それからというもの、雪華と門弟たちの追いかけっこは、いつの間にか蒼天剣門のちょっとした風物詩になりつつあった。
始まりは大抵誰かが雪華に余計なことを言うところからで、最初は本当に逃げるためだったのだが、内功が戻るにつれて雪華の逃げ方にも変化が出始めていた。
追手の数と配置を見極め、誰が速く誰が遅いかを把握する。挟み込まれそうならあえてそちらへ寄せてから逆へ抜け、二人同時に来れば一人を足場にしてもう一人の上を越える。捕まりそうになれば追手同士の進路をぶつけるなど、雪華自身もかなり楽しんでいた。
養父である露楽は雪華を随分可愛がり、厳しく鍛えて危険な技も教えたが、無茶な実戦に放り込むことだけはしなかった。そのため多人数を相手にする経験を積ませられないことを何度も嘆いていたのだ。正道の武人に「この少女を大勢で囲んで襲ってくれ」と頼んでも引き受けるはずがないため、今の状況は案外悪くない。
殺す気のない相手が複数で、捕まれば終わりという緊張感もある。相手も蒼天剣門の門弟で弱くはない。彼らは雪華に何か言いたいことがあるのだろうが、今のところ肉体言語で話しかけてくるので肉体言語で返答していると言ったところだ。
一方で、岳清玄には最近ひとつ理解できないことがあった。雪華の内功である。
万妙功散煙で一度散らした後、薬効が薄れて回復していく様子を定期的に観察していたが、最近になって明らかに回復速度が上がっていた。
問題は、岳清玄が「雪華がまともに修練しているところ」をほとんど見たことがない点だ。座らせればぼんやりし、部屋へ行けば布団にいて、外へ出れば門弟に追いかけ回されている。それなのに内功だけが着実に戻っていく理由が、どうしても分からなかった。
その日も雪華は五人に増えた追っ手を従え、屋根の上を走っていた。以前と違って連携を取り始めた追手に対し、雪華はわざと速度を落として一人目の腕の下を潜り、その背を押して後続の進路を塞ぐ。正面から塞いできた男の脇を滑り抜け、最後に待ち構えていた男の肩を踏み台にして跳び上がった。
「すみません」
「謝るなら踏むな!」
楽しんでいた雪華だったが、突然首根っこを掴まれて足が浮いた。襟元を掴まれたままぶら下がり、横を見ると岳清玄が何とも言えない顔で立っていた。
「岳清玄、ちょっと今いいところでして。離してほしいです」
「師匠と呼べと言ったはずだが?」
「入門するつもりはないですよ」
追ってきた門弟たちも追いつき、「大師兄……」と気まずそうに足を止める。岳清玄は「何をしている」と呆れ顔で吐息を漏らし、吊り下げた雪華に向き直った。
「それで、瞑想は終わったのか? 私は、ぼんやりしているか、こうして追いかけ回されているところしか見ていないが」
「やってますよ」
岳清玄は、腰に手を当てて長い長い溜息をついた。何食わぬ顔で何がやってますよだ。岳清玄はちょっと心が折れそうだった。修練を命じても、少し目を離せばいなくなっているし、いつまでも自分のことを呼び捨てにする。今ももう行っていい?と言わんばかりに通路の向こうを見ている。
「そうまで言うなら見せなさい」
「……」
岳清玄は取り敢えず雪華の腕を取った。雪華がリギリギと抵抗するが、いつもの事なので無視をして気を流し込んだ。彼女が抵抗するせいで読みにくいが、大幅に深くなっているようだ。
「増え幅が大きいな」
「褒めて下さりありがとうございます」
話は終わりだと雪華は手を振り払った。
「待て。今目の前で内功を練ってみろ」
「何でですか」
「いいからやれ」
雪華が立ったままゆっくりと、内息を整え始めた。丹田へ新たな気を集め、経脈へ巡らせていた。
「立ったままやるのか?」
「特技です。」
岳清玄は合点がいった。雪華はろくに修練している様子が無いのに深くなるわけだ。立ってままできるというのは大きい。
「……走りながらでもできるのか?」
「できますよ」
あっさりと認めた雪華に、岳清玄も周囲の門弟たちも絶句した。
「なぜ黙っていた。私は何度も修練しろと言っただろう」
「聞かれなかったので」
綺麗な沈黙が落ちる。
後ろで門弟が笑いを噛み殺して咳き込む中、岳清玄のこめかみが引きつる。
「……とにかく来なさい」
「嫌です。五人相手にどこまで逃げられるか、七割くらい訓練のつもりでやってたので」
訓練相手として見られていたことを知った門弟たちの顔が微妙に歪む中、岳清玄は雪華を掴んだまま屋根を降り始めた。
「歩けますよ!」
「逃げるから駄目だ」
「せめて抱えるとか他にあるでしょう! 首が苦しいんですけど!」
「なら大人しくしなさい」
二人の喧嘩越し声が遠ざかっていくのを、屋根に残された五人は呆然と見送っていた。
「……俺たち、あいつの訓練相手だったのか?」
「七割だけらしいぞ」
「……そっちの方が傷つくな」
誰かの深い溜息が、秋の風に溶けていった。
◇
岳清玄は、屋根の上で捕まえた雪華を静室まで連れてきた。
襟首を掴まれたまま降ろされた雪華は、服を整えながらじろりと彼を睨みつける。
「扱いが雑ですねぇ」
「逃げるからだ」
「捕まえるから逃げるんですよ」
「座れ」
雪華は素直に卓の向かいへ座ったものの、視線だけはすぐに周囲へと走らせた。
窓が一つ。扉は岳清玄の背後。天井の梁へ抜けるには助走が必要だが、今の内功では無理だ。
(……駄目ですね)
雪華は早々に逃亡を諦め、頬杖をついた。
岳清玄はそんな彼女をしばらく見つめていたが、やがてぽつりと問いかけた。
「……そんなに俺が嫌いか?」
「何です、急に」
急な問いかけに雪華が瞬きを返すと、岳清玄は「答えなさい」と促す。
「内功を無理やり毟り取った相手に懐く人間がいるなら、私も見てみたいですけど」
岳清玄は静かに目を閉じた。予想通りの答えだったのだろう。
「必要だったと思っている」
「でしょうね。こういうのは水掛け論になっちゃいますから。そういう話なら、私がここにいても仕方ないでしょう。何処かでうろついてますよ」
雪華はさっさと岳清玄から目を逸らして立ち上がろうとするが、そう簡単にはいかなかった。
「可哀そうなことをしたとは思っている。それで、だ」
岳清玄は卓へ腕を置き、本題に入った。
「その変わった修練法は、どう身に着けたんだ?」
「軽功の反復修行が退屈だったんですよ。同じ道を延々走るのに飽きて、経巻を読みながら走ってたら師匠に見つかりまして」
雪華は表情一つ変えずに嘘をついた。
「叱られただろう」
「『お前、そういう器用なことが得意なのか』って感心されました」
岳清玄は呆れたように目を閉じた。
「それから、どんな状況でも呼吸と気息を乱さないように仕込まれました。崖登ってる時とか、川を泳いでる時とか」
予め考えていた言い訳が、すらすらと口から出てくる。嘘は得意ではなかったが、馬鹿が付くほど真面目なこの男には通じるようだ。
「相変わらず理解しがたい男だな」
「私には甘い師匠でしたよ」
「崖から突き落とす男がか?」
「三日山に放置されたり、毒草を舐めさせられたりもしましたね」
「どこが甘い」
「丸薬が苦いって言ったら、甘い寒天に包んでくれました」
岳清玄が絶句する。
「雷が鳴ると、寝るまで子守唄も歌ってくれましたし」
狼の群れへ放り込み、崖から落とし、毒草を舐めさせる。その一方で、苦い薬には甘味をつけ、子守唄を歌う――岳清玄にはやはり理解しがたい感性だった。だがただ一つ、雪華がそれほどまでに露楽を慕う理由が、以前より少しだけ分かった気がした。
「……それは置いておこう」
岳清玄はまっすぐに雪華を見つめた。
「明日の朝、卯の刻に演武場へ来い」
「嫌です」
即答だった。
「来なければ部屋まで迎えに行く」
「逃げますよ」
「捕まえる」
「追手五人組も連れてきてください。最近、包囲が上手くなってきたので」
「あいつらはお前の訓練道具ではない!」
怒声が静室の外まで響き渡り、雪華は楽しそうに肩を揺らした。
岳清玄はそんな少女を睨みつけながらも、心の中で小さく息を吐く。
まだ自分を信用してはいない。当然だった。師匠と呼ばせるには、なおさら遠い。
ならばせめて、今度は勝手に奪うのではなく、自分が教えられるものを一つずつ示していくしかないのだ。