世界が、白く染まっていく。
私立水明館高校の校舎が、グラウンドが、思い出の詰まった夕暮れの街並みが、まるで水に濡れたペーパーワークのように端からどろどろと溶け落ちていく。
空の割れ目から漏れ出すのは、聞き覚えのない機械の不機嫌なビープ音だ。
ピピッ……ピピッ……ピピッ……。
「みんな……ッ! 離れるな!」
俺――橘蓮は、崩れゆく時計塔の床で、葵、凛、まひろ、冴香の四人の手を必死に引き寄せた。
「蓮……! 空が……街が消えちゃうよ……!?」
葵が怯えた声で俺の腕にしがみつく。
「橘くん……これは物理現象ではありません。空間の定義そのものが消失しています!」
凛がメガネの奥の瞳を揺らし、叫ぶ。
「嫌だよぉ……! まひろ、みんなと離れたくないよーっ!」
泣きじゃくるまひろを抱きしめながら、俺は冴香を見た。
冴香は静かに目を閉じ、溢れ出る光の中で最後のアナウンスをするかのように口を開いた。
「橘くん……そしてみんな。動揺しないで聴いてください。……この世界は、最初からどこにも存在していなかったのです」
「……どういうことだ、会長!?」
「ここは……重体となった私たちの意識を繋ぎ止め、精神の崩壊を防ぐために作られた『人工的な精神世界(箱庭)』……プログラムの医療システムです」
冴香の言葉と同時に、俺の脳裏に、強烈な激痛とともに「本当の記憶」が雪崩のように打ち寄せてきた。
――そうだ。 俺たちは、高校二年の春休み、修学旅行に向かう高速バスの中にいた。 山道での大型トラックの居眠り運転による正面衝突。
暴走するバス。悲鳴。割れるフロントガラス。 そして――激しい衝撃と暗転。
俺たち五人は、あの事故で全員重体に陥っていた。
「思い出しましたか……橘くん」
冴香が切ない笑みを浮かべる。
「私たちは事故の後、現実世界の集中治療室で意識不明の重体に陥っていました。脳死や精神死を防ぐため、医療チームは試作段階の神経結合ネットワークを用いて、私たちの精神を共通の仮想空間へと接続したのです」
「じゃあ……あの17時45分の違和感は……」
「ええ。事故が発生した時刻です。午後5時45分。事故の強烈なトラウマが、この箱庭世界でも『時間を止めるノイズ』として残留していたのです」
俺の頭の中で、すべての点と点がつながった。
葵の『沈まないプール』は、事故で水没したバスから脱出できなかったトラウマと、俺への罪悪感。
凛の『消える読書カード』は、誰にも認識されずに脳死判定を受けることへの恐怖と、過去の孤独。
まひろの『時間が止まるステージ』は、意識が戻らず、誰にも声が届かないまま終わるのではないかという絶望。
冴香の『止まった時計塔』は、全員を死に追いやったという生存者の罪悪感と、死の瞬間への固執。
「各ルートで、お前たちがトラウマを克服したのは……」
「ええ」
凛が凛とした声で継いだ。
「私たちが自らのトラウマを乗り越え、生への執着を取り戻したことで、私たちの精神データは正常化し――現実世界の肉体へと『再起動』されたのです」
「再起動……ってことは……」
俺が息をのむと、葵が泣き笑いのような表情で俺を見つめた。
「うん……私、もう現実の病室で目が覚めてるみたい。……蓮が私を救ってくれたから」
まひろも涙を拭い、照れくさそうに微笑む。
「まひろもです! 橘先輩の届けてくれた声のおかげで、現実の身体が動くようになりました!」
彼女たちの身体が、足元から粒子となって透け始めていた。
個別ルートを攻略し、彼女たちの心を救うこと。それは、彼女たちの精神を現実世界へ「無事に送り返す」ための作業だったのだ。
「でも……どうして会長まで……?」
「私は……最後まで残って、この世界を管理する役割でしたから」
冴香が穏やかに微笑む。
「ですが、橘くんが私の時間を動かしてくれた。私ももう、現実へ戻ることができます。……ですが、橘くん」
冴香の表情が、深刻なものへと変わった。
「あなただけが……まだ現実へ戻る準備ができていないのです」
「俺が……?」
自分自身の身体を見る。 他の四人が光の粒子となって消えかかっているのに対し、俺の身体だけが、ドロドロとした黒いノイズに侵食され始めていた。
「なぜ……俺だけ……」
「事故の時……あなたは全員を庇うようにして、一番強く車体に打ち付けられました」
冴香が苦しそうに語る。
「あなたの脳損傷は、誰よりも深刻だったのです。あなたは……自分の命を諦めかけている。みんなを救うことで満足し、自分自身が現実へ戻ることを拒絶しているのです!」
『その通りだ』
崩壊する時計塔の天井が吹き飛び、空から黒い莫大な質量を持った「影」が降り立ってきた。
それは、これまでの怪異とは比べ物にならない圧迫感を持った存在。 事故の瞬間の絶望、死への恐怖、そして橘蓮自身の「諦め」が生み出した、この箱庭の核(コア)――『自暴自棄の影(アポトーシス)』だった。
『橘蓮。お前は全員を救った。英雄として死ね』 『現実へ戻れば、過酷なリハビリと、傷ついた身体が待っている』 『この優しい箱庭にとどまれ。ここで永遠に、幻影の青春を繰り返せばいい』
黒い影が触手を伸ばし、俺の足を、胸を、縛り上げていく。
「くっ……あぁぁぁッ……!」
激痛が脳を揺さぶる。 影の言う通りだ。俺の心の底には、弱い自分がいた。 全員を救えてよかった。俺は十分頑張った。もう、ここで眠ってしまってもいいんじゃないか――そんな甘美な誘惑が、思考を麻痺させていく。
「蓮ッ!!」
葵の叫びが響いた。光となって消えかけていた彼女が、必死に俺の手を掴む。
「諦めないで! お願いだから、私を置いていかないで!」
「橘くん!」
凛が静かな、しかし確固たる声で叫ぶ。
「私たちの物語は、こんな箱庭で終わるために紡がれたのではありません!」
「先輩っ!」
まひろが涙を振り払って叫ぶ。
「まひろのファン第一号なんでしょ!? 現実の本当のステージを、最前列で見に来てくださいよーっ!」
「橘くん!」
冴香が叫ぶ。
「あなたは私たちの時間を動かしてくれた! 今度は……あなたが自分の時間を動かす番です!」
四人の手が、俺の身体に重なった。 消えゆく彼女たちの精神の残光が、俺の中に濁流のように流れ込んでくる。
(そうだ……俺は何のために写真を撮ってきた……?)
偽物の夕暮れを残すためじゃない。 永遠の放課後に逃げるためでもない。
(俺は……彼女たちの『明日』が見たかったんだ!)
俺は愛用のカメラを固く握りしめた。 首から下げていたカメラのレンズが、四人の想いを受けて、眩い太陽のような黄金色の光を放ち始める。
「俺は……死なない!」
俺は黒い影の触手を振り払い、カメラのファインダーを『自暴失意の影』に向けた。
「俺の青春は……こんな箱庭で終わってたまるかッ! 俺は仲間たちのいる、本当の青空へ行くんだあああッ!!」
シャッターを切った。
カシャアアアンッ!!
レンズから放たれた絶対的な光の奔流が、暗雲を裂き、黒い影を、崩壊する箱庭世界全体を真っ白に撃ち抜いた。
「みんな……現実で待ってろッ!!」
視界が完全に白い光に呑み込まれていった。
ピピッ……ピピッ……ピピッ……。
機械的な電子音が、今度はクリアに耳に届く。 消毒液の匂い。硬いベッドの感触。重い瞼。
「……あ……」
声を出そうとしたが、喉がカラカラで擦れた音しか出なかった。
ゆっくりと目を開ける。 そこにあったのは、古い校舎の天井でも、17時45分で止まった時計塔でもなかった。 白い壁、点滴のチューブ、そして窓から差し込む、まぶしいばかりの清々しい朝の光。
「……蓮……? 蓮ッ!?」
ベッドの脇で、誰かが叫んだ。 視線を向けると、そこには私服の上にカーディガンを羽織った葵がいた。 髪は少し伸びていたが、その瞳にはボロボロと溢れる涙と、太陽のような笑顔があった。
「先生! 看護師さん! 蓮が……蓮が目を覚ましました!!」
扉が開いて、病院のスタッフが慌ただしく入ってくる。 その廊下の向こうから、車椅子を押した凛、私服姿のまひろ、そして松葉杖をついた冴香が、走ってくるのが見えた。
「橘くん……! 本当に……本当によかった……!」
凛が目元を拭いながら微笑む。
「先輩のバカ! 心配させやがってーっ!」
まひろがベッドの縁にしがみついて泣きじゃくる。
「遅かったですね、橘くん。……待ちくたびれましたよ」
冴香が、今まで見せたことのない、心からの柔らかい笑顔を見せた。
「みんな……」
俺はかすれた声で、ゆっくりと指先を動かした。半年間の昏睡状態。過酷なリハビリが待っているだろう。怪我の後遺症もあるかもしれない。
だけど、ここには本物の風が吹いている。 窓の外を見上げれば、そこには幾何学模様の歪みなどどこにもない、どこまでも深く、透き通った『本当の青空』が広がっていた。
「おかえり、蓮」
葵が優しく俺の手を握りしめた。
「ああ……ただいま」
俺たちの本当の青春が、ここから始まる。