雪華から内功が散り半刻も経てば、内功も一般人並みまで減っていた。また一から積み直さなければならないだろう。
しばらくして、岳清玄は雪華の手枷を外した。
金属が外れる音とともに自由になった手首には、痛々しい赤い擦り傷が残っている。雪華はそこを擦りながらも、決して彼を見ようとはしなかった。
「……雪華」
呼びかけに対する返事はない。
岳清玄は何か言いかけて、口をつぐんだ。少し前までなら一言二言は噛みついてきたはずの彼女が、今は反応すら見せない。そのまましばらく黙り込んでいたが、やがて低い声で告げた。
「部屋はここを使え。必要な物があれば、外の門弟に言いなさい」
「帰っていいんですか」
壁を見つめたままそう尋ねる雪華に、岳清玄は「……それはできない」と短く答える。
「じゃあ、必要な物はないです」
即答だった。岳清玄の眉間に皺が寄るものの、それ以上何かを言う資格が自分にあるのか迷っている様子だった。
「俺は少し席を外す」
「そうですか」
「逃げようとは――」
そこまで言って岳清玄が口を閉ざすと、雪華はようやく彼に視線を向けた。
「何です?」
「……いや」
岳清玄は戸へ向かい、出ていく直前に振り返った。
「薬のことは、謝って済むとは思っていない」
その言葉に雪華の目が細くなる。
「なら、謝らないでください。戻せないなら、今聞いても腹が立つだけです」
「……分かった」
戸が閉まり、部屋に静寂が落ちる。
雪華はしばらく立ち尽くしていたが、やがてぽつりと呟いた。
「……絶対に逃げる」
少なくとも、ここに居続けるつもりだけはなかった。
勝手に拘束され、勝手に薬を飲まされ、長年積み上げた内功を散らされたのだ。あれで終わりになる保証など、どこにもない。
雪華は部屋の中を見回した。
清潔な寝台に、卓、椅子、衣装棚、そして窓。牢屋ではないため窓に格子もなく、扉に鍵も掛かっていない。
試しに戸を開けてみると、廊下の少し先に五十ほどの男が一人、壁へ背を預けて立っていた。雪華には知る由もないが、岳清玄の師叔父にあたる人物である。
目が合い、お互いに無言のまま見つめ合う。雪華がとりあえずぺこりと頭を下げると、男も僅かに顎を引いた。
雪華は静かに戸を閉める。
「下手な牢屋より面倒ですね、これ」
強行突破は難しい。今の雪華には内功がほとんど残っていなかった。身体は鍛えてあるし技そのものを忘れたわけでもないが、武林屈指の大派を、達人たちを殴り倒しながら正面突破できるほど無謀ではなかった。
ならば、搦め手である。
最初に思いついたのは火だった。どこかへ火を放ち、騒ぎになったところで逃げる。単純だが成功率は高そうだ。
しかし、雪華は少し考えて思考を打ち消した。
(……死人が出ますね)
火は思い通りには燃えないため、却下だ。門外の町まで燃え広がればさらに酷いことになるし、何より露楽の教えにも反する。
『正道と多数で争うなら、一人も殺すな。対話の道を残せ』
それに、今の状況で火まで放てば後世にどう語られるか分かったものではない。雪華の頭の中に、勝手に講談師の声が響き渡った。
――血教の魔人に育てられた少女を、蒼天剣門の若き侠客・岳清玄は慈悲から救い出した!
――しかし少女は恩を仇で返し、夜半、門内へ火を放ったのである!
――燃え盛る炎を背に、血魔女は高笑いしながら逃げ去ったという!
「……嫌すぎる」
雪華は両手で顔を覆った。『恩知らずの血魔女、蒼天剣門炎上の夜』と題名まで浮かんでしまい、絶対に嫌だと火付け案を却下した。
次。毒。死人が出るので却下。
変装。道具がないので保留。
人質。今の実力では確保が難しく、そもそもあまりやりたくないため却下。
地下道。存在するかすら知らない。
色仕掛け。
……雪華は真顔になった。
露楽からはそんなものを教わっていないし、当然だ。何をするのかもよく分からない。胸元でも開けばいいのだろうかと自分の胸元を見下ろし、「……駄目ですね」と即座に却下した。
それからもしばらく考え続けた。窓、屋根、門、厨房、荷車、水路、見張りの交代……使えそうなものを一つずつ検討していく。だが、どれも最後には同じ問題へ行き着いてしまうのだった。
内功がない。
以前なら、困ったら屋根へ上がればよかった。追いつかれたら速く走り、塞がれたら壁を越える。高い所から落ちても軽功で降りられた。だが今は、それができない。
雪華は卓へ突っ伏した。
「内功がないだけで、こんなに何もできなくなるんですね……」
口に出してから、少しだけ胸が痛んだ。腹の中から、長年あったものが零れていくあの感覚がまた蘇ってくる。雪華は顔を伏せたまま、しばらく動かなかった。
逃げたい。岳清玄の顔など見たくない。けれど、今飛び出して捕まれば意味がないのだ。
『無謀と勇敢は違うよ』
露楽は何度も言っていた。今ほど思い出したくない声なのに、こんな時だけ妙に鮮明だった。
雪華は長い息を吐き、寝台へ向かった。靴を脱いで布団へ潜り込む。逃げることを諦めたわけでも、岳清玄を許したわけでもない。弟子になるつもりなど、当然なかった。
ただ――(今日は無理です)。それだけだった。
雪華は布団を頭まで被り、「あの馬鹿が戻ってくる前に、どうにかしたかったんですけどね……」と零す。やがて疲労に抗えなくなり、ゆっくりと眠りへ落ちていった。
その夜。雪華は夢の中で何度も丹田へ気を集めようとしたが、何度集めても指の間から水のように零れ落ちていくのだった。
◇
雪華が眠りについて一刻ほど経った頃。
岳清玄が、雪華の部屋の前へと戻ってきた。
そこには先ほどの年嵩の男が、壁へ背を預けて静かに立っている。
「どうでしたか、雪華は」
「どうも何も。一度扉を開けて出てきたが、私を見るなり妙に丁寧に会釈して引っ込んだ。そのあと半刻ほど中で何やら悩んでいたようだが、結局ふて寝したな」
岳清玄は、ほっとしたように小さく息を吐いた。
「そうですか。ありがとうございます」
師叔父はわざとらしく眉を上げる。
「全く、私のような老骨に見張り役を押しつけるとは。師叔父に対する敬意が足らんのではないか?」
「申し訳ありません。ですが、あの子は私の大切な弟子ですから、預けるなら師叔父が一番だと思ったのです。下の者では余計なことを言うかもしれませんし、万が一あの子が本気で逃げようとした場合、並の門弟では止められません」
「なるほど。私なら逃げられんと」
「そういう意味でもあります」
男は呆れたように笑った。
やがて、閉ざされた雪華の部屋へ静かに目を向ける。
「まあ、お前に頼られて悪い気はしない。しかし、随分と酷なことをするものだ。相当嫌われているぞ、お前」
岳清玄は否定しなかった。
「好かれようとは思っていません。彼女を正道へ引き入れるために、必要なことでした」
「そう言うと思ったよ」
師叔父は小さく息を吐いた。
「ただし、あの子のことは少し分かった。逃げようとは考えただろう。それでも、結局は何もしなかった。扉にも窓にも鍵はない。私一人しか外にはいなかった。内功を失っているとはいえ、何か試すことくらいはできたはずだ。だが、自分の現状と周囲への影響を天秤にかけ、耐えることを選んだ」
岳清玄は静かに頷く。
「今日、分かったでしょう? あの子は、感情に任せて短慮を起こすような子ではありません。本当に……奴には勿体ない子です」
「露楽には、か」
「はい」
「お前は、自分の師を殺した露楽を憎んでいる。それでいて、その弟子を自分の弟子にするのか」
岳清玄は答えなかった。ただ、痛むように目を伏せるだけだった。
師叔父は少しだけ笑う。
「面倒な男だな、お前も」
「師叔父にだけは言われたくありません」
「私は少なくとも、人を誘拐して無理やり弟子にはしない」
岳清玄が痛いところを突かれて言葉に詰まる。
その生真面目な甥の様子を見て、師叔父は楽しそうに笑い声を上げた。