店に嫌がらせをしていた者たちは、正道門派の末端門徒であった。
それも『蒼天剣門』と呼ばれる名門の看板を背負った者たちだった。各地に分舵を持ち、剣法のみならず内功や歩法にも優れた正道の大派。その末端とはいえ、立派な門章を胸につけた五人の男たちが、ある日から頻繁に店へ入り浸るようになった。
料理を平らげても銭は払わず、酒を追加しても知らぬ顔。他の客に絡み、店主にはひどく横柄な態度をとる。
ある日、意を決して会計を求めた雪華に対し、男の一人が鼻で笑い飛ばした。
「お前らは世間の道理ってやつが分かってないな。俺たち蒼天剣門がこの辺りの治安を睨んでるからこそ、こうして平穏に商売できてるんだろうが。多少の酒や料理くらい、その礼として差し出すのが筋だろうが」
雪華は瞬きを一つして、淡々と返した。
「それなら逆に、うちがお金をもらう方じゃないですか?」
「あ? 何だと?」
「治安を守るのが仕事なら、頼んだ側が対価を払うのが道理ですよね。でも、うちはあなたたちに何も頼んでいません。頼まれてもいない仕事を勝手にして、そのお礼と称して料理を奪っていくのは、ただの強盗と変わりません」
背後で店主が、慌てて小さく咳払いをした。これ以上余計な火種を撒くな、という必死の合図だ。
雪華はそれを受け、素直に口を閉ざした。
だが五人は翌日も、そしてその翌日も当然のように現れた。
中には、給仕をする雪華の容姿に目をつけ、ちょっかいを出そうとする者もいた。肩へ伸びてきた卑しい手首を無造作に掴み、ほんの少しだけ力を込めて捻る。男の顔が一瞬で青ざめた。
「い、痛っ! 離せ!」
「仕事の邪魔です。触らないでください」
最近覚えたての、客前でもかろうじて使える(と本人は思っている)営業用の笑みを浮かべる。男は脂汗を流して余計に青ざめた。
それでも、彼らはそれ以上の強硬手段には出なかった。
『正道とは、無闇に対立するな』
生前、露楽から耳にタコができるほど聞かされた教えだ。
――相手が少数で、どうしても争いを避けられず、かつ後腐れなく処理できる状況なら、迷わず皆殺しにして痕跡を消せ。
――反対に相手が多数なら、決して一人も殺すな。妥協点を探り、対話の可能性を残せ。
――ただし、相手が『血教』の場合は少し違う。奴らにはできるだけ内部対立を煽れ。そして、どうしても向こうから牙を剥いてきたなら、相手が何人いようと一人残らず徹底的に殺し尽くせ。
それが出来ないならば――何処までも、何処までも逃げ続けろ。
露楽はいつも、その血生臭い教訓の最後に、ふっと寂しげな笑みを浮かべてこう付け加えていた。
『……まあ、どれも最終手段だからね』
雪華自身も、それがずいぶんと極端で偏った教えであると感じた。だが、普段は適当な師匠がそこだけはひどく真面目に語っていたのだ。ならば、そこには必ず生き残るための理由があるのだろう。
ゆえに雪華は、店を荒らす五人をその場で叩きのめすことはせず、たっぷり一月ほどの時間をかけて情報を集めた。
町を歩く蒼天剣門の門徒たちの振る舞いを観察し、酒楼での評判に耳を傾ける。すると、同じ門派でも横柄な者ばかりではないことが分かってきた。真面目に鍛錬に励む者もいれば、困っている町人を無償で助ける者もいる。
その中から雪華が「話が通じる相手」として見定めたのが、岳清玄(がく・せいげん)という若い高手だった。
年は二十五ほど。武の世界においては驚くほど若いが、すでに蒼天剣門の師範代の一人として後進を指導する立場にあるという。
ある時は倒れた荷車を老婆と一緒に泥まみれになって起こし、別の日には露店を壊した若い門徒二人を厳しく呼び止め、その場で自腹で弁償させていた。
雪華は一度の善行では信用しなかった。
二度、三度、四度。
五度目まで徹底的に素行を観察し、それでも彼の実直な印象が揺るがなかったため、ようやく接触を図った。
「あの。少しご相談したいことがあるんですけど、お時間いいですか?」
それから三日後の昼。
例の五人は、見違えるほど悲惨な姿で店を訪れた。
一人は前歯が欠け、一人は腕を吊り、残りの者たちも顔中を無惨に腫らしている。彼らは店主の前に並ぶと、震える体で深々と頭を下げた。
「こ、これまでの度重なる無礼、本当に申し訳ありませんでした……! 今後は二度と、この店にも、こちらの方にも一切ご迷惑はおかけしません!」
店主にこれまでの無銭飲食代を握らせ、逃げるように去っていく背中を見送りながら、雪華は密かに胸を撫で下ろした。
(よかった。ちゃんと上に話の通じる、まともな人間がいる組織だった)
これで正道の厄介な連中と血みどろの争いをせずに済む。
少なくとも、その時まではそう信じていた。
その日の深い夜。
閉店後、雪華が裏庭で厨房の洗い桶を片づけていると、頭上の屋根から微かな衣擦れの音が響き、五つの気配が音もなく中庭へ落ちてきた。
昼間、泣きそうな顔で謝罪に来たあの五人だった。
今度は全員が、鈍い月光を反射する真剣を抜き放ち、殺意を剥き出しにしている。
雪華はため息をつき、持っていた桶を静かに地面へ置いた。
「……ああ。本当に馬鹿なんですね、あなたたち」
「抜かせ、この小娘が……! お前が岳師範代に余計な告げ口をしたせいで、俺たちは半殺しにされたんだぞ!」
「私のせいというより、あなたたちが自発的に悪さをしたから、正当な罰を受けただけじゃないですか?」
「黙れッ!」
激昂した一人が、鋭い踏み込みと共に剣を上段から振り下ろした。
雪華は視線の端で、閉じられた店の戸を確認する。
中には店主夫妻、厨房の親父、住み込みの小僧が深く眠っている。ここで自分が逃げれば、怒りに駆られた彼らは店の人間に刃を向けるだろう。
雪華は結い上げていた黒髪から、鋭利な一本の簪(かんざし)を静かに引き抜いた。雪華の簪は元々二本差しており、一本抜いた程度では髪は乱れない。
「そんな棒切れで何をする気だ!」
刃が雪華の脳天を割る直前、彼女の姿がふっと月光の中から掻き消えた。
まるで影が伸びるような異様な歩法で男の死角へ潜り込み、簪の先端で肩口の経穴を正確に穿つ。右腕から完全に力が抜け、カランと虚しい音を立てて剣が落ちた。
男が驚愕の声を上げる暇も与えず、そのまま二人目の膝関節を蹴り砕き、三人目の手首を簪の柄で打ち据える。四人目の必死の横薙ぎを紙一重で潜り抜け、懐へ入り込んで鳩尾へ容赦のない肘打ちを叩き込む。最後の一人が恐怖に顔を引き攣らせて後退するより早く、地を這うような足払いでその体を宙に浮かせた。
十息(約三十秒)もかからない。
剣を持った五人の男が、あっという間に地面へ転がり、呻き声すら上げられずに悶絶していた。
雪華は、最も近くで倒れていた男の横へ静かにしゃがみ込んだ。
今度は経穴を狙わない。簪を逆手に持ち直し、その鋭い先端を男の柔らかい喉笛へピタリと当てる。
「ま、待て……! やめ――」
雪華は命乞いに一切の感情を動かさない。
ぷつり。
一人目。次に二人目。
声を上げさせる暇もなく、正確に急所を貫き、確実に命を刈り取る。
そして三人目へ向き直り、血に濡れた簪を無造作に振り上げた。
――少人数。夜。目撃者はいない。
ならば、皆殺しにして痕跡を完全に消す。教えが、雪華の脳内で再生されていた。
だが。
簪の先端が三人目の喉の皮一枚に触れた瞬間、雪華の腕がピタリと止まった。
ゆっくりと顔を上げる。
すぐ上の屋根に、先ほどまでは存在しなかった『重い気配』が一つ、静かに佇んでいた。
いや、今来たわけではない。少し前からそこにいて、気配を完全に殺していたのだ。愚かな五人を密かに追尾してきたのだろう。
瓦を鳴らすこともなくふわりと中庭へ降り立ったのは、他でもない岳清玄だった。
岳清玄はまず、地面に折り重なる五人の部下を一瞥した。
すでに二人が絶命していることは、武人である彼の目には一瞬で理解できたはずだ。本当に、手際の良い娘だ。相当仕込まれているように感じた。
次いで、血塗られた簪を握る雪華へ視線を移す。しかし、その端正な顔立ちに怒りや憎悪の色は浮かんでいなかった。
「……すまなかった。私の完全な監督不足だ。もっと早くこいつらの不穏な動きに気づいていれば、ここへ来る前に力尽くでも止められた」
予想外の謝罪に、雪華は少し意外そうに瞬きをした。
「別にいいですよ。向こうから殺しに来たので、返り討ちにしただけですから」
岳清玄は、閉ざされたままの店の戸へ視線を向けた。
「君がここにいなければ、何の罪もない店の人たちがどうなっていたか分からない。だから、今の防衛の状況において、君がこの二人を殺したことを正道として責めるつもりはない」
その言葉を聞き、雪華は微かに肩の力を抜いた。
話の分かる相手で助かった。これでこの厄介事は終わりだ。そう思った。
だが、岳清玄の鋭い視線が、雪華の足元――先ほどの特異な動きの残滓へ落ちた。
「ただ、ひとつだけ聞かせてほしい。さっきの、影を這うようなその歩法は……一体誰に習った?」
裏庭の空気が、一瞬にして凍りついた。
明日も投稿します!