ハンドルを握る手に、冬の朝日が当たっていた。
二トントラックの運転席。十二号車。フロントガラスには、まだ蜘蛛の巣状のひびが、右上の隅に残っている。あの日、正門の前で鷹宮に持ち上げられたときについたひびだ。交換しようと思えばできたが、しなかった。
荷台には、段ボールが四十箱積んである。中身は、米と、缶詰と、粉ミルクと、それから榊先生の研究室で作られた抑制剤のアンプル。
国道十六号線は、片側二車線だけ通れるようになっていた。
残りの一車線には、まだ、白い布をかけられた何かが、延々と並んでいる。
あの朝から、三か月が過ぎた。
*
関東の再起動個体は、あの朝、すべて止まった。
政府の発表では、四百七十万体。そのすべてが、同じ時刻に、同じように崩れ落ちた。関東全域で、同時に。
そして、四百七十万の遺体が残った。
それを一つずつ運び、一つずつ弔うのが、今のこの国の、一番大きな仕事になっていた。自衛隊も、消防も、ボランティアも、総出で。重機が足りない場所では、銀環者が駆り出された。
九千人の銀環者は、あの朝のあと、自分から名乗り出てきた。
避難所の隅から。病院のベッドから。自衛隊の別の施設から。
誰もが、同じことを言ったらしい。
――あの朝、音が聞こえた。錆びだらけで、でも一生懸命に鳴ってる音が。気づいたら、それに自分の音を重ねてた。
名乗り出た九千人は、今、関東中で、遺体を運んでいる。
念動力で。そっと。一体ずつ。
*
関東の外では、まだ、終わっていなかった。
東北でも、関西でも、九州でも、再起動個体の群れは、まだ動いている。海の向こうの国々でも。
けれど、あの朝のことは、世界中に知られていた。
「広域共鳴調律」。氷室が、報告書にそう名前をつけた。
氷室葵は、今、国の新しい対策本部で、研究の指揮を執っている。
誘導焼灼の件は、公になった。国会で問題になり、新聞に何度も書かれた。氷室は、すべての証言に応じ、すべての記録を提出した。第一号から第十七号までの、焼灼個体の名前と、実施日を。
そのあとで、氷室は一つだけ条件を出した。
――研究を続けさせてほしい。数字の償いは、数字でしかできないから。
その条件が受け入れられたのは、彼女が提出した「広域共鳴調律の地域展開計画」が、あまりにも精密だったからだ。
来月、関西で、最初の展開が行われる。
関東の九千人のうち、二千人が、志願して西へ向かう。
*
トラックを、公民館の前に停めた。
板を打ちつけられていた窓は、もう全部、ガラスに戻っていた。玄関の前に、子どもが三人、しゃがみこんで何かを見ていた。
その中の一人が、俺に気づいて立ち上がった。
薬局で助けた、あの女の子だった。
「おにいちゃん!」
女の子は、駆け寄ってきて、俺の足にしがみついた。
「今日は何持ってきたの」
「米と、缶詰と、ミルク」
「キャラメルは?」
「……一箱だけな」
運転席のドリンクホルダーから、キャラメルの箱を取り出して渡した。女の子は、目を輝かせて、それを抱えて走っていった。
「甘やかしすぎ」
玄関から、真壁さんが出てきた。紺色のスクラブの上に、厚手のダウンを羽織っている。
「一箱だけですよ」
「先週も一箱だけって言ってた」
真壁さんは、笑った。
あの朝から、真壁さんは、よく笑うようになった。
公民館は、今、この地域の診療所になっている。真壁さんと、北里から戻ってきた何人かの看護師と、それから榊先生で。抑制剤の合成設備は、国の予算で三台に増え、一日に百本近くを作れるようになった。白眼熱の新規感染者は、関東ではほとんど出なくなったが、関東の外から運ばれてくる患者のために、まだ必要だった。
「荷物、下ろすね」
真壁さんが、荷台に回った。
俺は、荷台の扉を開け、段ボールを一つ、両手で持ち上げた。
重かった。
米、十キロ。
腕が、少し震えた。三か月前まで、五十トンの鉄塊を指一本動かさずに持ち上げていた腕だ。今は、十キロの米袋で、震えている。
「手伝おうか」
「いいです」
「重いでしょ」
「重いです」
俺は言った。
「でも、いいんです」
*
悠の墓は、公民館の裏手の丘にあった。
小さな、白い石が一つ。「真壁悠」とだけ彫ってある。その前に、紙コップが一つ置かれていた。側面に、マジックで名前が書いてある。
『まかべ』
真壁さんが、毎朝、そこに水を入れて供えている。
その隣に、もう一つ、石があった。
同じくらいの大きさの、白い石。
「鷹宮迅」
墓の前に、缶コーヒーが一本置かれていた。誰が置いたのかは知らない。霧島かもしれないし、如月かもしれない。如月は、あの朝のあと、部下四人と一緒に、氷室の下で働いている。
俺は、ポケットから、もう一本、缶コーヒーを取り出して、隣に置いた。
「三番目だったんだろ」
俺は、石に向かって言った。
「一番目は誰だったのか、結局、聞きそびれた」
風が吹いた。
丘の上から、相模原の街が見えた。
白い布の列が、まだ、国道に沿って続いている。でも、三か月前よりは、ずっと短くなっていた。
街のあちこちで、重機が動いていた。その合間を、小さな光が、ちらちらと動いているのが見えた。
銀環者たちだ。
一体ずつ、そっと、運んでいる。
*
仲間たちのその後を、書いておく。
大河原さんは、鳶職に戻った。念動力で鉄骨を持ち上げながら、手で足場を組んでいる。「こっちのほうが、性に合ってる」と言っていた。壊れた街を、一本ずつ、組み直している。
霧島さんは、氷室の研究所で、抑制剤の精製を手伝っている。針の穴に糸を通せる力は、分子を並べるのにも向いているらしい。「顕微鏡の中で、刺繍してる気分」だそうだ。
七瀬は、「耳」になった。
関東中の銀環者の音を聞き分け、どこに誰がいるのかを把握する。関西での展開計画でも、七瀬が音の調整役を務めることになっている。十五歳の、最年少の調整役。
「私、消しゴム一個しか動かせないのに」
先週、公民館で会ったとき、七瀬は照れくさそうに言った。
「でも、全部聞こえるから。みんなの音、全部。それって、けっこう、すごいことなのかもって、最近思う」
柏木は、相模原東高校に戻った。
学校は、先月から、授業を再開していた。生徒の数は、半分以下になっていた。三年生の柏木は、卒業までの残り三か月を、そこで過ごす。
詩織も、戻った。
二人は、同じ図書委員を続けている。
それについて、俺から言うことは、何もない。
何もないったら、ない。
*
俺の力は、戻らなかった。
榊先生の検査では、脳の送信野も受信野も、形だけは残っているらしい。けれど、そこに、何も流れていない。
「空っぽの井戸だ」と、先生は言った。「水が、一滴もない。いや――」
先生は、少し考えてから、言い直した。
「水は、全部、九千の井戸に分けて注いだのだ。君の井戸には、もう、何も残っていない。だが、それは、なくなったのではない。分けたのだ」
目の縁の銀の輪も、だんだん薄くなってきた。今では、よく見ないと分からない。
ときどき、夜中に、目が覚める。
そういうとき、ほんのかすかに、何かが聞こえる気がする。
音、と呼ぶには小さすぎる。耳鳴りとも違う。遠くで、たくさんの小さな鈴が、ばらばらに鳴っているような。
九千人の、音かもしれない。
あの朝、俺の錆びを分けて持ってくれた、九千人の。
網は、まだ、あるのだと思う。
ただ、それはもう、ウイルスが作ろうとしていた網ではない。
一つに溶け合うための網ではなく、手をつなぐための網だ。
誰の重さも、なくさない。ただ、少しずつ分けて持つための。
そういう網なら、あってもいいと思う。
*
その夜、久しぶりに、焼き鮭を焼いた。
マンションの、2DKの部屋。四年間、詩織と二人で暮らしてきた部屋。三か月ぶりに戻ってきたとき、部屋の中は、埃をかぶっていたけれど、何も壊れていなかった。
ガスは、先週から、通るようになった。
グリルの中で、鮭の皮が、ぱちぱちと音を立てていた。
「おにい、焦げてる」
「焦げてない」
「焦げてる。匂いで分かる」
「これくらいが旨いんだよ」
「昔から、そればっかり」
詩織が、食器棚から茶碗を二つ出した。白いご飯をよそい、味噌汁を注ぐ。念動力は使わない。家の中では使わない、と、詩織は自分で決めたらしい。
食卓に、二人分の夕飯が並んだ。
焼き鮭。白いご飯。味噌汁。きんぴら。
駐屯地の食堂で食べたのと、ほとんど同じ献立だった。
でも、全然、違った。
「いただきます」
「いただきます」
詩織が、鮭の身をほぐして、口に運んだ。
それから、少しだけ、顔をしかめた。
「……やっぱり、焦げてる」
「文句言うなら食うな」
「食べるよ」
詩織は、笑った。
「約束だもん」
*
食後、詩織が、麦茶を淹れた。
冷蔵庫の中で冷やしてあった、ガラスのポットから。
取っ手の欠けた、白いマグカップに。
アパートから持ってきた、あのマグだった。三か月前、熱に浮かされていた俺の枕元で、最初に動いたマグ。
詩織は、それを、テーブルの向こう側に置いた。
俺の手から、ちょうど二十センチ、届かない場所に。
わざとだと、すぐに分かった。
俺は、詩織を見た。
詩織は、何も言わずに、にやにやと笑っていた。
マグカップが、動いた。
テーブルの天板の上を、す、と。
二十センチ。
俺の指先の、ちょうど手前で、ぴたりと止まった。中の麦茶は、一滴もこぼれなかった。
弦の音が、かすかに聞こえた気がした。
「……お前な」
「今のは、家の中でも、特別」
詩織は言った。
「おにい、水、ちゃんと飲んで」
俺は、マグカップに、手を伸ばした。
指で、取っ手のない側を掴んだ。
持ち上げた。
中の麦茶が、揺れた。冷たさが、陶器越しに、手のひらに伝わってきた。
重かった。
ほんの少しだけ。
三百五十ミリリットルの麦茶と、陶器のマグカップの、ほんの少しの重さ。
それが、ちゃんと、手の中にあった。
俺は、麦茶を飲んだ。
旨かった。
窓の外に、相模原の夜景が広がっていた。三か月前、真っ暗だった街に、ぽつぽつと、明かりが戻り始めていた。
一つ。十。百。
小さな明かりが、一つずつ。
それぞれの明かりの下に、誰かがいて、それぞれの重さを抱えて、それでも、今夜も、そこにいる。
明日も、荷物を届けに行く。
届け先には、ちゃんと、人がいる。
(完)