張りつめ続けていた時間が終わり、ようやく「帰ってきた」と実感する時が訪れます。
「おかえりなさい」
浦原喜助の声を聞いた瞬間、井上はしばらく何も言えなかった。
浦原商店地下の広い修行場。何度も見た岩肌も、少し湿った空気も、今までなら特別意識することなどなかったはずなのに、虚夜宮の白一色の景色を長く見た後では、何もかもが懐かしく感じられる。
本当に戻ってきた。
その実感が胸へ広がるほど、井上の目に涙が溜まっていった。
「浦原さん……」
浦原はいつもの笑みを浮かべていたが、全員の姿を見回す目は普段より真剣だった。
「黒崎サン、石田サン、茶渡サン、それから御門サン……随分派手にやられましたねぇ」
「帰ってきた直後にそれ言う?」
朔夜が苦笑すると、浦原は扇子を開く。
「事実確認ッスよ。特に御門サンは、一番余裕ありそうな顔して一番血まみれじゃないッスか」
「井上に治してもらったから、来る前よりは綺麗だよ」
「比較対象がおかしいんス」
その隣で夜一も腕を組み、朔夜を頭から足元まで眺めていた。
「相変わらず、加減を知らん男じゃのう」
「今回はかなり考えてたんだけど」
「考えた末にその有様なら、余計に問題じゃ」
言い返せずにいると、一護が横で吹き出した。
「やっぱ夜一さんにも言われんじゃねぇか」
「一護にだけは笑われたくないなぁ」
「何でだよ!」
いつもの言い合いが始まり、井上は涙を拭いながら小さく笑った。
この声も。
この空気も。
帰ってきたからこそ聞ける。
そう思っただけで、また涙が出そうになった。
その時、一護が井上を見る。
「井上?」
「え?」
「大丈夫か?」
「うん」
そう答えてから、井上は少し迷った。
大丈夫。
以前なら、それだけ言って終わらせていただろう。
誰かを心配させたくないから。
自分のことで、これ以上誰かを困らせたくないから。
けれど虚圏で、一人で抱え込まなくていいと言われたばかりだった。
井上は涙を隠さず、少し笑う。
「……嬉しくて泣いてるだけ」
一護は一瞬だけ意外そうな顔をしたが、すぐに「そっか」と頷いた。
それだけだった。
何も深く聞かれない。
だからこそ、井上は少しだけ楽になった。
「黒崎くん」
「ん?」
井上は胸元で手を握る。
まだ、言っておきたいことがあった。
「助けに来てくれて、ありがとう」
一護が黙る。
「茶渡くんも、石田くんも、朔夜さんも……本当にありがとう」
石田は眼鏡の位置を直しながら答えた。
「礼を言われるようなことではありません。僕たちが勝手に行っただけです」
「うん」
井上は頷いた。
「それも、分かった」
虚圏へ来る前なら、その言葉を聞いても「でも私のせいで」と続けていただろう。
今も罪悪感が完全に消えたわけではない。
傷だらけの仲間を見れば胸が痛むし、自分がここへ来なければと思ってしまう瞬間もある。
それでも、仲間が自分で選んだことまで自分の責任にしてしまうのは違うと、少しずつ思えるようになった。
「だから……ありがとうって言いたかったの」
茶渡が静かに頷く。
「井上が無事なら、それでいい」
「茶渡くん……」
「それに」
茶渡は一護を見る。
「一護なら、止めても行った」
「何で俺だけみたいに言うんだよ」
「事実だろう」
石田まで加わり、一護が不満そうな顔になる。
その様子を見て、井上は今度こそ声を出して笑った。
虚圏へ連れて行かれてから、こんなふうに笑ったのは初めてだった。
少し離れた場所では、別の騒ぎも起きている。
「ここがイツゴの家っすか!?」
「違ぇよ!」
ネルが目を輝かせながら修行場を走り回り、その後ろをペッシェとドンドチャッカが追いかけていた。
「ネル様、危ないっす!」
「待つでヤンス〜!」
浦原は三人を見て、扇子の向こうから目だけを覗かせる。
「ところで黒崎サン」
「何だよ」
「何で破面が三人増えてるんスか?」
「俺に聞くな!」
ネルが聞きつけ、浦原の前まで走ってくる。
「ネルはネル・トゥなのら!」
「これはこれは、ご丁寧にどうも」
「ネル様っす!」
「ネル様でヤンス!」
「お二人は少し黙っていただけます?」
浦原の笑顔が僅かに引きつっている。
夜一はその横で楽しそうに笑っていた。
「喜助、お主の店は昔から妙なのが集まるのう」
「夜一サンもその一人でしょう」
「わしを一緒にするでない」
「十分一緒だと思うけど」
朔夜が口を挟んだ瞬間、夜一の視線がこちらへ向いた。
笑っていた目が、ほんの僅かに鋭くなる。
「朔夜」
「何?」
「こっちへ来い」
嫌な予感がした。
「今じゃないと駄目?」
「今じゃ」
有無を言わせない声に、朔夜は諦めて夜一のところへ向かった。
浦原も三人の破面を一護へ押しつけるようにして、こちらへ来る。
「ちょっ、浦原!」
「黒崎サン、ちょーっとお願いします」
「何をだよ!」
「ネルと遊ぶっす!」
「今!?」
背後の騒ぎを聞きながら、朔夜は夜一と浦原の前に立った。
夜一は何も言わず、朔夜の手首を取る。
霊圧を確かめているらしい。
しばらくすると、その眉が僅かに寄った。
浦原も同じものを感じ取ったのか、いつもの軽い笑みを少しだけ引っ込めた。
「……何したんスか?」
「ウルキオラと戦った」
「それは見れば想像つきます」
浦原は朔夜の顔を見る。
「アタシが聞いてるのは、もっと奥の話ッス」
朔夜は黙った。
あの乾いた熱。
虚夜宮で何度も感じ、最後には位置まで掴んだもの。
まだ開いてはいない。
名前さえ御厨子から教えられていない。
けれど、確実に何かが変わった。
「ちょっとだけ、御厨子の奥が見えた」
夜一の目が細くなる。
「奥?」
「卍解とは別だよ」
その言葉に、浦原が反応する。
「別……ですか」
「うん。俺もまだよく分かってない」
朔夜は自分の手を見る。
現世へ戻ってから、乾いた熱はかなり遠のいている。
それでも完全に消えたわけではない。
目を閉じれば、精神の奥にある入口の位置だけは分かる。
「熱かった」
「熱?」
夜一が聞き返す。
「燃えてる感じじゃないんだけど……乾いた熱っていうのかな。御厨子は『入口』って呼んでた」
浦原と夜一が一瞬だけ視線を交わした。
朔夜はそれを見逃さない。
「何?」
「いやぁ」
浦原は帽子を少し下げた。
「今の段階じゃ何とも言えませんねぇ」
「本当に?」
「本当ッスよ。御門サンの斬魄刀について、アタシたちが本人以上に知ってるわけじゃありませんから」
その言葉に、朔夜は虚圏でウルキオラへ言ったことを思い出した。
自分自身がまだ知らないものまで、藍染たちが知っているわけではない。
同じことなのだろう。
夜一が朔夜の手首を離す。
「で、お主は使ったのか?」
「使ってない」
「使えなかったのではなく?」
「うん」
朔夜は少し考えてから続ける。
「途中で開けられそうな感覚はあった。でも、必要ないと思ったからやめた」
夜一はしばらく朔夜を見つめていた。
昔の朔夜なら。
未知の力へ手が届くと分かれば、試していただろう。
強い相手を前にしているなら、なおさら。
それを知っているからこそ、夜一の口元に僅かな笑みが浮かんだ。
「そうか」
たった一言だった。
だが朔夜には、その意味が何となく分かった。
「褒めてる?」
「調子に乗るな」
「やっぱり夜一さんだ」
朔夜が笑う。
浦原も肩を竦めた。
「ただし、御門サン」
「ん?」
「分からないものを一人で試すのはなしッスよ」
「……」
「今、間がありましたね?」
「気のせい」
「嘘じゃな」
夜一まで加わる。
朔夜は二人の視線に耐えきれず、目を逸らした。
「分かったよ。何かやる時は言う」
「絶対ッスよ?」
「多分」
「朔夜」
「はい。言います」
夜一に名前だけ呼ばれ、即座に訂正する。
以前なら、このやり取りを窮屈だと思っていたかもしれない。
今は少し違う。
自分が一人で決めなくていいというのは、こういうことでもあるのだろう。
朔夜が皆の方へ戻ると、井上がこちらへ歩いてきた。
「何のお話だったんですか?」
「怒られてた」
「また?」
「またって言わないで」
井上が笑う。
その顔を見ながら、朔夜は少し迷った後に尋ねた。
「井上」
「はい?」
「帰ってきた感じ、する?」
井上は周囲を見る。
一護はネルに絡まれ、石田はペッシェに何か言われて露骨に嫌そうな顔をしている。茶渡はドンドチャッカに話しかけられながらも、いつもの無表情で律儀に相手をしていた。
その向こうでは浦原と夜一がいる。
見慣れた場所。
見慣れた仲間。
井上は少しだけ考え、それから頷いた。
「さっきまでは、まだ夢みたいでした」
「今は?」
「今は……」
一護の声が響く。
「ネル! 俺の頭に乗るな!」
「イツゴのヤツ、遅いっす!」
井上がまた笑う。
「帰ってきたんだなって思います」
朔夜も同じ方向を見る。
「そっか」
井上は一度息を吸い、少し照れたように笑った。
「ただいま、ですね」
その言葉に、朔夜は一瞬だけ目を細めた。
「うん」
虚圏で何度も帰ると口にした。
戦う理由にもした。
それでも、この言葉を言えるところまで戻ってくると、思っていた以上に胸へ響く。
「おかえり、井上」
井上は嬉しそうに頷いた。
「はい」
少し間を置いて、今度は井上が言う。
「朔夜さんも、おかえりなさい」
朔夜は返事をしようとして、ほんの僅かに言葉を詰まらせた。
誰かに「おかえり」と言われることが、こんなにも安心するものだっただろうか。
「……ただいま」
今度は、自然に言えた。
戦いは終わっていない。
藍染はまだ虚圏にいる。
ウルキオラも、グリムジョーも、他の破面たちも残っている。
そして、朔夜自身の中には新しい入口まで見つかってしまった。
これから先、もっと大きな戦いが待っている。
それでも今だけは。
帰ってきたことを喜んでもいい。
朔夜は騒がしい仲間たちの中へ戻りながら、ようやくそう思えた。
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後書き
虚圏から戻り、ようやく日常の空気へ触れた一護たち。
井上も朔夜も、それぞれの「ただいま」を口にすることができました。
次回――
第95話「帰還のあと」
虚圏から戻り、ようやく日常の空気へ触れた一護たち。
井上も朔夜も、それぞれの「ただいま」を口にすることができました。
次回――
第95話「帰還のあと」