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雪華は、串を指の間に滑らせた。
「聞こえなかったか? こっちへ来いと言って——」
男の言葉が、そこで止まった。
次の瞬間、男の一人の手首に、串の先が突き立っていた。
経穴を、正確に。
「あ、が……っ」
指が開いた。小虎の体が落ちる。それを雪華は、空いた腕で受け止め、後ろへ放った。
「しゃがんで、目を閉じていなさい」
「う、うん!」
左から、短刀が突き出される。
雪華は半歩、身を捻った。刃が脇腹を掠めて空を切る。そのまま相手の手首を取り、肘を支点に捻り上げると、短刀が地面に落ちて乾いた音を立てた。膝裏を軽く蹴る。男は声も出せずに、片膝をついた。
右から、もう一人。
酔いの回った大振りの一撃を、頭を下げてやり過ごす。串の先を、相手の肘の内側の経穴へ。腕が痺れて、短刀を取り落とす。
最後に、頬に傷のある男が、懐から別の刃物を抜こうとした。
雪華は串を、男の目の前でぴたりと止めた。
眼球まで、指一本分。
「……っ」
「抜かないほうがいいです。半日は箸も持てなくなるだけで済みますけど、それ以上は保証しません」
淡々とした声に、男の顔から血の気が引いた。
殺意は込めていない。ただ、必要ならやるという温度だけを、そのまま見せていた。
「ひ、ひいっ」
男たちは這うようにして、路地の外へ逃げていった。
「お、覚えてろよ!」
捨て台詞だけが、路地に反響した。
雪華は小さく息を吐いた。串を軽く振る。血はついていない。
後ろを振り返ると、小虎が、目を見開いたまま固まっていた。
「……」
「もう大丈夫ですよ」
小虎の唇が、震えた。
次の瞬間。
「うわああああん!!」
堰を切ったように、泣き声が路地に響き渡った。
「こわかったよおおおお!!」
「はい」
「ねえちゃんの手が、ぴゅって、ぴゅって……!」
「はい」
「おじちゃんが、おじちゃんがああ!」
雪華は小さく眉を寄せた。
泣き止ませる方法を、知らない。
露楽が泣いた自分をどうあやしてくれたか、記憶を探る。子守唄。……いや、それは雷の夜だけだ。
結局、雪華は小虎の前にしゃがみ込み、目の高さを合わせた。
「小虎」
「うぇ……っく……」
「どうしますか。帰りますか」
小虎はしゃくり上げながら、雪華の顔を見た。
「……かえる」
「分かりました。では帰りましょう」
雪華は立ち上がり、小虎に手を差し出した。
小虎は、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、その手をぎゅっと握った。
「猫は」
「……もう、いい」
「そうですか」
ごく普通の調子で答えて、雪華は手を引いて路地を出た。
握られた手のひらは、飴でべたべたしていた。
◇
宿に戻ると、入口で座長が仁王立ちしていた。
「雪! どこへ行ってた!」
座長の怒声に、小虎がびくりと肩を揺らして、雪華の背に隠れる。
「市場です。小虎が外に出たので、ついていきました」
「ついて……ついていっただと? 止めろと言っただろうが!」
「ごめんなさい」
座長は、頭を抱えた。
「女将から聞いたぞ。路地裏で、地回りの連中と一悶着あったそうだな。三人が血相変えて通りを逃げていくのを、八百屋の親父が見たとよ」
「ホントごめんなさい」
座長は唾を飛ばした。
「あいつらは、この辺りを仕切ってる親分の子分だ。逆恨みされたらどうする! 明日の興行を邪魔されでもしたら、こっちは商売あがったりなんだぞ!」
なんと。トラブルになったのだから、殺しておくべきだったか。子供の目の前だからと手加減すべきでは無かった。
やはり師匠の教えは正道や血教と関係なくても通じるのかもしれない。
芸人たちが、廊下の奥から顔を覗かせている。ある者は口を押さえ、ある者は肩を震わせていた。
「大体お前、何者だ。あの身のこなしは、ただの娘のものじゃねえ。さてはどこかの家出娘か何かだろう。面倒は御免だと言ってるんだ」
「違います」
「そうだ」
重なった声が、二つあった。
雪華と、もう一人。
……宿の入口の戸が、音もなく開いていた。
雪華の背筋に、冷たいものが走った。
聞き慣れた声。最悪の予感とともに、ゆっくりと振り返る。
「……」
そこに立っていたのは、岳清玄だった。
夕暮れの光を背にして、整った顔に静かな笑みを浮かべている。ただし、その目だけは一切笑っていなかった。
「……どうして」
雪華の声は、思ったより掠れていた。
「卯の刻に迎えに行くと言っただろう」
岳清玄は、一歩、宿の中へ入った。
「部屋は空だった。机の上に、簪が二本。湯呑みは水洗いだけで済ませたな?少しだが指甲花の匂いがした」
「……」
「そこから通用門、飴屋の親父、旅芸人の荷車だ。あとは、街道を辿るだけだった」
岳清玄の視線が、雪華の髪から頬、服装へと落ちていく。
「今回は本気だったな」
(湯呑み……お湯で洗っておけば良かった)
雪華は、今さらながら強烈に後悔した。
座長が、岳清玄と雪華を交互に見比べて、おそるおそる口を開いた。
「あー……あんた、この娘の保護者か」
「そんなところだ」
「家出なら家出と、最初に言ってほしかったんだがな」
「迷惑をかけた」
岳清玄は、座長に向かって軽く頭を下げた。
「うちの者が世話になった。詫びはする。先ほど話に出た地回りの件は、こちらで話をつけておく」
「あんたが?」
「明日の朝までに片をつける。興行に障りは出さない」
座長は目を瞬いた。静かな声に、不思議な説得力があった。
「……なら、頼もうか」
「ああ」
そのやり取りの横で、小虎が、雪華の背中からひょいと顔を出した。
「あのね! あのね、このねえちゃんね、串でね! おじちゃんをぴゅって、ぱしって! すごかったの!」
「小虎」
「でもね、おじちゃん殺さなかったの! 『半日は箸が持てない』って言っただけ!」
「小虎、静かにしなさい」
雪華が制止しても、小虎は止まらない。目を輝かせて、岳清玄に向かって身振り手振りで語り続ける。
岳清玄は、黙ってそれを聞いていた。
最後まで聞いたあと、ほんの一瞬だけ、雪華へ視線を向けた。
その目に、叱責の色はなかった。
……あったのは、もう少し厄介なものだった。
「行くぞ」
「……はい」
雪華は観念して、頷いた。
入口を出ようとして、袖を引かれる。振り返ると、小虎が目に涙を浮かべて見上げていた。
「ねえちゃん、行っちゃうの?」
「はい」
「また来る?」
「……どうでしょう」
雪華は小虎の頭に、軽く手を置いた。
「飴は、ほどほどにしなさい」
それだけ言って、背を向けた。
座長が、手を振った。
「達者でな、雪! 次は家出じゃなくて、ちゃんと入座して来い!」
「……是非に」
◇
半ば連行される形で正門を通された。修練場の奥に広い農場が見える。なんとなしに見つめていると、岳清玄から声がかかった。
「もうすぐ収穫期だ。普段は専門の農民が管理しているが、収穫と種まきは門徒全員で手伝うことになっている。お前にも手伝ってもらうぞ」
「……はい」
明日にでもいなくなってやろうと考えているのに、平気で先の予定まで決定事項化の様に命じてくる。
やがて通されたのは岳清玄の屋敷の奥にある静室だった。
日はとうに落ちている。外部の音が遮断された静寂が満ちていた。
「座りなさい」
岳清玄に促され、雪華は不服そうに腰を下ろした。
「何か飲むか」
「いりません」
ぷいと顔を背ける。
岳清玄は構わず棚から茶葉を取り出し、手慣れた動作で湯を注ぎ始めた。
その背中越しに、雪華は室内へ視線を走らせる。
壁際、卓上、棚の隅。いくつもの薬巾着が目に入った。
(……内功を散らす薬か?)
前回よりも強い手段に出る可能性は高い。
今ここで逃げるなら——窓まで三歩。だが、岳清玄との距離はそれよりも近い。扉へ向かっても先回りされる。茶をぶちまけるか、床板を蹴り抜くか。幾つかの手筋を算段するが、どれも成功率は低かった。
袖口の中で、飴の串を無意識に指の間へ挟んでいる。簪の代わりにもならないのに。
「雪華」
急に名を呼ばれ、肩が跳ねる。
岳清玄の手が止まった。怯えさせるつもりはなかったのだが、茶杯を持ったまま少女の強張りを見つめる。
ふと、かつて師叔父が漏らしていた言葉が頭をよぎった。
——囚われた鳥は、どれほど安全な籠に入れて餌をやろうと、閉じ込められていることそのものに絶望して果てることがある、と。
目の前の少女が、その鳥に重なった。
岳清玄は静かに息を吐き、向かいに腰を下ろした。
「お前を痛めつけたいわけではない」
雪華は口を結んだままだ。
「時間をかけていい。正道を学んでいきなさい」
雪華の眉がぴくりと動く。
「……私は、武人になりたいわけでもないんです。どうしてそこまで関わろうとするんですか」
湯気がふたつの影の間に揺れた。
「一度、危険な技術を身につけてしまったからだ」
雪華が睨みつけた。
「それだけですか」
岳清玄は茶杯を置いた。
彼女の身に染みついているのは、生半可な護身術ではない。人の急所を突き、効率よく破壊し、相手の隙を突くための歪んだ殺人術だ。それを知識としてではなく、呼吸するように扱えてしまう。
だが雪華は、無暗に狂気を振るう人間でもない。
今日の路地裏がそうだった。三人の男を相手に、骨一本折らず、血も流さず、子供の目を気にして収めてみせた。
むしろ恐ろしいほど冷徹に、損得を計算する。相手の人数、自身の損害、逃走経路、その後の報復——すべてを天秤にかけ、最も傷の浅い道を選ぶ。
だからこそ野放しにはできない。悪意がなくとも、正しく導かれなかった圧倒的な力は、いつか本人そのものを破滅させる。
「お前を悪人だとは思っていない」
「だったら——」
「だからこそだ」
雪華は言葉を詰まらせた。
「力を使いたくないならそれでいい。剣を握れとも言わない。ただ、己が持つ力の重さと、その扱い方だけは知っておけ」
雪華の顔にはあからさまな不満が浮かんでいる。勝手に捕らえられ、勝手に心配され、説教を垂れられているのだから当然だ。
理不尽なのは分かっている。それでも、この手を放す気にはなれなかった。
……次に逃げたら、相応の罰を与える。
そう告げて釘を刺そうとしたが、言葉は喉の奥で消えた。
目の前の少女は、すでにここまでの手回しをして本気で逃げようとしたのだ。髪を染め、顔を変え、周囲の認識すら操作して。
ここで力で縛り付ければ、次はさらに過激な手段を選ぶだろう。
「……」
「……何ですか」
「いや」
岳清玄は茶を一口すすった。
「今日はもういい」
雪華が怪訝そうに目を丸くする。叱責を覚悟していたのだろう。
「……簪は」
「まだだ」
「ケチ」
「ただし」
「……はい」
「髪は元に戻しなさい」
雪華は自分の赤みがかった毛先をつまみ、淡々と言った。
「これ、しばらく戻りませんよ」
「……何?」
「指甲花ですから」
固まる岳清玄の顔を見て、雪華は胸の奥がほんの少しだけすっとするのを感じていた。