雪華はぼんやりと、己の両手に嵌められた手枷を見つめた。太い鎖は寝台の柱へ繋がれている。何か悪事を働いた覚えはない。
人を殺したことならあるが、それについては目の前の男から「咎めるつもりはない」と明言された。
では、何故こうなったのか。
考えてみても納得のいく答えは出なかった。
話は、数か月前まで遡る。
◇
師匠の露楽が死んでから、16歳の雪華は山を下りた。
正確には、山とも谷とも呼びづらい、踏み入る者さえ拒むような荒涼とした土地を離れ、彼女は初めてただ独りで人里の町へと足を踏み入れた。
それまで雪華にとっての町とは、露楽に連れられて塩や薬草を買いに出るための通過点でしかなかった。長居したこともなければ、そこに暮らす市井の人々と深く言葉を交わしたこともない。ゆえに、自分がその喧騒の中で働き、日常を営むことになろうとは想像すらしていなかった。
きっかけは、拍子抜けするほど単純なものだった。
町へ着いて間もない日の昼下がり。雪華は漂ってくる香辛料の匂いに誘われ、一軒の飯屋の前で足を止めた。そこでは柄の悪い男たちが、店主を小突いて管を巻いている最中だった。
男たちは店先の卓を蹴り倒し、立ち上る湯気を散らして料理代を渋るどころか、逆に保護代を寄越せと怒鳴り散らしている。
雪華は少し離れた場所から、黒い瞳でその光景を観察した。
数は六人。身のこなしを見るに武功は浅い。周囲には野次馬の目があり、ここで命を奪う必要はない。
そう判断を下すと、雪華は静かに店へ入り、彼らをまとめて叩きのめした。
一人目の手首を掴んで無造作に捻り上げ、二人目の足を払って石畳へ転がす。三人目には踏み込みと同時に鳩尾へ重い掌打を沈めた。残る三人が血相を変えて一斉に襲いかかってきたが、雪華は柳のように身を躱し、流れるような連撃で次々と床へ沈めていく。
腕を折られた者が二人。膝の関節を外された者が一人。顔面を打ち据えられ、歯を数本散らした者が三人。
死者はいない。雪華としては、これでも十分に手加減をしたつもりだった。
顔を無惨に腫らした男たちが、悲鳴を上げながら這うように逃げ去っていく。その後ろ姿を淡々と見送っていた雪華に、呆然とへたり込んでいた店主がおずおずと声をかけてきた。
「あ、あんた……行くところはあるのか?」
「ないです。今から探そうと思っていました」
「だったら、しばらくうちで働かないか? 給仕も足りてないし、今みたいなならず者が来た時に追い返してくれるなら本当に助かる。もちろん給金は出すし、飯も食わせる。二階の物置を片づければ寝泊まりもできるぞ」
その提案に、雪華は少しだけ目を丸くした。
「お金ももらえて、ご飯も食べられて、雨風を凌ぐ場所まであるんですか?」
「そ、そう言ってるだろ」
「じゃあ、働きます」
即答だった。
こうして雪華は、その飯屋の給仕兼用心棒として居を構えることになった。
もっとも、給仕という仕事は、人を殴り倒すことより遥かに難題だった。
重い盆を片手に、狭い客席の間を縫うように歩くこと自体は造作もない。険しい岩場を駆け回る修練に比べれば、平坦な床など目を瞑っていても歩ける。
問題は、絶え間なく飛び交う注文の把握だった。
働き始めて三日目には、早くも店主が頭を抱える事態となっていた。
「おい雪華。あの奥の卓は麺が一つ、肉菜が二つ、酒が二つだ。なんでお前は酒を五つも持って行こうとしてるんだ」
「向こうの卓の分も、一度にまとめて運ぼうかと」
「そういう問題じゃない。さっきから別の卓の注文と混ざってるぞ」
「武功の型なら一度見れば完璧に覚えられるんですけど」
「ここは道場じゃない、注文を覚えろ。あと愛想だ。給仕なんだから、もう少し笑ったらどうだ」
店主はため息をつき、笑顔を作って見せた。雪華もならい、素直に口角だけをくいっと引き上げた。
凄みの効いたその表情に、店主はたまらず一歩後ずさる。
「……やめろ。客が逃げる」
「難しいですね、給仕という仕事は」
「お前の場合、達人相手の果し合いより難しいんだろうな……」
それでも一月も経つ頃には、雪華はそれなりに店の空気に馴染んでいた。
「嬢ちゃん、肉菜二つー」
「分かりました」
手際よく皿を運び、卓を拭き、質の悪い酔客は物理的に放り出す。閉店後には黙々と床を掃き、厨房の片づけを手伝う。
店主の妻からは余った甘い饅頭をこっそりもらい、厨房の親父には「お前さんは細すぎる」と勝手に賄いの飯を大盛りにされた。
雪華は、そんな騒がしくも温かい暮らしを案外気に入っていた。
だからこそ、次に舞い込んだ厄介事に対しては、いつも以上に慎重な立ち回りを要求された。
相手が、ただの街のゴロツキではなかったからだ。