午前六時十二分。
井上は十二時間の猶予を使い切り、ウルキオラと共に虚圏へ消えました。
黒腔の発生を捉えた朔夜たちが駆けつけた時には、すでに空間は閉じた後。
残された痕跡から何が起きたのかを探る中、一護たちは井上救出へ向けて動き始めます。
それでは、第66話「消えた井上」です。
朝焼けの中、朔夜は閉じた黒腔の痕跡へ手を当てていた。
井上の姿はない。
霊圧も感じられない。
残っているのは、つい数分前まで空間が開いていた微かな歪みだけだった。
隣では夜一が周囲を調べていたが、戦闘が起きた形跡は見つからない。地面も荒れておらず、血も残っていなかった。
「争った様子はないの」
「うん。でも、それだけで井上が自分から行ったとは決められない」
朔夜は指先を地面から離した。
あまりにも綺麗すぎる。
破面が力ずくで連れ去ったなら、何かしら抵抗した痕跡が残るはずだ。だが何もない。それどころか、昨夜から井上の霊圧そのものがほとんど捉えられなくなっていた。
「霊圧を隠す道具を使われたんだと思う。井上が自分でここまで気配を消せるなら、俺たちも前から知ってる」
夜一は僅かに目を細めた。
「つまり敵は、最初から人知れず連れ出すつもりじゃった」
「しかも戦わずにね」
そこが一番引っかかる。
ウルキオラほどの相手なら、井上を気絶させて連れていくこともできたはずだ。それをしなかった。
わざわざ霊圧を隠し、井上自身に歩かせた。
「……井上に選ばせたんだ」
夜一が横を見る。
「何をじゃ?」
「自分が行くか、誰かを巻き込むか」
言葉にした瞬間、嫌な確信が強まった。
井上ならどうするか。
一護たちが傷つくと言われたら。
自分一人で済むと考えさせられたら。
答えは想像できる。
朔夜は端末を取り出した。
「喜助に戻ろう。ここだけ見ても、これ以上は分からない」
「一護たちにも知らせるか」
「うん。隠しても仕方ない」
二人はそのまま浦原商店へ戻った。
店へ着く頃には、浦原から連絡を受けた一護、茶渡、ルキア、日番谷たちも集まり始めていた。一護は朔夜が入ってくるなり立ち上がる。
「井上は!?」
朔夜は一瞬だけ言葉を選び、それから首を横へ振った。
「いなかった。黒腔の痕跡だけ残ってた」
一護の顔が強張る。
「虚圏に……連れてかれたってことか?」
「可能性はかなり高い」
「だったらすぐ追うぞ!」
一護が身を乗り出したが、浦原が扇子を閉じながら止める。
「黒崎サン、今のままでは入口がありません。黒腔はもう閉じています」
「なら開けろよ!」
「開けられないとは言ってません。ですが、行き先も帰り道も決めずに穴だけ開けたら、救出ではなく遭難ですよ」
一護は歯を食いしばったが、その言葉で一度座り直した。
茶渡が静かに尋ねる。
「井上は抵抗しなかったのか」
「戦った形跡はない。でも、それを理由に自分の意思で行ったと決めるのは早いよ」
朔夜が答えると、日番谷が眉を寄せた。
「根拠は?」
「昨日から井上の霊圧が妙に薄かった。今朝、黒腔が開いた瞬間だけ喜助の試作機が反応したけど、それまで俺たちは井上の居場所を掴めなかった」
浦原も机の上へ小型の装置を置いた。
「残留していた霊子を調べました。黒腔とは別に、霊圧を遮断する道具らしき痕跡があります。井上サン自身の力ではないでしょうね」
ルキアの表情が険しくなる。
「なら、最初から監視されていたのか」
「可能性は高いです」
一護が拳を握る。
「昨日、俺が家まで送った時には何も――」
「一護」
ルキアに止められても、一護は俯いたまま続けた。
「俺が帰らなきゃよかった」
「違うよ」
朔夜が静かに返す。
「お前が残ってたら、相手は別の時間を選んだ。井上を一生誰かの隣に置いておくなんて無理だ」
「でもよ……!」
「俺だって井上に気をつけてって言った。それでも気づけなかった。黒腔を見張る準備までして、間に合わなかった」
悔しくないわけではない。
だが、今そこに立ち止まっても井上は戻らない。
「だから今は、どう取り戻すか考えよう」
茶渡が頷き、一護もしばらくして強く息を吐いた。
「……ああ」
その時、日番谷の伝令用端末が反応した。
通信を聞くにつれて、その表情が険しくなっていく。
「……了解した」
通信を切ると、乱菊がすぐに尋ねた。
「隊長、尸魂界は何て?」
日番谷は少し間を置いた。
「俺たち先遣隊は、ただちに帰還しろとの命令だ」
一護が立ち上がる。
「は?」
「井上織姫について、現時点では敵に拉致されたという確証がない。戦闘の痕跡がなく、自ら虚圏へ同行した可能性を否定できない以上、救出のために戦力を割くことはできないそうだ」
「ふざけんな!」
一護の声が店内へ響いた。
「井上が好きであんな連中についてくわけねぇだろ!」
日番谷も苦い顔をしている。
「俺に言うな。俺だってそう思ってる」
「なら!」
「命令は命令だ。藍染との戦いが迫ってる以上、尸魂界としては確証のない救出へ隊長格を残せない」
ルキアも立ち上がる。
「なら私が――」
「朽木、お前も帰還命令の対象だ」
「しかし!」
「分かってる!」
日番谷の声が強くなった。
「俺だって納得してるわけじゃねぇ!」
その一言で、ルキアも言葉を止めた。
重い沈黙の中、朔夜が日番谷を見る。
「尸魂界は助けに行かないんだね」
「現時点ではな」
「そっか」
一護が振り返った。
「そっか、じゃねぇだろ!」
「だって俺、護廷十三隊じゃないし」
一護の動きが止まる。
夜一は僅かに笑い、浦原も扇子の奥で目を細めた。
朔夜は腰の御厨子へ手を置く。
「尸魂界が行かないなら、俺まで行っちゃいけない理由はないよね」
日番谷が睨む。
「虚圏だぞ。藍染の本拠地だ」
「知ってる」
「罠の可能性もある」
「それも考えてる」
「お前を誘い出すために井上を使った可能性だってあるんだぞ」
朔夜は少しだけ笑った。
「なら、罠かどうかも含めて確かめに行くよ。ただし――一人では行かない」
夜一がその言葉を聞き、僅かに表情を緩めた。
一護もすぐに言う。
「俺も行く」
茶渡も前へ出た。
「俺もだ。井上は仲間だ」
その時、入口から別の声がした。
「僕も行く」
全員が振り返る。
そこに立っていたのは石田雨竜だった。
一護が目を見開く。
「石田?」
「連絡を受けた。事情は聞いたよ」
石田は眼鏡を押し上げ、机の上の資料へ一度視線を向ける。
「井上さんが虚圏へ連れて行かれた可能性が高いなら、僕にも行く理由がある」
「お前、親父との修行は?」
「それとこれとは別だ」
一護が少しだけ口元を緩めた。
「そうかよ」
浦原は四人を順番に見た。
一護。
茶渡。
石田。
朔夜。
「では、救出班はこの四人ですね」
朔夜が眉を上げる。
「喜助たちは?」
「アタシと夜一サンは現世に残ります」
一護がすぐに聞き返す。
「何でだ?」
浦原は机へ空座町の地図を広げた。
「全員が虚圏へ入ったら、現世側が空になります。しかも黒腔を安定させるには、こちら側からの管理も必要です。アタシは侵入経路の確保と再接続の準備、夜一サンには現世側の警戒をお願いする」
夜一も頷く。
「日番谷たちが帰れば、こちらの戦力も薄くなるからの」
朔夜はそれを聞いて反対しなかった。
以前なら、強い者は全員連れて行く方がいいと考えたかもしれない。
だが今回は救出が目的だ。
現世を無防備にする理由はない。
浦原は地図を片づけ、今度は簡単な図を紙へ描き始めた。
「侵入方法を説明します。アタシが黒腔を人工的に開きます。ただし、虚圏への道は普通の通路じゃありません。内部は空間そのものが不安定で、足場も一定ではない」
「落ちたら?」
一護が聞く。
「場所によっては帰ってこられません」
「さらっと怖ぇこと言うなよ」
「だから説明してるんです」
浦原は扇子の先で紙を叩く。
「中へ入ったら、基本的に固まって移動してください。黒崎サンが先頭、茶渡サンと石田サンが中央。朔夜サンは最後尾をお願いします」
朔夜が首を傾げる。
「俺が先頭じゃなくていいの?」
「朔夜サンは後ろの方がいい。通路が崩れた時、解で進路を作ったり足場を切り整えたりできます。それに、後方から追われた場合にも対応できる」
「なるほど」
「ただし、空間そのものを適当に斬るのは禁止です」
先に釘を刺され、朔夜が止まる。
「まだ何も言ってないよ」
「言う前に止めてるんです」
夜一が横で笑った。
浦原は話を続ける。
「虚圏へ着いた後の最優先目標は井上サンの確保。敵の撃破ではありません」
一護が少し不満そうな顔をしたが、浦原は気にせず続けた。
「敵を倒せるなら倒して構いません。ただし、追う必要のない相手を追わない。誰か一人が敵に引っ張られて隊列から離れるのも避けてください」
朔夜が一護を見る。
「特に一護ね」
「何で俺だけ見るんだよ!」
「グリムジョー来たら絶対追うでしょ」
一護が言葉に詰まる。
石田が冷静に続けた。
「否定できないなら気をつけた方がいいな」
「うるせぇ石田!」
茶渡は二人を見ながらも、浦原へ尋ねた。
「井上の位置は分かるのか」
店内が少し静かになる。
浦原は首を横へ振った。
「残念ですが、まだ正確には。ただし虚圏へ入れば、現世より霊圧を拾いやすくなる可能性はあります」
「腕輪を外されていれば、だね」
朔夜が言う。
「ええ。逆に、まだ遮断されていれば直接探すしかありません」
「虚圏全部から?」
一護が眉を寄せる。
「だからこそ、まず情報を集めます。敵を一人捕まえて聞く。建造物があれば侵入する。大きな霊圧が集中している場所があれば、そこを疑う」
朔夜は紙に描かれた簡単な作戦図を見つめた。
目的は明確だ。
井上を見つける。
確保する。
連れて帰る。
藍染を倒すことではない。
グリムジョーと決着をつけることでもない。
「撤退は?」
朔夜が尋ねると、浦原の表情が少し険しくなる。
「そこが一番難しい」
全員が浦原を見る。
「侵入用の黒腔は開けられます。ただ、皆さんが虚圏のどこにいるか分からなければ、こちらから好きな場所へ迎えには行けない」
石田が腕を組む。
「つまり、帰還地点を確保しながら進む必要がある」
「その通りです」
浦原は小さな箱を四つ取り出した。
「霊子標識です。移動しながら一定間隔で一つずつ置いてください。完全な通信装置ではありませんが、位置を逆算する手がかりになります」
一護が一つ受け取る。
「壊されたら?」
「困ります」
「それだけかよ!」
「壊されないように隠してください」
朔夜も一つ手に取り、軽く眺める。
「これを辿れば、喜助が帰り道を開ける可能性が上がる」
「そういうことです。ただし保証はできません」
「十分だよ」
朔夜は箱を懐へしまった。
救出作戦の形が、ようやく見えてきた。
浦原は最後に全員を見回す。
「出発は今日の夜。黒腔を安定させるまで数時間ください。その間に傷の手当てと準備を済ませておいてください」
一護がすぐに立ち上がろうとする。
「今からじゃ駄目なのか?」
「駄目です」
「でも井上は――」
「焦って通路の途中で全滅したら、誰が井上サンを助けるんです?」
一護の動きが止まる。
浦原は扇子を閉じた。
「数時間です。その間にもアタシは作業します。黒崎サンも今できることをしてください」
一護は拳を握ったまま、やがて頷いた。
「……分かった」
朔夜はその横で腰の御厨子へ手を置く。
「俺も準備しとくよ」
夜一が朔夜を見る。
「無茶な力を試す準備ではなかろうな」
「違うって」
「祭壇の奥の話が気になっておる顔じゃ」
「夜一さん、人の顔読みすぎじゃない?」
「おぬしが分かりやすいだけじゃ」
朔夜は苦笑したが、すぐに表情を戻した。
御厨子の奥にある力を試すために虚圏へ行くわけではない。
新しい力を披露するためでもない。
井上を連れ戻す。
それだけだ。
日番谷たちは帰還の準備を始め、ルキアも不満を押し殺しながらその命令に従った。去り際、ルキアは一護の前で足を止める。
「一護」
「何だ」
「井上を頼む」
一護は迷わず頷いた。
「ああ」
ルキアは次に朔夜を見る。
「朔夜もだ」
「もちろん」
「無茶をするな」
「それ、一護に言った方がいいよ」
「貴様にも言っている!」
朔夜が少し笑い、ルキアもそれ以上は言わなかった。
夕方まで、浦原商店では準備が続いた。
浦原は地下で黒腔を固定する術式を組み、夜一は必要な情報を整理する。石田は携行する霊子装備を確認し、茶渡は黙って自分の腕を見つめていた。
一護は何度も時計を確認していた。
朔夜はそんな三人を見た後、一人で先に行きたいという気持ちを押し込めた。
早ければいいわけではない。
自分だけが辿り着けばいいわけでもない。
今回は四人で行く。
そして四人で井上を連れ戻す。
夜。
地下修行場の中央で、浦原が杖を構えた。
空間がゆっくりと裂け、その奥に果ての見えない暗い通路が生まれていく。
黒腔。
一護が斬月を背負い直す。
茶渡が拳を握る。
石田が眼鏡を押し上げる。
朔夜も御厨子の位置を確かめた。
浦原は四人を見回した。
「もう一度だけ言います。目的は井上サンの救出。深追いはしない。標識を残す。そして、帰れる状態を保つ」
「分かってる」
一護が答える。
浦原は少しだけ笑った。
「では――行ってらっしゃい」
一護が最初に黒腔へ足を踏み入れた。
その後に茶渡、石田が続く。
最後に朔夜が入口の前で一度だけ振り返った。
夜一と目が合う。
「夜一さん」
「何じゃ」
「行ってくる」
夜一は腕を組んだまま答えた。
「連れて帰ってこい」
朔夜は小さく笑う。
「うん」
そして黒腔へ入った。
四人の姿が闇の向こうへ消える。
浦原が術式を維持しながら、その背中を見送る。
「さて……」
扇子の奥から、僅かに目を細めた。
「ここからは、アタシたちの仕事ですね」
黒腔が閉じていく。
井上を取り戻すための救出作戦が、ようやく本当に始まった。
今回は、井上救出作戦が実際に動き始めるところまでを具体的に描きました。
救出班は、
一護、茶渡、石田、そして朔夜。
浦原と夜一は現世に残り、黒腔の維持や帰還経路の確保、空座町側の警戒を担当します。
作戦の最優先目標はあくまで井上の確保と帰還。
敵を倒すことや藍染との決着ではありません。
また、虚圏ではこちらから簡単に迎えへ行けないため、浦原が用意した霊子標識を残しながら進み、帰還地点を繋いでいく形になります。
そして夜、一護たち四人はついに黒腔へ。
次回――
第67話「虚圏へ」