しかし、力へ近づいたからこそ、何を使うかを自分で選ばなければなりません。
ウルキオラの姿が消えた。
朔夜は反射的に周囲へ解を撒くことはせず、御厨子を握ったまま僅かに重心を落とす。速さで追いかけても勝てないことは、ここまでの戦いで嫌というほど理解していた。
だから、待った。
背後で空気が僅かに揺れる。
朔夜が身体を沈めた直後、頭上をウルキオラの刃が通り過ぎた。振り返りざまに御厨子を合わせると、二本の刀が激突し、白い廊下へ甲高い音が響く。
押し合わない。
朔夜はすぐに刀身を滑らせ、力の向きを外した。
ウルキオラも追わず、一度距離を取る。
「先ほどまでと違うな」
「そう?」
「俺が動く前に斬撃を置かなくなった」
朔夜は答えながら、自分でもその変化を感じていた。
少し前までは、ウルキオラの移動先を読み、その場所を解で潰そうとしていた。間違った戦い方ではないが、相手が速くなればなるほど、こちらも多くの場所を斬らなければならなくなる。
結果として、自分から選択肢を増やしすぎていた。
「全部塞がなくてもいいって分かっただけだよ」
「何?」
「君が来たところで対処すればいい」
「遅ければ死ぬぞ」
「そこは頑張る」
ウルキオラの目が僅かに細くなる。
次に動いた時、その速さはさらに上がっていた。
右から来ると見えた瞬間には左へ回られ、朔夜は辛うじて御厨子を差し込む。衝撃が傷んだ肩へ響き、歯を食いしばったところへ、ウルキオラの蹴りが脇腹を狙う。
完全には避けられない。
なら、受ける場所を選ぶ。
朔夜は身体を捻り、傷の浅い側へ蹴りを受けながら自分から後ろへ飛んだ。
痛みはある。
それでも、先ほどまでのように壁へ叩きつけられるよりはずっといい。
着地した瞬間、朔夜は腕を振らずに解を放った。
ウルキオラの頬を見えない斬撃が掠め、白い皮膚へ細い線が走る。
血が一滴だけ落ちた。
「……今のは避けられなかったか」
「予備動作がなかった」
「元々、解にはいらないからね」
空座町で試していた、身体の動きに斬撃の向きを縛られない使い方。
それは便利だった。
だが便利だからといって、それだけを使えば、やがて相手は「身体が動いた時に何かが来る」と学習する。
御厨子との対話を経て思い出したのは、新しい技ではなかった。
元々持っていた自由さだ。
身体を動かすこともできる。
動かさないこともできる。
右へ動きながら左を斬ることも、何もせず正面を斬ることもできる。
どれか一つを正解にする必要などなかった。
「面倒だな」
ウルキオラが呟く。
「君に言われると嬉しいんだけど」
「褒めてはいない」
「知ってる」
朔夜は少し笑った。
その笑みには、以前のように強い相手を前にした危うさも僅かに混じっている。
それを自覚しても、もう消そうとは思わなかった。
楽しい。
ウルキオラほどの相手に自分の斬撃が届き、相手がこちらの戦い方を読み直していることが、確かに楽しい。
だからこそ。
ここで続けたくなる。
もっと試したいと思う。
胸の奥に残る乾いた熱も、その感情に応えるようにゆっくりと広がっていた。
『開くか?』
御厨子の声が響く。
これまでとは違った。
止めるのでも、嘲るのでもない。
ただ、朔夜へ選択を委ねる声だった。
少し前の自分なら、どうしただろう。
力があるなら使ったかもしれない。
強い相手を前にして、どこまで通用するのか確かめたいという欲に従ったかもしれない。
朔夜は胸の奥にある熱へ意識を向けた。
入口の位置はもう分かる。
手を伸ばせば届く。
その先に何があるのかも、以前よりはっきり感じられる。
それでも朔夜は、小さく息を吐いた。
「……開けない」
『何故だ』
「必要ないから」
御厨子が黙る。
朔夜自身、その答えが驚くほど自然に出たことに少し驚いていた。
使えないのではない。
怖いから避けるのでもない。
今は必要がない。
それだけだった。
『クク……』
やがて御厨子が愉快そうに笑う。
『ようやく、力を前にして欲しがるだけの小僧ではなくなったか』
「昔の話を持ち出すの好きだね」
『事実だ』
意識を現実へ戻す。
ウルキオラはじっと朔夜を見ていた。
「使わないのか」
どうやら霊圧の変化で察したらしい。
「うん」
「何故だ」
「君まで同じこと聞くんだ」
朔夜は苦笑した。
「必要ないから」
ウルキオラの表情は変わらない。
「俺に勝てると判断したのか」
「違うよ」
朔夜は御厨子を下げなかったまま、遠くの霊圧へ意識を向けた。
石田とペッシェは移動している。
一護と井上の霊圧も、まだ離れた場所に感じられた。
どちらも戦闘で立ち止まっている様子はない。
少なくとも今、自分がウルキオラを倒さなければ誰かが死ぬ状況ではなかった。
「そもそも、君に勝つ必要がない」
「またそれか」
「何回でも言うよ」
朔夜は少し肩を竦める。
その動きだけで傷が痛み、すぐに顔をしかめた。
「俺は帰りたいんだ。君と決着をつけたいわけじゃない」
「俺が行かせないと言えば?」
「どうやって抜けるか考える」
「俺を殺した方が早い」
一瞬だけ、朔夜は黙った。
その考え方自体は理解できる。
昔の自分なら、同じことを言っただろう。
邪魔なら斬ればいい。
二度と追ってこないように殺してしまえば、その後は楽になる。
単純で、効率がいい。
「そうかもしれないね」
朔夜は否定しなかった。
「でも俺は、今そうしたくない」
「非合理的だ」
「人間ってそういうところあるんじゃない?」
「お前は死神だろう」
「細かいなぁ」
思わず笑った。
ウルキオラは理解できないものを見るように朔夜を見つめ、それ以上は何も言わなかった。
代わりに左手を上げる。
指先へ薄緑色の光が集まり始めた。
朔夜は反射的に周囲を見る。
背後に仲間はいない。
その先の通路も、現在の一護たちの位置とは繋がっていない。
なら、守る必要はない。
薄緑色の虚閃が放たれる。
朔夜は迷わず横へ走った。
虚閃が先ほどまで立っていた場所を飲み込み、そのまま白い壁を貫いて奥まで破壊していく。
爆風が背中を叩いたが、解で防ぐこともしなかった。
「また防がないか」
「そこ、壊れて困る?」
「俺は困らん」
「俺も困らない」
ウルキオラの目が僅かに動いた。
以前の朔夜なら、あの虚閃さえ御厨子で何とかしようとしたかもしれない。
壊れる。
なら守る。
危険がある。
なら全部取り除く。
そうやって、自分の力でどうにかできるもの全てへ手を伸ばそうとしていた。
だが、今は違う。
必要なものだけ守ればいい。
朔夜は虚閃によって開いた巨大な穴を見た。
その向こうに、別の通路が露出している。
そして。
薄く。
だが間違いなく。
霊子標識の反応があった。
「……あ」
朔夜の目が細くなる。
ウルキオラも視線を向ける。
本来なら虚夜宮の壁に隠されていた通路。
先ほどの虚閃が、その壁をまとめて吹き飛ばしたことで偶然露出したらしい。
標識は、自分たちが虚夜宮へ入ってきた時に残したものの一つだった。
つまり。
「あっち、帰り道に繋がってる」
ウルキオラが朔夜を見る。
「偶然だな」
「君が開けてくれたんだけど」
「……」
「ありがとう」
「礼を言われる筋合いはない」
朔夜は本当に少し嬉しくなった。
これまで何度も道を変えられ、標識も利用され、防衛機構に分断された。
ようやく一つ、確かな帰路へ繋がる手掛かりを見つけたのだ。
ただし。
その通路へ向かうには、ウルキオラの横を通らなければならない。
「さて」
朔夜は御厨子を握り直した。
「そこだけ退いてくれる?」
「断る」
「だよね」
今度は朔夜から動いた。
ウルキオラの真正面へ踏み込む。
先ほどまでなら、解で移動先を削りながら距離を詰めただろう。
だが今は余計なことをしない。
御厨子が斬魄刀とぶつかる。
接触した瞬間、ウルキオラが捌を警戒して刃を引こうとする。
朔夜は使わなかった。
代わりに一歩深く入る。
ウルキオラもすぐに対応し、拳を振るう。
朔夜は頬を掠めさせながら、その腕へ自分の手を添えた。
触れた。
今度こそ。
「捌」
ウルキオラの硬皮と霊圧へ合わせて斬撃が走る。
腕へ深い切創が開いた。
だが朔夜は、斬り落とせるところまで威力を上げなかった。
必要なのは、腕を奪うことではない。
ほんの一瞬。
ウルキオラが傷へ意識を向ける時間だけだ。
朔夜はその脇を抜ける。
「――!」
ウルキオラが振り返る。
朔夜はすでに開いた通路へ向けて走っていた。
「待て」
「待たないって何回目だっけ?」
響転の気配。
追ってくる。
当然だ。
朔夜は振り返らず、進行方向にある扉を見る。
分厚い扉。
鍵の構造を感じ取る。
わざわざ壊す必要はない。
遠くにある内部の接続だけを解で切った。
扉が重い音を立てながら開く。
その向こうから、よりはっきりと標識の反応が届いた。
そしてもう一つ。
石田の霊圧。
近い。
「……追いつける」
胸に安堵が広がった。
その感情に引かれるように足が速くなる。
だが、背後のウルキオラはさらに速かった。
すぐ後ろまで霊圧が迫る。
朔夜は走ったまま、何の予備動作もなく背後へ解を放った。
ウルキオラが横へかわす。
それで十分。
僅かに距離が開く。
さらに走る。
もう一度解を使う。
今度は相手ではなく、自分の前方にある扉の留め具。
開く。
止まらない。
攻撃のためではなく、進むために御厨子を使う。
その感覚が、今までになく自然だった。
「逃げるだけか」
背後からウルキオラの声が届く。
朔夜は走りながら答えた。
「帰るために必要ならね」
「強者を前に背を向けるのか」
その言葉に、一瞬だけ昔の自分が反応した。
強い相手に背を向ける。
逃げる。
かつての朔夜なら、それを敗北と感じたかもしれない。
だが今は。
「向きくらい、目的に合わせて変えるよ」
笑って答えられた。
その時、胸の奥の乾いた熱がもう一度揺れた。
だが先ほどまでとは違う。
強く戦いたいからではない。
怒りでもない。
自分で決めた道を進んだことへ応えるような、静かな熱だった。
『それでいい』
御厨子の声が響く。
朔夜は少し驚いた。
「珍しく素直に褒めるね」
『勘違いするな』
「はいはい」
前方。
曲がり角の向こうから、人の気配がする。
弓を構えるような霊圧。
聞き覚えのある声も届いた。
「……御門さん?」
石田。
朔夜の顔に、自然と笑みが浮かぶ。
「石田!」
角を曲がる。
傷だらけの石田と、隣で大袈裟に手を振るペッシェの姿が見えた。
「サクヤ殿! 生きてたっす!」
「その言い方やめてくれる?」
「後ろ!」
石田の声で、朔夜はすぐに表情を変えた。
ウルキオラの霊圧は消えていない。
合流できたからといって、終わったわけではない。
それでも。
今度は一人ではなかった。
朔夜は石田の隣まで走ると、息を整えながら御厨子を握り直した。
「ごめん。ちょっと追われてる」
石田が眼鏡の位置を直し、呆れたようにこちらを見る。
「ちょっと、で済む相手には見えませんが」
「俺もそう思う」
その返事に、石田はため息を吐いた。
だが弓を下ろさない。
朔夜も前を見る。
白い通路の先から、ウルキオラが静かに歩いてくる。
朔夜はその姿を見ながら、不思議と先ほどまでとは違う感覚を覚えていた。
乾いた熱の入口を知った。
それでも使わなかった。
ウルキオラを殺せるところまで斬らなかった。
壊しても構わない場所は守らなかった。
そして、強い相手へ背を向けて仲間のところへ戻ってきた。
どれも少し前の自分なら、もっと迷っていたかもしれない。
力とは、使うことだけではない。
使わないことも。
任せることも。
退くことも。
自分で決められるのなら、それもまた力なのだと、今なら少しだけ分かる。
朔夜は隣に立つ石田を見て、それから前方のウルキオラへ視線を戻した。
ここからどうするか。
また選べばいい。
今度は、一人で決める必要もなかった。
朔夜は乾いた熱を感じながらも、今は使わないことを選びました。
そして偶然開いた帰路を辿り、石田と再び合流します。
次回――
第89話「合流」