朔夜が普段見せない感情も描きます。
雨が降っていた。
細く。
冷たく。
空座町の空を灰色に染めるような雨だった。
御門朔夜は、浦原商店の縁側に座りながら、ぼんやりと空を眺めていた。
いつもなら
「暇だ」
だの
「腹減った」
だの
何かしら口にする。
けれど今日は何も言わない。
ただ、雨音だけを聞いていた。
「……珍しいですねぇ」
店の奥から浦原喜助が顔を出す。
「朔夜サンがこんなに静かだなんて」
朔夜は答えない。
浦原は少しだけ目を細めた。
「今日でしたか」
その一言朔夜の指先が僅かに動いた。
「……ああ」
今日は黒崎真咲の命日。
黒崎一護の母。
そして、朔夜にとっても忘れることのできない人の命日だった。
◇
昔、まだ朔夜が今ほど強くなかった頃、黒崎家へ遊びに行けば真咲はいつも笑顔で迎えてくれた。
『朔夜くん、いらっしゃい』
『ご飯食べていく?』
『また一護と喧嘩したの?』
まるで、自分も家族の一人であるかのように当たり前に接してくれた。
そんな人だった。
だからあの日、真咲が死んだと聞いた時朔夜は何もできなかった自分を心の底から憎んだ。
力があればもっと早く異変に気づいていれば。
自分がその場にいれば。
何度。
そんな意味のない「もしも」を考えたか分からない。
そしてーーー
そのたびに
浦原と夜一から言われた。
当時のお前ではどうにもできなかった。
それでも納得などできるはずがない。
「まだ気にしておるのか?」
声。
いつの間にか一匹の黒猫が縁側に座っていた。
四楓院夜一。
朔夜は空を見上げたまま答えた。
「気にしてない」
「嘘をつけ」
「……」
「おぬしは昔から、嘘が下手じゃ」
朔夜は小さく息を吐く。
「俺さ」
「うむ」
「今なら」
そこで言葉を切る。
「今の俺なら、間に合えたのかな」
夜一はすぐには答えなかった。
雨音だけが聞こえる。
しばらくして。
「かもしれん」
朔夜の目が動く。
「じゃが」
夜一が続ける。
「当時のおぬしは、今のおぬしではない」
「分かってる」
「本当にか?」
「分かってるよ」
声が少しだけ強くなる。
「分かってることと」
拳を握る。
「納得できることは別だ」
夜一は何も言わなかった。
朔夜の横に座る。
ただそこにいる。
それだけだった。
◇
その日の午後。
黒崎家は。
母――真咲の墓参りへ向かっていた。
一護。
遊子。
夏梨。
そして一心。
家族にとって。
大切で。
同時に。
辛い日。
朔夜は同行しなかった。
黒崎家だけで過ごすべき日だと思ったからだ。
だから、遠くから。
何も起こらないことを願っていた。
けれど。
「……!」
突然朔夜が立ち上がる。
浦原の表情も変わった。
夜一も同時にその方向を見る。
虚。
それもかなり厄介な霊圧。
朔夜の目が一瞬で冷たくなる。
「この霊圧……」
知っている。
いや
正確には覚えている。
何年も前ほんの僅か遠くから感じた。
あの日の霊圧。
雨。
真咲。
そして。
消えていった魂。
「……まさか」
朔夜の手が腰の斬魄刀へ伸びる。
霊圧が漏れた。
バキッ。
縁側の板が軋む。
空気が重くなる。
浦原の扇子が止まる。
夜一の瞳が細くなる。
「朔夜」
返事はない。
朔夜の表情から感情が消えていた。
いや消えたのではない。
怒りがあまりにも大きすぎて。
逆に静かになっている。
「アイツだ」
低い声。
「真咲さんを殺した虚だ」
浦原が何か言おうとする。
しかしその前に朔夜の姿が消えた。
瞬歩。
◇
雨の中一護は走っていた。
目の前には奇妙な少女。
幼い姿。
何かを訴えるような悲しげな存在。
けれどその奥歪んだ虚の気配。
そして現れた長い舌。
巨大な身体。
グランドフィッシャー。
長い年月を生き多くの人間を喰らってきた虚。
一護はその姿を見て、全身が震えた。
怒り、そして記憶。
母親があの日自分を庇って死んだ。
その原因
「てめぇ……」
一護の霊圧が膨れ上がる。
斬魄刀を構える。
「お前が……!」
グランドフィッシャーが笑う。
挑発する。
母親の姿を利用し、一護の心を抉る。
「……!」
一護が飛び出す。
冷静さを失った斬撃。
怒りのまま。
何度も。
何度も。
刀を振るう。
だが、相手は狡猾だった。
一護の感情を利用し翻弄する。
そして、少し離れた場所木の上朔夜が立っていた。
その目普段の朔夜を知る者なら誰もが言葉を失うほど冷たい。
「……」
刀の柄を握る。
あと一歩踏み出せばいい。
自分なら終わらせられる。
グランドフィッシャーがどれほど長く生きていようが。
どれほど多くの人間を喰っていようが。
関係ない。
斬れる。
一撃で。
「朔夜」
後ろに夜一が立っていた。
「退いてくれ」
朔夜は振り返らない。
「聞こえんかったのか?」
「聞こえてる」
「なら」
「退いてくれって言った」
その声はあまりにも静かだった。
夜一は、一歩も動かなかった。
「これは誰の戦いじゃ」
朔夜の眉が動く。
「……俺にも関係ある」
「そうじゃな」
「真咲さんには世話になった」
「知っておる」
「俺は」
刀を握る手に力が入る。
「何もできなかった」
「……」
「今なら」
霊圧が揺れる。
「今なら斬れる」
夜一は静かに言った。
「じゃから何じゃ」
朔夜が初めて夜一を見る。
「……何?」
「おぬしが斬れば」
夜一は一護へ視線を向ける。
「一護の何が救われる?」
朔夜が黙る。
「母を守れなかったと思い続けておるのは」
夜一が続ける。
「おぬしだけではない」
一護。
今も自分のせいで母が死んだと思っている。
あの日少女を助けようとした自分を庇って母は死んだ。
その罪悪感をずっと抱えている。
「これは」
「一護が自分で向き合わねばならん戦いじゃ」
朔夜の拳が震える。
「……でも」
一護がグランドフィッシャーの攻撃を受ける。
血が飛ぶ。
朔夜が一歩動く。
夜一の手がその肩を掴んだ。
「まだじゃ」
「死ぬぞ」
「死なせるな」
「なら!」
「一護が戦える限り」
夜一は真っ直ぐ朔夜を見る。
「信じろ」
その言葉に朔夜は動けなくなった。
信じる。
それは守るよりずっと怖い。自分が手を出せば確実に助けられる。
でもそれをしない。一護自身に任せる。
もし失敗したら。
もし。
間に合わなかったら。
また。
あの日と同じように。
――守れなかったら。
「……っ」
朔夜は歯を食いしばる。
それでも刀から手を離した。
「分かった」
夜一が僅かに笑う。
「それでよい」
◇
一護は傷つきながら。
立ち上がった。
グランドフィッシャーの罠。
母の姿。
記憶。
すべてを乗り越えようとしている。
「俺は……」
一護が刀を握る。
「母さんを守れなかった」
それでも今は誰かを守るために戦っている。
斬撃。
グランドフィッシャーの身体を捉える。
虚が悲鳴を上げる。
だが完全には仕留められない。
傷を負いながらグランドフィッシャーは逃げた。
「待て!」
一護が追おうとする。
だが身体が限界だった。
膝をつく。
雨の中。
拳を地面へ叩きつける。
「くそっ……!」
逃がした。
母の仇を目の前まで追い詰めてそれでも倒せなかった。
「……」
足音。
一護が顔を上げる。
朔夜。
雨に濡れながらゆっくり歩いてくる。
「朔夜……」
「惜しかったな」
一護が悔しそうに顔を歪める。
「知ってたのか」
「何を?」
「アイツが」
拳を握る。
「母さんを殺した奴だって」
朔夜は少し黙った。
そしてーーーー
「ああ」
一護の目が見開かれる。
「何で」
「昔」
朔夜は墓地の方を見る。
「少しだけ、あの霊圧を感じたことがある」
「じゃあ!」
一護が朔夜の胸ぐらを掴む。
「何で手を出さなかった!」
朔夜は抵抗しない。
「お前なら」
一護の声が震える。
「お前なら倒せただろ!」
「……ああ」
即答。
一護の拳が震える。
「だったら!」
朔夜は一護を見る。
「お前の戦いだったからだ」
「……!」
「俺があいつを斬れば」
静かに。
「お前はずっと」
一護の胸を指で軽く叩く。
「ここで負けたままだ」
一護は何も言えない。
「俺も」
朔夜が少し視線を落とす。
「真咲さんを助けられなかったことを」
初めて一護の前で口にする。
「ずっと後悔してる」
一護の手から力が抜ける。
「……お前も?」
「俺もだ」
朔夜は小さく笑う。
「だから」
一護の胸ぐらを掴んでいた手を外す。
「次に会ったら」
一護を見る。
「お前が倒せ」
雨が少しずつ。弱くなっていく。
一護はしばらく黙っていた。
そして
「……絶対に」
拳を握る。
「絶対に倒す」
朔夜は頷いた。
「ああ」
◇
墓前。
黒崎真咲。
朔夜は少し離れた場所に立っていた。
一護たち家族が帰った後一人で花を置く。
「久しぶりです」
返事はない。
「……すみません」
何に対する謝罪なのか自分でも分からない。
守れなかったこと。
今日自分で仇を討たなかったこと。それとも今でも忘れられないこと。
「一護」
朔夜が少し笑う。
「強くなりましたよ」
雨雲の向こう。
僅かに光が差し込む。
「だから」
墓石を見る。
「アイツに任せます」
風が吹く。
花が小さく揺れる。
朔夜はその様子を見てゆっくりと立ち上がった。
「俺も」
一歩、歩き出す。
「そろそろ前に進まないとな」
その背後少し離れた木の上。
夜一が静かに見守っていた。
何も言わず、ただ僅かに
満足そうに目を細めながら。
雨はいつの間にか。
完全に止んでいた。
朔夜が「力があるからこそ手を出さない」という選択をする回でした。
真咲については朔夜にも思うところがありますが、一護からその戦いまで奪うことはしません。
次回から、尸魂界が本格的に動き始めます。