石田たちが離れ、御厨子をより自由に扱えるようになった朔夜。
その戦いの最中、これまで精神世界でしか感じなかった「乾いた熱」が、現実でも僅かに姿を見せ始めます。
ウルキオラの姿が消えた瞬間、朔夜は反射的に御厨子を振るうのではなく、周囲へ意識を広げた。
正面にはいない。
背後でもない。
そう判断した直後、頭上から鋭い気配が落ちてくる。
朔夜はその場を離れながら、着地点へ解を放った。見えない斬撃が床を切り裂き、ウルキオラは着地する直前に軌道を変える。
その動きを追ってもう一つ。
今度は壁。
さらに退路へ。
複数の斬撃が異なる角度から迫るが、ウルキオラは僅かな身体の動きだけでそれらを外していった。
「自由になったと言った割には、変わらんな」
着地したウルキオラが静かに言う。
朔夜は呼吸を整えながら御厨子を構え直した。
「そんな急に別人みたいに強くなったら、俺も怖いよ」
「冗談を言っている場合か」
「だから言ってるんだけど」
返しながらも、朔夜の余裕は確実に削られていた。
石田たちが離れたことで解を使える範囲は広がった。それ自体は間違いない。
だが、制約が減ったことと、ウルキオラを簡単に斬れることは同じではない。
相手はすでに解の射程も、捌を使うためには接触が必要であることも理解している。しかも戦いながら、その使い分けにまで慣れ始めていた。
長引けば長引くほど、自分だけが有利になるわけではない。
「考え事か」
声と同時に、ウルキオラが目の前へ現れる。
朔夜は御厨子で一撃を受け流したが、続く蹴りまでは避けきれず、脇腹を抉るような衝撃に身体が浮いた。
壁へ叩きつけられる直前、足をついて衝撃を逃がす。
それでも傷口が開き、白い壁へ血が飛んだ。
「……痛いな」
軽く言ってみたものの、呼吸をするだけで胸の傷まで疼いた。
ウルキオラはそんな朔夜を見ても追撃しなかった。
その無表情が、今はかえって腹立たしい。
「何?」
「待っている」
「何を」
「先ほどの力だ」
朔夜は一瞬だけ黙った。
乾いた熱。
自分の奥深くで、確かに感じたもの。
精神世界で御厨子と向き合った時にも存在していた。だが当時は、近づこうとすれば御厨子自身に止められた。
まだ早い。
そう言われた。
それが今、戦いの中で再び浮かび上がってきている。
「悪いけど、見世物じゃないよ」
「なら使う必要があるところまで追い込むだけだ」
ウルキオラの言葉には感情がない。
脅しでもない。
ただ事実を告げているだけだった。
だからこそ、朔夜にも分かった。
ここから先は、先ほどまでのようにはいかない。
「……本当に嫌な性格してるよね」
「お前に言われる筋合いはない」
「それはそう」
次の瞬間、二人が同時に踏み込んだ。
金属音が連続する。
一度ぶつかればすぐに離れ、また角度を変えて打ち合う。朔夜は正面から力比べをせず、ウルキオラの刀を流しながら別方向へ解を重ねていった。
ウルキオラが右へ逃げれば、その先を切る。
左へ動けば、床を削る。
一つの斬撃で仕留めるのではなく、移動できる範囲を少しずつ狭めていく。
だが、ウルキオラもそれを読んでいた。
逃げ道を削られる前に、あえて朔夜の方へ入ってくる。
距離を潰される。
朔夜は御厨子を返し、刀を受けた。
接触。
ここなら捌が使える。
そう判断した瞬間、ウルキオラは刀を手放した。
「……!」
予想外だった。
斬魄刀が落ちるより早く、空いた手で朔夜の手首を掴み、そのまま身体を引き寄せる。
拳が腹部へめり込んだ。
息が止まった。
御厨子を握った手から力が抜けかける。
さらに膝。
朔夜は咄嗟に身体を捻ったが、完全には避けられず、肋骨へ鈍い衝撃を受けた。
それでも左手を伸ばす。
ウルキオラの腕へ触れる。
「捌――」
使うより先に、腕を弾かれた。
ウルキオラは落とした刀を足先で跳ね上げ、そのまま掴み取る。
一連の動きに無駄がなかった。
朔夜は数歩下がりながら、思わず息を吐く。
「……そこまで対策する?」
「接触させなければいいと言った」
「有言実行にも程があるな」
返事はない。
朔夜は痛む腹部を押さえながら、それでも少しだけ笑った。
その笑みを見たウルキオラの目が細くなる。
「またか」
「何が?」
「楽しんでいる」
朔夜は否定しなかった。
確かに。
苦しい。
痛い。
それでも、こんな相手は滅多にいない。
こちらが一つ工夫すれば、次には対応してくる。
なら、さらにその先を試したくなる。
どうすれば崩せるのか。
どこまで追えば、あの無表情が変わるのか。
胸の奥で、昔の自分が嬉しそうに笑っているような感覚があった。
「……少しね」
「なら何故、その力を使わない」
「楽しいからって、何でもしていいわけじゃないから」
「理解できんな」
「だろうね」
言いながら、朔夜自身も少し不思議だった。
以前なら、楽しさを感じた時点で押し殺そうとしていた。
そんな自分は良くない。
危険だ。
昔へ戻る。
そう思っていた。
今は違う。
楽しいと思う自分を認めても、それに従う必要はない。
それだけだった。
『ようやく少しは分かったか』
御厨子の声が、頭の奥で響いた。
朔夜の目が僅かに動く。
『欲を消そうとするから鈍る。欲があるなら、それを持ったまま選べ』
「……簡単に言うね」
小さく呟く。
ウルキオラが刀を構えた。
「何を話している」
「性格の悪い先生と」
『貴様に言われたくはないな』
「やっぱり似てるんじゃない?」
答えの代わりに、精神の奥で低い笑い声が響いた。
それと同時に。
また、あの熱が戻ってくる。
乾いている。
燃え上がる炎のような激しさはないのに、身体の奥へ残り続ける不自然な熱。
今度は前より近かった。
まるで手を伸ばせば触れられるほどに。
朔夜の指先が僅かに熱を持つ。
ウルキオラの視線がそこへ落ちた。
「霊圧が変わった」
朔夜も気づいていた。
自分を中心に、空気が僅かに乾いている。
錯覚ではない。
壁に付着していた血が、いつもより早く乾いていく。
「……これ」
精神世界で感じていたものが、現実へ滲んでいる。
胸の奥で御厨子が笑う。
『見えてきたな』
「名前は?」
沈黙。
『欲しがるな』
思わず眉を寄せる。
「そこまで来て教えてくれないの?」
『名を知れば、貴様は使おうとする』
「使えるなら使うでしょ」
『だからまだ早いと言っている』
その言葉が終わった瞬間、ウルキオラが動いた。
朔夜の意識が内側へ向いていた隙を狙ったのだ。
「っ!」
刀が肩へ迫る。
御厨子で受ける。
しかし足場が悪い。
押し込まれる。
傷ついた肩へさらに負担が掛かり、朔夜の表情が歪んだ。
ウルキオラが低く言う。
「今の力を使え」
「嫌だって」
「なら、使わざるを得なくする」
距離が開く。
ウルキオラの指先へ、薄緑色の光が集まり始めた。
しかも今回は一つではない。
小さな光が二度、三度と瞬きながら霊子を吸い寄せていく。
朔夜の顔から笑みが消えた。
「……それ、ちょっと本気すぎない?」
「避ければ後ろが消える」
朔夜が視線を動かす。
背後。
先ほど石田とペッシェが通った道。
二人の霊圧はもうかなり遠い。
だが完全に安全な距離とは言い切れない。
しかも、ここを大きく崩されれば一護たちへ続く道そのものが失われる可能性がある。
ウルキオラはそれを分かった上で狙っている。
「本当に性格悪いな」
「選べ」
薄緑の光がさらに強くなる。
逃げるか。
受けるか。
もっと力を使うか。
朔夜は歯を食いしばった。
また選ばされている。
藍染にも。
イグナシオにも。
ウルキオラにも。
相手が用意した選択肢の中から、どれを選ぶか試され続けている。
胸の奥で何かが冷えた。
いや。
逆だ。
熱い。
ただ、怒りで燃え上がるのとは違う。
乾いた熱が、静かに広がっていく。
「……そういうの」
朔夜の口元がゆっくりと上がった。
ウルキオラが見る。
それは井上と約束した後に見せていた柔らかな笑みではなかった。
イグナシオを追い詰めた時の、あの静かな顔。
「嫌いなんだよね」
声だけは穏やかだった。
薄緑色の虚閃が放たれる。
凄まじい閃光が廊下を埋め尽くした。
朔夜は逃げなかった。
ただし、正面から受け止めもしない。
「解」
最初の斬撃が床へ入る。
続いて壁。
天井。
一本ずつではない。
複数の切断がほぼ同時に走り、虚閃の周囲にある構造そのものを斜めへずらしていく。
分厚い石材が落ちるが、目的は盾ではない。
虚閃が進むための空間を歪める。
薄緑の閃光が石材を吹き飛ばしながら進む。
朔夜はさらに解を重ねた。
右へ。
左へ。
また右へ。
壁を切るたび、爆風の逃げ道が変わる。
直線だった虚閃の破壊が少しずつ横へ逸れ、最後には朔夜のすぐ脇を掠めるように抜けていった。
轟音。
天井の一部が崩れる。
熱風が全身を叩く。
それでも朔夜は立っていた。
腕には焼けた傷が増え、息も荒い。
「……危な」
言葉とは裏腹に、口元にはまだ薄い笑みが残っている。
ウルキオラが初めて僅かに沈黙した。
「今、何をした」
「解だよ」
「それだけではない」
朔夜は自分の手を見る。
確かに熱がある。
だが何かを放ったわけではない。
乾いた熱は、まだ内側にある。
「俺にも分からない」
それは嘘ではなかった。
ウルキオラが再び距離を詰める。
朔夜も今度は逃げない。
御厨子が斬魄刀とぶつかる。
ウルキオラが接触を切ろうとした瞬間、朔夜はその動きへ合わせてさらに一歩前へ出た。
肩。
触れる。
「捌」
硬皮と霊圧へ適応した斬撃が走った。
今までより深い。
ウルキオラの肩から血が大きく飛ぶ。
それでも朔夜は、その先へ斬り進めなかった。
止めた。
ウルキオラが距離を取る。
「また止めたか」
「うん」
「何故だ」
朔夜は少し息を整えた。
「今、君を殺したいって思った」
その答えに、ウルキオラの目が僅かに動いた。
「正確には、殺してもいいって思った、かな」
自分の中に湧いた感情を、誤魔化さず口にする。
「邪魔だし、しつこいし、俺を試すために仲間のいる方まで狙う。昔の俺なら、それだけで十分だった」
ウルキオラは黙って聞いている。
「でも」
朔夜は御厨子を下ろさない。
「思ったことと、やることは別」
乾いた熱は消えていない。
むしろ、先ほどよりはっきりとそこにある。
危険な自分を否定しなかったからこそ、熱が近づいた。
そんな気がした。
頭の奥で御厨子が笑う。
『ようやく入口に立ったな』
「入口?」
返事はない。
代わりに、もう一度あの熱が揺れた。
そして一瞬だけ。
精神の奥深く。
黒い祭壇の向こう側で、何かが開くような感覚があった。
炎は見えない。
名前もまだ分からない。
それでも朔夜は、そこに「何か」があることだけはもう疑わなかった。
ウルキオラが斬魄刀を構え直す。
「なら、次は止められなくなるところまで追い込む」
朔夜はその言葉を聞いて、小さく息を吐いた。
「やってみれば?」
危うい笑みが僅かに浮かぶ。
だが、その目は冷静だった。
昔へ戻ったのではない。
昔の自分を連れたまま、自分で進む方向を決めている。
その違いを、朔夜自身がようやく理解し始めていた。
白い廊下の中で、御厨子を握る手にもう一度、乾いた熱が宿る。
今度は、消えなかった。
朔夜の中にある危険な感情と、「乾いた熱」が少しずつ繋がり始めました。
ただし、その正体を解放するにはまだ早いようです。
次回――
第87話「入口」