その姿を見た朔夜もまた、自分自身の次の段階へ進むことを決めます。
かつて夜一から使用を禁じられた、御厨子の危険な応用。
それは、斬撃を放つのではなく――自分自身へ纏わせるというものでした。
それでは、第56話「纏う斬撃」です。
一護が仮面の軍勢のもとで修行を始めてから、数日が経っていた。
地下修行場では今日も激しい音が響き、一護は何度目かの挑戦を終えて仰向けに倒れていた。
「……何秒だ」
息を切らしながら尋ねると、平子が時計を見る。
「十一秒」
「昨日より短くなってんじゃねぇか!」
「怒鳴る元気あるなら、もう一回やるか?」
「やる!」
一護が勢いよく起き上がると、ひよ里が呆れたように鼻を鳴らした。
「毎回それ言うて、毎回ぶっ倒れとるやん」
「うるせぇ! 今度はもっといく!」
「その根性だけで仮面保てたら苦労せんわ!」
また言い合いを始める二人を、平子が半ば諦めた顔で眺めていた。
その頃、浦原商店の地下修行場でも、別の修行が始まろうとしていた。
◇
「本気か?」
夜一の声には、普段より明らかに重みがあった。
朔夜は修行場の中央に立ち、御厨子を腰に差したまま頷く。
「うん」
「前に何と言ったか覚えておるな」
「身体へ斬撃を纏うのはまだ早い、でしょ」
尸魂界へ向かう前、夜一との修行中に一度だけ試そうとした技だった。
御厨子の斬撃を外へ放つのではなく、自分の身体の表面へ極薄く纏わせる。触れた相手や武器を接触した瞬間に切るための、近接戦向けの応用。
当時の夜一は、それを試すことすら許さなかった。
「今でも安全になったとは思っておらん」
夜一が腕を組む。
少し離れた場所では、浦原も扇子を閉じていた。
「御厨子の制御自体は、尸魂界でかなり上がりましたけどねぇ」
「問題はそこではない。外へ放つ斬撃なら、失敗しても切るのは基本的に外じゃ。身体へ纏えば、一度制御を誤るだけで自分を切る」
「分かってる」
朔夜は御厨子の柄へ手を置いた。
「でも、この前の破面には解が思ったより通らなかった。捌なら通るけど、接触するまでが問題になる。だったら、その接触自体をこっちの攻撃に変えたい」
夜一はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「最初から全身は許さん」
浦原が続ける。
「まずは右腕だけにしましょう。皮膚へ貼り付けるんじゃなく、数ミリ外側へ置くつもりで」
「分かった」
「失敗したらすぐ止めるぞ」
「はい」
「無理をしたらその時点で終わりじゃ」
「最近、返事だけは素直になったから大丈夫」
「そこを自分で言うな」
朔夜は少し笑い、右腕を前へ出した。
御厨子は抜かない。
必要なのは能力そのものの制御だった。
普段の解なら、対象を決め、そこへ斬撃を発生させればいい。しかし今回は対象が自分自身であり、しかも切ってはいけない。
右腕の外側へ、極薄い斬撃を一本だけ固定する。
見た目には何も起こらない。
光もなければ、音もない。
夜一が目を細める。
「できたか?」
「たぶん」
「その言葉が一番怖いんじゃが」
朔夜は近くに置かれた木製の棒へ、右腕をゆっくり近づけた。
腕が触れる直前、木の表面へ細い切れ目が走り、そのまま棒が二つに割れる。
「……できた」
朔夜が自分の腕を見る。
その直後、右腕へ浅い傷が走った。
「っ!」
血が滲み、朔夜はすぐに能力を止める。
夜一の表情が険しくなる。
「今のが問題じゃ」
浦原も傷へ視線を向けた。
「斬撃を空間に固定したまま、朔夜サンの腕の方が動きましたね」
「ほんの少ししか動いてないけど」
「その少しで切れるから危険なんですよ」
呼吸でも筋肉は動く。
霊圧も一定ではない。
身体へ纏う以上、斬撃をその場に置くだけでは駄目で、自分の動きへ常に追従させなければならない。
朔夜は傷口を見ながら小さく息を吐いた。
「思ってたより面倒だな」
「だから止めたと言うたじゃろ」
それでも朔夜は再び右腕を上げた。
今度は斬撃を一本ではなく、腕の周囲へ薄く沿わせる。
指を動かせば位置もずらし、肘を曲げれば軌道も変える。最初は何度も斬撃が内側へ入りかけ、そのたびに止めたが、少しずつ身体の動きへ合わせられる時間が伸びていった。
「そこで止めるな」
夜一が言う。
「え?」
「実戦で使いたいんじゃろ。動かずに維持できても意味がない」
次の瞬間、夜一の姿が消えた。
「ちょっと待って!」
朔夜が反射的に右腕を上げる。
夜一の拳が迫る。
このまま受ければ、拳を切る。
避ければ、修行にならない。
朔夜は接触する直前、拳が通る部分だけ斬撃を外へずらした。
夜一の拳が腕へ当たり、衝撃で朔夜の身体が数メートル滑る。
「痛っ……!」
それでも夜一の拳には傷一つない。
朔夜が顔を上げる。
「今のは?」
「一回通せただけじゃ」
夜一はすでに次の位置へ移動していた。
「続けるぞ」
「休ませてくれないんだ」
「当然じゃ」
二撃目が来る。
今度は蹴り。
朔夜は斬撃をずらそうとしたが、一瞬遅れ、自分の腕へ浅い傷が増えた。
三撃目は受け切れず、肩から地面へ転がる。
四撃目では夜一の袖を僅かに裂いてしまい、すぐに能力を止めた。
「夜一さん、ごめん」
「謝る前に制御せい」
「はい」
そこから先は、失敗するたびに理由を考えた。
斬撃を固定しすぎれば自分を切る。
避けすぎれば相手を切る意味がなくなる。
纏うのではなく、身体の動きと一緒に形を変え続ける。
その感覚を掴み始めた頃、夜一の蹴りが再び右腕へ迫った。
朔夜は避けない。
斬撃も消さない。
接触する瞬間だけ、必要な部分を僅かに外へ開く。
蹴りが通過した直後、斬撃は元の位置へ戻った。
夜一の足には傷がない。
朔夜の腕も切れていない。
数秒の沈黙が流れた。
「……今のは?」
朔夜が恐る恐る聞く。
夜一は腕を組み直した。
「昨日までなら自分か相手のどちらかを切っとったな」
「つまり?」
「少しはマシになった」
朔夜の口元が緩む。
「ちゃんと褒めてもらっていい?」
「完成したらな」
「厳しいなぁ」
少し離れて見ていた浦原も、扇子の奥で笑っていた。
「でも、形にはなり始めましたね。斬撃を纏うというより、身体の動きに合わせて常に配置を変える感じですか」
「うん」
朔夜は右腕を見る。
触れたものを何でも切るだけではない。
敵の武器には斬撃を残し、味方や必要のない攻撃には道を開ける。
御厨子の精密さを、最も近い距離で使う。
まだ右腕だけで、維持できる時間も短い。
実戦で使える段階には程遠かったが、方向だけは見えた。
「名前考えようかな」
「早い」
夜一が即答する。
「ですよね」
「その前に、もう一度じゃ」
朔夜が顔を上げる。
夜一はすでに構えていた。
「今度は右腕だけでは済まんぞ」
「急に進めるね」
「嫌ならやめてもよい」
「やる」
答えると同時に、朔夜も構えた。
次の瞬間、二人の姿が同時に消える。
◇
夕方。
朔夜が浦原商店の縁側で右腕へ包帯を巻き直していると、一護が帰ってきた。
仮面の軍勢のもとで修行していたらしく、こちらもかなり疲れた顔をしている。
「何だ、その腕」
「修行の成果」
「怪我増えてんじゃねぇか」
「そっちも似たようなものでしょ」
一護は隣へ座り、包帯を見た。
「何やってんだ?」
「斬撃を身体に纏う練習」
一護が少し黙る。
「……自分切らねぇの?」
「今日切った」
「駄目じゃねぇか!」
「最初はね。後半はちょっとできた」
一護は呆れた顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
朔夜も逆に尋ねる。
「そっちは?」
「十三秒」
「何が?」
「仮面」
一護は自分の顔へ手を当てる。
「十三秒しか保たなかった」
「昨日より?」
「伸びた」
「じゃあいいじゃん」
「全然足りねぇよ」
「でも昨日よりは前に進んでる」
一護は少しだけ黙った後、朔夜の包帯を見る。
「お前も?」
「一応ね」
二人とも、まだ完成には遠い。
一護は仮面を維持できず、朔夜は纏った斬撃を完全には制御できない。
それでも前よりは一歩進んでいる。
「次にあいつらが来るまでに、間に合うと思うか?」
一護が尋ねる。
朔夜は少し考えた。
「分かんない」
「そこは間に合わせるって言えよ」
「嘘ついても仕方ないでしょ」
「……まあな」
「でも、来た時に昨日よりマシならいい」
一護が鼻で笑う。
「弱気なのか強気なのか分かんねぇな」
「現実的って言って」
「自分で言うな」
「今日それ二回目だ」
二人は少し笑った。
一護には一護の修行があり、朔夜には朔夜の修行がある。
どちらも、次に来る敵の強さを知っているからこそ急いでいる。
だが急げば完成するわけでもない。
朔夜は包帯の巻かれた右腕を軽く動かした。
今日、一瞬だけ掴んだ感覚が残っている。
身体へ斬撃を纏いながら、必要な場所だけを開く。
攻撃と防御を同時に行う、新しい御厨子の使い方。
まだ技と呼べるほどではない。
それでも、次にあの破面と相対した時には使えるようにするつもりだった。
「……明日もやるか」
朔夜が呟く。
一護が立ち上がる。
「俺も明日また行く」
「お互い大変だね」
「お前が一番楽しそうだけどな」
「そう見える?」
「見える」
一護はそれだけ言って歩いていった。
残された朔夜は少し考え、自分の右腕を見る。
確かに、少しだけ楽しいのかもしれない。
尸魂界で藍染に届かなかった。
破面にも、まだ足りなかった。
なら、次は届くようにする。
ただそれだけだった。
一護が仮面を維持する修行を続ける一方、朔夜も御厨子の新たなしました。
今回の修行では、斬撃をただ身体の周囲へ固定するのではなく、自分の動きに合わせて常に位置を変え、必要な部分だけを開閉するという方向が見え始めています。
まだ右腕だけで、実戦投入できる段階ではありません。
それでも朔夜も、一護と同じように次の戦いへ向けて確実に前へ進み始めました。
次回――
第57話「再来する影」