こうして冒頭へと物語はつながる。
目を覚ますと、見知らぬ木組みの天井があった。
手首が異様に重い。
腕を上げようとすると、チャキン、と冷たい金属音が部屋に響いた。
両手に重厚な手枷。それが太い鎖で寝台の柱に繋がれている。
ゆっくりと横を見る。
部屋の隅の椅子に、岳清玄が腕を組んで座っていた。
「起きたか」
雪華はしばらく無言で、自分を捕らえた男を観察した。
「……本当に、話が違いませんか」
岳清玄は少し気まずくなりに目を逸らした。雪華の内功は同年代と比べて桁違いに深い。岳清玄と比べても少し劣るだけで、技術も併せて十分に一流を名乗れる水準だ。
「人を殺したのは初めてか?」
「初めてですよ。だからとっとと解放してください」
岳清玄まだ痛みの引かない肩を軽く撫でた。それだけでこの体は鈍い痛みを訴えてくる。それを目の前で頬を膨らませる少女がやったというのだから驚きだ。
そして、この質問の回答次第で彼女の扱いを考えるつもりだ。
「人を二人、殺してどうだった?」
「どうって……」
岳清玄の機嫌次第で解放されるか否かを分かっているようで、雪華は真面目に答えるようだ。少しだまり、言葉を選んでいるのだろう。
「まあ弱かったですよ。……これは感想ですね。良くはないことだったと思います。店にも、私にも。流派の歩法を安易に使うべきではありませんでした。血教とやらの評判が悪いのは知っていたのに、迂闊でしたね。おかげで、貴方に目をつけられて私は囚われの身です。店も給仕兼用心棒を失いました」
「そうか。真面目に答えてくれて、ありがとうな」
彼女にとって初めての殺人とは、初めて掃除を手伝っただとかそういう認識なのだろう。奴がどう育てたのかは知らないが、武人としての最低限の作法すら知らないにも関わらず一流の腕を持つ。その上、善悪の外に価値観を持つ。
この娘は、獣だ。
人として武人として育て直さなければならない。
岳清玄は懐から、小さな紙包みを取り出した。
中には、黒褐色をした妙な丸薬が一つ。
「何ですか、それ」
「『万妙功散煙(ばんみょうこうさんえん)』だ。本来は粉末を煙に混ぜて焚き込めるものだが、それでは量の調整が難しい。君の内功の深さに合わせて、特別に丸薬へ練り直させた」
雪華は青ざめた。聞き覚えのある毒で、効果も知識だけでは知っていた。
「それは…まさか」
「――内功を散らす効果がある。これを、君に飲んでもらう」
一拍。
「嫌ですよ!! 約束を破って誘拐してきた挙げ句、絶対に嫌です、離してください!」
雪華は鎖を力任せに引いた。
岳清玄が静かに立ち上がる。
「誤解しないでくれ、これは君を害するためではない」
「どう考えても害してるでしょ!」
「君には武人として足りないものがたくさんある。一つ人つ学ばなければならない。今の君にはその強さは不釣り合いだ」
「知りませんよそんな事!」
雪華が寝台から飛び起きる。
手枷をつけたままの状態で、岳清玄へ飛びかかった。
だが、内功の底上げもない今の突進など、難なく受け止められる。
雪華は相手の肩へ噛みつこうとした。
師の教えに反するが、なりふり構っていられない。
「こら、噛むな!」
「離してくれたら噛みません!」
「逆だろう!」
手枷の鎖を振り回す。金属の先端が岳清玄の頬を掠めた。
その一瞬の隙を突いて扉へ逃げようとしたが、足首を掴まれ、寝台へ引き戻される。
「嫌です! 本当に嫌ですから、その薬を今すぐ窓から捨ててください!」
「少しの間、内功が使えなくなるだけだ。命に関わる劇薬ではない!」
「あなたの言う『少し』なんて信用できません! 最初はただの『同行』だったのが『矯正』になって、今度は内功まで奪うんでしょう!? 次は何ですか、私の髪でも丸刈りにするつもりですか!」
「剃らないと言っているだろう!」
「じゃあ離してください!」
岳清玄は心の底から困り果てた顔をした。
しかし、その手にある薬をしまう気配は微塵もない。
雪華はさらに激しく暴れた。
だが、とうとう床へ押し倒される。岳清玄が逃げられないように雪華の腰を跨いで馬乗りになり、暴れる両手首を片手で押さえ込んだ。
「どいてください!」
「無理だ」
「いやだ。いや!」
「じっとしていればすぐに済むからいい子にしなさい」
必死に身体を捻るが、太い膝で完全に押さえ込まれている。
雪華は最後の抵抗とばかりに、口を貝のように固く閉ざした。
岳清玄が、丸薬をつまんだ手を近づける。
「雪華、口を開けなさい」
「……!」
「頼むから聞き分けてくれ。今は分からないだろうが、いつか必ず私に感謝する日が来る。だから――聞き分けなさい」
「……ッ!!」
強靭な指が、雪華の顎へ掛けられた。
全身全霊で抵抗するが、武比と長時間の逃走で極限まで消耗しきった身体だ。
少しずつ、少しずつ、顎がこじ開けられていく。
「や、やめ……っ!」
隙間から、黒い丸薬が口内へ押し込まれた。
すぐに吐き出そうとするが、岳清玄が素早く顎を押し上げ、口を完全に塞ぐ。
薬は唾液に触れた瞬間、すぐに崩れた。強烈な苦味と泥のような不快感が舌いっぱいに広がる。
異物を排除しようと反射的に喉が動いた。
「……っ!」
――飲んだ。
それを確認し、岳清玄がゆっくりと手を離す。
雪華は激しく咽せ返った。
「水を――」
「いりません!」
雪華は涙目で、岳清玄を睨みつけた。
数息が過ぎ、身体に目立った変化は起きない。
雪華は恐る恐る、自らの丹田へ意識を向けた。
まだ内力はある。あたたかい気の塊を感じる。
なら、今のうちに経脈を保護すれば。
気を全身へ巡らせようとした瞬間。
腹の奥底で、何かがプツリとほどけた。
「……え?」
丹田へ集めたはずの膨大な内力が、指の間から水が零れ落ちるように、どうしようもなく散っていく。
捕まえられない。
雪華は慌てて呼吸を整える。露楽から教わった、気を練るための吐納法。
一つ目。
駄目だ。気が練れない。
二つ目。
駄目だ。
いつもなら血肉のように身体を巡る気が、まるで道を忘れた迷子のように、空しく霧散していく。
「何……これ……」
もう一度。必死に集める。
しかし、散る。
また集める。
散る。
何年も。朝も夜もずっとずっと積み上げてきた。
露楽と共に、一つ一つ積み上げてきたもの。
自分の身体の中にあって当然だったそれが。
それが、どうしようもなく薄れていく。
「やめて……」
無意識のうちに、震える声が漏れた。
「やめてください。戻して……ください」
岳清玄は、痛ましげに目を細めたまま黙っている。
「今すぐ戻してください。これ、師匠が……ずっと、私と一緒に……!」
雪華は、失われていく感覚に耐えきれず、両手で自分の腹を強く抱きしめた。
物理的に押さえたところで何の意味もないことなど、百も承知だ。
それでも、こうして塞いでいなければ、自分の中の大切なものが全て流れ出して、空っぽになってしまいそうだった。
「雪華」
岳清玄が低く、労わるような声で呼んだ。
雪華は、虚ろな顔を上げる。
「触らないでください」
手を伸ばしかけた岳清玄の動きが、ピタリと止まる。
雪華は床を這うようにして、鎖の届く限界の壁際まで後ずさった。
先ほどまでの減らず口も、小生意気な反抗心も、そこにはない。
ただ、絶対的な拒絶だけがあった。
「……あなたなんて、本当に嫌いです」
その言葉に、岳清玄は何も返すことができなかった。
内功ってMP上限くらいのイメージ持ってます。