変更点は多少ありますが、この小説では内功がMP上限、真気がMPなんだなー。
という感じの認識いただければと思います!。
夜も深まり、建物の外から人の気配が途絶えた頃。雪華は灯りもつけず、暗闇の中で湯呑みを手にしていた。
中には粉にした指甲花の葉が溜まっている。そこへ少しずつ湯を注ぎ、匙で練っていく。しゃり、しゃり、と湿った音が部屋に響き、やがて泥状の塊が出来上がった。
匂いを確かめ、雪華はそれを髪へと塗りつけていく。指先で根元から馴染ませ、頭の上でまとめると紐で固く結わえた。
次に用意していた綿を口の中へ含ませる。頬がわずかに膨らみ、輪郭が変わった。
鏡代わりに磨いた銅板を覗き込む。
(……まだ足りない)
細長い布を丸め、胸元にしまい込むように、何重にも締め上げ、起伏を押し潰した。
息を整え、自分の胸元を見下ろす。
「……胸はあんまり関係ないかもしれないですね」
ポツリと漏らし、ため息をついた。
元よりそれほど豊かなわけでもない。変装としての効果は怪しいものだったが、やらぬよりはマシだ。逃亡の成否など、土壇場まで分からないのだから。
しばらく置き、髪についた泥を水で洗い流した。
濡れた髪を絞れば、色はうっすらと赤茶に変わっている。元が青みを帯びた黒髪だったため、かろうじて黒に見える程度の深い赤だ。
だが、それでいい。
人の目など案外適当なものだ。髪色と頬の輪郭さえ歪めれば、探している者の視線をわずかに逸らすことができる。
「よいしょと」
いつか、出入り業者にもらった男物の着物を着て、再度銅板を覗き込んだ。
「……これなら」
最後に、髪を押さえていた簪を二本とも抜き取り、卓の上に並べた。押し付けられたものだ。持っていく義理はない。雪華は小さく頷き、仕度を終えた。
◇
翌朝。
空が白み始めた頃、蒼天剣門の裏手にある通用門は早くも混み合っていた。
運び込まれる野菜、薪を積んだ荷車、出入りする商人たち。雪華はその雑踏へ混ざり込んだ。粗末な上着を羽織り、髪は手拭いで半ば隠す。
俯き加減に歩を進め、業者たちの背に隠れるようにして門を抜けた。
呼び止める声はないことに安堵した。
最初から門派など知らぬ顔でただ街を目指した。通りへ足を踏み入れ、ようやく小さく息を吐く。
(門弟たちは、外の事情に疎すぎる……)
ここ数日、追撃役の門弟たちとはそれなりに親しくなったつもりだったが、門派の外での仕事や予定については一切話さなかった。打ち解けはしたものの、向こうもあまり知らないようだ。
「護衛の人数合わせでもあれば、遠くへ行けるのに……」
呟きながら歩く。とにかく遠くへ離れなければならない。自分がいなくなったと気づかれる前に。
もっとも、無策で飛び出したわけではない。
ここ数日、時間をかけて、雪華は敷地内を脈絡なく動き回っていた。庭にいたと思えば書庫に現れ、直後に裏山へ消える。追ってくれば適当に撒き、時間を置いて何食わぬ顔で顔を出す。
——雪華がどこにいるか分からない。
その異常事態を、あらかじめ「日常」にしておいたのだ。だから今日も、姿がないからといって直ちには騒ぎにならない。
朝のうちに、どこまで距離を稼げるか。朝の通りには露店が並び、焼きたての饅頭の香ばしい匂いや、煮込み料理の湯気が立ち上っていた。
「おじさん、一本ちょうだい」
「あいよ」
「はい」
物の売り買いでさえ、久し振りだ。雪華は買った果物飴をぱきりと噛み砕いた。
「……甘」
昨夜から何も口にしていなかった腹に、果汁と砂糖が染み渡る。
このまま街道へ出るか、それとも商隊に紛れ込むか。単身で歩くより、集団の中に隠れるほうが追跡は困難になる。
思考を巡らせていた、その時だった。
「そこの嬢ちゃん、綺麗な顔してるなぁ。客寄せが足りないんだが、どうだい?」
唐突に横から声をかけられた。
振り向くと、派手な衣装を着た中年男が立っている。背後には大荷物を積んだ荷車が何台も連なり、太鼓や弦楽器のケースが見えた。旅芸人の一座らしい。
人数は十人以上。女子供も交じっている。
街から街へと渡り歩く、荷の多い集団——想定外だが、願ってもない話だった。
「どこまで行きますか?」
雪華が即座に食いつくと、男は目を丸くした。
「お、乗り気かい? 次の興行は南の柳渡だ。日暮れ前には着く。雑用と客寄せを手伝ってくれりゃ、飯と寝床は面倒みる」
「お願いします」
「決断が早えな、おい。名は」
「雪です」
偽名というほどでもない。男は「雪か、いい名だ」と笑い、荷車の列へ顎をしゃくった。
「俺は座長だ。うちの連中は癖が強いが、まあ、慣れな」
旅芸人の一座なら、街道の検問でも怪しまれにくい。人数が多く、荷が多く、常に誰かが騒いでいる。身を隠すには、これ以上の場所はなかった。
◇
荷車は、朝霧の残る街道を、ごとごとと南へ進んだ。
雪華が乗せられたのは、衣装箱と太鼓が山と積まれた三台目だった。隣では手足の長い女が逆立ちのまま欠伸をしていて、反対側では髭面の大男が、火吹き用の油を瓶に詰めている。誰も雪華の素性を訊かない。旅芸人というのは、そういうものらしい。
(……悪くない)
門が遠ざかり、山の稜線が低くなるにつれて、肩の力が抜けていく。振り返らずに歩いた分だけ、背中が軽い。
「ねえちゃん、飴、一口ちょうだい!」
唐突に、荷の隙間から小さな頭が飛び出した。
七つほどの男の子だった。日に焼けた頬に、大きな目。衣装の端切れを継ぎ足したような服の裾を、芸人用の紐でくくっている。
「もう食べ終わりました」
「え〜」
男の子興味をなくしたのか、荷車の縁へよじ登り、落ちかけたところを、隣の大男に首根っこを掴まれて引き戻された。
「こら小虎。落ちたら置いていくぞ」
「落ちないもん!」
座長の末っ子だと、大男が教えてくれた。好奇心の塊で、目を離すと何かしら拾って帰ってくるらしい。
「拾うって、何をです」
「猫、犬、蛇、前は金貸しの財布」
「財布はまずいですね」
「あとで返しに行ったがな。ちょっと大変だった」
雪華は小虎を見た。小虎は荷車の縁に顎を乗せ、流れていく景色を一瞬も逃すまいとするように、きょろきょろと目を動かしている。
「小虎」
雪華は小虎を膝の上に乗せてやった。うんうんと暫く振りほどこうとしていたが、やがて静かになった。
(これでは岳清玄とやっていることが同じか?)
雪華は串の鋭い部分を追って捨てて、木片となったそれに御剣術をかけて小虎に握らせてやった。
小虎はキョトンとした顔をして雪華をまじまじと見たが、小虎の手の中で上に上がろうとするそれに目を輝かせてた。
「なにこれ!ねえちゃんがやってるの?」
「武功の一種です。気を使って物を動かすんです」
「俺も出来るようになる?」
「ちゃんと練習すれば」
「どうやるの?」
「先ず、自然の中の気を感じるんです」
正攻法では感じるだけで半年はかかるらしい。しかし、師匠に教わった方法なら一日で出来る。今夜教えてやろうかと頭を撫でた。
◇
柳渡に着いたのは、日がだいぶ傾いた頃だった。
運河沿いに柳の並ぶ水郷の町で、石橋の下を小舟が行き交っている。一座が荷を解いたのは、広場に面した古い宿だった。定宿らしく、女将が笑顔で出迎える。
「夕方の興行に、準備が山ほどある」
座長は、宿の廊下で雪華の肩を叩いた。
「雪には、小虎の面倒を頼みたい。宿から出すな。あいつは目を離すと、必ず何か拾って帰ってくる」
「分かりました」
「頼んだぞ。本当に頼んだぞ」
念を押して、座長は走っていった。
(宿から出さなければいい。簡単な仕事ですね)
雪華は宿の一室で、小虎と向かい合って座った。小虎は行儀よく正座していた。
最初の三十を数える間は。
「ねえねえ、ねえちゃん」
「はい」
「外、行きたい」
「駄目です」
駄目だと言ったのにすでに窓によじ登っている。摘まみ上げて床に下ろした。
「ちょっとだけ」
「駄目です」
「……ちぇっ」
小虎は唇を尖らせて、窓の外を見た。
そのまま静かになったので、諦めたのだと思った。雪華が荷物の整理に手を伸ばした、その一瞬の間に、小虎の姿は部屋から消えていた。
障子が一枚、わずかに開いている。
「……うそん」
廊下を覗くと、小さな背中が、階段を一段飛ばしで駆け下りていくところだった。
追いかけて捕まえるのは簡単だ。今の内功でも、七つの子供の足に追いつけないことはない。
だが、捕まえればどうなるか。
大声で泣き喚くだろう。宿じゅうが騒ぎになり、女将が飛んでくる。座長にも届く。人目を集めるのは、今の雪華が最も避けたいことだった。
かといって、放っておけば、「本当に頼んだぞ」と言われた仕事をしくじることになる。しくじって叱られれば、これもまた目立つ。
三つ数えて、結論が出た。
(ついていけば、いいですね)
頼まれたのは「宿から出すな」であって、出てしまったものを連れ戻せ、ではない。ならば、面倒を見るという一点において、ついていくのが最も筋が通っている。
……自分でも少し無理のある理屈だと思ったが、時間が惜しい。
一階へ降りると、帳場で女将が帳面をつけていた。
「すみません。座長が戻ったら、小虎と少し出てくる、すぐ戻ると伝えてください」
「あら、あの子もう外に出たの? 毎度のことなのよ。気をつけてね」
毎度のことらしい。雪華は小さく頭を下げ、外へ出た。
◇
小虎は、広場から続く市場の人混みの中を、ちょこまかと泳ぐように進んでいた。
肉屋の軒先、草履屋の棚、蓮の葉に包まれた餅を積んだ屋台。目に入るものすべてに足を止め、触れようとして、店主に怒鳴られ、また次の店へ駆けていく。
雪華は三歩離れて、その後ろを歩いた。
(見失わない程度に、でも近づきすぎない)
人混みの流れを読みながら、小虎が転びそうなら先回りして足元の石を蹴り、荷車にぶつかりそうなら背後から服の端を摘んで引き戻す。小虎はそのたびに「あれ?」と首を傾げ、しかし気にせず走り出した。
やがて小虎は、一軒の屋台の前で立ち止まった。
赤、橙、琥珀色。串に刺された果物が、飴の衣で艶やかに光っている。
「……」
小虎は物欲しそうに、雪華を振り返った。
「……」
雪華は財布の口を開けた。
「一本」
「あいよ」
「いえ、二本ください」
朝から胸のどこかに残っていた甘さのせいだろうか。気づけば、そう口にしていた。
小虎の目が、きらきらと輝く。受け取った飴を、両手で握りしめるようにして舐め始めた。
「おいしい!」
「そうですか」
雪華も自分の分を、ぱきりと噛み砕く。
(今日だけで、もう二本目ですね)
どうやら逃亡とは別のところで、胃の腑だけは確実に幸せらしかった。
飴を舐めている間、小虎は大人しかった。甘い物は、子供を静かにさせる。雪華はこれを学んだ。
けれど、それも半分ほど舐めたところまでだった。
(手ぐらいは握っておきましょうか)
そう考えて視線を落とした時には、灰色の猫が尻尾を立てて通りを横切っていて、小虎はもうその後を追って駆け出していた。
「待ちなさい」
猫は、人一人がやっと通れるほどの路地へ滑り込む。小虎はその後を追って、迷わず入っていった。
雪華は路地の入口で足を止めた。
薄暗い。日の傾いた市場の喧騒から一本外れただけで、空気が冷たく湿っている。堅気の人間が、好んで入る道ではない。
(……ここは、駄目でしょう)
けれど、ここで声を上げれば、小虎は驚いて奥へ走り込むかもしれない。引き返せば、座長に「何故止めなかった」と叱られる。
子供など、猫のようなものだ。見失わなければ、どうにかなる。
雪華は指先で、髪の根元を探った。簪を挿していた場所に、何もない。
(そうでした)
代わりに、手に残していた飴の串を持ち直す。細く、先は尖っていないが、使えなくはない。
串を指の間に挟んで、雪華は路地の奥へ足を踏み入れた。
◇
猫は、路地の突き当たりにある古い樽の上で、のんびりと座っていた。
小虎は、その前にしゃがみ込み、飴を差し出している。
「ほら、おいしいよ」
「猫は飴を食べません。帰りますよ」
「食べるかもしれないもん」
雪華が背後から声をかけると、小虎は振り返り、悪びれもせずに笑った。
小虎を抱え上げると、膝に座らせた時よりも重さを感じる。こういう場所はさっさと出て行くに限る。
「行きますよ」
……その背後から、酒臭い息が降ってきた。
「おい、嬢ちゃん」
路地の入口側に、三人の男が立っていた。
昼間から酒を飲んでいたのだろう。顔が赤く、足元が覚束ない。腰には短刀。人の通らない路地で酒を飲むような手合いだった。
驚いた小虎が身をよじった拍子に、握っていた飴が、先頭の男の着物の裾にべちゃりと貼りついた。
(……何故、こうも最悪の行動ばかり選ぶのか。小虎も、自分も)
男は小虎の襟首を掴み、雪華の腕から引きはがした。小虎の足が、地面から浮く。
頬に傷のある男は、その飴を引きはがしながら、低く唸った。
「なんだこれは。このガキのか」
「ごめんなさい」
小虎が小さく謝った。素直に謝れる子供で良かった、と雪華は思った。
「ごめんで済むか。この着物は上等なんだぞ」
男は小虎の襟首を掴んだ。小虎の足が、地面から浮く。
「保護者はどいつだ」
雪華は、一歩前へ出た。
「私です。子供のしたことです。洗い賃なら、お支払いします」
「ほう」
男たちの視線が、雪華の全身を舐めるように動いた。細い手足、赤茶の髪、男物の着物。
「お前、いくつだ。まだ毛も生えとらんような娘が、保護者面か」
「十六です」
「はあ? 嘘をつけ。そんな華奢な十六がいるか」
(……失礼ですね)
胸の奥で小さく苛立ったが、顔には出さなかった。
「洗い賃を出します。いくらですか」
「銭の問題じゃねえ」
男は小虎の襟を掴んだまま、にやりと笑った。
「ガキを預かっておいてやる。いや、お前も来い。お前みたいな年頃の娘が一番金になる」
小虎が、ひっと息を呑んだ。
雪華は、静かに目を伏せた。
相手は三人。一人は小虎を掴み、残る二人は短刀に手をかけたまま、左右から距離を詰めようとしている。
こちらは、内功が散らされて一割も戻っていない。簪は取り上げられた。手元にあるのは、飴の串が一本だけ。
路地は狭い。逃げるなら小虎を置いて行くしかなく、置いていけば仕事ができなかったことになる。
それに。
(ここで騒ぎを大きくすれば、噂になる。噂になれば、あの男に辿られる)
殺せば、簡単だった。
けれど、七つの子供の目の前で人を殺すのは避けたい。血が流れれば、後始末の手間も増える。
(本当に浮かれていたな。)