次は10/10土曜です。次から土曜6時投稿です。
やがて彼は、腰の長剣を鞘ごとゆっくりと抜き取ると、石畳の上へ静かに横たえた。
「武器は使わない。君も、その物騒な簪(かんざし)はしまってくれないか。使われれば、武比ではなくただの殺しあいになってしまう」
「私の得物なんですけど……まあ、言い返せないですね」
雪華は肩をすくめ、先端の血を腕で拭うと、黒髪の奥深くへ戻した。
露楽から叩き込まれた技に、正々堂々とした『試合向き』の型など一つもない。そもそも、武芸の作法すら教わっていない。
確実に仕留めるか。泥のように逃げ果せるか。雪華の知る戦いは、いつもその二択だった。
「場所はここで?」
「ああ。門徒には絶対に手を出すなと命じてある。店にも損害は出させない。勝敗は、どちらかが降参するか、動けなくなった時点で決めよう」
「私が死んだら?」
「死なせない」
一切の間もない即答だった。
雪華は少しだけ目を細め、目の前の男の輪郭を確かめるように見据える。
「随分と余裕ですね」
「君よりは長く、この世界で飯を食っている」
「……実は結構な年寄りですか?」
周囲の屋根で待機していた門徒たちの数人が、ひっと息を呑むのが分かった。蒼天剣門の若き至宝に向かって放つ口ではない。
だが当の岳清玄は、可笑しそうに少し眉を揺らしただけだった。
「……露楽は、年長者に対する口の利き方も教えなかったのか」
「特には」
「そうか」
そこまで言葉を交わした瞬間、岳清玄の纏う空気が鋭く研ぎ澄まされた。
肩からすっと余分な力が抜け、両腕は自然に下げられたまま。一見すれば無防備にすら見える。
しかし、雪華の身体は反射的に半歩、後ろへ下がっていた。肌がゾワリと粟立つ。
――強い。
どこへ足を踏み出そうと、即座に捉えられる。そう直感させる、岩山のような立ち姿だった。
雪華も重心を深く落とす。
内功の深さは、間違いなく向こうが上だ。
膂力も、修羅場を潜った数も及ばない。
ならば、自分が勝てる要素は何か。
速度。間合い。そして、相手の意図を裏切り続ける未知の軌道。
そこに全神経を注ぎ込む。
「いつでも」
「じゃあ、遠慮なく」
雪華の輪郭が、陽炎のようにブレた。
次の瞬間には、彼女の身体は岳清玄の左側へと滑り込んでいる。先ほど門徒らを打ち倒した、影を滑るような歩法。
だが今度は、初手から全速力だった。
踏み込んだ足の向きと、実際の体の進行方向をわずかにずらす。相手の視界から一瞬だけ姿を消す、露楽直伝の暗殺術だ。
そこから地を這うように身を沈め、岳清玄の無防備な脇腹へ向けて掌打を突いた。
入る――。
そう確信した途端。
「え」
突き出した手首が、鉄の枷のような指にガチリと掴まれていた。
そのまま岳清玄の腰が滑らかに回り、雪華の身体がふわりと宙に浮く。
叩きつけられる直前、雪華は身体を捻って衝撃を殺した。掴まれた腕を軸にして岳清玄の肩へ足を跳ね上げ、両脚で太い首を締め上げる。
遠心力を乗せ、相手ごと地面へ引き倒す捨て身の大技。
たまらず岳清玄が一歩、どっと踏みとどまった。
その隙を逃さず、雪華は滑るように腕を抜き取り、着地ざまに岳清玄の膝裏を鋭く蹴り抜く。
「……ほう」
岳清玄の膝が折れ、沈む。
雪華は瞬時に背後へ回り込み、太い首筋の経穴へ二本指を突き立てようとした。
正確に打ち込めば、どんな達人であれ一瞬で意識を刈り取れる。
だが――指先が肌をかすめた瞬間、岳清玄の背中から爆風のような内力が弾け飛んだ。
「っ!」
直接殴られたわけでもないのに腕が弾き飛ばされ、指先から肘にかけて痺れが走る。
間髪入れずに岳清玄が振り向き、分厚い掌が迫る。
雪華は頭を低く下げて間一髪で交わした。頭上を通り過ぎた風圧だけで、結っていた髪が豪快に解け、散る。
当たれば、終わる――!
雪華は地面を強く蹴り、跳んだ。一気に距離を取り、迷いなく土塀へと身体を投げ打つ。
「逃げるのか!武比の最中だぞ!」
「別にいいんじゃないですか?」
雪華は猫のように塀を駆け上がり、そのまま隣の建物の屋根へと飛び移った。
岳清玄は、良いわけないだろうと、思いながらも音もなく跳んでくる。
速い。雪華のような変幻自在の足取りではないが、強大な内力に支えられた一歩の伸びが異常に長い。純粋な地力の差が、引き離すことを許さない。
屋根の棟を蹴り、不規則に曲がる。
岳清玄が一直線に追う。
右へ。左へ。再び右へ。
一度庭へ降り、死角を使って再び飯屋の屋根へと駆け上がる。
屋根の上で見守っていた門徒たちが、呆然と口を開けていた。誇り高き師範代の正式な武比が、いつの間にかただの『鬼ごっこ』と化しているからだ。
だが、雪華は死ぬ気だった。
露楽から何度も頭に叩き込まれた鉄則がある。
――強い奴と正面から馬鹿正直に殴り合うのは、ただの阿呆だ。
――苛立つまで逃げろ。呼吸を乱させろ。癖を見抜け。戦うのはそれからだ。
岳清玄も、彼女の狙いに気づいたらしい。雪華の背を追いながら、ふっと苦笑を漏らした。
「露楽らしいと言えば、あまりに露楽らしい姑息な戦い方だな」
言い返す息の余裕すらない。雪華は奥歯を噛み締め、前だけを見据えた。
その瞬間――走り続けていた雪華の姿が、唐突に消えた。
岳清玄がピタリと足を止める。
左右ではない。前後でもない。
――上。
岳清玄が顔を上げた時、雪華は月を背に、頭上から牙を剥いて落ちてきていた。
屋根の庇を蹴り、一瞬だけ相手の死角へ潜り込んでからの急反転。
鋭い踵落としが、岳清玄の肩口へ落ちる。岳清玄は交差させた両腕でそれを受け止めた。
だが、雪華の狙いはそこからだった。受け止められた反動を利用して空中で身体を捻り、もう片方の足を岳清玄のこめかみへ向けて一閃する。
ごッ、と重い打撃音が夜気に響いた。
鈍い打撃音が響き、岳清玄の屈強な巨体が大きく揺れた。
雪華は着地と同時に、地を這うような勢いで踏み込む。
無防備になった胸元へ、間髪入れずに掌打を打ち込んだ。
一撃、二撃。
そして全身の内力を一点に練り上げ、限界まで突き穿つ三撃目。
岳清玄がたまらず二歩、足を滑らせて後退した。
周囲の門徒たちからどよめきが漏れる。岳清玄の口元から、一筋の朱が伝っていた。
「……見事」
称賛の言葉にも、雪華は一切耳を貸さない。
息を吐かせてはいけない。長引けば長引くほど、圧倒的な内功を誇る相手が確実に有利になる。
ここで決める。
右へ深く踏み込む。岳清玄の視線が引きずられた瞬間、強引に左へ鋭く切り返した。
さらに急停止、踏み直し。
極端な緩急で相手の目と意識を揺さぶり、再び懐へ滑り込む。
あえて隙を見せた顎狙いの掌打――読まれて躱される。
だがそれこそが狙い。回避先を先回りし、がら空きになった鳩尾へ強烈な肘を叩き込んだ。そのまま身体を密着させ、軸足に自分の足を絡めとる。
岳清玄の重心が、ついに崩れた。
雪華は全体重を乗せて押し込む。岳清玄の巨体が、斜めに傾ぎ、地面へと落ちていく。
――勝った。
そう確信した瞬間。
崩れ落ちるはずの岳清玄の口角が、薄く持ち上がった。
「――捉えた」
「え、」
気づいた時には、雪華の細い腰に、太い腕が太蛇のように巻きついていた。
距離を詰めすぎた。
雪華は跳んで離れようとしたが、時すでに遅い。岳清玄の足がこちらの軸足を容赦なく払い、視界がぐるりと回った。
受け身を取る余裕すら与えられず、背中から地面へ激しく叩きつけられる。間髪入れずに、両肩を押し潰すような重圧が重なった。
必死に腕を捻って逃れようとするが、ビクともしない。膝を突き上げても、あっさりと太腿で封じられた。
手も足も出ない。四肢を完全に死に体にされていた。
「降参するか?」
見下ろしてくる岳清玄の瞳は静かだ。雪華は荒い息を吐きながら、その顔を睨みつけた。
ほんの一瞬、考える振りをして――
「――誰が!」
岳清玄がやれやれと息を吐く。
その僅かな気の緩みを逃さず、雪華は頭を振り上げ、自らの額を岳清玄の鼻柱へ向けて全力で叩きつけた。
鈍い打撃音と、骨の砕けるような感覚。
岳清玄の顔が大きく仰け反り、肩を抑える拘束が緩む。
片腕が抜けた。いける――!
身を捩って抜け出そうとした、まさにその一瞬。
岳清玄の指先が、雪華の肩口にある経穴を正確に穿っていた。
「あっ……」
一瞬で全身の力が霧散する。
「……えげつな……」
「今、額を叩き込んできた君がそれを言うか?」
「勝つためには……使えるものは何でも使えって、師匠が……っ」
「全くの同意見だな」
すかさず二つ目の経穴を突かれ、指先一つ動かす権利すら奪われた。
雪華は冷たい石畳に転がされたまま、悔しさで唇を噛み締め、上空の岳清玄を睨みつける。
岳清玄はゆっくりと荒い息を整えながら立ち上がった。一見余裕に見えるが、その額にはじっとりと汗が滲み、雪華の蹴りを受けた肩は赤黒く腫れ上がっている。
「危なかった……大したものだ、君は」
着物を整えるその姿が、余計に腹立たしい。
「……褒められても嬉しくないです」
「純粋な評価だよ。だが――勝負は私の勝ちだ」
雪華はしばらく無言で睨み続けていたが、やがて万策尽きたように、長く悔しげな息を吐き出した。
「……分かってますよ」
経穴の効果が切れ、雪華が自力で上体を起こせるようになるまで、岳清玄はただ黙って立っていた。
やがて彼が、足音もなく雪華の前へ歩み寄る。
「約束だ。師匠の名を教えろ」
雪華は膝を抱え込んだまま、地面の一点を見つめた。
言いたくない。その名を口にした途端、繋がっていた大切な何かが音を立てて千切れてしまう気がした。
だが、勝負には負けたのだ。約束を破るわけにはいかない。
雪華は一度だけ強く目を閉じ、絞り出すように呟いた。
「……露楽。師匠の名前は、露楽です」
途端、岳清玄の顔から一切の影が消えた。喜怒哀楽のどれでもない、ただの能面のような無が無に上書きされる。
「――やはりか。私の師を殺した男。血教の魔人、露楽」
「っ、師匠が昔、血教にいたのは知ってます! でもっ……私と一緒にいたときの師匠は、山で料理を作って、修行をつけてくれる普通の人でした!」
「それを決めるのは君ではない」
岳清玄の声から温もりが完全に削ぎ落とされていた。氷のように低く、硬い。
「君には同行してもらう。露楽の遺品に触れさせないと言うなら、その教えを色濃く残した君自身が生き証人だ。それに……『矯正』も受けてもらう」
雪華は思わず耳を疑った。
「……は? 待ってください。そんなの約束にありませんでしたよね? 勝手に条件増やしてません?」
岳清玄は答えない。ただ冷ややかな視線を落としてくるだけだ。
雪華は勢いよく立ち上がると、地面に転がったままピクピクと動く三人の門徒を指差した。
「だいたい矯正って何ですか! 私はあの人たちよりずっとまともに生きてきた自負がありますけど!? 飯を食い逃げしたり、一度謝っておいて夜中に闇討ちしてくるような奴らより、私のほうが絶対マシです!」
「そういう次元の話をしているのではない。君の武功、そして根底にある思考には、明らかに血教の毒が――」
最後まで聞く義理など、微塵もない。
雪華は一歩踏み込むと同時に、腰のひねりを拳に乗せた。
ごッ。
無防備だった岳清玄のこめかみに、硬い拳が当たった。
周囲の門徒たちが息を呑む音が聞こえた。当の岳清玄も、目を剥いて雪華を見ている。
「……何をする」
「嘘つき。さよなら!」
言い捨てるや否や、雪華は弾丸のように弾け飛んだ。
西へ。土塀の凹凸に足をかけ、屋根の瓦を蹴り飛ばし、裏手を流れる川の方向へ一気に抜ける。
「待て!」
背後で、岳清玄の太い声が響く。
「囲むな! 手を出す必要はない、私が追う!」
(……変なところで律儀なんだから)
走りながら、雪華は舌を出した。
一対一の鬼ごっこなら負ける気はしない。さっきの打ち合いで、岳清玄の最高速度は頭に入っている。
直線の純粋な速さなら、向こうが圧倒的に上だ。
だが、足場の悪い場所や狭い路地を抜け切る身軽さなら、自分に分がある。
屋根から屋根へ飛び移り、入り組んだ裏路地へ滑り込む。
高く積まれた木箱の隙間をすり抜け、放置された屋台の下を潜り、民家の塀を滑らかに飛び越えた。
それでも、背後に圧しかかる気配は寸分も離れない。
「君は……本当に逃げることだけは異常に上手いな!」
「褒めても立ち止まりませんよ!」
急角の曲がり角。
踏み込んで鋭角に曲がると同時に急停止し、追ってきた岳清玄の顔面へ向けて路地の砂を思い切り蹴り上げた。
岳清玄が咄嗟に袖で視界を遮る。その一瞬の隙を突き、雪華は真逆の方向へと体を翻した。
だが――先ほどの全力の立ち合いによる代償は、着実に体を蝕んでいた。
荒い呼吸が戻らない。足の指先に力が入りきらず、踏み込みのキレが落ちている。
視界の先に、大きな石橋が見えた。
あそこを渡れば市場だ。深夜とはいえ人が行き交う区画に入り込めば、人波に紛れて完全に巻ける。
あと少し。
橋の欄干に足をかけ、川を飛び越えようと跳躍した、その瞬間。
背後から、空気を切り裂くような衣擦れの音が迫った。
近い――!
雪華は空中で振り向きざまに蹴りを放つが、あっけなく受け流される。時間を置かずに加えた、死角からの掌打も、相手の掌に吸い込まれるようにいなされた。
雪華はその反動を利用し、欄干の外、冷たい川面に向かって身体を投げ出そうとする。
しかし、寸前で手首をガチリと掴まれた。
「離せッ!」
「馬鹿者、今離したら川底に激突するぞ!」
強引に橋の上へ引き戻される。
至近距離からの肘打も、足の甲への踏みつけも効かなかった。
ならばと頭突きを繰り出したが、岳清玄の分厚い掌に額を丸ごと受け止められた。
「同じ手を何度も使うな」
「 離せ、離せ!」
雪華はもがいた。なりふり構わず暴れた。
だが、岳清玄の太い腕が、逃げ場を塞ぐように雪華の首筋へ滑り込んでくる。
(しまっ――)
咄嗟に顎を引き、首と腕の間に指をねじ込もうとした。しかし、限界を迎えた身体では、大人の膂力を押し返すことなど不可能だった。
「……離し……て……っ」
「おとなしくしなさい」
「誰が……っ!」
あがき、相手の脛を蹴る。一度、二度、三度。
四度目を振り上げたところで、首筋を圧迫する力が一段と増した。
視界の端から、世界が急速に黒く塗り潰されていく。
「この……嘘つき……」
「……その件は、後でいくらでも非を認める」
雪華の膝からすべての力が抜け、意識は暗い川の底へ落ちるように消えていった。
次も土曜更新です。