その先には、一護と井上たちの霊圧が待っていました。
白い通路を駆け抜けながら、朔夜は前方から届く霊圧が少しずつ近づいてくるのを感じていた。
一護がいる。井上もいる。ネルとドンドチャッカの騒がしい霊圧まで分かるようになったことで、胸の奥に張りついていた緊張がようやく少しだけ緩んだ。
「もうすぐです」
隣を走る石田も同じものを感じ取ったらしい。
「うん。でも後ろも近い」
振り返らなくても分かる。
ウルキオラは追ってきている。
先ほど作った僅かな隙は、もうほとんど残っていなかった。
「できれば合流した瞬間くらい休ませてほしいな」
「敵に期待することではありません」
「石田って時々容赦ないよね」
「あなたが呑気すぎるんです」
そんなやり取りをしながら角を曲がった瞬間、前方に人影が見えた。
最初にこちらへ気づいたのは一護だった。
「朔夜!」
その声に、井上が勢いよく振り返る。
朔夜の姿を見つけた途端、彼女の表情が大きく揺れた。
安堵したように見えたのはほんの一瞬で、その直後には朔夜の傷だらけの姿へ視線が移り、笑いかけていた口元が止まる。
「朔夜さん……」
「ただいま」
いつもの調子で言ったつもりだったが、井上は笑わなかった。
肩から胸にかけて裂けた衣服や乾ききっていない血を見れば、それも当然だった。
「無事に戻ってきてって……言ったのに」
責めるような声ではない。
むしろ、自分がそう願ったことで朔夜を戦わせてしまったのではないかと、また考え始めているように見えた。
朔夜は歩み寄りながら、少し困ったように笑う。
「まだ戻ってる途中だから、約束破ったことにはならないでしょ」
「そういう意味じゃ……」
「大丈夫」
今度は軽く誤魔化さなかった。
井上の目を見て、はっきりと言う。
「ちゃんと帰るよ」
井上は何か言おうとして、それを飲み込むと小さく頷いた。
「……はい」
その横では、一護が朔夜の傷を見て露骨に顔をしかめていた。
「お前、それで大丈夫とか言ってんのかよ」
「一護にだけは言われたくないなぁ」
「俺はまだそんなボロボロじゃねぇ!」
「これからなる予定?」
「縁起でもねぇこと言うな!」
ネルが二人の間から顔を出し、朔夜をじっと見上げる。
「サクヤのヤツ、イツゴのヤツより弱そうになってるっす」
「ネル、それ結構傷つくよ」
「本当のことなのら」
後ろから追いついたペッシェとドンドチャッカまで騒ぎ始め、張り詰めていた空気がほんの僅かに和らいだ。
その光景を見ながら、朔夜はようやく実感する。
戻ってこられた。
少なくとも、ここまでは。
だが安堵へ浸る時間は長くなかった。
石田が静かに振り返る。
「来ます」
その一言で、全員の表情が変わった。
廊下の奥から近づく霊圧。
井上の肩が強張る。
一護はそれに気づくと、何も言わず斬月へ手を掛けた。
やがて白い通路の向こうから、ウルキオラが姿を現す。
走って追いかけてきた様子はない。それでも、朔夜たちがどれだけ先へ進んでも、最後にはこうして追いついてくる。
ウルキオラは集まった面々を順番に見た後、井上へ視線を止めた。
「随分集まったな」
「君のおかげでね」
朔夜が返すと、一護が横から睨む。
「何でちょっと仲良さそうなんだよ」
「長いこと追いかけっこしてたから」
「していない」
ウルキオラ本人から即座に否定され、一護は余計に怪訝そうな顔をした。
石田が額へ手を当てる。
「緊張感をなくすのはやめてもらえますか」
「ごめん」
朔夜は小さく息を吐いてから、改めて周囲へ意識を広げた。
この場にいるのは、一護、井上、石田、それにネルたち。
足りない。
「茶渡は?」
一護の顔から僅かに表情が消える。
「まだ合流できてねぇ。ただ、霊圧は感じる」
朔夜も探る。
遠い。
だが確かにある。
最初に門番の前へ残った時より弱ってはいるものの、消えてはいない。
そのことに安心した直後、朔夜は自分の考えが以前とは違っていることに気づいた。
すぐに自分が迎えに行かなければ、とは思わなかった。
茶渡は戦っている。
一護が信じているのなら、自分も信じていい。
ただし、このまま虚夜宮の奥へ置いて帰るつもりもない。
「茶渡と合流して、それから帰ろう」
一護がすぐに頷く。
「最初からそのつもりだ」
石田も異論はないようだった。
問題は、目の前のウルキオラをどう抜けるか。
朔夜が一人で残るという選択は、もう考えなかった。
代わりに石田を見ると、石田もこちらを見ている。
言葉にする前に、一護が口を開いた。
「俺が正面から行く」
朔夜は反射的に止めかけたが、その言葉を飲み込んだ。
一護なら無茶をする。
だから任せられない。
そう決めつけるのは簡単だ。
だが今、自分が一人で残るのと何が違うのか。
「どれくらい?」
朔夜が聞くと、一護は少し意外そうにこちらを見た。
「何がだよ」
「時間。何秒欲しい?」
一護の口元が上がった。
「お前らが道作るまで」
「曖昧だなぁ」
「じゃあ早く作れ」
いつもの一護だった。
朔夜も笑う。
「分かった」
石田がすぐに状況を理解した。
「僕はウルキオラの移動方向を制限します。御門さんは道を開けてください」
「じゃあ俺があいつを正面から押さえる」
一護が斬月を抜く。
井上が不安そうに三人を見る。
以前なら、そこで「私のせいで」と思考が止まっていたかもしれない。
だが彼女は一度目を閉じ、息を整えると、自分から口を開いた。
「私もやる」
一護が振り返る。
「井上?」
「守られてるだけでいるのは嫌だから」
声にはまだ怖さが残っている。
ウルキオラを見る目も完全には震えを失っていない。
それでも井上は逃げずに両手を胸元へ構えた。
「私にできること、あるよね?」
一護は数秒だけ井上を見ていたが、やがて頷いた。
「ああ。頼む」
その返事を聞いた井上の顔から、僅かに緊張が抜ける。
朔夜は何も言わなかった。
言わなくても十分だった。
ウルキオラが静かに斬魄刀を抜く。
「相談は終わったか」
「待ってくれてありがとう」
「待ったつもりはない」
「それでも助かったよ」
朔夜が答えた直後、一護が飛び出した。
斬月が大きく振り下ろされ、ウルキオラの斬魄刀と激突する。
衝撃が廊下を震わせた。
一護の腕が押し返される。
それでも退かず、足を踏ん張って斬月を振り抜くと、ウルキオラも僅かに距離を取った。
その隙を石田は逃さない。
霊子の矢が左右から飛び、ウルキオラが自由に響転できる範囲を狭めていく。
朔夜は二人を見ながら、ウルキオラではなく前方の壁へ意識を向けた。
その奥に、霊子標識の反応がある。
帰路へ繋がる道だ。
壁そのものを大きく崩す必要はない。
内部を通る支えと接続だけを探し、解で切り離していく。
見えない斬撃が壁の内側へ走り、低い音と共に一部がずれ始めた。
「もう少し……」
その時、一護が弾き飛ばされた。
身体が床を滑る。
「一護!」
井上が声を上げる。
だが一護はすぐに起き上がった。
「まだだ!」
斬月を振り上げる。
「月牙天衝!」
青白い斬撃が廊下を駆け抜ける。
ウルキオラは正面から受けず、響転で横へ抜けた。
そこには石田の矢が待っている。
回避する。
さらに一護が詰める。
三人の動きが完全に噛み合っているわけではない。
それでも、誰か一人が全てを背負うよりずっと多くの選択肢が生まれていた。
ウルキオラの目が僅かに細くなる。
次の瞬間、指先へ薄緑色の光が集まった。
「セロ!」
朔夜が叫ぶ。
狙いは一護ではない。
壁を開こうとしている朔夜。
そして、その背後の井上たちまで射線に入っている。
薄緑色の虚閃が放たれる。
避ければいい。
だが後ろには仲間がいる。
朔夜が解を使おうとした時、井上の声が先に響いた。
「三天結盾――私は拒絶する!」
朔夜たちの前に盾が展開される。
薄緑の閃光が真正面から衝突した。
激しい光と衝撃が辺りを飲み込み、井上の身体が僅かに後ろへ押される。
「井上!」
一護が振り返る。
「大丈夫!」
声は苦しそうだった。
盾も揺れている。
ウルキオラの虚閃を受け続けられるほど余裕はない。
それでも井上は退かなかった。
あの日。
自分がここに来れば、みんなは傷つかないと思った。
その結果、誰にも助けを求められず、一人で全てを背負おうとした。
今は違う。
一護が戦っている。
石田も。
朔夜も。
なら自分も、自分にできることをする。
「私だって……一緒に帰るんだから!」
その声を聞いた瞬間、朔夜の胸に強いものが込み上げた。
助けに来たつもりだった。
守るつもりだった。
だが井上も、自分たちを守ろうとしている。
一方的に守るだけの相手ではない。
「朔夜さん!」
井上の声に我に返る。
「今!」
「うん!」
朔夜は盾へ届いている虚閃そのものを無理に斬ろうとはしなかった。
代わりに、すでに切りかけていた壁の支えへ解を集中させる。
一つが外れ、さらにもう一つ。
最後の接続が切れた瞬間、白い壁が大きくずれ、その奥に通路が現れた。
標識の反応が一気に強くなる。
「開いた!」
石田が叫ぶ。
一護はウルキオラから距離を取り、井上の前へ戻った。
虚閃も途切れる。
井上の盾が消えた瞬間、膝が僅かに揺れた。
一護がすぐに支える。
「井上!」
「大丈夫……ちょっと、力入れすぎただけ」
「無茶すんなよ」
井上は息を整えながら、一護を見て苦笑した。
「黒崎くんに言われたくないよ」
「……それ、朔夜にも言われた」
「やっぱり?」
思わず二人が笑う。
短い時間だった。
それでも、その笑い声を聞いた朔夜の胸は少しだけ軽くなった。
「行こう」
今度は誰かへ命令するのではなく、全員へ向けて言った。
一護が井上を支え、石田がペッシェへ声を掛ける。ネルとドンドチャッカも続き、朔夜自身も最後尾ではなく、その中へ加わった。
開いた通路へ入る直前、ウルキオラがこちらを見ている。
追ってくるはずだ。
それでも朔夜は足を止めなかった。
今は戦う時ではない。
全員で茶渡へ辿り着く。
それが先だ。
通路へ入ってしばらくすると、今まで遠かった茶渡の霊圧が急にはっきりした。
一護が顔を上げる。
「茶渡!」
前方の角から、ゆっくりと大きな人影が現れる。
服は傷つき、身体にもいくつもの傷がある。
それでも、茶渡泰虎は自分の足で立っていた。
「一護」
低い声が響く。
その視線が井上へ移る。
ほんの僅かに、茶渡の表情が緩んだ。
「井上。無事だったか」
井上の目が再び潤む。
「茶渡くん……!」
一護は大きく息を吐き、斬月を肩へ担いだ。
「遅ぇぞ、茶渡」
「すまない」
「そこ謝るんだ」
朔夜が思わず口を挟むと、茶渡は朔夜の傷を見て静かに返した。
「朔夜も酷いな」
「今日そればっかり言われるんだけど」
「事実だからだろ」
今度は一護に言われた。
石田まで無言で頷いている。
「みんな厳しくない?」
井上が涙を拭いながら、ようやく笑った。
その笑顔を見て、朔夜も笑う。
井上を見つけた。
一護もいる。
石田も、茶渡もいる。
まだ虚夜宮の中で、背後にはウルキオラがいる。
何一つ終わってはいない。
それでも、ばらばらになっていた仲間が再び同じ場所へ集まった。
それだけで、今までとは違う。
朔夜は前方に続く通路と、背後から近づいてくる霊圧を感じながら御厨子を握り直した。
今度は誰か一人が残る必要はない。
帰るなら。
全員で帰る。
その選択を、ようやく本当の意味でできる気がした。
一護、井上、石田、茶渡、そして朔夜が再び合流しました。
今度は誰か一人が全てを背負うのではなく、全員で帰るために動きます。
次回――
第91話「帰還路」