しかし、ルキアの心にはまだ一つ、大きな疑問が残っています。
なぜ白哉は、自分の処刑を止めようとしなかったのか。そして最後には、なぜ自らの身体を盾にしてまで自分を守ったのか。
今回は、白哉がこれまで語らなかった過去と、朽木兄妹の物語です。
藍染たちが尸魂界を去ってから、数日が経った。
激しい戦いで負傷した者の多くは四番隊の隊舎で治療を受けており、一護や恋次、朔夜も例外ではなかった。命に関わる傷ではないものの、全員がまだ本調子には程遠い。
瀞霊廷にも、以前のような落ち着きは戻っていなかった。
中央四十六室は壊滅し、藍染惣右介、市丸ギン、東仙要という三人の隊長が離反した。さらに、ルキアの処刑そのものが藍染によって仕組まれていたことまで明らかになっている。
あまりにも多くのことが、一度に起こり過ぎた。
そしてルキア自身にも、まだ整理できていないことがあった。
四番隊の一室で布団に座りながら、ルキアは自分の胸元へそっと手を当てる。
藍染に崩玉を抜き取られた場所に、もう目立った傷はない。
それでも、あの日の光景ははっきりと覚えていた。
自分へ向かって伸びてきた、市丸ギンの神鎗。
そして、その前へ迷うことなく飛び込んだ白哉。
「……兄様は、何故……」
これまでの白哉ならば、掟に背いてまで自分を守ることはしない。
少なくともルキアは、ずっとそう思っていた。
では、あの行動は何だったのか。
答えが見つからないまま考え込んでいると、廊下から足音が近づいてきた。
「失礼します」
四番隊の隊士が襖を開ける。
その後ろに立っていた人物を見て、ルキアは思わず背筋を伸ばした。
「兄様……」
朽木白哉だった。
白哉自身もまだ治療の途中で、身体のあちこちに包帯が巻かれている。一護との戦いだけでも深手を負っていたうえ、最後にはルキアを庇って神鎗を受けたのだ。
それでも白哉は、いつも通り姿勢を崩していなかった。
「入るぞ」
「は、はい」
白哉が部屋へ入り、四番隊の隊士が静かに襖を閉める。
兄妹二人だけになった部屋には、しばらく沈黙が続いた。
ルキアは何を話せばいいのか分からない。
白哉も元々、必要以上のことを口にする人物ではない。
だが、その日は白哉の方から話し始めた。
「身体はどうだ」
「もう問題ありません。卯ノ花隊長からも、しばらく無理をしなければ大丈夫だと」
「そうか」
短い返事の後、再び静かになる。
ルキアは膝の上で手を握り、意を決して口を開いた。
「あの……兄様」
「何だ」
「先日は、ありがとうございました」
ルキアは深く頭を下げた。
「私を庇ってくださって……」
「礼を言われることではない」
「ですが――」
「ルキア」
白哉の静かな声に、ルキアは顔を上げた。
「お前には、話しておかなければならないことがある」
白哉は僅かに間を置いてから続ける。
「お前を朽木家へ迎えた理由だ」
ルキアの目が見開かれた。
ずっと疑問に思っていたことだった。
流魂街で暮らしていた自分が、なぜ突然、四大貴族である朽木家へ養子として迎えられたのか。
白哉からその理由を聞いたことは、一度もなかった。
「私を朽木家へ迎えた……理由?」
「ああ」
白哉は静かに頷いた。
「お前には、姉がいた」
「……姉?」
初めて聞く事実だった。
「名を、緋真という」
その名を口にした時だけ、白哉の表情が僅かに変わった。
「緋真は――私の妻だった」
ルキアは息を呑んだ。
「兄様の……奥方……?」
「ああ」
思いもよらない話に、すぐには頭が追いつかなかった。
白哉はそんなルキアを急かすことなく、ゆっくりと言葉を続けた。
「緋真とお前は、現世にいた頃から姉妹だった。死後、二人は共に流魂街へ送られた」
白哉の話によれば、当時の緋真はまだ若く、流魂街で自分一人が生きていくだけでも精一杯だった。
そのうえ、ルキアはまだ赤子だった。
「緋真には、お前を育てる力がなかった。だから流魂街で、お前を置いていかざるを得なかった」
ルキアの指が僅かに震えた。
「……私を」
「ああ」
白哉は事実を隠さなかった。
「だが、緋真はそのことを生涯悔いていた」
その言葉に、ルキアが顔を上げる。
「私と出会い、朽木家へ入った後も、緋真はお前を探し続けた。身体を悪くしてからも、それだけは諦めなかった」
白哉の声音が少しだけ低くなる。
「しかし、最後まで見つけることはできなかった」
ルキアは黙って聞いていた。
覚えていない姉。
会った記憶すらない姉。
それなのに、胸の奥が痛んだ。
「五年前、緋真は亡くなった」
白哉は一度目を伏せる。
「亡くなる直前、緋真は私に一つ頼み事をした。もしお前を見つけたなら、自分の妹としてではなく、私の妹として朽木家へ迎えてほしい、と」
「……何故、姉であることを隠したのですか」
ルキアが震える声で尋ねる。
白哉は静かに答えた。
「自分を捨てた姉を、お前に恨んでほしくなかったからだ」
ルキアの目から、涙が零れた。
緋真は、自分を見捨てたことを忘れていたわけではない。
むしろ、ずっと後悔し続けていた。
そして最期まで、自分の幸せを願っていた。
「その翌年、私は真央霊術院でお前を見つけた」
白哉の言葉に、ルキアは養子となった日のことを思い出した。
突然、朽木家へ迎えたいと告げられた。
何故自分なのか、何も分からなかった。
「だから兄様は……私を……」
「緋真との約束を守るために、お前を朽木家へ迎えた」
ようやく一つの疑問が解けた。
しかし白哉の話は、そこで終わらなかった。
「だが、それによって私は別の問題を抱えることになった」
「別の問題……?」
「私は緋真を妻へ迎えた時、朽木家の掟を破っている」
四大貴族の当主である白哉が、流魂街出身の女性を妻にする。
当然、周囲から強い反対があった。
それでも白哉は緋真を選んだ。
そして緋真を亡くした後、今度はその妹であるルキアを、特例として朽木家へ迎え入れた。
「私は二度、掟を破った」
白哉は静かに話す。
「その時、父母の墓前で誓った。二度と掟を破らぬ、と」
ルキアは息を呑んだ。
ようやく理解した。
白哉が、自分の処刑を知りながら掟へ従い続けた理由を。
白哉はルキアを助けたくなかったわけではない。
妹として何も思っていなかったわけでもない。
緋真との約束を守ろうとすれば、ルキアを救わなければならない。
しかし父母との誓いを守ろうとすれば、護廷十三隊と朽木家の掟に従わなければならない。
二つの約束が、正反対の方向から白哉を縛っていた。
「私は迷っていた」
白哉が静かに言った。
ルキアは驚いたように兄を見る。
白哉自身の口から「迷った」という言葉を聞いたことなどなかった。
「緋真との約束を守れば、お前を助けなければならない。しかし父母との誓いを守るなら、私は掟に従わなければならなかった」
白哉は僅かに目を伏せる。
「どちらを選んでも、誰かとの約束を破ることになる」
「兄様……」
「私は答えを出せなかった。だから掟に従うことを選んだ」
その結果、ルキアの処刑を受け入れた。
白哉自身も、そのことを理解している。
だからこそ、その声には普段にはない重さがあった。
「だが、黒崎一護は私に問うた」
「一護が?」
「あの男は掟よりも先に、自分が守りたいものを選んだ」
白哉の表情がほんの僅かに緩む。
「愚かで、無謀で、礼儀も知らぬ男だ」
ルキアは涙を拭いながらも、思わず答えた。
「……それは否定できません」
ほんの少しだけ、部屋の空気が柔らかくなる。
「だが、一護との戦いで私は考えさせられた」
白哉はルキアを見る。
「掟は必要だ。まして、朽木家の当主である私が軽々しく破ってよいものではない」
そこで一度言葉を切る。
「しかし、守るべき者を守れずして、何のための掟かとも思った」
ルキアの目から、再び涙が溢れた。
白哉は器用に慰めることのできる人物ではない。
優しい言葉を並べることもしなければ、涙を拭ってやることもしない。
それでも、ルキアには十分だった。
「兄様」
「何だ」
「私は……姉様を恨みません」
白哉の目が僅かに動く。
「私は姉様のことを覚えていません。でも、ずっと私を探してくださっていたのでしょう?」
「ああ」
「それなら、それで十分です」
ルキアは涙を拭いながら、小さく笑った。
「それに、兄様が私を朽木家へ迎えてくださったことも……私は嬉しく思っています」
白哉はしばらく何も言わなかった。
やがて、ごく小さく答える。
「……そうか」
ただそれだけだった。
けれどルキアには、その一言が何よりも優しく聞こえた。
◇
部屋の外では、恋次が壁にもたれていた。
まだ治療中なのだから、本来は病室で休んでいなければならない。
その隣には、同じく包帯だらけの朔夜もいる。
「……盗み聞きって趣味悪いよ」
朔夜が小声で言った。
「お前もここにいるだろうが」
「俺は通り掛かっただけ」
「俺もだ」
朔夜が恋次を見る。
「その割に結構長くいるけど」
「うるせぇ」
恋次は小さく息を吐いた。
中の話を全部聞くつもりなどなかった。
ただ、白哉とルキアがようやく向き合えている。それだけで少し安心していた。
「よかったね」
朔夜が言う。
「……まあな」
「嬉しそう」
「お前に言われると腹立つ」
「何で?」
「知らねぇよ」
その時、襖が開いた。
二人の身体が同時に固まる。
部屋から出てきた白哉が、廊下に立っている二人を見る。
「……」
「た、隊長……」
恋次の顔が引きつった。
白哉はまず恋次を見る。
「恋次」
「はい!」
「治療中の者が、何をしている」
「……散歩です」
「そうか」
続いて朔夜へ視線を移す。
「御門」
「俺も散歩」
「そうか」
それ以上何も言われない。
むしろその方が怖かった。
白哉は二人の横を通り過ぎる。
恋次がほっと息を吐きかけた時、白哉の足が止まった。
「恋次」
「はい」
今度は先ほどより落ち着いて返事をする。
白哉は振り返らずに言った。
「ルキアを頼む」
恋次の表情が変わった。
双殛で戦っていた時の「頼む」とは違う。
一時的に守れという意味ではないことが、恋次にも分かった。
数秒の沈黙の後、恋次は真っ直ぐ白哉の背中を見る。
「……はい。任せてください、隊長」
白哉はそれ以上何も言わず、廊下を歩いていった。
朔夜が隣で少し笑う。
「よかったじゃん」
「だから何でお前が嬉しそうなんだよ」
「いい話だったから」
「聞いてたって認めてんじゃねぇか」
その時、部屋の中から声が飛んできた。
「恋次」
恋次の肩が跳ねる。
襖の隙間から、ルキアがこちらを睨んでいる。
「お前、いつからそこにいた」
「いや、その……」
「恋次」
「……途中から」
ルキアの眉が吊り上がった。
「やはり盗み聞きしていたのか!」
「待て! 違う! たまたま通っただけだ!」
「長時間たまたま廊下に立っている馬鹿がどこにいる!」
朔夜は巻き込まれる前に離れようとした。
「じゃ、俺はこれで」
「待て、御門!」
「……何?」
「お前も聞いていたな?」
「通り掛かっただけ」
「恋次と同じ言い訳ではないか!」
「じゃあ散歩で」
「それも同じだ!」
廊下にルキアの怒声が響く。
少し離れた場所を歩いていた白哉は、その声を聞いて一度だけ足を止めた。
振り返ることはしない。
ただ、誰にも見えないほど僅かに表情を緩め、そのまま静かに歩いていった。
◇
その日の夕方。
朔夜は四番隊の縁側に座っていた。
少し離れた場所では、一護、織姫、石田、茶渡が話している。その近くには恋次とルキアもいた。
数日前までなら、こうして同じ場所で穏やかに話している光景など想像もできなかった。
一護はルキアを助けるために尸魂界へ乗り込み、恋次は白哉へ刃を向けた。
白哉も一護と死力を尽くして戦った。
護廷十三隊の中でも、それぞれが別の正義を抱えて戦っていた。
それでも今は、皆が同じ夕焼けの下にいる。
「何じゃ。今日は随分と大人しいのう」
聞き慣れた声に、朔夜が横を見る。
「夜一さん」
夜一が隣へ腰を下ろした。
「また藍染のことでも考えておったか?」
朔夜は首を振る。
「今日は違うよ。ただ見てただけ」
「珍しい」
朔夜の前では、一護と恋次が何かを巡って言い争い、それをルキアが呆れながら止めている。織姫は楽しそうに笑い、石田はやれやれといった顔をし、茶渡は静かに見守っていた。
夜一がその光景を眺めながら呟く。
「少しは元に戻ったようじゃな」
朔夜は少し考えてから答えた。
「前と同じには戻らないと思う」
夜一が横目を向ける。
「藍染は逃げたし、崩玉も取られた。中央四十六室もなくなった。今回のことをみんなが忘れるわけでもない」
朔夜は皆の姿を見ながら続ける。
「でも、変わったから全部悪くなったわけでもないんじゃないかな」
白哉とルキアが向き合った。
恋次も、自分の気持ちに従って動いた。
一護たちが尸魂界へ来たことで、それまで動かなかったものが確かに動き始めている。
「前より少しだけ、いい方へ行くんじゃない?」
夜一は穏やかに笑った。
「そうじゃとよいの」
すると、離れた場所にいた一護が二人に気づいた。
「おい、朔夜! 何一人でのんびりしてんだ!」
「怪我人なんだけど」
「俺もだ!」
「一護の方が元気そうじゃん」
「お前も十分元気だろ!」
すぐにルキアが一護を睨む。
「二人とも、まだ治療中であろう! 少しは大人しくしておれ!」
朔夜は夜一と顔を見合わせた。
「怒られた」
「当然じゃ」
朔夜は笑いながら、ゆっくり立ち上がった。
傷はまだ痛む。
藍染に敗れた悔しさも、消えたわけではない。
鏡花水月への答えも見つかっていない。
それでも今だけは、そのことを少し横へ置いてもいいと思えた。
戦いの中で守れたもの。
戦いが終わったからこそ、ようやく取り戻せたもの。
それをきちんと見ておきたかった。
朔夜は夜一とともに、皆がいる方へ歩いていく。
その背後では、尸魂界の空を赤く染めながら、夕日がゆっくりと沈み始めていた。
白哉がルキアへ、緋真との過去と、自分が掟に従い続けた理由を明かしました。
すれ違っていた兄と妹も、ようやく少しずつ向き合い始めます。
次回――
第48話「別れの前に」