その夜、岳清玄がようやく雪華を部屋へ帰そうとしたところで、扉の外から声がかかった。
「岳師範代。聞風門の宋阿蘭様がいらっしゃっています」
岳清玄は茶杯を置き、扉へ目を向けた。こんな時刻に他門の者が訪ねてくるだけでも珍しいのに、相手が宋阿蘭となれば、ろくな用向きではあるまい。まして今日は、雪華の脱走騒ぎの後始末だけで十分に手を焼かされている。これ以上何かあるなら明日にしてもらいたかった。
「用件は何だ」
「武林盟からのお達しに関わることだそうで、雪華殿もお連れするようにと」
その名が出た途端、岳清玄の眉間に皺が寄った。
「雪華を? 何故だ」
「詳しいことは伺っておりません。ただ、門主より、つべこべ言わずお話しするようにと」
「……随分な言い草だな」
使いの者に文句を言っても仕方がないと分かってはいたが、岳清玄は不機嫌を隠さなかった。武林盟の名を出されれば、蒼天剣門とて無下にはできない。まして門主が既に承知しているというのなら、ここで追い返すわけにもいかなかった。
そのやり取りを聞いていた雪華は、心底嫌そうに目を伏せた。ようやく説教が終わったと思ったのに、今度は見知らぬ者に会わされるらしい。今日は朝からろくなことがなかった。果物飴を食べていた頃が、もう随分昔のことのように思える。
「……私は、もう寝たいのですが」
「分かっている」
岳清玄はそう答えたものの、すぐには続けられなかった。雪華はその沈黙だけで、願いが聞き入れられないことを察したらしい。何も言わずに立ち上がり、袖を整えると、扉の方へ歩き出した。
客間に着くと、卓を挟んだ向こうに一人の女が座っていた。年の頃は岳清玄とさほど変わらないだろうか。淡い色の衣をまとい、髪を簡素に結い上げた姿には、武門の使者というより、親しい家を訪ねてきた客のような気安さがあった。女は二人を見るなりぱっと顔を明るくし、手を振ってみせた。
「あら、来た来た。遅いわよ、岳清玄。女の子を連れてくるのに、どれだけかかるの」
「呼びつけておいて随分な挨拶だな。こんな夜更けに何の用だ」
「仕事よ、仕事。私だって好きで来たわけじゃないんだから」
女は悪びれもせずに答えると、岳清玄の脇に立つ雪華へ視線を移した。
「あなたが雪華ね。あらまあ、聞いていたよりずっと可愛いじゃない。私は宋阿蘭。聞風門から来たの。よろしくね」
「……雪華です」
「うんうん、知ってるわ。さ、座って座って。疲れたでしょう」
勧められるまま腰を下ろすと、宋阿蘭は卓上の小さな薬壺を取り上げ、用意してあった杯に中身を注いだ。薄い褐色の液体から、茶とも薬ともつかない匂いが立ち上る。
「まずはこれを飲んでちょうだい」
雪華が杯に目を落とすより早く、岳清玄が口を挟んだ。
「待て。何を飲ませるつもりだ」
「見れば分かるでしょう。お薬よ」
「何の薬かと聞いている」
「そんな怖い顔しないでよ。毒じゃないわ。あなたのところの門主にも許しは取ってあるし、武林盟からの正式な依頼なんだから」
「門主が許可したのは面会だろう。薬を飲ませることまで許したとは聞いていない」
「あら、細かいわねえ。ちゃんとお話は通してあるわよ」
「ならば何の薬か答えろ。答えられないものを、この娘に飲ませるわけにはいかん」
岳清玄が杯を取り上げようとすると、宋阿蘭は先にそれを引き寄せた。相変わらず笑ってはいたが、指先で杯の縁をなぞる仕草には、どこか苛立ちが滲んでいた。
「岳清玄。私が何のために呼ばれたか、本当に分かってないの?」
「分かっているから聞いている」
「だったら、これ以上面倒にしないでちょうだい。武林盟があの子について何を確かめたがっているか、あなたも知らないわけじゃないでしょう」
岳清玄は口を閉ざした。宋阿蘭はその顔をしばらく眺めていたが、やがて肩をすくめ、薬壺を卓の中央へ押し出した。
「身体を壊すようなものじゃないわ。少し気分が悪くなるかもしれないけど、私がちゃんと診ている。それでいい?」
「よくはない」
「じゃあ、どうするの? 武林盟に、蒼天剣門は調べを拒むと報告すればいい?」
宋阿蘭の声は明るいままだった。だが、そこに含まれた意味は明白だった。岳清玄が拒めば、雪華への疑いは晴れないどころか、蒼天剣門が何かを隠していると受け取られかねない。
「……私も同席する」
「ええ? 女の子同士でお喋りするつもりだったのに」
「それが条件だ。薬を飲ませる以上、途中で異変があれば私が止める」
「はいはい。分かったわよ。まったく、頑固なんだから」
宋阿蘭はようやく杯を雪華の前へ戻した。岳清玄はその手元を見届けてから、雪華へ向き直った。
「……すまない。長くはかからせない」
雪華は岳清玄を見上げた。先ほどまで自分を逃がすまいとしていた男が、今は別の誰かから自分を守ろうとしているらしい。もっとも、その相手に逆らい続けるつもりはないようだった。
「では、終わったら、さつまいもの甘露煮が食べたいです」
「……何?」
「甘いものが食べたいので」
岳清玄は一瞬言葉を失ったが、雪華が冗談を言っているわけではないと分かると、小さく息を吐いた。
「分かった。厨房に言っておこう」
「ありがとうございます」
「あら、いいわねえ。私も食べたい」
宋阿蘭は楽しそうに笑った。
「じゃあ、さっさと済ませちゃいましょうか」
雪華の前に杯を押しやり、先ほどと変わらない調子で促す。
「さ、飲んで。大丈夫よ。そこの人みたいに、嫌がる子の口をこじ開けて毒を流し込んだりしないから」
雪華は杯を見つめた。
嫌がれば飲まずに済む、という意味ではないことくらい分かる。岳清玄がここにいる以上、少なくともその場で殺されることはないだろうが、だからといって何をされても安心できるわけではなかった。雪華は杯を取り上げ、まず匂いを確かめてから、ほんの少しだけ口をつけた。
苦い。土を煮出したような癖のある苦味の奥に、濃く淹れた茶の渋みがあった。
麻黄だ。
それも、ずいぶん強い。土臭い苦味の奥には濃く煮出した茶の渋みがあり、どちらも普段口にするものより強く感じられた。雪華はもう一口含み、舌に残る味を確かめてから、杯を置いた。
麻黄は気を巡らせる薬として用いられる端的に言えば風邪薬だ。眠気や倦怠を払う一方で、効きすぎれば動悸や眩暈を招き、胸が騒いで落ち着かなくなることもある。茶にも目を冴えさせる作用があり、濃く飲めば眠れなくなったり、気持ちが妙に昂ぶったりする。その作用が重なれば、身体ばかりが緊張して、理由もなく不安に駆られることがあるだろう。
そう考えると、何のために飲ませるのかも見当がついた。
人は恐怖を感じると、心臓が速く打ち、呼吸が浅くなる。結果、物事を落ち着いて考えることが難しくなる。だが、逆に身体だけをそのような状態へ追い込まれたらどうなるのだろう。恐ろしいことなど何も起きていなくても、胸が騒げば、頭はその理由を探してしまう。
まあ、ただの推測ではあるが。
個人差があるとはいえ、今から答え合わせが始まる。
雪華は宋阿蘭を見た。女はにこにこと笑いながら、杯が空になるのを待っている。
使う者が使えば、厄介な薬だ。
「全部飲んでね」
宋阿蘭がにこにこと言った。
雪華は残りを飲み干した。苦味が喉の奥に張りつき、しばらく消えなかった。
「偉い偉い。じゃあ、少しお話しましょうか」
宋阿蘭は空になった杯を引き寄せると、雪華の顔を覗き込んだ。
「今日は街へ出たんですって? 何をして遊んできたの?」
「……遊んでいたわけではありません」
「あら、そうなの? でも果物飴を買ったって聞いたわよ。美味しかった?」
「はい」
「いいわねえ。私も好きなのよ、ああいうの。どんな果物だった?」
「……苺です」
雑談から入るつもりらしい。私も好きとは共感で距離を縮めようという腹積もりか。
「苺! 懐かしいわねえ。子供の頃、よく食べたわ。酸っぱいのが蜜に合うのよね。あなた、甘いものが好きなの?」
「好きです」
何より真気より甘いものが欲しくなる武功もある。そういえば、ここに来てから真気をあまり使わない武功というのは聞いたことが無い。
何か面倒ごとにつながるのだろうか。
「じゃあ、さつまいもの甘露煮も好きなのね。ほかには? お饅頭とか、胡麻団子とか」
「どちらも好きです」
「ふふ、可愛い。岳清玄、ちゃんと甘いもの食べさせてあげてる?」
「……今は関係ないだろう」
「関係あるわよ。子供が何を食べて育ったかって、大事なことなんだから」
宋阿蘭は平然と言い返し、また雪華へ向き直った。山では甘いものを食べられたのか、師は料理をしたのか、普段はどんなものを食べていたのか。質問は次々に続いたが、どれも取り立てて答えに困るようなものではなかった。
宋阿蘭は声を上げて笑った。雪華はその笑い声を聞きながら、胸の奥に妙な違和感を覚えた。別におかしなことを言われたわけではないのに、女が笑うたび、自分が何か間違ったことを答えたような気がする。
心臓が少し速く打っていた。
薬が効き始めたのだろう。雪華は呼吸を整えようとしたが、息を吸うことを意識すると、かえって吸い足りないような気がした。卓の向こうでは宋阿蘭が、今度は自分の子供の頃の話をしている。聞風門へ入ったばかりの頃、薬草を間違えて師に叱られたのだという。
「それでね、三日も薬庫の掃除をさせられたの。ひどいと思わない?」
「……そうですね」
そうですね。とは間違った答えだろうか。反抗の意思を見ているのだろうか。
「でしょう? でも今考えると、あれくらいで済んでよかったのよねえ。薬を間違えると大変なことになるもの。雪華ちゃんは、薬草に詳しい?」
「少しは」
いや、ここは知らないと答えるべきだったか?薬の知識は毒にもなりえる。
「へえ、偉いわね。誰に教わったの?」
「師匠です」
「何でも教えてくれる師匠だったのね」
「……はい」
答えてから、雪華は自分の声が少し硬くなっていたことに気づいた。宋阿蘭は相変わらず笑っていたが、先ほどまでと同じ笑顔なのかどうか、急に自信がなくなった。
師のことを尋ねられたからだろうか。何か隠していると思われただろうか。いや、そんなことはない。質問されただけだ。答えも間違っていない。
それなのに、胸の騒がしさは少しも収まらなかった。
「雪華ちゃん?」
「……はい」
「大丈夫? 少し顔が赤いわね」
「大丈夫です」
「そう? 具合が悪かったら言ってね」
雪華は頷いたが、何が大丈夫なのか、自分でもよく分からなかった。心臓は速く打ち、手のひらには汗が滲んでいる。頭の中では、宋阿蘭が次に何を聞いてくるのか、そればかりが気になっていた。
何か恐ろしい質問をされたわけではない。むしろ、先ほどから聞かれているのは食べ物や昔の暮らしについてばかりだ。それなのに、次の問いを待つだけで息苦しくなる。
違う。
雪華は膝の上で手を握った。
不安になる理由があるのではない。身体が先に不安を感じ、その理由を頭が探しているのだ。そう分かっていても、今度は、自分の判断がどこまで信用できるのかという疑いが湧いてくる。宋阿蘭が本当に何気なく話しているのか、それとも一つ一つの返答に何かを見ているのか、考えれば考えるほど分からなくなった。
宋阿蘭はそんな雪華をしばらく眺めていたが、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、雪華ちゃん」
「……はい」
「不老不死について、何か知ってる?」
用法用量守りましょうっていう話。