朔夜はウルキオラとの戦いの中で、その正体へ少しずつ近づいていきます。
乾いた熱は、もう消えなかった。
手のひらだけではない。御厨子を握る指から腕へ、さらに胸の奥へと、熱とも呼び切れない感覚が静かに残り続けている。
燃えているわけではなく、身体が苦しいわけでもない。それなのに意識を向ければ、そこに何かがあることだけははっきりと分かった。
朔夜は御厨子を構えたまま、向かいに立つウルキオラを見る。
「次は止められなくなるところまで追い込む」
先ほど告げられた言葉に、朔夜は笑って返した。
だが本心では、それを軽く考えていなかった。
今の身体は傷だらけだ。肩から胸へ走った傷はまだ塞がらず、脇腹にも鈍い痛みが残っている。呼吸が乱れれば動きは落ちるし、ここからさらに長引けば、先に立てなくなるのは自分かもしれない。
それでも、不思議と焦りはなかった。
「来ないのか」
ウルキオラが訊く。
「今、ちょっと考えてた」
「戦闘中にか」
「考えずに君とやったら死にそうだからね」
ウルキオラは返事をせず、静かに踏み込んだ。
響転による移動は何度見ても速い。姿が消えたと思った時には刃が迫っており、朔夜は御厨子で受け流しながら身体を半歩だけずらした。
続く斬撃へは付き合わない。
離れた壁へ解を走らせ、切り落とした石材を二人の間へ落とす。
ウルキオラはそれを避けることなく斬り払い、そのまま前へ出た。
朔夜も予想していた。
後退せず、今度はこちらから間合いへ入る。
御厨子と斬魄刀がぶつかった瞬間、ウルキオラがすぐに接触を切ろうとした。
捌を警戒している。
朔夜は追わなかった。
無理に触れようとすれば、その行動自体を読まれる。
代わりに、ほとんど身体を動かさないまま解を放つ。
ウルキオラの左肩。
今度は本人を狙った。
見えない斬撃が硬皮へ届く直前、ウルキオラが僅かに身体を捻ったため深くは入らず、白い装束と皮膚に浅い傷だけを残す。
「先ほどまでより迷いがないな」
「そう見える?」
「斬ることを躊躇っていない」
朔夜は御厨子を握り直した。
「斬ること自体は、前から躊躇ってないよ」
「なら何が変わった」
その問いに、すぐ答えは出なかった。
以前の自分は、危険な感情が出てくるたびに押し込めようとしていた。
殺したくなる。
強い相手をもっと追い詰めたくなる。
怯えた顔を見れば、さらにその先まで行きたくなる。
そんな自分は間違っていると思い、冷静でいようとするほど強く蓋をしてきた。
だが御厨子は、ずっとそれを笑っていた。
あれも自分だと。
認めた上で選べと。
「……無かったことにするのやめただけかな」
ウルキオラの目が僅かに動く。
「何をだ」
「俺の中にある、あんまり性格よくない部分」
「今さらだな」
朔夜は思わず眉を上げた。
「君に言われる?」
「少なくとも、戦っている間のお前は隠せていない」
「結構刺さるな、それ」
そう返しながらも、以前ほど嫌ではなかった。
図星だからこそ、受け入れられる。
その瞬間、胸の奥に残っていた乾いた熱が僅かに強くなった。
朔夜の表情が変わる。
ウルキオラも気づいたらしい。
「まただ」
「……うん」
「今度は隠さないのか」
「隠しても意味なさそうだから」
熱は強くなっている。
しかし、怒りに反応しているわけではない。
先ほどウルキオラを殺してもいいと思った時にも現れたが、それだけが条件ではない気がしていた。
むしろ。
自分の感情を押し込めず、それでも何をするかを自分で決めた時。
その瞬間に近づいてくる。
胸の奥で、御厨子が低く笑った。
『ようやく入口が見えたか』
朔夜は目を細める。
「入口って、何の?」
『自分で見ろ』
「またそれ?」
『卍解まで手を取って教えてやった覚えはない』
その言葉に、朔夜は一瞬だけ黙った。
確かにそうだった。
御厨子を具象化した時も。
伏魔御廚子を得るまでの修行も。
答えを与えられたことなど一度もない。
斬られ、叩き落とされ、何度も失敗しながら、自分で理解した。
卍解を得たからといって、御厨子の全てを知ったわけではない。
今さらながら、その当たり前のことを思い知らされる。
『力を得たことで、貴様は俺を理解したつもりになった』
御厨子の声には、いつもの嘲りが混じっていた。
『随分と傲慢ではないか』
「君にだけは言われたくないなぁ」
『それでいい』
短い返事。
そこで声は途切れた。
意識を現実へ戻した瞬間、ウルキオラが目の前にいた。
「しまっ――」
遅い。
斬魄刀が横薙ぎに振るわれる。
朔夜は御厨子を差し込み、直撃だけは防いだものの、衝撃を殺しきれず身体ごと壁へ叩きつけられた。
肺から息が押し出され、視界が一瞬白くなる。
「戦いの最中に意識を逸らすな」
「……今日は説教されてばっかりだな」
痛む身体を起こす。
ウルキオラは追撃してこなかった。
それが情けではないことくらい、もう分かっている。
見ているのだ。
朔夜がどこまで変わるのか。
その奥に何を隠しているのか。
藍染へ持ち帰るために。
そう思った瞬間、少し腹が立った。
「ねえ、ウルキオラ」
「何だ」
「一つだけ訂正していい?」
朔夜は壁から身体を離した。
「君ら、俺のこと知ったつもりになりすぎ」
ウルキオラは何も答えない。
朔夜はゆっくり御厨子を持ち上げる。
「解も捌も知ってる。身体の動きと斬撃を切り離してることも知ってる。俺が仲間を気にすると動きが変わることも、たぶん藍染には伝わってる」
「事実だ」
「うん。でもさ」
朔夜はそこで一度だけ笑った。
冷たい笑みではない。
どこか吹っ切れたような表情だった。
「俺自身がまだ知らないものまで、君らが知ってるわけないでしょ」
次の瞬間、解が走った。
正面。
一つだけ。
ウルキオラは難なくかわす。
だが朔夜は続けなかった。
斬撃を大量に重ねるのではなく、ウルキオラが避けた先へ自ら踏み込む。
刀がぶつかる。
すぐ離れる。
再び解。
今度は右。
ウルキオラが左へ動く。
朔夜はそこへ行かない。
逆に一歩引いた。
その判断に、ウルキオラがほんの僅かに遅れる。
今までの朔夜なら、移動先を狙っていたからだ。
その一瞬だけで十分だった。
何の予備動作もなく、ウルキオラの足元へ解が入る。
床が崩れ、体勢が沈む。
朔夜が距離を詰めた。
左手が肩へ触れる。
「捌」
硬皮と霊圧に合わせて斬撃が走る。
深く入る。
しかし致命傷になる直前で、朔夜は止めた。
ウルキオラの拳が飛んでくる。
今度は見えている。
顔を逸らしてかわし、そのまま距離を取った。
「……」
ウルキオラが肩へ手を当てる。
指に血がつく。
朔夜は息を整えながら、それを見ていた。
楽しい。
強い相手に自分の読みが通ったことが、確かに嬉しい。
それを認めても、もう罪悪感は湧かなかった。
だからといって、殺す必要もない。
ただそれだけだった。
その感覚に応じるように、胸の奥の熱がまた強くなる。
今度は一瞬ではない。
周囲の空気が、ほんの僅かに乾いた。
朔夜の額から流れた汗が、頬へ落ちる前に妙に早く乾いていく。
「……近い」
自分でも無意識に呟いていた。
ウルキオラが聞き逃さない。
「何がだ」
「入口」
「何の?」
朔夜は答えられなかった。
まだ分からない。
名前も。
形も。
どう使うのかも。
それでも、確かに近づいている。
精神の奥。
あの祭壇よりさらに深い場所に、閉じた何かがある。
伏魔御廚子を得た時には見えなかったもの。
いや。
御厨子の言葉を信じるなら、見ようとしていなかったもの。
朔夜は小さく息を吐いた。
「まだ開ける気はないよ」
ウルキオラが刀を構える。
「なら俺が開かせる」
「ほんと、それ好きだね」
指先に薄緑色の光が集まり始めた。
虚閃。
だが朔夜は今度、それだけを見なかった。
ウルキオラの視線。
身体の向き。
後ろにある通路。
こちらが避ければ何が壊れるのか。
一つずつ確認する。
以前なら、全部守ろうとした。
今は違う。
守る必要のあるものだけ選ぶ。
「そこなら大丈夫か」
「何?」
薄緑色の虚閃が放たれる。
朔夜は真正面から立ち向かわず、大きく横へ跳んだ。
閃光が白い壁を貫き、轟音と共に通路の一部が崩れる。
ウルキオラの目が僅かに動く。
「防がないのか」
「その向こう、誰もいないから」
「通路が壊れる」
「別の道探せばいい」
朔夜は着地すると、御厨子を構え直した。
「全部守るの、やめたんだ」
その言葉を口にした瞬間だった。
乾いた熱が、一気に胸の奥へ集まった。
朔夜の呼吸が止まる。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
内側にある何かの輪郭へ触れた。
炎。
そう呼ぶにはまだ遠い。
だが、確かに「熱」ではなく、その先にあるものだった。
御厨子の声が静かに響く。
『そこだ』
朔夜の目が見開かれる。
『ようやく入口に立ったな』
次の瞬間には感覚が消えた。
いや。
消えたのではない。
位置が分かった。
そんな感覚だった。
朔夜は御厨子を見下ろす。
「……なるほど」
「何が分かった」
ウルキオラが問う。
朔夜は顔を上げた。
「まだ秘密」
「なら、次で吐かせる」
「怖いなぁ」
口ではそう言いながらも、表情は落ち着いていた。
力を増やしたわけではない。
新しい技を使えるようになったわけでもない。
それでも、今まで曖昧だったものが一つだけはっきりした。
入口は、力を欲しがった先にあるのではない。
自分の中にあるものを否定せず、そのうえで何を使い、何を使わないかを自分で選んだ先にある。
朔夜は御厨子を握る。
まだ開かない。
今は、それでいい。
ウルキオラが響転で消える。
朔夜も同時に動いた。
今度は、乾いた熱に引っ張られることなく。
自分の意思で。
朔夜は「乾いた熱」へ繋がる入口の位置を、ようやく掴みました。
まだ開く段階ではありません。
次回――
第88話「選ぶ力」