井上を救出し、現世へ戻った一護たち。
しかし、虚圏で得たものは安堵だけではありませんでした。
浦原商店の地下修行場には、帰還直後とは違う静けさが戻っていた。
傷の手当てが一通り終わり、ネルたちも別室へ移ったことで、残っているのは一護、井上、石田、茶渡、朔夜、そして浦原と夜一だけだった。
それでも、誰もすぐに帰ろうとはしなかった。
虚圏から戻ってきたこと自体は嬉しい。井上も無事で、全員が生きてここにいる。それなのに、あの白い廊下で感じていた緊張が完全には抜けていなかった。
朔夜は壁際に座り、井上に治してもらった肩をゆっくり回す。
傷はかなり塞がっているものの、身体を動かせばまだ痛みが残っていた。
向かいに座る一護も、ずっと難しい顔をしている。
浦原はそんな全員を見回すと、広げていた扇子を閉じた。
「さて。皆サン疲れてるところ申し訳ないんスけど、少しだけ話しておきましょうか」
一護が顔を上げる。
「藍染のことか?」
「それもあります」
浦原は視線を井上へ向けた。
責めるような目ではない。
それでも、自分が話の中心になると分かっただけで、井上の指が膝の上で僅かに強張った。
「井上サン。向こうで言われたことを、もう一度聞かせてもらってもいいッスか?」
井上は少し迷った後、頷いた。
「はい」
ウルキオラが現れたこと。
十二時間だけ時間を与えられたこと。
誰かに助けを求めれば、仲間が殺されると思わされたこと。
そして、霊圧を隠すための腕輪を渡されたこと。
途中で何度か声が震えたが、井上は最後まで自分の言葉で話した。
一護は口を挟まなかった。
石田も茶渡も、ただ静かに聞いている。
朔夜も同じだった。
話を聞くうちに、虚圏で感じていた違和感が少しずつ形になっていく。
井上を連れ去るだけなら、あまりにも回りくどい。
時間を与え、別れを許し、霊圧まで隠した。
それだけではない。
自分たちが虚圏へ入ってからも、すぐに総力で潰しには来なかった。
「喜助さん」
朔夜が口を開く。
「藍染って、最初から俺たちが井上を追って虚圏へ来ることも考えてたと思う?」
浦原はすぐには答えなかった。
扇子の先で自分の肩を軽く叩きながら、少し考える。
「可能性は高いと思います。ただし、全部が予定通りだったとは言い切れません」
石田が眉を寄せる。
「どういう意味です?」
「藍染サンが皆サンの侵入を想定していたとしても、虚夜宮で起きたこと全部を最初から決めていた、とは限らないってことッス。実際、御門サンが戦った破面たちも、それぞれ目的が少し違っていたでしょう?」
朔夜は頷いた。
自分の戦い方を試してきた者。
空座町で情報を持ち帰ったイグナシオ。
そして最後まで追ってきたウルキオラ。
こちらを殺すことより、観察することを優先している場面が何度もあった。
「俺たち、戦い方をかなり見せたな」
そう呟くと、一護が顔を上げる。
「何だよ。それがそんなにまずいのか?」
「まずいよ」
朔夜は珍しく即答した。
「俺の解も捌も、前よりかなり知られた。石田の戦い方も見られてるし、一護たちが井上を助けに来ることも確認された。何より――」
言葉を切る。
井上を見る。
「俺たちが、仲間を狙われた時にどう動くかまで見られてる」
一護の表情が険しくなった。
虚夜宮でウルキオラたちは何度も、井上やドンドチャッカを絡めることで朔夜の判断を揺さぶってきた。
ただ強さを測っていたのではない。
何を守るのか。
どこで攻撃を止めるのか。
どんな時に無理をするのか。
そうした部分まで見られていた。
夜一が腕を組んだまま、低く言う。
「戦いでは技だけが情報ではないからのう。相手が何を嫌い、何を捨てられぬか。それが分かれば、力そのものが上でも揺さぶる手段は作れる」
その言葉に、朔夜は小さく息を吐いた。
「実際、何回か引っ掛かったしね」
以前なら、そこを誤魔化していたかもしれない。
判断そのものは正しかった。
仕方がなかった。
そう言い訳することもできる。
けれど、今回は違った。
ドンドチャッカを狙われた時も、ウルキオラに追われた時も、標識を利用された時も、自分は何度か読みを外している。
「次は同じ手に引っ掛からなきゃいい」
一護が言った。
あまりに単純な言葉に、朔夜は一護を見る。
「簡単に言うね」
「じゃあ、ずっと引っ掛かったこと気にしてんのか?」
「そういうわけじゃ――」
言いかけて、朔夜は止まった。
気にしていないと言えば嘘になる。
自分がもっと早く気づいていれば、ドンドチャッカは傷つかなかったかもしれない。標識を利用されなければ、井上との合流も早かったかもしれない。
一護はそんな朔夜の顔を見て、少しだけ肩を竦めた。
「失敗したのは覚えときゃいいだろ。でも、次も同じだって決まったわけじゃねぇ」
朔夜は一瞬だけ黙り、それから笑った。
「一護に言われると妙に腹立つな」
「何でだよ!」
さっきまで硬かった空気が僅かに緩む。
井上も小さく笑っていた。
しかし、その笑顔は長く続かなかった。
浦原が机の上へ置いていた腕輪を取り上げたからだ。
井上が虚圏でつけていたものだった。
「それなんですけどね」
浦原の声が少し低くなる。
「単純に井上サンの霊圧を隠すだけの道具じゃない可能性があります」
井上の顔が強張った。
一護も身を乗り出す。
「どういうことだ?」
「まだ調べきれてません。ただ、霊圧を遮断する術式とは別に、ごく僅かな霊子の流れが残ってるんスよ。何かを送っていたのか、受け取っていたのか、それとも別の用途なのかまでは分かりません」
浦原はそこで言葉を区切った。
分からないことを、分かったふりはしない。
その慎重さに、朔夜は少しだけ安心した。
同時に、胸の奥へ嫌なものが残る。
「じゃあ井上は、ずっと向こうに何か見られてた可能性がある?」
「可能性としては。ただ、現時点では断定できません」
井上の手が無意識に自分の腕へ触れた。
もう腕輪はない。
それでも、つけていた時の感覚が残っているように見えた。
「私……」
言葉が続かない。
また自分が何かを持ち帰ってしまったのではないか。
そんな不安が顔に出ていた。
浦原はその様子を見て、静かに腕輪を机へ戻す。
「井上サンの能力を欲しがったのも、腕輪を用意したのも藍染サンたちです。まず調べるべきなのは、向こうが何を仕掛けたかッス」
井上はゆっくり顔を上げる。
「はい」
すぐに不安が消えたわけではない。
けれど以前のように、自分一人で答えを出そうとはしていなかった。
石田も腕輪を見ながら考える。
「井上さんの能力そのものが目的だった可能性は?」
「あります」
浦原が答える。
「事象を拒絶する力は、アタシが知っている能力の中でもかなり特殊です。ただ、それを何に使うつもりなのかは分からない」
一護が拳を握る。
「結局、藍染が何考えてんのか分かんねぇままじゃねぇか」
「そういうことになるね」
朔夜が答える。
虚圏へ乗り込んで井上を連れ帰った。
それでも藍染の目的は見えていない。
むしろ、自分たちが向こうへ行ったことで、相手へ渡した情報の方が多い可能性すらある。
その事実は面白くなかった。
胸の奥で、かすかに嫌な熱が揺れたような気がした。
だが朔夜は、それ以上そこへ意識を向けなかった。
今考えるべきなのは、自分の新しい力ではない。
「喜助さん」
「はい?」
「次に破面が来たら、俺たちがどう戦うかも変えた方がいいよね」
浦原が僅かに目を細める。
「そうですねぇ。少なくとも、向こうが持ってる情報通りに動くのは避けたいところです」
「じゃあ、俺も考える」
朔夜がそう言った時、夜一が少し意外そうにこちらを見た。
「一人でか?」
朔夜はすぐに意味を理解した。
「……いや」
一護たちを見る。
石田。
茶渡。
井上。
浦原。
夜一。
「みんなで」
夜一の口元が少しだけ上がる。
「ならよい」
その瞬間だった。
地下修行場の隅に置かれていた機械から、短い警告音が鳴った。
浦原の表情が変わる。
全員の視線が集まった。
「何だ?」
一護が立ち上がる。
浦原はすぐに機械へ近づき、表示を確認する。
しばらく沈黙した後、帽子の影から鋭い目を覗かせた。
「空座町の外縁で、虚圏に似た霊子の揺れが出ました」
朔夜も立ち上がる。
「破面?」
「まだ分かりません。一度だけで、もう消えてます」
石田が眉を寄せる。
「偵察でしょうか」
「その可能性はあります」
一護は苛立ったように舌打ちした。
「帰ってきたばっかだぞ」
「向こうには、こっちを休ませる理由ないからね」
朔夜はそう言いながら、先ほどまで感じていた安堵が完全に消えていくのを感じていた。
虚圏から帰ってきた。
井上も助けた。
全員が揃った。
それでも。
何一つ終わったわけではない。
むしろ、向こうがこちらを調べたことで、次はもっと厄介になるかもしれない。
浦原が全員を見る。
「今日はもう動きません。反応も消えてますし、今の状態で飛び出す方が危ないッス」
一護は不満そうだったが、反論はしなかった。
朔夜も同じだった。
以前なら、確認だけでも行こうとしたかもしれない。
今は違う。
分からないものへ一人で突っ込む必要はない。
「明日から調べる?」
朔夜が聞く。
「ええ。アタシと夜一サンで反応を洗います。御門サンたちはまず休むこと」
「俺も?」
「特に御門サンです」
「やっぱり?」
夜一が横から睨む。
「何か不満か?」
「ありません」
即答すると、一護が笑った。
朔夜もつられて笑いながら、もう一度警告装置を見る。
反応は消えている。
それでも、嫌な予感は残った。
虚圏で見たウルキオラの目。
こちらの変化を見続けていた破面たち。
そして、そのさらに奥にいる藍染。
こちらが井上を連れ帰ったことさえ、あの男がどこまで予想しているのか分からない。
分からないなら。
次は、こちらから少しずつ確かめればいい。
今度は誰か一人でではなく。
朔夜は周囲の仲間たちを見て、ようやくその考えが自然に浮かぶようになったことに気づいた。
破面との戦いは終わっていない。
ただ。
次に戦う時は、虚圏へ入った時と同じ自分たちではない。
それだけは確かだった。
井上を救出しても、藍染の狙いはまだ見えていません。
そして空座町では、新たな霊子反応が観測されます。
破面篇は、ここから後半戦へ入ります。
次回――
第96話「次の一手」