朔夜は、久しぶりに自らの精神世界へ意識を沈めました。
そこにいるのは、かつて卍解「伏魔御廚子」を習得するまで何度も刃を交え、何度も叩き伏せられ、それでも最後には力を認めさせた斬魄刀――御厨子。
久々に顔を合わせた二人は、今の朔夜の戦い方について言葉を交わします。
それでは、第60話「御厨子」です。
浅い水が、朔夜の足元で静かに揺れていた。
どこまでも続く暗い水面。その中央には、巨大な祭壇が昔と変わらぬ姿でそびえている。
この場所へ来るのは久しぶりだった。
だが、忘れたことはない。
朔夜がまだ卍解へ至る前、何度もここへ入り、御厨子と戦った。
最初の頃は、祭壇へ近づくことすらできなかった。
御厨子が指を一本動かすだけで四方から解が襲い、避けた先へさらに斬撃が重なる。こちらが距離を詰めれば、今度は捌で斬魄刀ごと押し返された。
一度など、朔夜が意地になって正面から斬り込もうとし、祭壇の階段へ足を掛けた直後に全身を斬られ、水面へ叩き落とされたこともある。
その時、上から降ってきた言葉まで覚えていた。
――力が欲しいだけの小僧に、俺を従える資格などない。
腹が立った。
だから、また挑んだ。
次の日も。
その次の日も。
斬撃を読み、間合いを覚え、解と捌をただ撃つのではなく組み合わせるようになった。
最後には御厨子の斬撃を潜り抜けて祭壇まで辿り着き、互いに刃を突きつけたまま動けなくなった。
そこで初めて、御厨子は笑った。
そして――伏魔御廚子へ至った。
朔夜はそんな記憶を思い返しながら、祭壇の上を見上げた。
「久しぶり」
返事はない。
最上部では、四本の腕を持つ男が頬杖をつき、退屈そうに朔夜を見下ろしている。
全身に刻まれた異様な紋様も、人ならざる姿も、圧も昔のままだった。
やがて御厨子は僅かに口元を歪める。
「久しぶり、だと?」
頬杖をついたまま、別の腕の指先が祭壇を軽く叩く。
「随分と勝手な言い草だな。俺を屈服させ、卍解を得た途端に足が遠のいた男が」
「屈服させたって言い方、まだ根に持ってる?」
「事実だろう」
「最後は認めてくれたじゃん」
御厨子はそこで頬杖を外し、ゆっくり立ち上がった。
「認めたのは、あの時の貴様だ」
朔夜の表情が少し変わる。
御厨子は階段を一段下りる。
「傷だらけになっても退かず、俺の斬撃を覚え、一度通用しなかった手を二度と同じ形で使わなかった。あの時の貴様は、少なくとも今より考えて斬っていた」
「いきなり厳しいなぁ」
「久々に来た理由が褒めてもらうためか?」
「違うけど」
朔夜が苦笑すると、御厨子は鼻で笑いながらさらに階段を下りる。
「なら聞こう。最近、随分と妙なことをしているな」
「妙なこと?」
「身体の周囲へ斬撃を貼り付け、自分で自分を斬った」
朔夜の眉が僅かに動く。
「……見てたんだ」
「俺の力を使っておいて、見ていないと思ったか?」
「だったら一言くらい言ってくれてもよかったのに」
御厨子はそこで足を止めた。
朔夜との間にはまだかなり距離がある。
それでも次の瞬間、朔夜の足元へ細い切れ目が走った。
水面が真っ直ぐ裂ける。
朔夜は半歩だけ横へずれた。
「自分で考えろ」
「昔からそればっかりだね」
「昔はそれで辿り着いた」
その一言に、朔夜は何も返さなかった。
確かにそうだった。
御厨子は答えを教えなかった。
どう避けるか。
どう斬るか。
どうすれば伏魔御廚子へ届くか。
全部、戦いながら自分で見つけた。
御厨子は朔夜の反応を見ながら水面まで下り、そのままゆっくり歩き始めた。
「今のお前は、昔より遥かに強い」
「珍しく褒めるね」
「最後まで聞け」
御厨子は朔夜の横を通り過ぎながら続ける。
「解の精度も上がった。捌の扱いも昔とは比べものにならん。伏魔御廚子も、初めて使った頃のように力任せではない」
朔夜は御厨子の背中を目で追う。
「だったら何が不満なの?」
「綺麗に使いすぎる」
「……綺麗?」
御厨子が足を止めた。
「卍解を得る前のお前は、同じ手が通じなければすぐ捨てた。俺へ近づけなければ水面を解で削り、足場そのものを変えた。捌が届かなければ、俺に斬られることを承知で刀を掴みに来た」
「それは若かったからじゃない?」
「馬鹿だっただけだ」
「そこは否定してよ」
「だが、柔らかかった」
朔夜の笑みが少し消える。
御厨子は振り返った。
「今のお前は、解はこう使う。捌はこう使う。味方がいるならここまで。周囲に被害を出さぬならここまで。自分で決めた枠の中で、精密に斬ることばかり考えている」
「悪いことじゃないでしょ」
「悪いとは言っていない」
御厨子はゆっくり朔夜へ近づいた。
「お前が昔より周囲を見るようになったことも、必要以上に斬らなくなったことも、俺は知っている」
「……それなら」
「だが」
そこで御厨子の指が動いた。
朔夜の頬へ細い傷が走る。
「っ」
朔夜が頬へ触れる。
血がついていた。
「考えることと、動きを止めることは違う」
御厨子は朔夜の目の前で足を止める。
「今の貴様は、斬る前に確認が多すぎる」
「確認しなかったら、味方まで巻き込む」
「なら巻き込まぬよう斬れ」
即答だった。
朔夜が御厨子を見る。
「それができるようになったから、俺を屈服させたのではなかったか?」
その言葉に、昔の光景が一瞬だけ蘇る。
卍解修行の終盤。
御厨子はわざと朔夜の背後へ何体もの人影を作り出した。
浦原。
夜一。
一護。
当時、朔夜が失いたくないと思っていた者たちの姿だった。
御厨子はその全てを巻き込む位置から斬撃を放ち、朔夜へ迫った。
最初の一度は、守ろうとして動きが止まった。
その隙に胸を斬られた。
二度目も同じだった。
三度目。
朔夜は逃げなかった。
御厨子の斬撃だけを解で逸らし、そのまま自分の斬撃を御厨子の喉元で止めた。
背後の人影には、傷一つつかなかった。
その時、御厨子は初めて満足そうに笑った。
――ようやく、斬らぬために止まるのではなく、斬らずに斬ることを覚えたか。
朔夜は記憶から戻る。
「……覚えてるよ」
「なら何故忘れた」
「忘れたつもりはなかったんだけどな」
「人間は得たものを使い続けるうちに、すぐ型へ逃げる」
「死神なんだけど」
「黙れ」
朔夜は少し笑った。
だが、御厨子の言いたいことは分かり始めていた。
御厨子は視線を朔夜の右腕へ向ける。
「身体へ斬撃を纏う。発想そのものは悪くない」
「珍しく否定しないね」
「だが、お前は斬撃を身体の外へ固定し、それを身体へ追わせた」
御厨子は片腕を上げた。
何も見えない。
それでも朔夜には、そこに斬撃があるのが分かる。
「見ろ」
御厨子が腕を横へ振った。
その動きと同時に、水面が横一文字に裂ける。
斬撃を放ったようには見えなかった。
腕を振った。
それだけで、水が切れた。
今度は一歩踏み込む。
足先が水面へ触れると、その延長線上へ細い亀裂が走る。
朔夜の目が僅かに細くなった。
「……纏ってない」
「ようやく見たか」
「斬撃を身体の外へ置いてない」
「そうだ」
御厨子は今度は朔夜へ向かって歩く。
一歩。
二歩。
足を運ぶたびに水面へ斬撃の跡が残る。
「昔、お前が伏魔御廚子へ至った時、斬撃一つ一つを考えていたか?」
朔夜は少し考える。
「いや」
「どこへ解を置く、どこで捌を使うと一々考えていたか?」
「……考えてない」
あの時は、そんな余裕がなかった。
御厨子の攻撃を見て、必要な場所へ必要な斬撃を出した。
ほとんど反射に近かった。
御厨子が口元を歪める。
「なら何故、今になって自分の腕の外へ斬撃を置き、それを追わせるなどという面倒な真似をしている?」
朔夜は右腕を見る。
答えは単純だった。
新しい技として形にしようとしすぎた。
「……技にしようとしたからか」
「ほう」
「斬撃を纏うって決めた時点で、“纏わせるもの”だと思い込んだ」
「やっと頭が回ったか」
御厨子が近くまで来る。
「お前はもう、解を撃つだけの小僧ではない。捌を当てるためだけに接近する小僧でもない」
御厨子は朔夜の右腕を掴んだ。
「なら、これも同じだ」
朔夜が腕を見る。
御厨子は掴んだまま、その腕を軽く横へ動かした。
その軌道に沿って、水面へ細い切れ目が走る。
「身体を斬撃へ合わせるな」
今度は腕を戻す。
また水が切れる。
「斬撃を、お前の動きへ合わせろ」
朔夜の表情が変わった。
御厨子は手を離す。
「腕を振ったなら、その動きで斬れ。踏み込んだなら、その一歩で斬れ。止まりたいなら止めろ」
「常に纏わせる必要はない」
「初めから誰もそんなことは言っていない」
「……確かに」
「勝手に難しくしたのは貴様だ」
朔夜は思わず額を押さえた。
「それ、もっと早く気づきたかったなぁ」
「気づく頭がなかっただけだ」
「相変わらず容赦ないね」
御厨子は鼻で笑い、そのまま朔夜から離れていく。
「勘違いするな。新しい力をくれてやったわけではない」
「分かってる」
朔夜は右腕を軽く動かしてみる。
「今まで使ってたものを、違う形で使うだけ」
「そうだ」
「じゃあ、纏う斬撃も完全に間違いじゃなかった?」
御厨子が肩越しに朔夜を見る。
「間違いではない。必要なら使えばいい」
「でも、あれだけにこだわるな」
御厨子は答えない。
それだけで十分だった。
朔夜は少し笑う。
「なるほどね」
「何がだ」
「久しぶりに来てよかった」
御厨子の眉が僅かに動く。
「気色の悪いことを言うな」
「そこまで言う?」
「貴様が殊勝だと虫唾が走る」
「俺の斬魄刀、本当に性格悪いなぁ」
「今さらだ」
御厨子は再び祭壇へ向かって歩き出した。
朔夜もすぐには追わず、その背中を見ていた。
昔と同じだ。
答えそのものは渡さない。
だが、気づくために必要なところまでは連れていく。
朔夜が卍解へ至った時も、そうだった。
「御厨子」
階段へ足を掛けた御厨子が止まる。
「何だ」
「まだ何かあるでしょ」
御厨子は振り返らなかった。
「ある」
「やっぱり」
「だが、今のお前には必要ない」
四本の腕の一つが、祭壇のさらに奥を示す。
暗闇の向こう。
ほんの一瞬だけ、熱が揺れた。
水に囲まれたこの世界には不自然な、乾いた熱。
朔夜の目が細くなる。
「昔はあんなのなかったよね」
「なかったのではない」
御厨子がゆっくり顔だけを向ける。
「お前が見る場所まで来ていなかっただけだ」
朔夜が一歩踏み出す。
「なら今は?」
「まだ早い」
「またそれ?」
「伏魔御廚子へ至っただけで、俺の底まで見たつもりになるな」
言葉は厳しい。
だが、以前のように「何も理解していない」と切り捨てているわけではない。
もっと先がある。
そう言っている。
朔夜にも、それは分かった。
「何が足りない?」
御厨子は一瞬だけ黙る。
その後、僅かに笑った。
「それを聞いているうちは足りん」
「相変わらず面倒だなぁ」
「なら来るな」
「また来るよ」
御厨子の笑みが少し深くなる。
「勝手にしろ」
その瞬間、精神世界が揺れ始めた。
祭壇も、水面も、御厨子の姿も徐々に歪んでいく。
朔夜は最後まで祭壇の奥へ視線を向けていた。
「次はもうちょっと見せてよ」
「次があればな」
「あるでしょ」
「失せろ」
視界が暗転した。
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朔夜が目を開けると、浦原商店の地下修行場へ戻っていた。
膝の上には御厨子がある。
しばらく無言で座っていたが、やがて立ち上がる。
「身体を斬撃へ合わせるな……か」
右腕を前へ出す。
これまでなら、その数ミリ外側へ斬撃を固定していた。
今日はしない。
ただ腕を横へ振る。
何も起こらない。
「違うな」
もう一度。
今度は「斬撃を纏わせる」と考えない。
昔、卍解修行で御厨子へ食らいついた時の感覚を思い出す。
どこへ出すかを考える前に、必要な場所へ斬撃があった。
その感覚を腕の動きへ重ねる。
腕を振る。
数メートル先の木柱へ、細い切れ目が走った。
朔夜の目が少し見開かれる。
「……こうか」
今度は拳を前へ出す。
拳は柱へ触れていない。
それでも、その軌道の先だけが浅く切れた。
「なるほど」
「何がじゃ?」
背後から声がして、朔夜が振り返る。
夜一が腕を組んで立っていた。
「夜一さん、いつから?」
「今来たところじゃ。随分集中しておったな」
夜一は切れ目の入った柱を見てから、朔夜へ視線を戻す。
「御厨子とは話せたか?」
「うん。昔より強くなったけど、戦い方が固くなったって」
夜一の眉が僅かに上がる。
「ほう。言い得て妙じゃな」
「夜一さんまで?」
「おぬしは尸魂界から戻って以降、失敗せぬように力を使うことへ意識を向けすぎておる」
夜一は柱へ近づき、切れ目を指でなぞった。
「慎重になったのは悪くない。だが慎重さと縮こまることは違う」
朔夜は御厨子に言われたことを思い出し、苦笑する。
「師匠と斬魄刀に同じこと言われるの、結構くるね」
「なら直せばよい」
「簡単に言うなぁ」
「昔、伏魔御廚子を習得した時よりは簡単じゃろ」
その言葉に、朔夜は少し笑った。
「それ言われたら何も返せないな」
夜一も僅かに口元を上げる。
「明日から試すか?」
「うん」
「今からではないのか?」
「今日はもう疲れた」
夜一が呆れたように息を吐いた。
「そこは昔から変わらんな」
「全部変わったら俺じゃないでしょ」
「それもそうじゃな」
二人は地下修行場を出る。
朔夜は最後に一度だけ御厨子へ視線を落とした。
解。
捌。
伏魔御廚子。
どれも昔から知っている。
使える。
だが、使える力の中にまだ別の道がある。
そして祭壇の奥には、卍解へ至った頃の自分ですら見ることのできなかったものがある。
あの熱が何なのか。
御厨子は教えなかった。
なら、自分で辿り着くしかない。
それも昔と同じだった。
朔夜は御厨子の柄を軽く叩く。
「次は、もうちょっと驚かせてやるよ」
返事はない。
それでもどこかで、昔と同じように鼻で笑われた気がした。
今回は、朔夜と御厨子の過去の卍解修行にも少し触れました。
朔夜は昔から御厨子の力を知り、解・捌を磨き、何度も精神世界で御厨子へ挑んだ末に卍解「伏魔御廚子」を習得しています。
今回御厨子が指摘したのは、朔夜が能力を知らないということではなく、強くなったことで逆に使い方が型にはまり始めていたこと。
昔の朔夜は、一度通じなかった方法を捨て、別の使い方をその場で考えていました。
今の朔夜に必要なのは、新しい能力そのものではなく、すでに持っている力をもう一度自由に扱うこと。
そして祭壇の奥にあった、卍解修行の頃には見ることのできなかった“熱”。
御厨子の奥には、まだ朔夜が辿り着いていない領域が残っています。
次回――
第61話「身体で斬る」