朔夜の前に現れたのは、かつて空座町で彼の戦い方を観察し、情報を虚圏へ持ち帰った破面――イグナシオ・ベルダ。
その目的は朔夜を倒すことではなく、戦い方の変化を調べ、足止めしている間に井上をさらに奥へ移すことでした。
ドンドチャッカを傷つけられたことで、朔夜の中には一度、昔の危険な顔が現れます。
それでも今、優先すべきものは変わりません。
井上を見つけ、連れて帰る。
それでは、第75話「近づく霊圧」です。
朔夜とドンドチャッカは、白い廊下を走っていた。
イグナシオとの戦いに使った時間がどれだけ響いているのかは分からない。ただ、先ほどまで途切れ途切れだった井上の霊圧が、今は僅かながら以前より近く感じられていた。
「右」
朔夜が角を曲がる。
ドンドチャッカも遅れまいと必死についてくるが、先ほど虚閃に掠められた身体では速度が出ない。
朔夜はそれに気づき、少しだけ足を緩めた。
「無理してない?」
「旦那にだけは言われたくないでヤンス」
「何で?」
「肩から血が出てるでヤンス!」
言われて、朔夜は自分の肩を見る。
イグナシオの刀で切られた傷から、まだ少し血が滲んでいた。
「忘れてた」
「忘れる傷じゃないでヤンスよ!」
ドンドチャッカの声が廊下へ響き、朔夜は苦笑する。
そのまま少し進んだところで、ドンドチャッカが不意に口を閉じた。
何か言いたそうに朔夜を見る。
「どうしたの?」
「……さっきの旦那、ちょっと怖かったでヤンス」
朔夜の足が僅かに遅くなる。
「やっぱり?」
「笑ってたでヤンス」
「普段も笑うけど」
「そういう笑い方じゃなかったでヤンスよ」
それは朔夜自身にも分かっていた。
イグナシオが怯れていくのを見た時、確かに自分の中に愉しんでいる部分があった。
昔なら、それを止めなかった。
邪魔なら斬る。
敵なら潰す。
必要だからではなく、そうした方が早いから。
今は違う。
少なくとも、違うようにしてきた。
「……あれも俺なんだと思う」
ドンドチャッカが目を丸くする。
「怖い旦那もでヤンス?」
「多分ね」
「否定しないでヤンス?」
「無かったことにすると、また勝手に出てきそうだから」
御厨子に言われた言葉を思い出す。
――あれも貴様だ。
昔の自分を捨てるのでも、そこへ戻るのでもない。
使うかどうかを、自分で選ぶ。
朔夜は前を向いた。
「でも今は、井上を助ける方が大事」
「それなら安心でヤンス」
「そんな簡単に安心する?」
「オレ、難しいこと考えると頭痛くなるでヤンス」
「それはちょっと羨ましいかも」
話しながら走っていると、前方の廊下が広くなった。
その瞬間、朔夜が足を止める。
ドンドチャッカも危うくぶつかりそうになりながら止まった。
「何でヤンス?」
朔夜は答えず、廊下の左右を見る。
壁には何もない。
だが、空気の中に規則的な霊圧の揺れがある。
等間隔。
左右から交互に。
「……監視か」
「何があるでヤンス?」
「この先、通った霊圧を拾う仕組みがある」
ドンドチャッカが青ざめる。
「じゃあ進んだらバレるでヤンス?」
「もう侵入してること自体はバレてるよ。でも――」
朔夜は奥を見る。
「どの道を進んでるかまで知らせる必要はない」
指先を上げる。
「解」
左側の壁、その内部だけに細い斬撃が走った。
続いて右。
さらに奥。
壁そのものはほとんど崩さず、埋め込まれている霊子の反応だけを一つずつ切断していく。
規則的だった霊圧の揺れが消えた。
ドンドチャッカが口を開ける。
「そんなこともできるでヤンス?」
「仕組みが分かればね」
「最初から分かってたでヤンス?」
「今気づいた」
「危ないでヤンス!」
「だから止まったんでしょ」
朔夜が歩き出す。
今度は急がない。
監視装置があるなら、その先には敵がいる可能性が高い。
案の定、少し進んだところで複数の足音が聞こえた。
角の向こうから、五人の破面が現れる。
全員が朔夜たちを見るなり武器へ手を掛けた。
「いたぞ!」
「中央区画への侵入者だ!」
その言葉に朔夜の目が動く。
中央区画。
イグナシオは井上をさらに内側へ移したと言っていた。
方向は合っている。
先頭の破面が刀を抜いた。
「ここから先へは――」
「ごめん」
朔夜が静かに手を上げる。
「今、あんまり時間ないんだ」
一人目の刀が折れた。
続いて二人目の足元へ浅い斬撃が走り、体勢を崩したところへ三人目の武器も切断される。
「なっ――」
四人目が虚閃を構える。
朔夜は身体を左へ動かした。
相手が反射的にそちらを警戒する。
だが解は右側の壁へ届き、切り落とされた石材が虚閃を構えた腕へぶつかった。
狙いが逸れる。
その間に朔夜は距離を詰めていた。
御厨子の鞘で腹部を打つ。
一人が倒れる。
さらに背後から斬りかかった相手の刀を御厨子で受け、その刃へ触れた。
「捌」
刀だけが半ばから折れた。
朔夜はそのまま相手を蹴り飛ばす。
ほんの数十秒。
五人全員が床へ倒れた。
誰も死んではいない。
ドンドチャッカが恐る恐る顔を出す。
「……さっきより早く終わったでヤンス」
「長引かせる理由ないからね」
一人だけ意識のある破面へ近づく。
朔夜がしゃがむと、男は怯えながら後退しようとした。
「待って。斬らないから」
「信用できるか……!」
「じゃあ答えなくてもいい」
朔夜はその顔を見る。
「井上織姫は中央区画に移された?」
破面の目が僅かに動いた。
それだけだった。
朔夜は立ち上がる。
「ありがとう」
「何も言ってないぞ!」
「それ、前にも言われたなぁ」
男が悔しそうに歯を食いしばる。
朔夜は追及せず、中央へ続く通路へ向かった。
ドンドチャッカが慌てて後を追う。
「本当にこっちでいいでヤンス?」
「多分」
「また多分でヤンス!?」
「でも今の反応と、井上の霊圧が同じ方向」
それなら十分だった。
二人は再び走り始める。
今度は先ほどまでより、井上の霊圧が明確だった。
弱い。
すぐに消える。
それでも、確かにある。
「近い」
朔夜が呟く。
「本当でヤンス?」
「うん」
胸の中に焦りが戻る。
急ぎたい。
だが先ほどのように、それだけで周囲を見なくなるつもりはない。
走りながら、床、壁、天井、周囲の霊圧を確かめる。
その時、奥の方で複数の霊圧が急に動いた。
「……また移動してる」
「井上の嬢ちゃんをでヤンス?」
「多分」
「じゃあ急ぐでヤンス!」
ドンドチャッカが先へ走ろうとする。
朔夜はその腕を掴んだ。
「待って」
「何でヤンス!?」
「俺たちが近づいたから動かしたなら、追う方向を読まれてる」
ドンドチャッカが固まる。
朔夜は左右を見る。
前方には二本の通路。
左には強い霊圧が複数。
右にはほとんど何もない。
あまりに分かりやすい。
「……左へ行かせたいのかな」
「でも井上の嬢ちゃんは?」
朔夜は目を閉じる。
僅かに感じる霊圧。
一度消える。
数秒後。
また触れた。
「右」
「敵がいない方でヤンス?」
「うん。井上は右」
左の強い霊圧は、こちらを引きつけるための囮かもしれない。
確証はない。
間違っている可能性だってある。
それでも、今は自分が感じたものを信じる。
朔夜が右へ曲がった。
ドンドチャッカも続く。
数十メートル進んだところで、朔夜の表情が変わった。
「……いた」
今までで一番はっきりしていた。
間違いない。
井上の霊圧。
同じ階層。
かなり近い。
「井上!」
思わず声が漏れる。
その瞬間だった。
霊圧が消えた。
弱くなったのではない。
途切れた。
最初からそこに何もなかったかのように、完全に。
朔夜の足が止まる。
「旦那?」
返事をしない。
代わりに、周囲へ意識を広げる。
そして気づいた。
井上の霊圧だけではない。
さっきまで壁の向こうや遠くの通路から感じていた、細かな虚の気配までが妙に静かになっている。
ドンドチャッカも遅れてそれを感じたのか、声を潜めた。
「……何でヤンス、これ」
廊下は静かなままだった。
足音もない。
殺気もない。
強い霊圧を叩きつけられているわけでもない。
なのに、身体が勝手に警戒していた。
朔夜は御厨子へ手を掛ける。
「下がって」
「何が来るでヤンス?」
「来るんじゃない」
朔夜は廊下の奥を見た。
「もういる」
ドンドチャッカが息を止める。
白い廊下の先。
何もなかったはずの場所から、声だけが届いた。
「そこまでだ、御門朔夜」
低くも高くもない。
感情の起伏がほとんどない声。
それだけで、朔夜には誰なのか分かった。
「……やっぱり君か」
暗がりなど存在しないはずの白い通路で、いつの間にか一人の男が立っていた。
歩いてきたところを見ていない。
瞬歩のように現れたわけでもない。
ただ、気づいた時にはそこにいた。
白い装束。
黒い髪。
頬を流れる深緑の涙痕。
頭部に残る仮面の一部。
ウルキオラ・シファー。
空座町で会った時と同じ無表情のまま、こちらを見ている。
ドンドチャッカの身体が目に見えて強張った。
朔夜も御厨子から手を離さなかった。
強い。
それは知っている。
だが、今感じている圧は、単純な霊圧の大きさとは少し違った。
こちらを威圧する必要さえ感じていない。
そんな静けさだった。
ウルキオラの視線が、朔夜の肩の傷へ向く。
続いて、その背後のドンドチャッカへ。
最後に再び朔夜へ戻った。
「イグナシオは失敗したか」
「足止めなら成功したよ」
「そうか」
それだけだった。
仲間が倒されたことへの怒りも、失望もない。
まるで報告を一つ確認しただけの声。
朔夜は少し目を細めた。
「井上は?」
「答える必要はない」
「その返事、今日何回目だろ」
ウルキオラは反応しない。
朔夜は一歩だけ前へ出た。
「さっきまで井上の霊圧があった。君が消した?」
「お前が知る必要はない」
「じゃあ、そこを退いて」
「それも必要ない」
朔夜は静かに御厨子を抜いた。
ウルキオラの視線が、僅かに刀へ落ちる。
「俺、あんまり君と戦いたくないんだけど」
「恐れているのか」
「逆」
朔夜はウルキオラから目を離さない。
「ここで君と戦ってる時間が惜しい」
初めて、ウルキオラの目がほんの僅かに細くなった。
「合理的だ」
「褒めても退いてくれない?」
「退く理由がない」
「だよね」
御厨子を構える。
だが朔夜は踏み込まない。
ウルキオラも動かない。
静かな対峙だけが続く。
その方が、下手に斬り合うよりも緊張感があった。
「お前が俺を倒して先へ進もうとすれば、さらに時間を失う」
ウルキオラが言う。
朔夜の目が僅かに動いた。
「その間にも、女は移動する」
分かっている。
だからこそ厄介だった。
ウルキオラを倒す。
井上を追う。
両方を同時にはできない。
ここで長引けば、それだけ向こうの目的に近づく。
「どうする、御門朔夜」
選ばせる。
また同じだった。
藍染も、イグナシオも。
そして今度はウルキオラまで。
朔夜が何を選ぶのかを見ている。
数秒だけ沈黙が続いた。
やがて朔夜は、ウルキオラの背後へ視線を向けた。
そして少しだけ笑う。
「簡単だよ」
「何?」
「君を倒す必要はない」
次の瞬間、解が走った。
狙いはウルキオラではない。
背後の壁。
内部を正確に切断された白い壁が大きく崩れ、その向こうに別の通路が露出する。
ウルキオラの視線が、ほんの一瞬だけそちらへ動いた。
その瞬間で十分だった。
朔夜はドンドチャッカの腕を掴む。
「走るよ」
「へ?」
「今!」
二人は開いた通路へ飛び込んだ。
直後、背後の空気が重くなる。
ウルキオラが追ってくる。
だが朔夜は振り返らなかった。
倒すことが目的ではない。
勝つことでもない。
井上を見つける。
それが今の戦いだ。
頭の奥で御厨子が低く笑った。
『少しはましになったな』
朔夜も走りながら小さく笑う。
「褒められた気がしないな」
「誰と喋ってるでヤンス!?」
「こっちの話!」
開いた通路の先。
ほんの僅か。
再び井上の霊圧が触れた。
今度こそ、かなり近い。
朔夜は速度を上げた。
「待ってて、井上」
その背後。
白い通路の入口に立ったウルキオラは、追いながらも表情を変えなかった。
ただ一度だけ、朔夜が切り開いた壁へ目を向ける。
「……やはり、報告とは違うか」
呟きは、すでに遠くへ走った朔夜には届かなかった。
白い迷宮の中。
救出する側と、それを阻む側の距離は、確実に縮まり始めていた。
井上の霊圧が突然完全に消え、それまで周囲にあった細かな虚の気配まで静まる。
そして姿を見せるより先に声が届き、気づいた時にはすでにそこに立っている。
派手に霊圧を放つのではなく、何もしていないのに周囲の空気そのものが変わる存在として描いています。
また朔夜も、ウルキオラの強さを知っているからこそ正面から決着をつける道を選びません。
目的はウルキオラに勝つことではなく、井上を助けること。
解で別の進路を切り開き、そのまま突破する判断をしました。
そしてウルキオラ自身も、以前得ていた朔夜の情報と、現在の朔夜に少しずつズレが生まれていることへ気づき始めます。
次回――
第76話「追う者」