
「……来てしまったのですね、橘くん」
冴香の声には、いつもの威厳も冷徹さもなかった。どこか遠くを見つめるような、虚ろで儚い響き。
「会長。その腕の模様は何なんですか。それに……その写真は?」
俺が拾った写真を差し出すと、冴香は力なく微笑んだ。
「その写真は……私の唯一の親友であり、かつてこの学校の生徒会長を務めていた先輩です」
冴香は巨大な文字盤の裏側を見上げた。巨大な長針と短針が、17時45分の位置でがっちりと噛み合わさっている。
「二年前の夏……私たちはこの時計塔の屋上で、文化祭の準備をしていました。時間は夕方の17時45分。先輩は老朽化したフェンスの破片に足を取られ……目の前で、下へと落ちていきました」
「……え」
「私は……手を伸ばしました。ですが、届かなかった。指先がかすめただけで……私は彼女を救えなかった」
冴香の肩が激しく震え始める。
「救急車のサイレン、泣き叫ぶ声、血の匂い……。私は自分の無力さに耐えられなかった。『時間が戻ればいい』『17時45分の直前で、世界が止まってしまえばいい』……そう強く、狂おしいほどに祈りました」
冴香が振り向いた。その瞳からは、ボロボロと大粒の涙が溢れ出していた。
「そうしたら……次の瞬間、時計塔の針が17時45分で止まったのです。……世界はそれ以上、進まなくなりました」
「世界が進まない……?」
「気づいていないのですか、橘くん?」 冴香は絶望に満ちた声で笑った。
「私たちは……もう二年以上、この『高校二年生の春から秋』を延々と繰り返しています。誰ひとり年を取らず、進級もせず、永遠に同じ時間がループしている。この時計塔が止まったあの日から、私たちの現実時間は一秒も進んでいないのです!」
俺の脳裏で、これまでの違和感が一気に巨大なパズルのように組み合わさっていく。
独立した小さな怪異ではない。 葵のプールも、凛のカードも、まひろの歌も――すべては「永遠に繰り返される閉じた時間」の中で、少女たちの心が耐えきれなくなって弾け飛んだ「歪みの破片」だったのだ。
そして、そのループの中心にいるのが、この霧島冴香だった。
「私が……完璧な生徒会長を演じ続けてきたのは、この嘘の世界を維持するためです。私が弱音を吐けば、この世界が壊れてしまうから。先輩を救えなかった罪を背負って、永遠にこの箱庭を守るのが私の罰だったのに……!」
冴香の手首の歯車模様が黒く発光し、時計塔全体がガタガタと鳴り響き始めた。
「もう……限界なのです」
冴香の身体から黒いオーラが溢れ出す。それは彼女が二年間溜め込んできた、果てしない後悔と罪悪感の濁流だった。
「葵さんのトラウマが消え、一ノ瀬さんの記録が戻り、星野さんの歌が届いたことで……この閉じられた世界の整合性が崩れ始めました。これ以上、時間を止めておくことはできません……!」
カチ、カチ、カチ……!
止まっていた巨大な歯車が、ギシギシと不気味な音を立てて逆回転を始めた。
「うああああッ!」
冴香が悲鳴を上げて崩れ落ちる。 巨大な振り子が凶器のように大きく揺れ動き、時計塔の床が崩れ始めた。空間そのものが歪み、壁の隙間から「黒いノイズの時間」が溢れ出してくる。
『進むな』 『過去へ戻れ』 『罪を贖え』
冴香の影から生まれた無数の黒い歯車が、彼女の身体を締め上げ、時計塔の底――暗黒の深淵へと引きずり込もうとする。
「橘くん……逃げてください!」
破滅の中で、冴香が叫んだ。
「私が……私が先輩の手を放してしまったから! 私が弱かったから……みんなをこの不自然なループに巻き込んでしまった! 私と一緒に、この時計塔ごと消えるのが一番いいのです!」
「ふざけるなッ!」
俺は崩れ落ちる足場を飛び越え、暴走する振り子の間を潜り抜けた。
「橘くん!?」
「逃げてたまるか! お前ひとりに……全部背負わせてたまるかよ!」
俺は手を伸ばした。 二年前、彼女の親友の手が届かなかった、その同じ距離。
「届いてくれ……ッ!」
俺はカメラのストラップを投げつけ、冴香の手首を強く掴み寄せた。 強烈な引っ張る力が俺の腕を襲う。肩の関節が外れそうなほどの激痛。だが、俺は絶対に手を放さなかった。
「なぜ……なぜ助けるのですか! 私は……あなたたちの時間を奪っていた元凶なのですよ!?」
「元凶なんかじゃない!」
俺は激痛に耐えながら、冴香の目を見つめた。
「お前がこの二年間、どれだけ血を吐く思いでこの学校を守ってきたか、俺は見てたぞ! 完璧な生徒会長として、誰よりも遅くまで残って、誰の悩みも聞いて……お前がいたから、俺たちは笑っていられたんだ!」
「橘……くん……」
「過去の事故はお前のせいじゃない! もう自分を責めるな! 止まった時間の中で死んだように生きるのが贖罪かよ!? 生きろよ冴香! 俺たちと一緒に、明日へ進めよ!!」
俺の叫びが、時計塔の轟音を切り裂いた。
冴香の目から、溢れんばかりの涙が噴き出した。 完璧主義という名の鎧が砕け散り、彼女はただの一人の、傷ついた少女として泣きじゃくった。
「生きたい……! 私……みんなと一緒に……明日へ行きたい……ッ!!」
冴香が叫んだ瞬間、彼女の手首の歯車模様が黄金色の光を放った。
俺は全力を振り絞り、彼女の身体を暗黒の深淵から抱き引き揚げた。 二人で床に転がり込む。
冴香の光が時計塔全体へと伝播していく。暴走していた黒い歯車たちが、黄金の光に包まれて優しく浄化されていく。
カチャン。
重厚な金属音が響いた。
巨大な長針と短針が、二年間固く噛み合わさっていた17時45分の位置から、ゆっくりと解き放たれた。
チク、タク、チク、タク……。
規則正しい、美しい針の音が空間を満たす。
17時46分。
二年間、一度も訪れることのなかった「次の三分間」が、世界に訪れた。
高窓から差し込んでいた夕陽の光が変化し、群青色の夜の帳が、ゆっくりと空を覆っていく。風が吹き抜け、止まっていた時間が、川の流れのように自然に動き出した。
「動いた……」
冴香が自分の胸に手を当て、涙を流しながら呟いた。
「時間が……動いた……」
「ああ。進んだんだ、冴香」
俺たちが息を整えていると、時計塔の扉がバタンと開いた。
「蓮! 冴香さん!」 「橘くん、ご無事ですか!?」 「先輩ーっ!」
駆け込んできたのは、葵、凛、まひろの三人だった。 彼女たちもまた、世界が動き出した瞬間を肌で感じ取り、ここへ駆けつけたのだ。
「みんな……」
冴香は申し訳なさそうに俯いた。
「ごめんなさい……私、あなたたちをずっと囚われていたのです。私の身勝手な未練のせいで……」
葵がステップを踏んで歩み寄り、冴香の手を優しく包み込んだ。
「謝らないで、会長。だって私……会長がいてくれたから、水泳部で頑張れたんだよ?」
凛も静かに頷く。
「ええ。私が図書室で孤独にならなかったのは、あなたがいつも見守ってくれていたからです」
「まひろも! 会長のおかげで、ステージで歌えたんですから!」
三人からの温かい言葉に、冴香は声を詰まらせ、再び涙をこぼした。今度は、温かい感謝の涙だった。
俺は愛用のカメラを構えた。 呆然とする冴香、微笑む葵、優しく見守る凛、元気いっぱいにポーズをとるまひろ。
「はい、チーズ」
カシャ。
暗かった時計塔の中に、眩いフラッシュが焚かれた。 現像を待つ必要すらない。ファインダー越しに見えた四人の笑顔は、間違いなくこれまでで一番美しい「今」の写真だった。
これで、すべての小さな謎は解決した。 少女たちのトラウマは消え去り、時計塔の針は動き出した。
――しかし。
全員を攻略し、時計塔の針が『17時46分』を刻んだその瞬間。
グラグラグラッ……!
学校全体どころか、街全体を激しい大地震のような揺れが襲った。
「な、なに……!? 地震!?」
葵が悲鳴を上げる。
窓の外を見た俺は、言葉を失った。
街の明かりが、校庭の景色が、遠くの山々が――まるで古いフィルムが燃え落ちるように、空の端からパラパラと「灰」になって崩れ去っていたのだ。
空に巨大な亀裂が走り、その向こう側から「白い光」と「心電図の電子音」が漏れ聞こえてくる。
ピピッ……ピピッ……ピピッ……。
「な……んだ……これ……?」
俺の問いに、冴香が悲痛な顔で首を振った。
「違います……これは壊れているのではありません。……『目覚めて』いるのです」
「目覚めている……?」
「橘くん。私たちが暮らしていたこの世界は……最初から、実在していなかったのです」
世界が白く塗りつぶされていく中で、真実の大扉が重々しく開き始めていた。