一護が卍解「天鎖斬月」を解放し、白哉と正面から戦えることを確信した朔夜は、双殛の丘を離れました。
向かった先にいるのは、市丸ギン。
処刑騒動とは別の方向へ、不自然に霊圧を抑えながら移動する男を追い、朔夜は瀞霊廷の奥へと進みます。
それでは、第41話「異変」です。
双殛の丘から離れても、一護と白哉の霊圧は遠くまではっきりと伝わってきた。
二つの強大な気配がぶつかるたび、離れた屋根の瓦まで僅かに震えている。
朔夜は瞬歩で建物の上を駆けながら、一度だけ背後を振り返った。
一護の霊圧は落ちていない。
天鎖斬月を解放してからは、むしろ以前より鋭く研ぎ澄まされている。
「……大丈夫そうだな」
それだけ確認すると、朔夜は再び前を向いた。
今追うべき相手は別にいる。
市丸ギン。
問題なのは、単に双殛から離れていることではなかった。
三番隊隊長であるギンが、隊舎へ戻るでもなく、処刑場の混乱へ対応するでもなく、瀞霊廷の奥へ向かっている。
しかも、普段なら隠す必要のない霊圧まで意図的に抑えていた。
完全に消しているわけではない。
追おうと思えば追える程度に、僅かに残している。
そのことが、朔夜にはかえって気になった。
「隠したいのか、気づいてほしいのか……どっちなんだよ」
ギンの霊圧を追いながら、朔夜は速度を落とさない。
進行方向の先にあるのは、中央四十六室へ続く区画だった。
処刑命令を下した最高司法機関。
今の状況と無関係な場所ではない。
だが、だからこそ違和感がある。
こんな時に、市丸ギンが一人で向かう理由が見えない。
朔夜が次の屋根へ着地した瞬間だった。
「せっかく黒崎一護クンが頑張っとるのに、見てへんでええん?」
背後から声がした。
朔夜は驚かなかった。
むしろ、やっと出てきたかという顔で振り返る。
少し離れた屋根の上に、市丸ギンが立っていた。
細い目。
変わらない笑顔。
一見すれば、いつものギンだった。
「やっぱり気づいてたか」
「そら気づくよ。あんな真っ直ぐ追われたらなぁ」
「だったら話が早い」
朔夜は屋根の上で立ち止まる。
「何してるの?」
「散歩や」
「この騒ぎの中で?」
「この騒ぎの中やからやろ」
あまりにも自然に返され、朔夜は小さくため息をついた。
「昔から思ってたけど、君と話してると本当に疲れる」
「ひどいなぁ」
「じゃあ簡単に聞くよ」
朔夜の目から笑みが消える。
「中央四十六室に何の用?」
ギンの表情は変わらなかった。
ただ、返事だけが一拍遅れた。
「何で中央四十六室やと思うん?」
「進んでる方向を見れば分かる」
「たまたまかもしれへんよ」
「だったら、わざわざ霊圧を抑える必要はないだろ」
風が二人の間を抜け、死覇装の裾を揺らす。
ギンは数秒黙った後、いつもの笑みを少し深くした。
「朔夜クン、昔より面倒になったなぁ」
「君に言われたくないよ」
「ほな、ボクは忙しいから」
ギンが背を向ける。
朔夜は一歩踏み出した。
「待って」
ギンの足が止まった。
「何してるのか説明してよ」
「嫌や言うたら?」
「止める」
「怖いなぁ」
ギンの右手が神鎗へ伸びる。
朔夜も構えた。
ただし、御厨子は抜かない。
次の瞬間。
「射殺せ――神鎗」
刀身が一直線に伸びた。
狙いは胸。
朔夜は大きく避けず、僅かに身体を横へずらす。
同時に、右手の指をほんの少し動かした。
何も光らない。
何も飛ばない。
それでも神鎗の横を、目に見えない何かが掠めた。
伸びた刀身が僅かに軌道を逸らし、朔夜の肩の横を通過する。
ギンの目が細くなる。
「今のは……解か」
「正解」
朔夜の使う「解」は、離れた対象へ直接届く斬撃だった。
斬撃そのものは目に見えず、発動の兆候もほとんどない。
狙った位置へ届き、どこまで切るかも朔夜が決める。
今は神鎗そのものを断ったのではなく、刀身の側面へ浅く当て、軌道だけを僅かに変えた。
ギンが神鎗を引き戻す。
「ほんま便利やねぇ。見えへん斬撃って」
「見えたら困るよ」
言い終わると同時に、朔夜が距離を詰めた。
拳を振るう。
ギンは身体を捻って避け、そのまま神鎗を振り抜いた。
朔夜は身を沈めてかわすと、伸びる刀身へ左手を触れさせた。
その瞬間、ギンの表情が僅かに変わる。
「――捌」
今度は「解」と違う。
捌は、触れた対象の硬さや霊圧を読み取り、それに合わせて切り方そのものを変える斬撃だった。
強い相手には深く食い込み、硬いものには必要なだけ刃を通す。
だが、朔夜はその威力さえ自分で止められる。
神鎗の表面に細い傷が走った。
断ち切らない。
ただし、次に同じ場所へ触れれば、さらに深く入る。
ギンは即座に神鎗を引いた。
「……そっちは捌やね」
「よく覚えてるじゃん」
「忘れる方が難しいわ」
朔夜が僅かに笑う。
「解は距離を選ばない。捌は触れた相手に合わせる。だから、どっちを使うかは相手次第」
「それ、ボクに教えてええの?」
「知ってたでしょ」
「まあなぁ」
二人の姿が同時に消える。
次の瞬間には隣の建物の上で刃と拳が交差していた。
ギンは神鎗の長さを変えながら間合いを崩し、朔夜は瞬歩と白打でその懐へ入ろうとする。
神鎗が伸びれば、朔夜は解で進路を僅かにずらす。
距離が詰まれば、ギンは捌を警戒して刃へ触れさせないように動く。
互いの能力を理解した上で、決定打だけを避け続ける攻防だった。
しかし、数度の打ち合いを重ねたところで朔夜は気づいた。
ギンが勝とうとしていない。
逃げ切ろうともしていない。
朔夜が追えば離れ、止まれば振り返る。
こちらが近づきすぎれば牽制し、離れればわざと霊圧を残す。
「……おかしいな」
朔夜が足を止める。
数十歩先に着地したギンも振り返った。
「何が?」
「君、本気で俺を撒くつもりないだろ」
ギンは笑うだけだった。
その反応で十分だった。
朔夜は周囲を見回す。
気づけば、双殛からかなり離れている。
中央四十六室へ近づいてはいるものの、最短距離ではない。
細かく進路を変えさせられ、必要以上に時間を使わされていた。
「俺を追わせてる?」
「考えすぎちゃう?」
「だったら、何で逃げ切らないの」
ギンは答えない。
朔夜の目が鋭くなる。
「俺をどこかから遠ざけたいのか。それとも、時間を稼ぎたいのか」
ほんの一瞬だけ、ギンの笑みが薄れた。
すぐに元へ戻る。
「朔夜クン、勘ええなぁ」
「褒めても何も出ないよ」
「困るなぁ。もうちょっと素直についてきてほしかったんやけど」
その言葉だけでは、何を意味しているのか分からない。
中央四十六室から遠ざけたいのか。
逆に、何かを見せるためにこちらへ導いているのか。
それとも、ただ時間を使わせたいのか。
朔夜にもまだ判断できなかった。
ただ一つ分かったのは、今のギンが偶然ここにいるわけではないということだった。
「じゃあ、追うのやめるよ」
「え?」
今度はギンの方が僅かに反応した。
朔夜はすぐに踵を返す。
「君の狙いが俺を引っ張ることなら、ついていく理由ないし」
「薄情やなぁ」
「君に付き合ってる方が危ない」
朔夜が別方向へ意識を向けた、その時だった。
二つの霊圧が近づいてくる。
片方は鋭く冷たい隊長格。
もう一つは、よく知る副隊長級。
ギンも気づいたらしい。
「ああ、来たみたいやね」
「誰が?」
ギンは答えなかった。
一歩後ろへ下がり、そのまま瞬歩で姿を消す。
朔夜は追わなかった。
追えば、また相手の思惑通りになる。
代わりに近づいてくる霊圧を待つ。
ほどなくして、十番隊隊長・日番谷冬獅郎と松本乱菊が屋根の上へ姿を現した。
日番谷は朔夜を見るなり警戒を強める。
「御門朔夜」
「どうも」
「何故ここにいる」
「ギンを追ってた」
その名前を聞いた瞬間、日番谷の顔つきが変わった。
乱菊も目を見開く。
「市丸隊長を?」
「双殛とも三番隊とも関係ない方向へ動いてた。それに、俺へ気づかせるみたいに霊圧を残してた」
日番谷が眉を寄せる。
「気づかせるように?」
「最初は隠れてると思った。でも違った」
朔夜はギンが消えた方角を見る。
「追えば離れる。止まれば待つ。あいつ、俺を撒くんじゃなくて、動かしてた」
乱菊の表情が曇る。
日番谷はすぐに尋ねた。
「どこへ向かっていた」
「中央四十六室の方角」
その言葉を聞いた日番谷の顔色が変わった。
「やはり……」
「そっちも気づいてた?」
「市丸の動きには前から違和感があった」
日番谷は中央四十六室の方角へ目を向ける。
「行くぞ、松本」
「はい!」
二人が駆け出す。
朔夜も後を追った。
日番谷が振り返る。
「何故ついてくる」
「ここまで来たら気になるよ」
「邪魔はするな」
「了解」
三人は中央四十六室へ向かって走る。
しかし、近づけば近づくほど、朔夜の中の違和感は強くなっていった。
最初は静かすぎると思っただけだった。
やがて、それが異常だと分かる。
人の気配がない。
巡回しているはずの隊士がいない。
門を守る霊圧もない。
中央四十六室へ続く道である以上、普段ならもっと厳重なはずだった。
それなのに、進めば進むほど音が消えていく。
遠くの双殛から響いていた戦闘音すら、建物に遮られて聞こえなくなった。
残るのは、三人の足音だけだった。
乱菊が小さく呟く。
「……静かすぎない?」
日番谷は答えない。
朔夜は周囲へ霊覚を広げる。
「静かっていうより……空っぽだ」
「何?」
「人がいる場所の感じがしない」
それでも建物は壊れていない。
争った形跡もない。
だからこそ不気味だった。
三人はさらに奥へ進む。
途中の門も閉じている。
結界も残っている。
外見だけなら、何一つ異常はない。
なのに、中から誰の気配もしない。
朔夜の表情から完全に軽さが消えた。
「日番谷」
「ああ」
日番谷も同じものを感じ取っている。
中央四十六室の正門へ辿り着く。
大きな門は固く閉ざされていた。
乱菊が息を整えながら周囲を見る。
「警備が一人もいないなんて……」
日番谷が門へ近づく。
朔夜はその背中越しに、さらに奥へ意識を伸ばした。
何もない。
いや。
何かがおかしい。
「待って」
日番谷の手が止まる。
朔夜は目を細めた。
「霊圧がないんじゃない」
「どういう意味だ」
「人がいない場所なら、もっと自然なんだよ」
誰もいない部屋。
誰もいない廊下。
そこにはただ空間があるだけだ。
だが、今の中央四十六室は違う。
何かが残っている。
生きている人間の霊圧ではない。
もっと沈んだ、冷たい気配。
朔夜の声が低くなる。
「中に何かいる」
乱菊が息を呑む。
「誰か、じゃなくて?」
朔夜は答えなかった。
日番谷が刀へ手を掛ける。
「開けるぞ」
三人が警戒する中、重い門がゆっくりと開かれた。
内側から冷たい空気が流れ出してくる。
人の声はない。
物音もない。
ただ、長い間閉ざされていた場所のような空気だけが漂っていた。
三人は中へ入る。
足音が廊下へ響き、その反響だけが不自然なほど大きい。
朔夜は歩きながら、何度も左右へ視線を向けた。
壊された形跡はない。
血の匂いも、入口付近ではほとんどしない。
それでも、生きている者の気配が一切ない。
「誰もいない……」
乱菊が呟く。
日番谷は歩みを止めず、奥へ進む。
一つ目の扉。
誰もいない。
二つ目。
誰もいない。
進むほど、空気はさらに冷えていく。
そして、広間へ続く最後の扉の前で朔夜が足を止めた。
「ここだ」
日番谷も止まる。
「分かるのか」
「ああ」
今まで感じていた冷たい気配。
その正体が、この先にある。
日番谷が扉へ手を掛ける。
ゆっくりと開く。
その先を見た瞬間、乱菊が言葉を失った。
日番谷の顔からも血の気が引く。
朔夜は黙ったまま、広間全体を見渡した。
中央四十六室の構成員たちがいる。
ただし、誰一人動いていない。
全員が既に命を失っていた。
しかも、今殺されたわけではない。
空気に残る気配。
身体の状態。
どれを見ても、かなり前からこの場所に死者しかいなかったことが分かる。
日番谷が低く呟く。
「……どういうことだ」
朔夜は一人の遺体へ近づき、少しだけ目を細めた。
「少なくとも今日じゃない」
「何?」
「さっき殺されたようには見えない」
その言葉の意味を理解した瞬間、乱菊の顔色が変わる。
中央四十六室は、ルキアの処刑命令を出した場所だ。
その後、処刑日まで突然繰り上げられた。
だが、もしその時には既に全員が死んでいたのなら。
「じゃあ……」
乱菊の声が震える。
「ルキアちゃんの処刑命令は……誰が出したの?」
誰もすぐには答えられなかった。
朔夜の頭の中で、それまで別々だった違和感が繋がり始める。
異常に早められた処刑。
中央四十六室へ近づくギン。
そして、自分をわざと追わせるような動き。
ギンは、ここを隠したかったのか。
それとも逆に、誰かがここへ辿り着く時間を調整していたのか。
まだ分からない。
その時だった。
朔夜が顔を上げる。
「……いる」
日番谷が振り返る。
「何だ」
「奥だ」
今度ははっきりしていた。
僅かな霊圧。
死者のものではない。
生きている誰かが、中央四十六室のさらに奥にいる。
日番谷が氷輪丸へ手を掛ける。
朔夜も腰の御厨子へ手を伸ばした。
先ほどまでの軽い表情は完全に消えている。
「ギンだけの話じゃないな、これは」
乱菊も刀を握る。
三人の視線が、さらに奥へ続く通路へ向けられた。
双殛では、一護と白哉が戦っている。
その裏で、尸魂界そのものを揺るがす異変が、ようやく輪郭を現し始めていた。
朔夜はギンの誘導に気づき、日番谷たちと中央四十六室へ。
そこで、処刑命令そのものに重大な異常があったことが判明します。
次回――
第42話「死者のはずの男」