水車の回る音がしていた。
小さな水車小屋の傍らに広がる草原で、雪華は仰向けに寝転がっていた。春の風が頬を撫でていく。今日は風が少し強く、細かな雨が睫毛に粒を残した。濡れた草の青い匂いが、鼻先まで立ちのぼってくる。
不意に、顔じゅうを生温かいものが這った。
目を開けるより早く、今度は髪を引っ張られる。甘噛みだ。首筋まで甘噛みされて、雪華はたまらず声を上げた。
「分かった! わかりました! 起きますよ」
身を起こすと、二頭の小さな馬が左右からぴたりと寄り添っていた。その背が、座った雪華の胸ほどまでしかない。
「……小さくなりましたね」
ぬいぐるみのように軽い二頭を抱え上げ、雨を避けて水車小屋へ入った。軋む水車の音が、壁越しに低く響いている。
ここは雪華の夢の中である。内功と夢は密接に結びついているらしく、夢の中では内功が馬の姿をとる。黒毛の夜高は、雪華が生まれ持った内功。白毛の水月は、露楽から受け継いだ内功だった。
「確認できて良かったです。夜高、水月。お前たちのことは、ヘマさえしなければバレないと思います。ただ、当分、水月は大きくしてやれません。ごめんなさい」
水月の鼻先を撫でてやりながら呟くと、白い馬は不満げに鼻を鳴らし、雪華の腕にしがみついた。露楽の形見の一つだ。取り上げられてはかなわない、とでも言いたげな力の込め方だった。
雪華は内功との相性が良く、幼い頃から気の扱いを仕込まれている。そのため、ある程度は内功が自ら練り上がってくれる。これは類を見ない能力らしい。
「どうしましょうね。真の実力を隠す、なんて格好いいですけど、しょうもないですからね」
夜高と水月が、足元に纏わりついた。
ヒヒン、と二頭が揃って鳴く。
「なるようになりますね。起きますか」
◇
目を覚ますと、昨日からの見慣れた天井があった。
木目の節が一つ、ちょうど目玉のように見える。昨夜は寝つくまで、それを眺めていた。
いつものように、枕元へ手を伸ばす。
……ない。
「私の簪!」
跳ね起きて部屋を見回すと、小さな机の上に、見覚えのない箱が置かれていた。蓋を開ける。それなりに上等な簪が二本、並んで収まっていた。
「私のじゃない」
文句を言いながらも、仕方なくそれを髪に挿し、寝床の脇の草履をつっかけて扉を開けた。
犯人は、考えるまでもなかった。
目の前に、岳清玄が立っていた。
「……」
反射的に、そのまま扉を閉めようとする。だが扉は彼の手に押さえられ、びくともしない。
「離して下さい! それと、私の簪どこやったんですか!」
「もう起きる時間だ。二度寝は許さん。簪は暫く預かっておく。危険だ」
「??!! なんで保護者面してんですか! 何者ですか!?」
「君の師匠だ」
雪華は、扉を押さえる岳清玄の手に本気の肘打ちを叩き込んだ。続けて指を引きはがしにかかる。だが、岩を相手にしているようで、話にもならない。
「私の簪、返して!」
そのまま暫く、扉を挟んだ攻防が続いた。だが、先に息が切れたのは雪華のほうだった。肩で息をしながら、その場に座り込む。
「……ご飯食べに行きます」
「宜しい。皆が集まっているから、いい機会だ。紹介しよう」
「……」
雪華はゆっくりと歩みを緩め、次の瞬間、一気に後方へ走り出そうとした。
当然、岳清玄はそれを予見している。襟首を掴まれ、足が宙を蹴った。
「行きたくないんですけど!」
「そう悲観するな。友達も出来るかもしれんぞ」
「マジでキレそう!」
「すでにキレてるだろう」
襟首を掴まれたまま建物の外へ連れ出され、雪華は初めて、自分が寝泊まりしていた屋敷の全体を目にした。
(新しい場所に来たら、先ず地形を把握すべし)
露楽にそう教わっていたことを、今さら思い出す。昨日は、何も見ていなかった。
石垣に囲まれた黒瓦の平屋だった。家と呼ぶには大きく、屋敷と呼ぶには小さい、中途半端な大きさの建物である。庭先には井戸と、小さな物干し台があった。
建物に目を奪われている雪華に、岳清玄は聞かれてもいないのに答えた。
「師範代になると貰えるんだ」
「……同じ建物で寝泊まりしていたんですか」
「そうだな。女子の門弟用の宿舎があるから、そちらでも良いぞ。規則が厳しいが、慣れだろう」
「……今のままでいいです」
雪華は、なんだか色々と面倒になっていた。
◇
蒼天剣門の食堂は、広い板張りの大広間だった。
長卓がいくつも並び、奥の壁際には粥の大鍋と漬物の甕が据えられている。梁の高い天井に、門弟たちの声が反響していた。蒼天剣門では、食事は男女混合で食べることになっている。
「でさ、昨日岳師範代が、血教の弟子を捕まえたんだって」
「それ、何処情報?」
「うちの師姉。めっちゃ強かったらしいわ。秘密よ」
「ここで話してる時点で、もう秘密になってないわよ」
くすくすと笑い声が上がり、箸が進む。
食事を始めたが、中々岳師範代が来ない。別に時間になったから食べ始めているのだが、と誰かが言い訳のように呟いた。粥の碗が半分ほど空いた頃、広間の外から声が聞こえてきた。
「離して下さいよ! 一人で食べるって言ってるじゃないですか」
「今紹介せずにいつ紹介するんだ。いい加減おとなしくしろ」
入り口で、箸を持つ門弟たちの手が止まった。
岳師範代と、十六歳ほどの少女が引きずられてきた。
「⭐︎×!-@#¥!!(言葉にならない怒り)」
少女は岳師範代の脛を何度も蹴りつけている。だが岳師範代は意にも介さず、少女の腕を決して離さなかった。そのまま、少女をぐいと前へ押し出す。
広間じゅうの視線が集まり、少女の足がぴたりと止まった。さっきまでの威勢はどこへやら、表情を消して、目だけを逸らしている。
「自己紹介しなさい」
「……雪華です。終わり」
「……」
「……」
箸の触れ合う音さえ、消えた。
「終わらせるな! 他に何かあるだろ!」
「何ですか! ハダカ踊りでもしろと?」
「そうは言ってないだろう! 真面目にしろと言っているんだ」
岳師範代の怒声と雪華の怒声が、梁の高い広間に響き渡る。雪華は粥を一杯だけ受け取ると、そのまま自室へ戻ろうとし、岳師範代がその肩を掴んで押し戻した。戻ろうとする、押し戻す。それが二度、三度と繰り返された。
岳師範代は真面目すぎるきらいがある。それにしても、相性が悪すぎないだろうか。門弟たちは箸を持ったまま、顔を見合わせた。
「そ、その雪華さんの人となりは伝わったので食べましょう。」
◇
雪華が蒼天剣門へ来てから、少し経った頃のこと。
雪華は、摘み取った、指甲花の葉を懐に隠し、何処で乾かそうかと唸っていた。
「おい。先輩とすれ違っておいて挨拶もなしか。いつまでお客様気分でいるつもりだ」
背後から飛んできた棘のある声に雪華が足を止めると、振り返るまでもなく誰を呼んでいるのかは分かっていた。ここへ来てから、こういう絡まれ方をされることが妙に増えているのだ。
肩越しに振り返れば、少し離れたところに三人の若い門弟が立っていた。全員顔に見覚えがあり、何度か遠巻きにこちらを睨みつけていた連中である。雪華は小さく息を吐いた。
「誰のことですか」
「お前のことに決まっているだろう。皆が汗を流して鍛錬している時に、のんきに散歩とはいいご身分だな」
「散歩したいなぁと思って。岳清玄……あの人も意外と文句言ってこないのは良いですね。敷地からは出してもらえませんけど」
「あの人、だと? 大師兄を何だと思っている!」
先頭の男の眉が吊り上がった。
雪華は、またか、と心中でため息をつく。
蒼天剣門での暮らしそのものは、思っていたほど不自由ではない。食事も出れば寝る場所もあり、勝手に門外へ出ようとさえしなければ部屋に閉じ込められることもなかった。
問題は岳清玄と同門の弟弟子たちだ。もちろん全員ではないものの、大抵は雪華の存在がどうにも気に入らないらしい。
血教の高手に育てられたという噂や、岳清玄が直々に弟子へ取ったという話。正式な入門の礼もまともに済ませていないのに部屋と食事を与えられ、当の雪華が感謝している様子もないこと――先ほどの「あの人」という呼び方もそうだ。彼らからすれば、尊敬する大師兄の顔に泥を塗られているように感じるのだろう。雪華にもそのくらいの道理は理解できた。
ただし、納得するかは別である。しかし、武門というものは実に厄介で、入門時期や師の序列、武功に役職といった厳しい上下関係が絡み合っていた。今の自分は立場が弱く、古参の門弟と揉めて手を出せば、相手がどれほど横暴であっても厄介な事態になることくらいは感覚で分かっている。
「口の利き方も知らない恩知らずめ。少し裏へ来い。蒼天剣門の作法というものを教えてやる」
「嫌です」
間を置かずに即答すると、男は声を荒らげた。
「お前、聞いてるのか!」
「聞いてますよ」
「だったら来い!」
雪華は視線を遠く、演武場へ続く道へと動かした。そこには師範代らしき男が一人立っている。
雪華は当初の計画を切り替えることにした。本来は適当に話を流し、相手が手を出しそうになったところで逃げるつもりだったが、もっと楽な方法を見つけたのだ。
「分かりました。そこまで言うなら行きますけど」
「……最初からそう言えばいいんだ」
拍子抜けしたような三人のあとに続きながら、雪華は少しずつ演武場側へ進路をずらしていく。それに気づいた先頭の男が怪訝そうに声を上げた。
「おい、どこへ行く」
「裏へ来いと呼ばれたので」
「そうじゃない。何でそっちへ行くんだ」
「こっちじゃないんですか?」
わざと首を傾げている間にも、師範代との距離は着実に縮まっていく。
三人の足が止まり、雪華はにこりと笑った。ゆっくりと彼らの視線が雪華の背後――腕を組んで立っている師範代へと向かう。
「こんにちは」
雪華が頭を下げると、「ああ、こんにちは」と低い声が返ってきた。誰かが生唾を呑む音が響く中、師範代は三人を見やる。
「この3人が、師範代に残って稽古を受けたいとのことで」
「えっ」
彼らの顔には大きく違う違うと書いてあった。
「そうかそうか。仕方がないな。つけてやろう」
立場が弱いならなんか強そうな奴にぶつけるのが一番だ。
「お、俺たちはコイツが大師兄に無礼なことを言うから…」
「そうか、じゃあお前も訓練だな」
「あ、はい。けど内功が戻ってません」
「知っている。だから端で瞑想していろ。気息を整えるだけでいい」
助かったと思いつつ、雪華は木陰に座って静かに目を閉じた。
丹田へ意識を向けても内功はまだ殆ど無いが、それでもほんの少しずつ気の流れを掴めるようにはなってきている。雪華はそのなけなしの内功を軽功へ優先して回していた。正面から殴り合う力が戻らない以上、まずは逃げ足から戻すのが理にかなっている。
横では三人が地獄のような基礎鍛錬をさせられていた。
出入り業者の一人が視界の端で派手に転んだ。若い男だ。服も随分と汚れているようだ。
「あらら」
大きな木扉が擦れる音を背に、雪華は一人鍛錬場をあとにした。瞑想を続ける娘を師範代もいつまでも見てはいられないだろう。誰の制止もかからなかった。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫……」
力なく応じる声は細く震えていた。
どろりと泥にまみれた着衣、そして掌を覆う生傷。お世辞にも「大丈夫」と呼べる有様ではない。
「薬房に行きましょう。そちらで治療してもらえるはずです」
「そんな、だ、大丈夫、ですから……」
首を振る瞳の奥には、嵩む治療費や館での評価を恐れる色が如実に滲んでいた。
「それなら、私の部屋へ来ませんか? 薬房ほどの処置は叶いませんが、気休めにはなるでしょう。ちょうど、あそこにタンポポも生えています。着替えも手元に揃えてありますから」
いつか訪れるであろう「その時」のために、あらかじめ整えておいた備えだった。
「……お願いします」
「ええ、決まりですね」
手を引いて自室へ連れ、まずは摘み取ったタンポポを水桶で丁寧に洗い、すり鉢で細かく磨り潰した。
男の傷口を秘蔵の火酒で一気に洗い流すと、不意の痺れに身を竦ませる彼の肌へ、青く香り立つ蒲公英の薬膏をそっと塗布し、白い布で固く縛った。
「お召し物は血と泥で傷んでいます。こちらで始末しておきますね。代わりの服をどうぞ」
「……あ、ありがとうございます」
差し出された衣服を、男は受け取った。
現代はタンポポをそのまま使うのはおすすめできならしい。
タンポポ軟膏とか売ってるってAIが言ってたけど見当たらなかった