浦原たちは、黒腔の兆候を事前に察知するための準備を始めました。
しかし、その仕組みはまだ完成していません。
そして藍染も、こちらの準備が整うまで待ってくれる相手ではありません。
狙われたのは――井上織姫。
与えられた猶予は、十二時間。
それでは、第65話「十二時間」です。
---
午後六時過ぎ。
井上は一護と茶渡に送られ、自宅の前まで戻ってきていた。
「ここまでで大丈夫だよ。黒崎くん、茶渡くん、ありがとう」
井上が笑うと、一護はすぐには帰ろうとせず、周囲を見回した。
「本当に何かあったらすぐ連絡しろよ。虚でも破面でも、変な霊圧感じたら一人で何とかしようとすんな」
「うん」
「絶対だからな」
「う、うん」
何度も念を押す一護の横で、茶渡も「井上、無理はするな」と静かに続ける。二人が本気で心配してくれているのが分かり、井上は困ったように笑いながらも、「大丈夫。今日はちゃんと休むから」と約束した。
ようやく一護が背を向け、茶渡も続く。
二人が通りの角へ消えるまで見送ってから、井上は小さく息を吐いた。
「……心配かけちゃったな」
浦原商店で朔夜に言われたことも思い出す。
破面が、自分たちの情報を集めているかもしれない。
だから気をつけて。
念のためだと朔夜は言っていた。
怖がりすぎる必要はない。
そう思いながら玄関の鍵へ手を伸ばした、その時だった。
背中を冷たいものが走った。
手が止まる。
車の音も、遠くの話し声も聞こえている。それなのに、周囲から自分だけが切り離されたような感覚があった。
井上はゆっくり振り返る。
道路の向こう。
街灯の下に、一人の男が立っていた。
白い服。
黒い髪。
頭部に残った仮面の一部。
そして、感情の見えない緑色の瞳。
井上の顔から血の気が引いた。
「……あなたは」
「井上織姫」
ウルキオラは何の感情も込めず、その名を呼んだ。
構える様子すらない。
それでも井上には、一歩後ろへ下がることさえ難しく感じられた。
「俺と来い」
「……え?」
「虚圏へ来てもらう」
意味を理解した瞬間、井上は反射的に首を横へ振った。
「嫌……です」
ウルキオラの表情は変わらない。
「拒めると思っているのか」
井上は震える手を握りしめる。
「みんなを呼びます」
一護はまだそれほど遠くへ行っていない。
茶渡もいる。
朔夜や浦原たちへ知らせることだってできる。
だが、井上が携帯へ手を伸ばそうとした瞬間、ウルキオラが静かに告げた。
「呼べば殺す」
手が止まった。
「……え?」
「黒崎一護。茶渡泰虎。朽木ルキア。御門朔夜。お前を取り戻そうとする者が現れれば、こちらも排除する」
朔夜の名前まで知られている。
井上の胸が強く締めつけられた。
「そんな……」
「脅しだと思うか?」
淡々とした声だった。
怒りも、殺気もない。
だからこそ、井上にはそれが本当に実行される言葉だと分かった。
一護がグリムジョーに追い詰められた姿が浮かぶ。
血を流して倒れたルキア。
別の場所で戦い、傷を負った朔夜。
茶渡も、自分を守るためなら迷わず前へ出る。
もし今ここで助けを呼べば、きっと全員が来る。
そして来れば、また戦う。
また傷つく。
井上は唇を噛んだ。
「私が行けば……みんなを襲わないんですか?」
ウルキオラは少し間を置いた。
「お前を連行するために、この街で戦闘を起こす必要はなくなる」
絶対に襲わないとは言っていない。
それくらいは井上にも分かった。
けれど、今この場で拒絶すれば、少なくとも戦闘になる可能性は高い。
自分を連れて行くために、破面がまた現れる。
そのたびに一護たちが戦う。
自分が逃げ続ければ、守る側も逃げ続けられなくなる。
「……私が行けば、今は戦わなくて済む」
井上が小さく呟く。
ウルキオラは肯定もしない。
ただ、細い腕輪のようなものを差し出した。
「着けろ」
「これは……?」
「お前の霊圧を隠すためのものだ。身につけている間、お前の存在は容易には捉えられない」
井上は腕輪を見つめた。
それを受け取れば、助けを呼ぶことはさらに難しくなる。
一護たちにも、朔夜にも、自分の居場所は分からなくなる。
怖かった。
手を伸ばしたくなかった。
それでも、脳裏に浮かぶのは自分の顔ではなく、傷ついた仲間たちの姿だった。
一護はまだ仮面を完全には使えない。
ルキアも治療を終えたばかり。
朔夜だって、いつでもどこにでも間に合うわけではない。
むしろそのことを、本人が一番悔しがっていた。
ここで自分が拒否すれば、また皆を「間に合わせなければならない場所」へ呼ぶことになる。
「……私が行けば、少なくとも今夜は、みんなが戦わなくていいんですよね」
ウルキオラは答えない。
だが井上は、答えを求めることをやめた。
保証などない。
自分が行けば全て解決するわけでもない。
それでも、今ここで仲間を戦場へ呼び込むよりはましだと思った。
それが正しいかどうかは分からない。
ただ、井上には他の選択を選べなかった。
震える手を伸ばし、腕輪を受け取る。
「……分かりました」
腕へ通した瞬間、感覚が変わった。
いつもなら遠くに感じられる一護や茶渡の霊圧が、薄い膜の向こうへ遠ざかったように感じる。
胸の奥が急に寒くなる。
本当に、自分から皆との繋がりを切ったようだった。
それでも井上は腕輪を外さなかった。
ウルキオラが告げる。
「今は午後六時十二分。明日の午前六時十二分まで、十二時間の猶予を与える」
井上が顔を上げた。
「……十二時間?」
「その間だけ、現世で自由に動いていい」
思ったより長いようで、短い。
十二時間後には、自分はこの街からいなくなる。
ウルキオラはさらに続ける。
「別れを告げることを許すのは一人だけだ」
「一人……?」
「姿を見せることは許可する。ただし、連行されることを伝えるな。助けを求めることも許さない」
井上の呼吸が僅かに止まる。
一人だけ。
頭の中に何人もの顔が浮かんだ。
たつき。
茶渡。
ルキア。
朔夜。
そして、一護。
「明朝六時十二分。指定した場所へ来い」
ウルキオラはそれだけ言うと、黒腔の中へ消えていった。
空間が閉じる。
井上は一人、玄関の前に残された。
時計を見る。
午後六時十五分。
残り、十一時間五十七分。
数字になった瞬間、本当に時間が動き始めたような気がした。
---
午後七時。
井上は自宅の椅子に座ったまま、ほとんど動けずにいた。
机の上には携帯電話がある。
手を伸ばせば、一護へ電話できる。
朔夜へ知らせる方法だってある。
何度もそう思った。
そのたびに、ウルキオラの言葉と、負傷した仲間たちの姿が浮かんだ。
「……だめ」
携帯から手を離す。
本当は助けてほしい。
行きたくない。
怖い。
それでも、助けを求めれば皆が来ることも分かっている。
一護なら絶対に来る。
茶渡も。
ルキアも。
朔夜はきっと何も言わずに飛び出す。
だから言えなかった。
午後八時半。
井上は必要最低限のものだけを片づけた。
長い旅行へ行く準備ではない。
むしろ、自分が突然いなくなった後、部屋を見た人が困らないようにするための片づけだった。
冷蔵庫の中。
洗濯物。
学校のもの。
そんな日常的なものに触れるたび、本当に帰ってこられないかもしれないという感覚が強くなる。
午後十時。
窓の外は完全に暗くなっていた。
残り八時間ほど。
井上は机に座り、紙へ何かを書こうとして、やめた。
手紙を残せば事情が伝わる。
それは許されていない。
何より、一護たちなら手紙を見た瞬間に追いかけようとする。
「……一人だけ」
ウルキオラの言葉を思い出す。
別れを告げられる相手は一人。
誰にするか。
本当は、全員に会いたかった。
たつきにも。
茶渡にも。
ルキアにも。
朔夜にも。
ありがとうと言いたい。
でも一人しか選べない。
井上は目を閉じた。
しばらくして開いた時には、もう答えは決まっていた。
「黒崎くん……」
---
午後十一時半。
井上は家を出た。
まだ期限までは六時間以上ある。
それでも、今行かなければ足が動かなくなる気がした。
腕輪の効果で霊圧は隠れている。
街を歩いていても、一護たちがこちらに気づく様子はない。
それが寂しくもあり、少しだけ安心でもあった。
もし途中で朔夜に見つかったら、たぶん全部気づかれてしまう。
そうなれば、自分の決意は簡単に崩れる。
だから今だけは、見つからないことを願った。
午前零時過ぎ。
黒崎家へ着く。
窓の明かりはほとんど消えていた。
井上はしばらく家の前に立ち尽くした後、静かに中へ入り、一護の部屋まで進んだ。
一護は眠っていた。
仮面の修行と先日の戦いの疲れが残っているのか、起きる気配はない。
井上はベッドの横へ座った。
時計を見る。
午前零時十九分。
残り五時間五十三分。
「黒崎くん」
当然、返事はない。
井上は少しだけ笑った。
「ごめんね」
伝えたいことは山ほどあった。
怖い。
助けてほしい。
虚圏へ連れて行かれる。
本当は行きたくない。
けれど、その全部を言えば一護は必ず立ち上がる。
傷が治っていなくても。
仮面を使いこなせていなくても。
絶対に来る。
だから言えない。
井上は一護の頬へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
触れれば起こしてしまうかもしれない。
起きてほしい。
でも起きてほしくない。
相反する気持ちに手が震え、結局そのまま引っ込めた。
「もし、何度も人生をやり直せたとしても……」
声が少し掠れる。
「違う場所に生まれて、違うことをして、全部違う人生になったとしても……たぶん私は、また黒崎くんを好きになると思う」
涙が頬を伝った。
井上は慌てて拭う。
一護は眠ったままだ。
それでいい。
これでいい。
自分でそう決めたはずなのに、立ち上がるまでにはしばらく時間がかかった。
「……さよなら、黒崎くん」
午前零時三十一分。
井上は黒崎家を出た。
期限まで、あと五時間四十一分。
---
それから井上は、すぐに指定された場所へ向かわなかった。
もう一度、自分の街を歩いた。
学校の近くを通り、いつもの道を歩き、買い物をしたことのある店の前を通る。
夜中だから、ほとんどの場所は静かだった。
それでも見慣れた景色だった。
午前三時。
残り三時間十二分。
井上は小さな公園のベンチへ座っていた。
何度か腕輪へ指を掛けた。
外してしまおうかと思った。
今ならまだ戻れる。
浦原商店へ行って事情を話せばいい。
朔夜なら何か方法を考えてくれるかもしれない。
一護も戦ってくれる。
その考えが浮かぶたびに、井上は自分へ問いかけた。
その結果、また誰かが倒れたら?
自分が怖くなったからと助けを求め、そのせいで皆が傷ついたら?
その可能性に耐えられなかった。
井上は腕輪から手を離す。
「……私が決めたんだから」
小さく呟いた。
強がりだった。
それでも、立ち上がるためには必要だった。
午前五時半。
空が僅かに明るくなり始める。
残り四十二分。
井上は指定された場所へ向かった。
人気のない空き地。
そこで立ち止まり、最後に街を振り返る。
一護はまだ寝ているだろうか。
茶渡は。
ルキアは。
朔夜や浦原たちは。
皆、何も知らない。
それが苦しくて、同時に少しだけ安心した。
少なくとも今夜は、誰も自分のために戦わずに済んだ。
午前六時十分快。
前方の空間がゆっくりと裂けた。
黒腔。
その前にウルキオラが立っている。
「時間だ」
井上は一度だけ時計を見る。
午前六時十一分。
約束の時間まで一分。
「……はい」
ウルキオラが黒腔へ入る。
井上もその後へ続こうとした、その時だった。
遠く離れた浦原商店で、小さな装置が鋭く震えた。
朔夜が顔を上げる。
「喜助」
「ええ」
浦原も机の上の試作装置へ目を落とした。
黒腔の発生時に起きる空間の歪みを拾うため、昨夜遅くまで調整していたものだった。
針が大きく振れた後、すぐに戻ろうとしている。
「今の反応、黒腔だよね」
「その可能性が高いです」
朔夜はすぐに霊圧を広げた。
一護。
茶渡。
ルキア。
日番谷たち。
知っている霊圧を順に探す。
その途中で、表情が変わった。
「……井上がいない」
浦原も顔を上げる。
「腕輪か何かで霊圧を遮断されている可能性もあります」
「だから昨日から感じなかったのか……!」
朔夜はもう走り出していた。
夜一が後を追う。
「場所は分かるのか!」
「装置の反応から大体!」
「確定ではないぞ!」
「分かってる!」
屋根へ飛び上がり、そのまま瞬歩で空座町を駆ける。
昨夜から井上の霊圧が薄かった。
疲れて休んでいるのだと思っていた。
腕輪で隠されていたのなら、もっと早く気づけたはずだとは言えない。
それでも胸の奥には同じ言葉が浮かぶ。
間に合え。
今度こそ。
午前六時十二分。
井上が黒腔へ足を踏み入れる。
最後に見えた空座町の朝焼けが、細く閉じていく。
「みんな……ごめんね」
空間が閉じた。
数分後、朔夜と夜一がその場所へ降り立った。
誰もいない。
だが、空間にはごく微かな黒腔の痕跡が残っていた。
朔夜はそれへ触れ、顔から普段の軽さを消した。
「……遅かった」
夜一が横に立つ。
「まだ連れ去られたと決まったわけではない」
「うん」
朔夜は短く答えた。
拳を握る。
怒りはある。
焦りもある。
だが、怒りに任せて動くことはしなかった。
井上が何故自分たちへ知らせなかったのか。
敵はどうやって彼女を連れ出したのか。
何を目的にしているのか。
考えるべきことは多い。
「喜助に連絡しよう。それから一護たちにも」
夜一が頷く。
「そうじゃな」
朔夜は最後にもう一度、閉じた黒腔の跡を見た。
十二時間。
井上はその時間を一人で抱え、誰にも知らせないままここまで来た。
その事実を知るのは、まだ少し先になる。
空座町から、一人分の霊圧が消えた。
次の戦いは、もう始まっていた。
今回は、井上が腕輪を受け取るまでの葛藤と、与えられた十二時間をより具体的に描きました。
井上は「自分が行けば全て安全になる」と信じたわけではありません。
それでも、ここで拒絶して助けを求めれば、一護たちが必ず自分を守るために戦い、再び傷つく。その可能性を考えた末に、少なくとも今この瞬間の戦闘を避けるため、自分から腕輪を受け取りました。
午後六時十二分から翌朝六時十二分までの十二時間。
家で迷い、一護に別れを告げ、何度も腕輪を外そうとしながら、それでも最後には自分で決めた場所へ向かった井上。
一方、浦原と朔夜の黒腔検知はついに反応しましたが、完成には僅かに間に合いませんでした。
次回――
第66話「消えた井上」