空座町の外縁で、一瞬だけ観測された虚圏に似た霊子反応。
一夜明け、朔夜たちはその痕跡を確かめに向かいます。
翌朝。
浦原商店の居間には、珍しく早い時間から一護と朔夜が揃っていた。
もっとも、二人とも進んで起きていたわけではない。
「だから何で俺まで呼ばれてんだよ」
眠そうな顔で一護が言うと、向かいに座っていた浦原が湯呑みを置いた。
「昨日の反応を直接見た方が早いと思いましてね。黒崎サンにも関係ないとは言えませんから」
「それは分かるけどよ……」
一護は欠伸を噛み殺しながら隣を見る。
朔夜は座布団の上で壁にもたれ、目を閉じていた。
「おい」
返事はない。
「朔夜」
肩を揺すると、朔夜がゆっくり目を開ける。
「……おはよう」
「寝てただろ」
「起きてたよ」
「目閉じてただけって言う気か?」
「うん」
「絶対寝てただろ!」
一護の声に、奥から夜一が呆れたように顔を出した。
「朝から騒ぐでない。一護も朔夜も、昨日まで虚圏におった身じゃろう。少しくらい眠いのは仕方あるまい」
「夜一さん、話分かるね」
「ただし朔夜、お主は昨日『休め』と言われたばかりじゃ」
「……そこまで覚えてた?」
「当然じゃ」
逃げ道を塞がれ、朔夜は黙って湯呑みに手を伸ばした。
昨夜、井上に傷を治してもらったおかげで身体はかなり軽くなっている。それでも完全ではなく、肩を大きく動かせば奥の方に鈍い痛みが残っていた。
浦原もそれを確認するように一度だけ朔夜へ視線を向ける。
「今日は戦いに行くわけじゃありません。反応が出た場所を確認して、痕跡が残っていれば持ち帰る。それだけッス」
「それなら俺じゃなくてもよくない?」
朔夜が言うと、浦原は扇子を開いた。
「御門サン、虚圏で色々見てきたでしょう?」
「嫌な言い方するなぁ」
「役に立つ経験は使わないと」
隣で一護が鼻を鳴らす。
「俺も見てきたけどな」
「もちろん黒崎サンにも期待してますよ」
「後付けっぽく聞こえるぞ」
そんなやり取りをしながらも、昨日の警告音が全員の頭から消えているわけではなかった。
一度だけ。
ほんの僅かに観測された虚圏に似た霊子の揺れ。
偶然ならいい。
だが、今の状況でそう考えるには出来すぎている。
浦原は地図を広げ、空座町の外れにある河川敷の一角を指した。
「反応が出たのはここです。周辺に人が少ない時間帯だったことを考えると、偶然発生した虚の移動と見るには少し気になります」
一護が地図を覗き込む。
「破面が来たってことか?」
「そこまでは分かりません」
浦原は即答しなかった。
「虚圏から現世へ何かが抜けたのか、逆に現世側を探るために一瞬だけ穴を開いたのか。それとも、アタシたちに反応を見つけさせること自体が目的だったのか」
「最後のやつ、嫌だな」
朔夜が顔をしかめる。
「俺も虚圏で似たことされた。気づいた時には、こっちが選んでるつもりで向こうに誘導されてた」
一護が腕を組む。
「だったら行かねぇ方がいいんじゃねぇか?」
その言葉に、朔夜は少し意外そうに一護を見た。
「何だよ」
「いや、一護なら『罠でも行く』って言うと思った」
「お前、俺のことどう思ってんだ」
「真っ直ぐ」
「言い方!」
夜一が小さく笑う。
浦原は二人を放っておきながら、地図を畳んだ。
「行くか行かないかじゃなく、行き方の問題ッス。向こうがこちらを見ているなら、何も知らないふりをして好きに見せる必要はありません」
朔夜はその言葉に目を細めた。
昨日までとは少し違う。
虚圏では、自分たちが相手の用意した場所へ入っていった。
今度は現世。
こちらの場所だ。
「じゃあ、見に行こうか」
朔夜が立ち上がる。
一護も続いた。
「最初からそのつもりだったんだろ」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「寝たかった」
「帰れ!」
そのまま二人が店を出ると、浦原と夜一も後ろから続いた。
朝の空座町は、虚圏とは比べものにならないほど普通だった。
車が走り、自転車で学校へ向かう学生がいる。コンビニの前では店員が商品を並べ、遠くから犬の鳴き声まで聞こえてくる。
朔夜は歩きながら、何度か周囲へ目を向けた。
昨日まで白い壁に囲まれ、どこを向いても敵の気配を探していたせいか、こうした日常の方が妙に落ち着かない。
「変な感じする?」
夜一が横から聞く。
「分かる?」
「顔に出ておる」
朔夜は少し考えた後、頷いた。
「静かすぎるっていうか……いや、普通なんだけどね」
「虚圏から戻ったばかりなら仕方なかろう」
「夜一さんは昔、そういうことなかった?」
「わしは適応が早い」
「ずるいな」
軽く返しながらも、朔夜は少し安心していた。
自分だけがおかしいわけではないと言われたような気がしたからだ。
河川敷へ着くと、浦原が足を止めた。
「ここッス」
見た目には何もない。
草が揺れ、川が流れているだけだ。
だが霊圧へ意識を向けると、確かに僅かな違和感が残っていた。
一護が眉を寄せる。
「……何かあるな」
「うん」
朔夜はすぐに近づかず、少し離れた場所から周囲を見る。
焦げ跡もない。
地面が抉れた形跡もない。
虚閃を撃ったような痕跡ではなかった。
浦原は杖の先で地面を軽く叩き、霊子の流れを確かめている。
「どう?」
朔夜が聞く。
「開いた痕跡はあります。ただ、かなり小さい」
「黒腔か?」
一護の問いに、浦原は首を横へ振った。
「規模が違います。人一人が通るには小さすぎる」
朔夜もその場へしゃがみ込み、残っている霊圧へ意識を向けた。
薄い。
しかも、どこか不自然だった。
「……これ、出てきた痕跡じゃないかも」
三人が朔夜を見る。
「何故そう思う?」
夜一に問われ、朔夜はすぐ答えず、もう一度流れを確認した。
虚圏から現世へ何かが移動したなら、こちら側へ押し出されたような乱れが残るはずだ。
だが今感じるのは逆だった。
「現世側から、向こうを覗いた感じがする」
浦原が目を細める。
「根拠は?」
聞かれた瞬間、朔夜は口を開きかけて止まった。
感覚だけで答えようとしていた。
虚圏で何度も、それで読みを外した。
「……ごめん。今のはまだ感覚」
一護が横から見る。
「珍しく引っ込めたな」
「うるさいな」
浦原は少しだけ笑ったが、すぐに自分でも調べ始めた。
しばらくして、地面へ小さな札を置く。
霊子の流れが浮かび上がる。
確かに中心から外へ広がっているのではなく、周囲から一点へ集まり、そのまま途中で消えていた。
「御門サンの感覚、今回は当たりかもしれません」
「今回はって付ける?」
「大事なところッス」
一護が笑う横で、朔夜は少しだけ不満そうな顔をした。
それでも、以前のように「最初から分かっていた」とは言わなかった。
自分の判断を疑うことは、弱さではない。
そのことを、虚圏で嫌というほど学んだ。
「じゃあ、誰かが現世から虚圏を見たのか?」
一護が問う。
浦原は札を拾い上げながら答える。
「あるいは、向こうからこちらへ細い管だけ通して情報を拾ったか。どちらにしても、人を送り込む必要はありません」
朔夜の胸に嫌なものが広がる。
「偵察」
「そう考えるのが自然ですねぇ」
「何を見てたんだ?」
一護が周囲を見回す。
河川敷。
道路。
住宅地。
特別なものはない。
朔夜も同じように周囲を見た後、ふと思った。
「場所じゃないのかも」
浦原がこちらを見る。
「続けてください」
「昨日、俺たちが戻ってきた直後に反応が出た」
一護の表情が変わる。
「……俺たちを見てた?」
「可能性はある」
朔夜は言葉を選びながら続ける。
「井上が戻ったか確認したのか、何人帰ってきたか見たのか、それとも俺たちの霊圧の状態を調べたのか。そこまでは分からないけど」
浦原は否定しなかった。
夜一も険しい表情になる。
「虚圏で戦い方を見た次は、帰還後の状態まで確認するか」
「相手が藍染なら、あり得なくはないッス」
その名前が出た瞬間、空気が少し重くなった。
一護は拳を握る。
「だったら向こうは、井上を取り返しに来るつもりか?」
「分かりません」
朔夜が先に答えた。
一護がこちらを見る。
「またそれかよ」
「分からないものは分からない」
以前なら、何かを言い切ったかもしれない。
しかし今は、それよりも確かなことだけを拾いたかった。
「取り返しに来るなら、もっと大きく動くかもしれない。でも偵察だけなら、次の目的が井上とは限らない」
「じゃあ何だよ」
「それを調べる」
浦原が朔夜を見る。
「ようやく調査っぽいこと言いましたね」
「喜助さん、今日ちょっと俺に厳しくない?」
「昨日まで無茶した人にはこれくらいでちょうどいいッス」
夜一も頷く。
「わしもそう思う」
「味方いないなぁ」
ぼやきながらも、朔夜の口元には少し笑みがあった。
その時、一護が急に顔を上げた。
「待て」
全員の視線が向く。
「今、何か感じた」
朔夜もすぐ周囲へ意識を広げる。
一瞬遅れて。
微かに。
昨日と似た霊子の揺れが、河川敷のさらに先で生まれた。
今度は消えない。
「来た」
浦原の声から軽さが消える。
四人は同時にそちらを見る。
川沿い。
数百メートル先。
空間が僅かに歪んでいる。
黒腔ほど大きくない。
それでも、確かに虚圏へ繋がる気配だった。
朔夜が御厨子へ手を掛ける。
一護も斬月を抜こうとする。
「待って」
今度は浦原が止めた。
「先に攻撃しない。何が出るか確認します」
一護は不満そうだったが、刀から手を離さなかった。
朔夜も同じだ。
空間の歪みは少しずつ広がる。
だが、人影は出てこない。
代わりに。
小さな白い欠片が、地面へ落ちた。
「……何?」
一護が眉を寄せる。
歪みはそれだけを吐き出すと、すぐに閉じた。
誰も動かなかった。
朔夜が欠片へ近づこうとしたところで、夜一が腕を伸ばして止める。
「触るな」
「分かってる」
浦原が慎重に道具を使い、欠片を拾い上げる。
白い。
骨にも見える。
だが、ただの破面の仮面片ではない。
表面に細い霊子の紋様が刻まれている。
浦原の顔から、完全に笑みが消えた。
「……なるほど」
一護が苛立った声を出す。
「今度は何だよ」
浦原はしばらく欠片を見つめた後、朔夜たちへ向き直った。
「これは偵察じゃありません」
「じゃあ何?」
朔夜が聞く。
浦原は白い欠片を慎重に包む。
「目印です」
一瞬、誰も意味を理解できなかった。
やがて夜一が低く呟く。
「こちら側へ道を繋ぐための、か」
浦原が頷く。
「おそらく」
一護の表情が険しくなる。
朔夜も白い欠片を見る。
昨日の反応。
今日の揺れ。
そして落とされた目印。
向こうは、こちらの様子を見ているだけではなかった。
何かを準備している。
それも、現世側へ。
「次は向こうから来るってことか」
一護が言う。
朔夜はすぐには答えなかった。
確定ではない。
それでも、嫌な予感だけは強い。
「少なくとも」
御厨子の柄へ触れたまま、白い欠片から目を離さない。
「待ってれば何も起きない、って状況じゃなさそうだね」
浦原も同じものを見つめていた。
「ええ。どうやら、次の一手はもう打たれてるみたいです」
朝の河川敷には、いつも通り車の音が聞こえている。
すぐ近くでは犬の散歩をする人までいた。
それなのに朔夜には、その日常のすぐ隣まで、虚圏の白い影が伸びてきているように感じられた。
今度の戦いは、こちらから虚圏へ行くものではない。
向こうが現世へ来る。
そんな予感だけが、やけにはっきりと胸に残った。
一夜明け、朔夜たちは空座町に残った霊子反応を調査しました。
そして発見されたのは、現世へ道を繋ぐためと思われる「目印」。
次回――
第97話「標」