雪華は表情を崩さず、簪にこびりついた血を懐の布で拭い取った。
「……血教か何かの刺客だとでも疑っているんですか?変な憶測を巡らさないで下さい。 とても真面目で、私には誠実な人でした」
雪華は嘘ではない。と自分に言い訳をした。
岳清玄は、探るような目で雪華をじっと見据える。
「君が邪教の徒だと言いがかりをつけるために聞いているわけではない。ただ、その歩法を知っている者を、私は見過ごすわけにはいかないんだ」
「でも、師匠はもう亡くなっています。亡くなった人を今から調べようにも、本人には何も聞けませんよ」
「なら、遺品でも構わない。何か残っているものがあるなら、見せてほしい」
「嫌ですよ。あなたたちみたいな正道の人でも、必要だと思ったら遺品でも容赦なく分解して中まで調べるでしょう?」
図星を突かれたのか、岳清玄が一瞬言葉に詰まった。
「……無闇に壊すつもりはない」
「中までは調べるんですね?」
その時だった。
遠くの闇の底から、次々と新たな気配がこの飯屋へ向かって近づいてくるのが感じ取れた。
一つ。二つ。五つ。十。
蒼天剣門の門徒たちだろう。先ほどの騒ぎか、あるいは岳清玄の合図か。
雪華は即座に脳内で敵の戦力を弾き出す。
(多いな)
完全に包囲されれば、いくら自分でも防ぎきれない。何より、目の前で静かに剣気を練り上げている岳清玄だけでも、純粋な武の力量は自分より明らかに上だ。
仮に奇跡的に彼を退けられたとしても、その後に大勢から袋叩きにされる。雪華の頭の中で逃走経路が三本組み上がった。
殺さない。一人も。そして、この場から最速で逃げる。
逃げることに関してだけは、雪華には絶対の自信がある。露楽が特に念入りに、それこそ骨の髄まで叩き込んだ技術の一つだからだ。
――勝てない相手からは、迷わず逃げろ。
――勝てても面倒が予想されるなら、逃げろ。
――追手が多ければ、なおさら全力で逃げろ。
武人としての面子や矜持など、生き残ることに比べれば路傍の石ほどの価値もない。
雪華が音もなく、半歩だけ足を引いた。
岳清玄もその重心の変化に即座に気づき、ゆっくりと腰を落として鯉口を切る構えをとった。
これは言葉だけの詰問では終わらない。強行突破するしかない。
雪華がそう決断し、筋肉を弾けさせようとしたその時。
岳清玄が、ひどく静かな声で言った。
「君のその歩法は――私の師を惨殺した男に、ひどく似ている」
雪華は合点がいった。なるほど。それならば、この男がここまで執拗に食い下がる理由も分かる。
とはいえ、露楽が昔、どこで誰を殺したかなど雪華は本当に知らない。過去のことを尋ねても、あの師匠はいつも困ったように笑って誤魔化すばかりだった。
怪しい言動は山ほどあるご仁ではあったのは確かだ。
(それでも……私には関係ない)
彼が過去にどれほどの罪を背負っていようと、雪華にとってはたった一人の、大切な師匠だった。
だから、その名をあっさりと他人に売る気はない。
「そうですか。でも、私には本当に分かりません。師匠が昔どこで何をしていたのかも、誰と戦ったことがあるのかも、ほとんど聞いていませんから」
岳清玄は、悲痛な光を帯びた瞳で小さく頷いた。
「そうだろうな。君が私に嘘をついているとも思っていない。ただ、私にも引けない理由があり、確かめなければならない事情がある」
周囲の屋根に、蒼天剣門の門徒たちの気配が満ちていく。夜風が剣呑な殺気を運んでくる。
だが、誰も中庭へは降りてこない。岳清玄が手で制しているのだろう。
雪華は脳内の逃走経路を、さらに三本増やして再構築した。
そんな雪華の様子を見ながら、岳清玄が提案した。
「このまま平行線で話していても埒が明かない。私と『武比(ぶひ)』をしよう」
「武比、ですか?」
「ああ。正式な一対一の立ち合いだ。私が勝ったら、君の師匠の名を教えてほしい。それから、場合によっては少し我々の調査に同行してもらうことになるかもしれない。逆に君が勝ったなら、私たちは今後一切君には近づかない。この店にも手を出さないと誓おう。それでどうだ?」
雪華の頭の中に一瞬、
――奴隷契約。
という不穏な四文字が浮かんだ。しかし、すぐにその考えを振り払う。
目の前の男の行動は、この一月かけてじっくりと観察してきた。
彼には確かな義侠心がある。少なくとも、権力を笠に着て弱い者を虐げるような人間ではない。自分の門下を二人も殺した雪華を前にしても、状況を冷静に見極め、頭ごなしに責めることはしなかった。
全部は信用できない。半分も難しいかもしれない。
しかし、自分がここから逃げ去った後も、残された店の人々の安全を保証できるのは大きい。
雪華は少しだけ思案する素振りを見せ、やがて静かに頷いた。
「……分かりました。その条件なら、受けます」
ただし、頭の中に緻密に組み上げた三本の逃走経路だけは、放棄しなかった。
少ないですが、切り的にこの辺りで切りました