外の空気は、焦げたゴムの匂いがした。
アパートの外階段を降りきったところで、俺は立ち止まった。見慣れた路地だった。左に曲がればコインランドリー、右に行けば小学校の通学路。大学時代、毎朝寝ぼけた頭で歩いた道だ。
その道の真ん中に、軽自動車が一台、横倒しになっていた。
運転席側のドアが上を向き、窓ガラスが蜘蛛の巣状に割れている。中に人はいない。いや――いた痕跡はあった。割れたガラスの縁に、乾いた赤黒い筋がこびりついている。何かが、そこから這い出したのだ。
周囲は静かだった。
静かすぎた。朝の七時前だ。本来なら新聞配達のバイクが走り、ジョギングする老人がいて、どこかの家から味噌汁の匂いが漂ってくる時間だ。今はカラスの声しかしない。電柱の上で三羽、こちらを見下ろしている。
遠くで、また煙が上がっていた。駅の方角だ。黒い煙が、灰色の空に一本の柱を立てている。
スマホの地図を開く。相模原東高校まで十二・三キロ。徒歩なら二時間半。
今の俺の足で、二時間半歩けるとは思えなかった。膝はまだ頼りなく、四日ぶりに浴びる外の光だけで、軽い眩暈がする。
まずは、何か食わないと。
*
百メートル先のコンビニは、ガラス戸が割られていた。
店内は荒らされていたが、空っぽではなかった。棚の半分ほどは倒れ、床に商品が散乱している。弁当とパンの棚は完全に空だった。おにぎりの包装フィルムが、枯れ葉みたいに床一面に散らばっている。
レジの奥、バックヤードへ続くドアの前に、制服姿の男が倒れていた。
俺は足を止めた。
男はうつ伏せで、動かなかった。後頭部が――いや、よく見なかった。見ないようにした。床に広がった黒い染みは、もう完全に乾いていた。
再起動個体にならなかったのか、それとも誰かが止めたのか。分からない。分からないまま、俺はできるだけ男から遠い通路を選んで、奥の飲料棚へ向かった。
スポーツドリンクが三本、棚の下に転がっていた。一本目を開けて、一息で半分飲んだ。喉を通る冷たさで、涙が出そうになった。
カップ麺の棚は手つかずだった。湯がなければ食えないと思われたのだろう。俺は乾麺のままかじった。塩辛くて、固くて、信じられないほど旨かった。
三個目のカップ麺を平らげたころ、体の奥で何かが変わり始めたのを感じた。
熱、ではない。
温まる、という感じに近い。冷え切ったエンジンが、少しずつ油温を上げていくような。こめかみの奥で、あの低いアイドリング音が、今度は穏やかに鳴っていた。痛みはなかった。むしろ――心地よかった。
店の隅に、飲料の自販機が一台置かれていた。店内用の、背の高いタイプだ。重さはたぶん三百キロ近い。
俺はそれを見た。
試してみたかった。アパートの廊下で佐伯さんを押し返したとき、俺は死ぬほど消耗していた。熱も下がりきっていなかった。今は違う。
浮け。
言葉にする必要はなかった。そう思った瞬間には、もう浮いていた。
自販機が、床から離れた。
ゆっくりとではない。ほとんど抵抗なく、すっと、三十センチ。背後のコンセントが引っ張られて、ばちん、とプラグが抜けた。照明が消え、コンプレッサーの唸りが止まる。
三百キロの鉄の箱が、音もなく空中に静止していた。
鼻血は出なかった。頭痛もなかった。
俺はそれを、天井すれすれまで持ち上げた。それから左右に揺らした。まるで、発泡スチロールの箱を指でつまんでいるような感覚だった。重さというものが、そこに存在しないみたいだった。
「……マジかよ」
自販機を床に戻す。着地の瞬間、どすん、と床が震えた。重さは、確かにあった。俺が感じていなかっただけだ。
分かったことがある。
アパートでの俺は、力が弱かったんじゃない。体が、力に追いついていなかったのだ。熱で弱りきった体が、ブレーキを踏みっぱなしにしていた。そのブレーキが、今、外れかけている。
どこまでいけるのか。
試すのは怖かった。けれど、知らないまま十二キロを歩くほうが、もっと怖かった。
*
コンビニの駐車場に、放置されたワゴン車があった。
ドアは開いていたが、キーはなかった。俺には配線を直結してエンジンをかける技術もない。ただ、この車には別の使い道があった。
浮け。
二トン近い車体が、駐車場のアスファルトからふわりと離れた。タイヤが空転するように、宙で一瞬揺れる。
自販機のときより、ほんの少しだけ、手応えがあった。重い荷物を持つときの、腕の筋肉の張り。それが頭の奥のどこかで起きている感覚。でも、苦しくはない。
もっと。
ワゴン車を三メートルの高さまで上げた。五メートル。電線の高さを越えた。
そこで、アイドリング音が変わった。
低く穏やかだった振動が、ぐっと太くなった。回転数が上がる。頭蓋骨の内側で、音が反響し始める。
同時に――気配を感じた。
気配、としか言いようがない。背中の皮膚が、ざわりと粟立つ感覚。どこか遠くで、何かがこちらを振り向いた、という確信。一つではない。いくつも。いくつも。
ワゴン車をゆっくりと下ろした。着地させ、力を抜く。
アイドリング音が静まっていく。
背中のざわつきは、消えなかった。
コンビニの角の向こう、住宅街の路地から、足音が聞こえ始めた。
ずる。ずる。ずる。
一人分ではなかった。
*
最初に姿を見せたのは、スーツ姿の男だった。
ネクタイが首から垂れ下がり、片方の革靴が脱げている。白い目。開いた口。その後ろから、ジャージ姿の中学生くらいの少年。エプロンをつけた中年の女。パジャマの老人。
五人。十人。
路地の奥から、まだ出てくる。
俺は後ずさった。アパートの廊下で佐伯さんと対峙したときの、あの足がすくむ感覚が蘇ってくる。
でも、今は違う。体は動く。そして、力もある。
十五人を超えたところで、先頭のスーツの男が、駐車場の縁石を越えた。距離は二十メートル。
どうする。
逃げるか。どこへ。どれだけの速さで。俺の足では、奴らを振り切れるかどうか怪しい。
いや――振り切る必要はない。
俺は、さっき下ろしたワゴン車を見た。
浮け。
ワゴン車が再び宙に上がる。今度は迷わなかった。
行け。
ワゴン車が、横倒しの姿勢のまま、駐車場を横切って飛んだ。
先頭の五、六人をまとめて薙ぎ払い、そのまま路地の入り口に叩きつけられる。金属がひしゃげる轟音。ブロック塀が崩れ、砂煙が上がった。ワゴン車は路地の入り口を、斜めに、完全に塞いでいた。
路地の奥から出てこようとしていた残りの連中は、車体の向こうに閉じ込められた。車体を叩く、どん、どん、という鈍い音が聞こえる。
俺は立ち尽くしていた。
アイドリング音は、今やエンジン全開の咆哮になっていた。頭の中が、音で満ちている。でも痛みはない。むしろ、全身の血が沸き立つような高揚感があった。
これが、俺の力だ。
その高揚感は、長く続かなかった。
背中のざわつきが、爆発的に広がったからだ。
さっきまでのそれが「いくつも」だったとすれば、今のは「無数」だった。四方八方から、何かが一斉にこちらを振り向いた。住宅街の奥から、国道の方角から、駅の方角から。距離は分からない。数も分からない。ただ、それが自分に向かって動き始めたことだけは、はっきりと分かった。
俺は、自分の頭の中で鳴っている音を呪った。
大きな力を使えば、音も大きくなる。そして、その音は奴らに届く。
アパートで気づきかけていたことが、確信に変わった。
*
走った。
どこへ向かうか、考える余裕はなかった。とにかく音から離れたかった。いや、音を出しているのは俺自身だ。離れようがない。それでも走った。
膝が悲鳴を上げた。肺が焼けた。四日寝たきりだった体は、三百メートルも走らないうちに限界を訴えた。
交差点で立ち止まり、電柱に手をついて荒い息を吐く。
背中のざわつきは、少しずつ弱まっていた。力を使うのをやめたからだろう。音が静まれば、奴らは俺を見失う。そういう理屈らしい。
ただ、見失ったからといって、集まってきた連中が消えるわけではない。
交差点の向こう、国道十六号線の方角を見て、俺は息を呑んだ。
国道が、埋まっていた。
車ではない。人で。
いや、人ではない。白い目をした、かつて人だったものたちで。数百、いや千を超えるかもしれない。片側三車線の広い国道を、端から端まで埋め尽くして、ゆっくりと、うねるように動いている。まるで一つの巨大な生き物のようだった。
その群れは、こちらへ向かってはいなかった。さっきのコンビニの方角へ――俺が音を立てた場所へ、流れていた。
もし、あそこにまだ俺がいたら。
冷や汗が背中を伝った。
俺は電柱の陰に身を隠し、群れが通り過ぎるのを待った。力は使わなかった。使えば、あの千の白い目が一斉にこちらを向く。
十分。二十分。
群れの最後尾が交差点を抜けていったのは、三十分近く経ってからだった。
*
学んだことを整理しよう。
俺は交差点脇の歩道橋の階段に座り、スポーツドリンクの残りを飲みながら考えた。宅配ドライバーの癖だ。ルートを組む前に、条件を洗い出す。
一つ。俺の力は、思っていたよりはるかに強い。二トンの車を投げ飛ばしても、息一つ切れなかった。限界がどこにあるのか、まだ分からない。
二つ。力を使うと、頭の中で「音」が鳴る。大きな力ほど、音も大きい。
三つ。その音は、ゾンビに聞こえる。聞こえた連中は、音の発生源に向かって集まってくる。
四つ。力を止めれば、音も止まる。奴らは俺を見失う。
つまり、この力は最強の武器であると同時に、最悪の発信機でもある。
使えば使うほど、状況は悪くなる。
それでも、使わずに十二キロを歩き切れるとは思えなかった。
必要なのは、足だ。
俺はスマホの地図を拡大した。ここから北東に二キロ。俺が勤めていた営業所がある。閉鎖された日、所長は配送トラックを全部置いていった。キーは事務所のキーボックスの中。暗証番号は、俺も知っている。
二トントラック。荷台は空。燃料は、たぶん半分以上残っている。
あれなら、行ける。
*
営業所までの二キロは、力を一度も使わずに歩いた。
途中、何度か再起動個体とすれ違った。単独でうろついている連中は、音を立てなければ俺に気づかないことが多かった。視力はあまりよくないらしい。五メートルまで近づかれて、ようやくこちらに顔を向ける。そうなったら、静かに距離を取ればいい。
一度だけ、路地の角で鉢合わせした。作業着姿の若い男だった。距離は二メートルもなかった。男が腕を伸ばし、俺の肩を掴もうとした。
反射的に、力が出た。
ほんの一瞬、ほんのわずか。男の体を横に押しただけだ。男はよろめいてブロック塀にぶつかり、俺はその脇をすり抜けて走った。
音は、小さかった。背中のざわつきも、ほとんど起きなかった。
小さな力なら、小さな音で済む。当然の理屈だが、体で確かめられたのは大きかった。
営業所の門は閉まっていた。フェンス越しに、見慣れた白いトラックが八台、整然と並んでいるのが見えた。事務所の窓ガラスは割れていない。誰も荒らしに来なかったらしい。
門の南京錠を、力で捻じ切った。ぱきん、と乾いた音。ほんの一瞬のアイドリング。
事務所のキーボックスの暗証番号は、所長の誕生日だった。四桁を押すと、かちりと扉が開いた。
十二号車のキーを取った。俺がいつも乗っていた車だ。
運転席に座り、キーを回す。セルが二度空回りし、三度目でエンジンがかかった。ディーゼルの振動が、シートを通して背骨に伝わってくる。燃料計の針は、四分の三を指していた。
ハンドルに額を押しつけ、しばらくそうしていた。
エンジンの音が、頭の中のあの音とは違って、ひどく懐かしかった。
*
ルートは、宅配の頭で組んだ。
国道十六号線は使えない。あの群れがいる。県道五十二号から裏道に抜け、住宅街を縫うように北上する。道幅は狭いが、トラックが通れることは知っている。何百回も走った道だ。
最初の五キロは、順調だった。
放置車両は何台かあったが、避けられる程度だった。再起動個体も、単独か数体程度。トラックの音に気づいて寄ってくる連中もいたが、時速四十キロで走っていれば追いつかれることはない。
エンジン音は、あの「音」とは違う。奴らは普通の物音にも反応するが、力の音ほど強く引き寄せられはしないらしい。いくつか試して、それが分かった。
六キロ地点、相模川を渡る橋の手前で、道が塞がれていた。
玉突き事故だった。大型トレーラーが横転し、その後ろに乗用車が十台以上、折り重なるように突っ込んでいる。橋の入り口を、完全に塞いでいた。
迂回路を考える。下流の橋までは四キロ。上流の橋は、先週から通行止めになっていたはずだ。
四キロの迂回。その間に何があるか分からない。
あるいは――。
俺はトラックを止め、運転席から降りた。
目の前の事故車の山を見る。横転したトレーラーは、たぶん二十トン以上ある。
二トンのワゴン車は、息一つ切れずに投げられた。
二十トンは、どうだ。
大きな力は、大きな音を出す。ここで力を使えば、周囲数キロの連中が集まってくるだろう。国道のあの群れも、たぶん来る。
ただし――音が届いてから奴らがここに着くまで、時間がかかる。あの群れは遅かった。三十分かけて交差点を通り過ぎた。
一気にやって、一気に離れる。
それしかない。
俺は深く息を吸い、事故車の山と向き合った。
まず乗用車から。
浮け。
一台目が、ふわりと浮いた。二台目。三台目。考えるより早く、俺の中の何かが、目の前の鉄の塊を一つ一つ「掴んで」いく。十台。十二台。すべてが同時に宙に浮き、鉄とガラスの破片がぱらぱらと降り注いだ。
アイドリング音が、咆哮に変わる。
それらを、川沿いの河川敷へ放り投げた。十二台の乗用車が、雪崩のように土手を転がり落ちていく。轟音が、川面に反響した。
残るはトレーラーだ。
浮け。
手応えが、はっきりと違った。
重い。
初めて、重さを感じた。頭の奥の何かが、ぎしりと軋む。トレーラーの車体が、地面から数センチ持ち上がり、そこで止まる。
もっと。
歯を食いしばった。こめかみが脈打つ。視界の縁が白く焼け始める。アパートで佐伯さんを押し返したときと同じ感覚だった。でも、あのときとは違う。今の俺には、まだ余力がある。底が、見えない。
もっと。
トレーラーが、上がった。
一メートル。二メートル。巨大な車体が、橋の入り口の上空に浮かんでいる。荷台から、積荷の段ボールがばらばらとこぼれ落ちた。
頭の中の音は、もはや音ではなかった。雷鳴だった。自分の頭蓋骨が、巨大なスピーカーになったような。
背中のざわつきが、爆発した。
コンビニの駐車場のときとは比べ物にならなかった。四方八方どころではない。俺を中心に、世界中の白い目が一斉にこちらを向いたような――そんな錯覚さえ覚えるほどの、圧倒的な「振り向き」。
行け。
トレーラーを、川へ投げた。
二十トンの鉄の塊が放物線を描き、相模川の水面に叩きつけられた。水柱が、橋の欄干を越えて立ち上がった。
道が、開いた。
鼻の下が温かかった。手の甲で拭うと、赤かった。鼻血だ。でも、アパートのときほどではない。眩暈もない。
俺は運転席に飛び乗り、アクセルを踏み込んだ。
*
橋を渡りきったところで、バックミラーを見た。
対岸の土手の上に、白い影が立ち並び始めていた。
十。百。
まだ増えている。住宅街の路地から、国道の方角から、河川敷の藪の中から。白い目の群れが、俺がさっきまで立っていた場所に向かって、なだれ込んでいた。
俺がいなくなったことに、まだ気づいていない。音の余韻を追っているのだ。
アクセルを踏む足に、力がこもった。
*
九キロ地点。
住宅街の中の、小さな薬局の前を通り過ぎようとしたとき、声が聞こえた。
「――待って! お願い、止まって!」
人間の声だった。
ブレーキを踏んだ。トラックが軋んで止まる。
薬局の二階、窓から女が身を乗り出していた。三十前後だろうか。ショートカットの髪に、紺色のスクラブを着ている。看護師か何かだろう。
「そこのトラック! 生きてる人でしょ!」
窓を下ろし、身を乗り出す。
「生きてます! そっちは!」
「七人いる! 子どもが二人! 一階が囲まれてて出られないの!」
薬局の正面を見た。シャッターが下りている。その前に、再起動個体が二十体ほど群がって、シャッターを叩いていた。がしゃん、がしゃん、と金属が悲鳴を上げている。シャッターの下端は、もう内側にめくれ始めていた。
二十体。
力を使えば、一瞬で片づく。でも、使えば音が出る。音が出れば、さらに集まる。川の向こうの群れも、もしかしたら。
助けたところで、俺のトラックには七人も乗せられない。いや、荷台なら乗る。でも、俺は詩織のところへ行かなければならない。自衛隊が、熱の下がった人間を連れていっている。詩織にも、熱がある。
時間がない。
「お願い!」女が叫んだ。「子どもがいるの!」
俺は、ハンドルを握りしめた。
――おにい、ちゃんと水飲んで。
詩織の声が、頭の中で聞こえた気がした。
あいつなら、何て言うだろう。
分かっている。あいつなら、絶対に止まれと言う。
「……くそっ」
俺は運転席から降りた。
シャッターに群がる連中が、トラックのエンジン音に気づいて、何体かこちらを振り向いた。白い目。開いた口。
小さく、速く。
浮け。
二十体が、同時に地面から浮いた。
一体一体を掴む必要はなかった。シャッターの前の空間ごと、まとめて持ち上げるイメージ。薬局の前の歩道から、二十体の体がぶわりと浮き上がる。手足をばたつかせ、宙を掻いている。
そして、道路の向かいの空き地へ放り出した。
空き地は高いフェンスで囲まれていた。二十体は、フェンスの内側へ、雨のように落ちていった。フェンスの扉は、一瞬で力を使って歪ませ、開かないように噛み合わせた。
全部で、三秒もかからなかった。
アイドリング音は、トレーラーのときより小さかった。でも、ゼロではない。背中のざわつきが、また広がり始めている。
「今のうちに!」俺は叫んだ。「荷台に乗って! 早く!」
二階の窓の女は、口を開けたまま固まっていた。
当然だろう。二十体のゾンビが、目の前で宙を舞ったのだ。
「……あなた、今の」
「話はあとで! すぐにもっと来ます!」
シャッターを、力で持ち上げた。ぎしぎしと歪んだ金属が、巻き上げ機構ごと上へ引き上げられる。
店の奥から、人が出てきた。スクラブの女が先頭で、その後ろに老夫婦、中年の男、若い母親と、その手を握った小さな男の子と女の子。
七人を荷台に乗せ、扉を閉めた。スクラブの女だけが、助手席に乗り込んできた。
「真壁です」女は言った。「真壁灯子。北里の病院で看護師をしてた」
「久遠です。とにかく、ここを離れます」
アクセルを踏んだ。
*
十キロ地点で、真壁さんが口を開いた。
「あなた、白眼熱にかかったでしょう」
質問ではなかった。確認だった。
俺は横目で彼女を見た。真壁さんは、じっと俺の顔を――目を見ていた。
「……分かりますか」
「虹彩の縁。銀色の輪がある」真壁さんは言った。「病院で、何人か見た。熱が下がって、意識が戻った患者の中に、同じ目をした人がいた」
「その人たちは、どうなったんですか」
「連れていかれた」
真壁さんの声は、平坦だった。平坦すぎた。
「三日前、病院に自衛隊が来た。防護服を着た人たちが、回復した患者を一人ずつ確認していった。目に輪がある人だけを、別の車に乗せて。行き先は教えてもらえなかった。家族にも」
俺は、ハンドルを握る手に力を込めた。
「その患者たちも、あなたみたいなことができたの?」
「……分かりません。俺は、自分以外にこういう人を見たことがない」
「あんなことができるなら」真壁さんは、窓の外を見た。「国が欲しがるのは当然ね」
しばらく、エンジンの音だけが響いた。
「どこへ向かってるの」
「相模原東高校。妹がいます。体育館が避難所になってて」
「そこにも、自衛隊が来てるんでしょう」
「……はい」
「妹さん、熱は」
俺は答えなかった。答えなかったことで、答えになった。
真壁さんは、足元のバッグを探り、錠剤のシートを取り出した。
「解熱剤。それと、経口補水液の粉末。薬局から持ってきた」彼女は、それを俺の膝の上に置いた。「白眼熱に効く薬はない。でも、熱が高すぎると脳がやられる。回復する可能性がある人も、そこで死ぬ。下げられるなら下げたほうがいい」
「……ありがとうございます」
「礼を言うのはこっち」
真壁さんは、それから一枚の紙切れを差し出した。走り書きの数字が並んでいる。
「無線の周波数。私たち、病院を抜けた職員で小さなグループを作ってる。避難民の手当てをしながら、連れていかれた患者の行き先を探してる」
「行き先を?」
「私の弟も、連れていかれたの」
真壁さんは、窓の外を見たまま言った。
「目に、銀色の輪があった」
*
十一キロ地点で、真壁さんたちを降ろした。
彼女のグループが拠点にしている公民館だった。窓には板が打ちつけられ、屋上に何人かの見張りが立っていた。荷台から降りた小さな女の子が、俺に向かって手を振った。俺も振り返した。
「妹さんを連れて、ここに戻ってきて」別れ際、真壁さんは言った。「少なくとも、ここには防護服の連中はいない」
「……考えておきます」
トラックを出した。
バックミラーの中で、真壁さんが、いつまでもこちらを見ていた。
*
十二キロ地点。
相模原東高校の正門が、見えてきた。
そして、その前に並ぶ、深緑色の車両の列も。
高機動車が三台。大型トラックが二台。それから、見たこともない形の、窓のない装甲車両が一台。正門の前には、迷彩服に防護マスクをつけた隊員たちが、小銃を手に立っていた。
俺はトラックを、正門から二百メートルほど手前の路地に止めた。エンジンを切る。
どうする。
真正面から行けば、俺の目を見られる。見られれば、連れていかれる。
力を使えば、あの隊員たちを蹴散らすことはできるかもしれない。いや、たぶんできる。二十トンのトレーラーを持ち上げた俺なら。
でも、それをやったら、俺はもう引き返せない。国家に、はっきりと敵として認識される。そして、頭の中の雷鳴は、半径数キロの白い目をすべて、この学校に呼び寄せるだろう。体育館には、何百人もの避難民がいる。
スマホを取り出す。詩織からの新しいメッセージはなかった。最後のメッセージは、一時間前。
『おにい、今どこ』
『近くにいる』と打った。『いま、正門の近く』
既読がつかない。
一分。二分。
嫌な予感が、背骨を這い上がってきた。
そのときだった。
トラックが、揺れた。
地震ではない。車体そのものが、何かに掴まれたように、ぎしりと軋んだ。フロントガラスに、蜘蛛の巣状のひびが走る。
俺ではない。俺は、何もしていない。
頭の奥で、音が鳴っていた。
俺のアイドリング音ではない。もっと高い、澄んだ、ガラスの縁を指でなぞったときのような音。それが、俺の頭の中の音と重なって、不協和音を奏でている。
トラックが、地面から浮き上がった。
一メートル。二メートル。
俺の意思とは関係なく。
「なっ――」
とっさに、力で押し返した。トラックを地面に戻そうとする。
手応えがあった。何かが、俺の力と拮抗している。見えない手が二つ、同じ車体を反対の方向から掴んで、引っ張り合っているような。
トラックは、宙に浮いたまま、ぴたりと静止した。
運転席の窓の外に、人影が現れた。
黒いタクティカルスーツを着た、細身の男だった。二十代後半だろうか。防護マスクはつけていない。自衛隊の迷彩服でもない。胸に、見たことのない徽章がついていた。
男は、宙に浮いたトラックの横に、同じ高さで立っていた。
いや――浮いていた。
足の下には、何もなかった。
男は、ひびの入った窓越しに俺を覗き込んで、にこりと笑った。
その目の縁に、銀色の輪が光っていた。俺のものより、ずっと太く、ずっと明るく。
「やあ」
男の声は、窓ガラス越しなのに、はっきりと聞こえた。
「君の音、十キロ先から聞こえてたよ。相模川で何か投げたろ? あれはうるさかった」
男は、窓ガラスを指先でこつこつと叩いた。
「迎えに来たんだ。妹さんのことも含めて、少し話をしようか。――久遠湊くん」
(第二章 了)