目的はただ一つ。
井上を見つけ、無事に現世へ連れ帰ること。
しかし、その先に広がるのは藍染の支配する虚圏。
現世とも尸魂界とも違う場所で、救出作戦が本格的に始まります。
それでは、第67話「虚圏へ」です。
黒腔の内側には、夜よりも深い闇が広がっていた。
足元にあるのは浦原が一時的に固定した細い霊子の道だけで、その外側には底さえ分からない空間が続いている。
先頭を走る一護が、足場を確かめながら声を上げた。
「思ってたより歩きにくいぞ!」
「だから喜助が固まって進めって言ったんでしょ」
最後尾の朔夜が返した直後、通路の端が崩れ、霊子の欠片が闇へ落ちていった。
石田は足を止めずに後ろへ声を飛ばす。
「止まる方が危険だ。そのまま進め」
茶渡も無言で速度を保ったまま続く。
朔夜は崩れた足場へ手を向けかけたが、すぐに浦原の言葉を思い出して下ろした。
空間そのものを不用意に斬るな。
黒腔の構造が分からない以上、解で何でも切ればいいという話ではない。
「……危なかった」
「何がだ?」
一護が振り返る。
「喜助に帰ってから怒られるところだった」
「今気にするとこそこかよ!」
「説教長いんだよ」
そう返しながらも、朔夜の意識は周囲へ向いたままだった。
黒腔の中には、虚の霊圧が幾重にも混ざっている。
その中から井上だけを探そうとしても、今のところ反応はない。
腕輪で霊圧を隠されたままなのか。
それとも、虚圏へ入ったことで別の霊圧へ埋もれているのか。
まだ判断はできなかった。
少し進んだところで石田が懐から小さな箱を取り出す。
「ここで一つ標識を置く」
「もう置くのか?」
一護が聞き返すと、石田は通路の端へ装置を固定しながら答えた。
「距離が分からないんだ。早めに置いて困ることはない。井上さんを見つけた後で帰り道を失ったら意味がないだろう」
その言葉に、一護は何も言い返さなかった。
朔夜も淡く光る標識を一度だけ振り返る。
帰るための道。
井上を見つけるだけでは終わらない。
現世へ連れ帰って初めて、救出は成功する。
浦原に何度も念を押された意味を、黒腔へ入ってようやく実感していた。
「前!」
一護の声が飛ぶ。
進行方向の足場が崩れ始めていた。
石田がすぐに叫ぶ。
「飛べ!」
一護と茶渡が先に跳び、石田も続く。
朔夜は最後まで残り、頭上から落ちてきた大きな霊子の塊だけへ指先を向けた。
「解」
見えない斬撃が障害物を細かく分断する。
空間には触れない。
砕けた霊子の隙間を抜け、そのまま前へ跳ぶと、朔夜が着地した直後に後方の道が崩れ落ちた。
一護が背後を見る。
「帰り、本当に大丈夫なんだろうな」
「標識は残ってる。喜助に任せるしかないよ」
「今は前に進むべきだ」
石田がそう言うと、四人は再び走り出した。
やがて、闇の先に白い光が見える。
出口だ。
一護が速度を上げた。
「行くぞ!」
四人が黒腔を抜けた瞬間、身体が宙へ投げ出された。
目の前に広がっていたのは、果ての見えない白い砂漠だった。
黒い空。
その中に浮かぶ月。
白い砂はどこまでも続き、遠くには僅かに山のような影が見える。
茶渡は両足から着地し、石田も霊子を足場に体勢を整えた。一護は砂へ足を取られながらも踏み止まり、朔夜も身体を捻って衝撃を逃す。
一護はすぐに周囲を見渡した。
「ここが……虚圏か」
静かだった。
だが何もいないわけではない。
砂の下。
遠い空。
見えない場所から無数の虚の気配が感じられる。
朔夜は御厨子へ軽く手を添えながら、意識を広げた。
茶渡が横を見る。
「井上は?」
朔夜は数秒だけ集中し、首を横へ振る。
「駄目。まだ分からない」
「虚の霊圧が多すぎるな」
石田も周囲を観察しながら言った。
「まず方向を決めるべきだ。井上さんの霊圧が分からない以上、闇雲に歩くのは危険だ」
一護が眉を寄せる。
「でも手掛かりが――」
「あるよ」
朔夜が遠くへ視線を向けた。
三人も同じ方向を見る。
砂漠の遥か先。
地平線の向こうに、巨大な白い建造物の輪郭が僅かに浮かんでいる。
距離はかなりある。
それでも、そこだけは周囲と霊圧の密度が違った。
一護が目を細める。
「あれか?」
「藍染が虚圏を支配してるなら、ああいう場所を拠点にしてても不思議じゃない」
朔夜が答えると、石田も頷いた。
「少なくとも何もない方向へ行くよりは可能性がある」
一護はすぐに歩き出しかけたが、その腕を石田が掴んだ。
「標識」
「あ」
「浦原さんに何度言われたんだ」
「分かってた! 今やるところだった!」
「今忘れていただろう」
「うるせぇ!」
二人が言い合っている間に、茶渡が無言で霊子標識を砂へ固定した。
朔夜はその様子を見て少し笑う。
ここが敵地であることは変わらない。
それでも、こうして普段通りのやり取りがあるだけで余計な緊張は少し抜けた。
「じゃあ、あそこを目指そうか」
朔夜が歩き出そうとした、その時だった。
遠くの砂丘の向こうから、甲高い声が聞こえてきた。
「うえ〜〜〜〜ん! 待ってほしいっす〜〜〜!」
一護が足を止める。
「……何だ?」
続いて、別の声が響く。
「ネル様ぁぁぁ! そっちは危ないっす! こっちっす!」
「どっちへ行けばいいでヤンスかぁぁぁ!」
一護たちは顔を見合わせた。
石田がすぐに弓へ手を掛ける。
「虚圏で助けを求める声か。警戒した方がいい」
「でも放ってもおけないね」
朔夜が声の方向へ意識を向ける。
複数の霊圧。
その後ろに、一つ大きな虚の反応があった。
「誰かに追われてる」
茶渡が静かに言う。
次の瞬間、砂丘の向こうから小さな影が転がるように飛び出してきた。
緑色の髪をした幼い少女だった。
涙を流しながら必死に砂の上を走っている。
その後ろから、クワガタのような仮面をつけた細身の男と、大柄で水玉模様の男が追いかけていた。
「うえ〜〜〜〜ん! ネル、もう走れないっす〜〜〜!」
「ネル様! あと少し頑張るっす!」
「オレも限界でヤンス〜〜〜!」
三人とも逃げることに必死で、一護たちの存在にはまだ気づいていない。
そして、その後ろで砂丘が大きく盛り上がった。
「来るぞ」
石田の声が低くなる。
砂が弾け、巨大な虚が姿を現した。
砂をまとった巨体が三人へ迫り、大きな腕を振り上げる。
少女が振り返り、さらに泣き声を上げた。
「うえ〜〜〜〜ん! また来たっす〜〜〜!」
一護は舌打ちし、斬月を抜いた。
「石田、あれ罠に見えるか?」
「少なくとも今は、追われているようにしか見えない」
「なら助ける!」
一護が砂を蹴った。
巨大な腕が少女へ振り下ろされる直前、その間へ入り込んで斬月で受け止める。
衝撃で砂が大きく舞い上がった。
「重っ……!」
突然目の前へ現れた一護を見て、少女が涙を溜めたまま固まった。
「だ、誰っす!?」
「今それ聞くか!?」
一護が腕を押し返す。
「後ろ下がれ!」
少女は慌てて後ろへ走ったが、数歩で砂に足を取られ、派手に転んだ。
「うえ〜〜〜ん!」
「だから危ねぇって!」
その横を茶渡が駆け抜け、虚の脇腹へ拳を叩き込む。
「巨人の右腕」
衝撃で砂の身体が大きく抉れた。
一護がすぐに斬月を振るい、さらに傷口を広げる。
「いける!」
しかし、崩れた砂が周囲から集まり、抉れた胴体をあっという間に埋めていった。
茶渡が僅かに眉を寄せる。
「戻った」
「身体そのものが砂なんだ!」
石田が霊子の弓を構え、虚の頭部へ矢を放つ。
仮面の一部が砕けるが、それでも動きは止まらない。
朔夜も指先を向けた。
「解」
見えない斬撃が胴体を複数に切り分ける。
砂の巨体が一度崩れ落ちた。
だが、地面へ広がった砂は再び集まり始める。
「……なるほど」
朔夜はすぐに次の斬撃を止めた。
一護が振り返る。
「何か分かったか?」
「斬ることはできる。でも砂がある限り戻る。細かく切っても意味ないね」
「じゃあどうする!」
朔夜は逃げてきた三人へ目を向けた。
敵を倒す必要はない。
目的は三人を助け、この場を抜けることだ。
「一護、倒すのやめよう。逃げるよ」
「分かった!」
切り替えは早かった。
朔夜が伸びてきた虚の腕だけを解で切断し、一護が正面から巨体を押さえる。その間に茶渡が転んでいた少女を抱き上げた。
「ひゃあっ!?」
少女が驚いて暴れる。
「ネルをどこに連れてくのら!?」
「安全な場所だ」
茶渡が短く答える。
少女は茶渡の顔を見上げ、ぴたりと止まった。
「……やさしいヤツっす」
後方では細身の男と大柄な男が必死に追いつこうとしていた。
石田が二人へ叫ぶ。
「君たちも早く!」
細身の男が腕を振る。
「今行くっす! ネル様を置いて逃げるなど、わたくしにはできないっす!」
そう言った直後、足を滑らせて砂へ顔から突っ込んだ。
大柄な男も止まりきれず、その背中へぶつかる。
「前が止まったでヤンス〜〜〜!」
「私を踏んでるっす! 重いっす!」
「仕方ないでヤンス!」
「何してんだお前ら!」
一護の怒鳴り声が飛んだ。
朔夜も思わず額を押さえたくなったが、背後では虚が再び形を戻し始めている。
「置いてくよ?」
その一言で二人が跳ね起きた。
「それは困るっす!」
「待ってほしいでヤンス〜〜〜!」
ようやく全員が同じ方向へ走り出した。
一護が最後まで虚を引きつけ、朔夜がその横へ並ぶ。
「一護、前へ」
「お前は?」
「足止めだけする」
朔夜は虚そのものではなく、近くの砂丘へ指先を向けた。
「解」
斜面が大きく崩れる。
大量の砂が流れ落ち、迫っていた虚の下半身を巻き込んだ。身体が砂でできている以上、それだけで倒すことはできないが、形を作り直すまでの時間は稼げる。
「今」
一護と朔夜も一気に距離を取った。
しばらく走り、背後の霊圧が遠ざかったところで、ようやく一行は足を緩めた。
一護が息を整えながら茶渡の腕を見る。
少女はまだ抱えられたままだった。
「……で」
一護が口を開く。
「お前ら、何なんだ?」
少女が茶渡の腕から飛び降り、白い砂の上へ着地した。
先ほどまで泣いていたのが嘘のように胸を張る。
「ネルはネルっす!」
一護の眉間に皺が寄った。
「名前じゃなくてだな……」
「ネル・トゥなのら!」
「そこじゃねぇ!」
少女――ネルは一護の剣幕にも動じず、逆に不思議そうに首を傾げた。
「怒りっぽいヤツっすね」
「助けた相手に言われたくねぇよ!」
その後ろで、細身の男が砂を払いながら立ち上がる。
「これはこれは、命を救っていただき感謝するっす。わたくし、ペッシェ・ガティーシェと申すっす」
胸へ手を当てて仰々しく頭を下げる。
一護が少しだけ拍子抜けした顔をした。
「急に丁寧になったな」
「わたくしは常に紳士的っす」
「さっき砂に顔から突っ込んでただろ」
「それと紳士であることは無関係っす!」
すぐ横では、大柄な男がまだ泣いていた。
「死ぬかと思ったでヤンス〜〜〜! オレはドンドチャッカ・ビルスタンでヤンス!」
石田が眼鏡を押し上げる。
「ずいぶん騒がしい三人だな」
「三人とは失礼っす」
ペッシェが胸を張る。
「我々はネル様を中心とする由緒正しき――」
「ペッシェ、長いっす」
ネルに止められ、ペッシェが黙った。
朔夜はそのやり取りを眺めながら、ネルの額へ残っている仮面の一部に目を止める。
霊圧にも虚の特徴がある。
「ネル」
「何っす?」
「君たち、破面?」
一護と石田の表情が変わる。
しかしネルは何でもないことのように頷いた。
「そうっすよ?」
一護が目を見開く。
「そうっすよ、じゃねぇだろ!」
「何で怒るっす?」
「俺たち、破面に仲間連れてかれてここまで来てんだぞ!」
ネルの顔から無邪気な笑みが少し消えた。
「……仲間?」
一護は遠くに見える白い建造物へ目を向ける。
「ああ。井上って奴だ」
ネルはその名前に反応を見せなかった。
どうやら井上のことは知らないらしい。
朔夜が一歩前へ出る。
「藍染って名前は知ってる?」
今度はネルたち三人の反応が変わった。
ペッシェとドンドチャッカが僅かに身を固くし、ネルも遠くの城へ目を向ける。
その変化だけで十分だった。
石田が静かに尋ねる。
「あの白い建物が関係しているのか?」
ネルは少し迷った後、小さく頷いた。
「あれは虚夜宮っす」
一護たちの空気が変わる。
「虚夜宮……」
一護が名前を繰り返す。
ネルは先ほどまでより少し真面目な顔になった。
「あそこは危ないのら。強い破面がいっぱい居るっす。普通は近づかない方がいいっす」
「でも、そこに藍染がいるんだな?」
一護が尋ねると、ネルは頷いた。
「いるっす」
それだけで一護には十分だった。
斬月を背負い直し、虚夜宮へ向かって歩き出す。
ネルが慌てて前へ回り込んだ。
「待つっす! 危ないって言ったばっかりなのら!」
「井上がそこにいるかもしれねぇんだ」
「でも死んだら助けられないっす!」
一護の足が一瞬だけ止まった。
ネルの言葉は正しい。
だが引き返す理由にはならない。
「死なねぇよ」
「何で言い切れるっす?」
「連れ戻すまで死ねねぇからだ」
ネルがぽかんと一護を見上げる。
茶渡も静かに前へ進んだ。
「俺も行く」
石田は眼鏡を押し上げる。
「最初からそのために来たんだ。危険なのは分かっている」
最後にネルの視線が朔夜へ向く。
「サクヤのヤツも行くっす?」
朔夜が僅かに眉を上げた。
「俺の名前、どこで知ったの?」
ネルが固まる。
「……」
「ネル?」
「知らないっす!」
「知らないの?」
「でもサクヤのヤツはサクヤのヤツっす!」
「説明になってないなぁ」
ペッシェがすぐ横から割り込む。
「ネル様は細かいことを気にしないお方なのっす!」
ドンドチャッカも力強く頷く。
「偉大なのでヤンス!」
「もっと分からなくなった」
朔夜が苦笑すると、一護が呆れたように振り返る。
「もういいだろ。行くぞ」
「そうだね」
朔夜も歩き出す。
ネルはまだ心配そうに虚夜宮を見ていたが、四人が本気で向かうつもりだと分かると、ペッシェとドンドチャッカへ目を向けた。
「……どうするっす?」
「ネル様が行くところへ、わたくしも行くっす!」
「オレも一緒でヤンス!」
「まだ行くって言ってないっす!」
三人の騒がしい声が再び砂漠へ響く。
一護が頭を抱える。
「何でこいつらまでついて来る流れになってんだよ……」
茶渡が静かに答えた。
「賑やかでいい」
「茶渡、お前そういうこと言うんだな」
石田まで少しだけ笑う。
朔夜はそんな三人を横目で見た後、遠くの虚夜宮へ視線を戻した。
救出作戦は始まったばかりだ。
井上がどこにいるのかも分からない。
敵の数も、能力も分からない。
それでも、進む方向だけは決まった。
「標識、忘れないようにね」
朔夜が言うと、一護がすぐに振り返る。
「分かってる!」
石田がため息をついた。
「一番忘れそうな奴が言うな」
「うるせぇ!」
再び言い合う二人の声を聞きながら、朔夜は歩みを速めた。
白い砂漠の彼方。
藍染の居城、虚夜宮。
そして井上がいる可能性が最も高い場所。
四人と、思いがけず出会った三人は、そこへ向かって進み始めた。
---
後書き
今回は、ネルたちの初登場をより自然な流れに整えました。
最初から名前や正体を明かすのではなく、まず遠くから泣き声と騒ぎが聞こえ、一護たちが状況を確認したところで、追われている三人を発見。
一度救出して危機を切り抜けてから、ネル、ペッシェ、ドンドチャッカの名前と、彼らが破面であることが分かる形にしています。
ネルは子供らしい「〜っす」「〜なのら」、ペッシェは丁寧そうでふざけた「〜っす」、ドンドチャッカは「〜でヤンス」を中心に、それぞれの賑やかな個性も自然に会話へ混ぜました。
そして三人から告げられた、遠方にそびえる城の名――虚夜宮。
井上を探す一護たちは、ついに藍染の本拠地へ向かい始めます。
次回――
第68話「虚夜宮」
今回は、ネルたちの初登場をより自然な流れに整えました。
最初から名前や正体を明かすのではなく、まず遠くから泣き声と騒ぎが聞こえ、一護たちが状況を確認したところで、追われている三人を発見。
一度救出して危機を切り抜けてから、ネル、ペッシェ、ドンドチャッカの名前と、彼らが破面であることが分かる形にしています。
ネルは子供らしい「〜っす」「〜なのら」、ペッシェは丁寧そうでふざけた「〜っす」、ドンドチャッカは「〜でヤンス」を中心に、それぞれの賑やかな個性も自然に会話へ混ぜました。
そして三人から告げられた、遠方にそびえる城の名――虚夜宮。
井上を探す一護たちは、ついに藍染の本拠地へ向かい始めます。
次回――
第68話「虚夜宮」