最初に動いたのは、マグカップだった。
枕元のローテーブルに置いた、取っ手の欠けた白いマグだ。中には三時間前に淹れて、結局一口も飲めなかった麦茶が半分残っている。熱で滲んだ視界の端で、それが――ず、と。
テーブルの天板の上を、五センチほど滑った。
誰も触っていない。窓は閉めてある。地震でもない。
ああ、いよいよ来たな、と俺は思った。
幻覚だ。ニュースで繰り返し言っていた。発症四日目から五日目にかけて、多くの患者が幻視や幻聴を訴える。その後、意識レベルが低下し、呼吸が浅くなり――そこから先の言い回しは、局によってまちまちだった。「残念ながら」と言うキャスターもいたし、「医療機関の指示に従ってください」とだけ繰り返すキャスターもいた。
ただ、一つだけ、どの局も共通して言っていたことがある。
死亡を確認した場合は、ただちに遺体から離れてください。
体温計がベッドの下に落ちている。拾う気力はないが、最後に測ったときの数字は覚えていた。三十九度八分。今はたぶん、もっと上だ。額の内側で誰かが鍋をかき回しているような熱さで、瞼を閉じても開けても、同じ赤黒い靄が漂っている。
俺の名前は久遠湊。二十四歳。職業は宅配ドライバー――だった、と言うべきかもしれない。営業所は十日前に閉鎖された。最後のシフトの日、所長は荷物の山を前に「もう届け先に人がいねえんだよ」と笑って、それから少し泣いた。
病気の正式名称は「急性播種性脳炎症候群」という。長すぎて誰も使わない。世間では、発症者の目が乳白色に濁ることから「白眼熱」と呼ばれている。
そして、白眼熱で死んだ人間の一部は――立ち上がる。
最初にその映像がSNSに流れたのは、三週間前だった。ジャカルタの病院の廊下を、シーツを引きずった男が歩いている。点滴の管がちぎれて腕からぶら下がり、看護師が悲鳴を上げて逃げ、男は壁に肩をぶつけながら、それでも前に進み続ける。フェイク動画だと誰もが思った。俺も思った。昼休みにトラックの運転席で見て、よくできてんな、と鼻で笑った。
二週間前、同じような映像が大阪から上がった。
十日前には、東京の地下鉄で。
政府は彼らを「再起動個体」と呼んだ。記者会見で官房長官がその言葉を口にしたとき、会見場に妙な沈黙が落ちたのを覚えている。誰も笑わなかった。誰も質問しなかった。ネットではその日のうちに別の呼び名が定着した。
ゾンビ。
身も蓋もない言葉だが、それ以外に言いようがなかった。
*
マグカップのことを考えるのはやめて、俺は天井を見た。
築三十二年の木造アパート、二階の角部屋。天井の木目には、子どもの頃に見た図鑑の銀河みたいな渦がある。熱に浮かされていると、その渦がゆっくり回っているように見えた。
スマホが震えた。
枕の横を手で探る。指先がうまく動かない。三度目でようやく掴んで、画面を顔の前に持ってくる。光が目に刺さって涙が滲んだ。
『おにい生きてる?』
詩織からだった。
五分おきに同じメッセージが来ている。その前には、『既読つけて』『返事して』『ねえ』『おにい』。時刻を見ると午前四時十二分。俺が意識を失っていたのは、どうやら半日近くらしい。
親指を画面に置く。打つべき言葉はいくらでもあるのに、指が震えて、変換候補を三回間違えた。
『いきてる』
それだけ送るのに一分かかった。
既読は一瞬でついた。
『よかった』 『よかった』 『ほんとによかった』 『熱は?』
『さがってない』と打ちかけて、消した。
『だいじょうぶ そっちは』
『体育館。みんないる。ご飯も出てる。先生もいる』
詩織は十六歳。県立相模原東高校の二年生だ。両親は四年前に事故で死んで、それ以来、俺たちは二人で暮らしてきた。この部屋ではない。もう少しましな、2DKのマンションで。
白眼熱が国内で広がり始めたとき、詩織の学校は生徒の校内避難を決めた。家庭で看病できない生徒も多く、自治体と協力して体育館を避難所として開放したのだ。俺はそれに賛成した。配送の仕事をしている俺は、一日に百人以上の他人と接触する。感染するなら、まず俺だ。だから詩織を学校に預け、自分は昔一人暮らししていたこのボロアパートに移った。契約がまだ残っていたのは幸運だった――と、そのときは思った。
感染したと気づいたのは五日前の夜だ。喉が焼けるように痛み、関節が軋み、鏡を見ると白目がうっすらと濁り始めていた。
詩織には言っていない。風邪をひいた、とだけ伝えてある。
でも、たぶんバレている。十六歳は馬鹿じゃない。
『おにい』 『ちゃんと水飲んで』 『飲まないと怒る』
俺は少し笑った。笑うと胸の奥が軋んで咳が出た。咳は長く続き、最後には鉄の味がした。
ローテーブルの麦茶に手を伸ばす。届かない。二十センチ足りない。体を起こそうとして、腹筋にまるで力が入らないことに気づく。
くそ、と思った。
水くらい、飲ませてくれよ。
その瞬間だった。
マグカップが、こちらへ来た。
滑ったのではない。浮いた。天板から一センチほど持ち上がり、ふらふらと揺れながら、空中を、俺の手のほうへ。中の麦茶が波立って縁から一滴こぼれ、テーブルに小さな染みを作った。
俺は息を止めていた。
マグはそのまま俺の指先まで来て、そこで、糸が切れたように落ちた。
布団の上に。麦茶が全部こぼれて、冷たい液体がTシャツの腹にまで染みてきた。
「……は」
声が出た。四日ぶりくらいの、自分の声だった。ひどく掠れていた。
幻覚にしては、冷たすぎる。
*
それから一時間、俺は布団の上で濡れたまま、ほとんど動かずにいた。
考えることが多すぎた。そして、熱で考えがまとまらなかった。
これは何だ。
白眼熱の症状なのか。それとも俺はもう死んでいて、これは死後の夢か何かなのか。
試しに、枕元のボールペンを見た。意識を集中する――というのが正しいのかどうかも分からないまま、ただ、動け、と思った。
何も起きない。
もう一度。動け。
何も。
少し腹が立ってきた。さっきは動いたじゃないか。
そうだ、さっきは――水が欲しかった。本当に、どうしようもなく、欲しかった。
俺はボールペンを「動かそう」とするのをやめた。代わりに、それを手に取りたい、と思った。熱で重い腕を伸ばさなくても、指先の少し先に、あのペンがあればいいのに、と。
ボールペンが転がった。
ころん、と一回転して、止まった。
同時に、こめかみの奥で何かが鳴った。耳鳴りとは違う。もっと低い、遠くで大型トラックがアイドリングしているような、ざらついた振動だった。頭蓋骨の内側に、砂を詰めた袋を押しつけられるような感覚。
「……っ」
思わず目を閉じる。振動は数秒で引いていった。
目を開けると、ボールペンは畳の上、さっきより十センチほど俺に近い場所に落ちていた。
もう認めるしかなかった。
俺は、手を触れずに物を動かしている。
念動力、という言葉が頭に浮かんだ。子どもの頃に読んだ漫画の中にしか存在しない言葉だ。スプーン曲げ。超能力者。テレビの特番で、胡散臭い男が額に汗をかきながらスプーンをこすっていた。父さんが「こんなもん、手品だよ」と笑い、母さんが「夢がないなあ」と言い返していた。
夢なら、もう少しましな夢を見たかった。
*
午前五時半。窓の外が群青色から灰色に変わり始めたころ、俺は気づいた。
熱が、下がっている。
額の鍋は火を止められていた。靄は薄れ、天井の渦はもう回っていない。関節の痛みはまだあったが、あの骨の芯まで食い込むような熱さはなくなっていた。
体を起こしてみる。今度は起きられた。濡れたTシャツが背中に張りついて気持ち悪い。
ベッドの下から体温計を拾い、脇に挟む。電子音が鳴るまでの三十秒が、ひどく長く感じられた。
三十七度二分。
俺は体温計を三回見直した。
白眼熱の致死率は、公表されている数字で八十七パーセント。残りの十三パーセントの内訳について、政府ははっきりしたことを言っていない。「回復例も一定数存在する」と厚労大臣は言った。一定数。その言葉を聞いたとき、ずいぶん曖昧だな、と思った。
俺は、その「一定数」に入ったのだろうか。
立ち上がって、洗面所へ向かう。膝が笑った。壁に手をつきながら三歩歩き、ドアを開け、電気をつけた。
鏡の中に、見知らぬ男がいた。
いや、見知ってはいる。俺だ。無精髭が伸び、頬がこけ、髪は汗で額に貼りついている。四日間ほとんど何も食べていないのだから当然だ。
問題は目だった。
白目は、まだ少し濁っていた。けれど、その濁りの中心――黒目の縁に、細い輪があった。
銀色の輪だ。
光の加減かと思って顔を近づける。違う。確かにある。虹彩の外周を、髪の毛ほどの細さで、金属質の光がぐるりと囲んでいる。瞬きをすると、一瞬、その輪がわずかに明滅したような気がした。
白眼熱の患者の目は乳白色に濁る。死んだ患者――再起動個体の目は、完全に白くなる。ニュースの映像で何度も見た。
こんな目の話は、どこでも聞いたことがなかった。
*
ドン、と壁が鳴ったのは、顔を洗っている最中だった。
俺は水を出したまま固まった。
ドン。
もう一度。洗面所の壁の向こう。隣の部屋だ。
隣には、佐伯さんという八十過ぎのおばあさんが一人で住んでいる。俺がこのアパートに戻ってきた日、ゴミ出しのときに会って、「あら、久遠くん、また帰ってきたの」と笑ってくれた。昔、俺が大学生だった頃、よく煮物を分けてくれた人だ。
一週間前、佐伯さんの部屋から咳が聞こえ始めた。
三日前から、聞こえなくなった。
俺は、自分のことで精一杯だった。熱に浮かされながら、隣の静けさに気づいていたはずなのに、何もしなかった。できなかった、と言い訳することはできる。でも、しなかったのも事実だ。
ドン。ドン。
壁を叩く音は、規則的だった。まるで、何かが壁に向かって歩き続け、ぶつかり、また歩き出そうとしているような。
蛇口を閉めた。水音が消えると、隣の音がはっきり聞こえた。
ドン。ずる。ドン。
それから、声。
声と呼べるのかどうか分からない。喉の奥で空気が擦れるような、ひゅう、ひゅう、という音。ときどき、そこに湿った何かが混じる。
佐伯さんは、もう佐伯さんではない。
分かっていた。分かっていたが、胃の底が冷たくなった。
そのとき、またあの振動が来た。
こめかみの奥の、ざらついたアイドリング音。さっきペンを動かしたときと同じ感覚だ。ただ、今度は俺が何かを動かそうとしたわけではない。
そして――壁の向こうの音が、止まった。
叩く音も、擦れる音も、息の音も。
完全な静寂。
俺は洗面台の縁を握りしめたまま、動けなかった。
数秒後、音が再開した。
ドン。
さっきまでとは、違う場所だった。
ドン。
少しずつ、移動している。洗面所の壁から、寝室側の壁へ。俺が今いる場所から、俺がさっきまで寝ていた場所へ。いや――違う。
ドン。
俺を、追っている。
壁一枚隔てた向こうで、かつて佐伯さんだった何かが、正確に俺の位置に向かって体をぶつけている。
「……嘘だろ」
俺は後ずさった。背中が洗面所のドアに当たった。
ドン。
壁が震えた。古いアパートの薄い壁だ。石膏ボードとベニヤ板と、申し訳程度の断熱材。八十過ぎのおばあさんの体でも、何度もぶつかれば――
ぴし、と音がした。
壁紙に、細い亀裂が走っていた。
*
逃げなければならない。
頭では分かっていた。でも体が言うことをきかなかった。四日間寝たきりで、筋肉はすっかり落ちている。走れるかどうかも怪しい。
とにかく部屋を出よう。廊下に出て、階段を降りて――それからどうする。外がどうなっているのか、俺は知らない。最後に窓の外を見たのは三日前だ。
スマホを掴んでポケットにねじ込む。財布。鍵。ほかに何がいる。分からない。考えがまとまらない。
ドン。ばき。
壁紙が破れ、石膏ボードの白い粉がぱらぱらと畳に落ちた。穴が開いたわけではない。まだ、表面が割れただけだ。
玄関へ走る。三歩目で足がもつれて、靴箱に肩をぶつけた。痛みで一瞬目の前が白くなる。スニーカーに足を突っ込み、踵を潰したまま、ドアノブに手をかけた。
鍵を開け、ドアを押す。
廊下の蛍光灯は切れていた。夜明け前の灰色の光が、突き当たりの窓から差し込んでいる。コンクリートの床。錆びた手すり。左手に階段。
右手に、佐伯さんの部屋のドア。
そのドアが――開いていた。
ほんの五センチほど。ドアチェーンがかかった状態で。
そして、その隙間から、指が出ていた。
皺だらけの、骨ばった指。爪が何枚か剥がれている。指先が、チェーンのかかった隙間の縁を掴み、かり、かり、と引っかいている。
隙間の奥で、白い目がこちらを見ていた。
黒目のない、完全な乳白色の目。
佐伯さんの顔は、半分しか見えなかった。でも、分かった。いつも綺麗に結っていた白髪が、ざんばらに乱れて顔にかかっている。口が開いている。顎が外れたように、だらりと。その奥で舌が、何かを探すように動いている。
「さ、えき、さん」
声が出た。出すべきではなかった。
白い目が、ぐるりと動いて、正確に俺を捉えた。
ドアが、がん、と内側から叩かれた。チェーンが悲鳴を上げた。
がん。がん。
古いアパートのドアチェーンだ。ネジ四本で木枠に留めてあるだけの。
ネジが一本、ずるりと抜けかけるのが見えた。
逃げろ。
俺は階段に向かって走った――走ろうとした。足が動かなかった。膝が笑って、手すりにしがみつくのが精一杯だった。
がん。ばきん。
チェーンの留め具が、木枠ごと吹き飛んだ。
ドアが勢いよく開き、壁に叩きつけられた。
佐伯さんが、廊下に出てきた。
寝間着姿だった。薄い藤色の、花柄の。その胸元が、黒っぽい何かでべったりと汚れている。裸足の足が、コンクリートの床をずる、と擦る。体が前に傾き、倒れるかと思った瞬間、もう一歩が出る。
速くはない。ニュースで見たとおりだ。再起動個体は走らない。関節の制御が不完全で、歩行は不規則で遅い。
でも、俺はもっと遅かった。手すりにしがみついたまま、一歩も動けずにいた。
距離、四メートル。
三メートル。
白い目が近づいてくる。開いた口から、あの、ひゅう、という音が漏れている。腐った果物のような甘ったるい臭いが、鼻を突いた。
二メートル。
佐伯さんの両腕が、俺に向かって持ち上がった。
来るな。
そう思った。思っただけだ。声にはならなかった。
来るな。来るな。来るな――
頭の奥で、何かが弾けた。
アイドリング音じゃない。エンジンが吹け上がる音だった。頭蓋骨の内側で、回転計の針が一瞬でレッドゾーンまで振り切れるような。視界の縁が白く焼けた。
佐伯さんの体が、止まった。
いや、止められた。
前に伸ばした腕が、見えない壁に押し当てられたように、空中で静止している。足は前に進もうと床を掻いているのに、体が一センチも進まない。寝間着の裾が、風もないのに後ろへはためいていた。
俺の、せいだ。
分かった。理屈じゃなく、感覚で。俺は今、佐伯さんを押している。手を使わずに。俺と佐伯さんの間にある空気ごと、あるいは空気ではない何かで、あの体を押し返している。
こめかみが割れるように痛んだ。鼻の奥が熱くなり、何かが唇を伝った。舐めると鉄の味がした。鼻血だ。
離したら、来る。
「……ごめん」
俺は言った。誰に向かって言ったのか、自分でも分からなかった。
それから、押した。
佐伯さんの体が、後ろへ飛んだ。
冗談みたいな光景だった。八十過ぎの小柄なおばあさんの体が、ワイヤーで引かれたみたいに廊下を三メートル滑空し、開いたままの自分の部屋のドアの中へ吸い込まれ、玄関の上がり框に背中から叩きつけられた。
どさ、という重い音。
それから、静寂。
俺は手すりにすがったまま、ずるずるとその場に座り込んだ。
頭の中のエンジン音が、ゆっくりと落ちていく。レッドゾーンからアイドリングへ。アイドリングから、無音へ。代わりに、ひどい頭痛がやってきた。脳みそを濡れた雑巾みたいに絞られているような痛みだった。
鼻血が止まらない。Tシャツの袖で押さえる。すでに麦茶で濡れていたTシャツが、今度は赤く染まっていく。
佐伯さんの部屋の中から、音がした。
ずる。
まだ、動いている。
俺は歯を食いしばって立ち上がった。膝はまだ笑っていたが、さっきよりはましだった。恐怖のおかげかもしれない。
手すりを伝って、佐伯さんの部屋のドアへ近づく。中は見なかった。見たら、たぶん動けなくなる。
ドアノブを掴んで、力任せに閉めた。
内側から、どん、とドアが叩かれた。俺はドアに背中を押しつけ、それから、考えた。これじゃ駄目だ。チェーンはもう壊れている。ドアノブを回されたら終わりだ。いや、再起動個体はドアノブを回せるのか。分からない。分からないことばかりだ。
廊下を見回す。突き当たりに、共用の消火器があった。赤い筒。重さはたぶん十キロくらい。
俺は消火器を見た。
来い。
今度は、そう思った。
こめかみの奥で、アイドリング音が鳴った。さっきほど強くない。消火器がかたかたと震え、壁のフックから外れて床に落ち、ごろごろと転がって、俺の足元で止まった。
頭痛が一段階ひどくなった。でも、できた。
消火器を拾い上げ――今度は手で――ドアノブの下に斜めに噛ませる。つっかえ棒の代わりだ。気休めかもしれない。でも、ないよりはましだ。
どん。どん。
ドアが叩かれるたびに、消火器が軋んだ。でも、ドアは開かなかった。
*
自分の部屋に戻り、鍵をかけ、玄関に座り込んだ。
どれくらいそうしていたのか分からない。気がつくと、窓の外はすっかり明るくなっていた。午前六時四十分。スマホの画面にはひびが入っていた。いつ割ったのかも覚えていない。
隣の壁を叩く音は、もうしなかった。佐伯さんは――佐伯さんだったものは、今、玄関のドアに向かって体をぶつけ続けているのかもしれない。それとも、俺の気配が遠ざかって、また部屋の中を彷徨っているのか。
あの、音が止まった瞬間のことを考えた。
俺がボールペンを動かしたとき、頭の奥であのアイドリング音が鳴った。そして壁の向こうの佐伯さんは、一瞬静かになり、それから正確に俺の位置を追い始めた。
偶然、だろうか。
偶然じゃない気がした。
あれは――聞こえたのだ。俺の頭の中で鳴っているあの音が、佐伯さんにも。
もしそうなら。
もしこの力を使うたびに、周りのゾンビどもにそれが聞こえるのだとしたら。
背筋が冷たくなった。
スマホが震えた。
『おにい』 『ラジオで言ってた』 『熱が下がった人は、すぐに近くの指定施設に行けって』
画面を見つめた。指定施設。
『どこの』と打つ。
『相模原だと、自衛隊の駐屯地。あと、大学病院も』 『おにい、熱下がった?』
俺は答えられなかった。
体温計の数字。三十七度二分。鏡の中の銀色の輪。空中を飛んだマグカップ。廊下を滑空した佐伯さん。
指定施設に行けば、たぶん治療を受けられる。安全な場所で、食事と水をもらえる。
でも、そこで俺はこの目を見せることになる。
そして、たぶん――訊かれる。
熱が下がったあと、何か変わったことはありませんでしたか、と。
妙な確信があった。政府が「一定数」という曖昧な言葉でごまかしている何かを、俺は今、身をもって知ってしまったのだと。
スマホがまた震えた。
今度のメッセージを読んだとき、俺は全身の血が引くのを感じた。
『体育館に、自衛隊の人が来た』 『熱が下がった人を探してるって』 『さっき、三年の先輩が一人、連れていかれた』 『その先輩、目がなんか、変だった』 『銀色っぽかった』
俺は画面を見つめたまま、長いこと動けなかった。
それから、ゆっくりと打った。
『しおり』 『おまえ、熱は?』
既読がついた。
返事は、なかなか来なかった。
一分。二分。
三分後に、ようやく一行だけ届いた。
『昨日から、ちょっとだけ』
俺は立ち上がった。
膝はまだ笑っていた。頭は割れるように痛かった。鼻の下には乾いた血がこびりついていた。
相模原東高校まで、ここから十二キロ。いつもなら配送トラックで二十分の距離だ。
その十二キロの間に、何人の佐伯さんがいるのか、俺は知らない。
それでも、行かなければならなかった。
窓の外で、遠くサイレンが鳴っていた。その音に混じって、もっと低い、地鳴りのような何かが聞こえた気がした。
何百という足が、アスファルトを擦る音。
あるいは、ただの耳鳴りか。
俺は玄関のドアを開けた。
(第一章 了)