今度は誰か一人ではなく、全員で現世へ帰るために動き出します。
茶渡と合流してから、朔夜たちは足を止めずに帰還路を進んでいた。
先頭には一護と石田、その少し後ろを井上と茶渡が進み、ネルたちも騒がしくついてくる。朔夜はいつものように最後尾へ回ろうとしたものの、数歩進んだところで井上に袖を掴まれた。
「朔夜さん、ちょっと待ってください」
「どうしたの?」
「どうしたの、じゃないです」
井上の視線は、朔夜の肩から胸へ続く傷に向けられていた。乾きかけた血の上から新しい血が滲んでおり、左肩にはウルキオラの虚閃が掠めた火傷まで残っている。
「歩けるから大丈夫だよ」
そう答えると、井上は困ったような顔をした。
以前なら、そこで引いていたかもしれない。自分が治療を申し出ることで足を止めさせ、また誰かを危険に晒すのではないかと考えてしまっただろう。
けれど今の井上は、朔夜から手を離さなかった。
「歩けることと、大丈夫なことは違います」
思ったより強い声だった。
朔夜が少し驚いていると、前を歩いていた一護が振り返る。
「井上の言う通りだ。お前、さっきから血増えてんぞ」
「一護にまで言われるとは……」
「いいから治してもらえ」
石田まで足を止め、眼鏡の位置を直しながらこちらを見る。
「ここまで全員に言われて拒否するなら、ただの意地です」
「石田まで厳しいなぁ」
「事実です」
茶渡も何も言わないまま、朔夜を見て静かに頷いた。
四人分の視線を受け、朔夜はしばらく黙っていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「……分かった。お願いします」
その言葉に、井上の表情が僅かに緩む。
「はい」
通路の脇へ寄り、井上が双天帰盾を展開すると、柔らかな光が朔夜の身体を包んだ。
完全に傷を消すには時間が掛かる。それでも、開いていた傷口がゆっくりと閉じ、流れ続けていた血が止まっていくだけでも身体はかなり楽になった。
朔夜は光の向こうにいる井上を見る。
「井上」
「はい?」
「ありがとう」
井上は一瞬きょとんとしてから、少しだけ笑った。
「どういたしまして」
それだけのやり取りだった。
けれど井上にとっては、妙に嬉しかった。
助けられるだけではない。
自分にも、誰かのためにできることがある。
虚圏へ来る前なら当たり前だったはずの感覚を、ここへ来てからずっと見失っていた。
一護がそんな井上の横顔を見ていたが、何も言わなかった。
ただ、少しだけ安心したように前を向く。
「それくらいでいいよ」
しばらくして朔夜が言うと、井上は眉を下げた。
「まだ全部治ってません」
「全部治そうとしたら時間掛かるでしょ。血が止まっただけで十分」
「でも……」
「また必要になったらお願いする」
以前の朔夜なら出なかった言葉だった。
井上もそれに気づいたのか、今度は反対しなかった。
「分かりました。でも、無茶したらすぐ言ってくださいね」
「努力します」
「努力じゃなくて――」
「朔夜、また始まるぞ」
一護に遮られ、朔夜は苦笑しながら歩き出した。
「最近みんな俺に厳しくない?」
「自業自得だ」
茶渡の低い声が返ってきて、一護が吹き出す。
朔夜は少し傷ついた顔をしながらも、どこか楽しそうだった。
張り詰め続けていた空気が、ようやく少しだけ仲間同士のものへ戻っていた。
もっとも、安心できる状況ではない。
ウルキオラの霊圧はまだ後方にある。
すぐに追いついてこないのが、かえって不気味だった。
石田も同じことを考えていたらしく、歩きながら小声で言う。
「追ってきませんね」
「いるけどね」
朔夜が振り返らずに答える。
「距離は?」
「少し開いたまま。止まってもない」
一護が眉を寄せる。
「何考えてやがる」
「分からない」
朔夜は素直に答えた。
以前なら、何か理由をつけてそれらしい答えを出そうとしたかもしれない。
だが今は、分からないものを分かったふりする方が危険だと知っている。
「ただ、俺たちを急いで捕まえる気がないのは確か」
石田が考え込む。
「それなら、追い詰める場所を決めている可能性もありますね」
「俺もそれが嫌なんだよね」
一護が舌打ちした。
「だったら、罠でも何でもぶっ壊して帰りゃいい」
「一護らしいけど、井上がいるから先に壊す前に確認ね」
「分かってるよ」
すぐに返されたことが少し意外で、朔夜は一護を見る。
尸魂界へ乗り込んだ頃なら、もっと真っ直ぐ突っ込んでいたかもしれない。
変わっているのは、自分だけではない。
そう思うと、不思議な気持ちになった。
しばらく進んだところで、霊子標識の反応が強くなる。
朔夜と石田が同時に足を止めた。
「近い」
「ええ。僕も分かります」
浦原から渡された標識。
虚夜宮へ入った直後に残したものの一つだ。
つまり、かなり入口に近づいている。
ドンドチャッカが両手を上げた。
「帰れるでヤンスか!?」
「まだ喜ぶのは早い」
石田が即座に釘を刺す。
ペッシェが肩を落とす。
「石田殿、夢がないっす」
「現実を言っているだけです」
「でも、かなり近いよ」
朔夜が壁の向こうへ意識を向ける。
標識は確かにある。
さらに、その先には虚夜宮へ入る時に感じた外側の霊子の流れまで僅かに混じっている。
一護が井上を見る。
「もう少しだな」
井上は頷いた。
「うん」
その声には、虚圏へ連れてこられた時とは違うものがあった。
帰りたいという願いだけではない。
帰れるかもしれないという希望。
その感情が、ようやく本人の中で現実味を持ち始めている。
朔夜はそれを壊したくなかった。
だからこそ、急がなかった。
標識だけを頼りに進まず、その先に不自然な霊圧がないか一つずつ確かめていく。
やがて前方に、大きな白い扉が現れた。
その向こうから標識の反応が届いている。
「この先だ」
一護が斬月へ手を掛ける。
「開けるぞ」
「待って」
朔夜が扉の前へ出た。
「まず中を見る」
「見えるのか?」
「扉そのものじゃなくて、内部の接続を探る」
御厨子を抜き、静かに意識を集中させる。
鍵は複数。
以前ならまとめて解で切っていただろう。
だが今回は、一本ずつ辿った。
不自然な接続。
霊圧を感知する仕組み。
さらに、その先にある別の流れ。
「……やっぱり仕掛けてる」
一護が顔をしかめる。
「罠か?」
「開けた瞬間、左右の壁が閉じるようになってる」
「面倒ですね」
石田が扉を見上げる。
「解除できますか」
「多分。でも――」
朔夜は言葉を止めた。
一つだけ。
罠とは別の反応がある。
微かだが、知っている霊圧。
「……浦原さん?」
一護が振り返る。
「浦原?」
「直接じゃない。標識に外から触ってる」
霊子標識が、一定の間隔で僅かに揺れていた。
偶然ではない。
何かの合図。
三度。
間を置いて二度。
そしてまた三度。
朔夜の口元が僅かに上がる。
「喜助さんだ」
「何て言ってんだよ」
「そこまでは分からないけど、少なくとも標識が生きてることは向こうも分かってる」
帰還地点として認識されている。
外から浦原が何かしようとしている。
それだけでも大きい。
井上の目が明るくなる。
「じゃあ、帰れますか?」
その問いに、朔夜はすぐ「帰れる」とは言わなかった。
期待だけで答えたくない。
それでも。
「帰れる可能性はかなり上がった」
井上は嬉しそうに頷いた。
一護も少し肩の力を抜く。
その時。
背後にあったウルキオラの霊圧が止まった。
朔夜の表情が変わる。
「……止まった」
石田が振り返る。
「どこで?」
「少し後ろ」
「追うのをやめた?」
「分からない」
だが、嫌な感じがした。
ウルキオラが諦めるとは思えない。
それでも近づかず、一定の場所で止まっている。
まるで。
「ここまで来るの、待ってたみたいだな」
一護の言葉に、朔夜も同じことを考えていた。
次の瞬間。
扉の向こう側から、低い振動が響いた。
標識の反応が一度大きく揺れる。
その直後、消えた。
「……え?」
井上の声が小さく漏れる。
朔夜はすぐに扉へ意識を向けた。
標識そのものが壊れたわけではない。
ただ、その向こうにあった霊子の流れが突然断たれている。
外へ続いていたはずの繋がりが、切られた。
一護が扉へ近づく。
「どうした」
「道が……」
朔夜の声が低くなる。
「向こう側から閉じられた」
しばらく、誰も言葉を出さなかった。
ようやく帰れると思った場所。
その直前で。
井上が握っていた手に力を込める。
また駄目なのか。
また自分のせいで。
そんな考えが浮かびかける。
けれど、その隣で一護が斬月を肩へ担いだ。
「じゃあ開けりゃいい」
井上が顔を上げる。
「黒崎くん……」
「ここまで来たんだろ」
一護は扉を見る。
「一回閉じられたくらいで帰るの諦める理由にならねぇよ」
石田も静かに頷く。
「まず仕組みを調べましょう。御門さん一人で考える必要はありません」
茶渡も扉へ近づく。
「力が必要なら、俺もやる」
朔夜は三人を見る。
そして少しだけ笑った。
「……そうだね」
以前なら、自分がどう斬れば開けられるかを真っ先に考えていた。
今は違う。
一護がいる。
石田がいる。
茶渡がいる。
井上もいる。
一人で解く必要などない。
「じゃあ、みんなで帰ろうか」
その言葉に井上も頷いた。
「はい」
遠くでは、ウルキオラの霊圧がまだ止まっている。
まるで、この先で何が起こるのかを知っているように。
朔夜はその不気味さを胸に残しながら、再び閉ざされた扉へ向き直った。
出口は目の前にある。
なら、今度こそ。
全員で開ければいい。
帰還地点へ辿り着いたものの、外へ続く道は直前で閉ざされました。
それでも今度は、一人で解決しようとはしません。
次回――
第92話「閉ざされた出口」