重さの無い街   作:Sub Sonic

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2話

 

外の空気は、焦げたゴムの匂いがした。

 

アパートの外階段を降りきったところで、俺は立ち止まった。見慣れた路地だった。左に曲がればコインランドリー、右に行けば小学校の通学路。大学時代、毎朝寝ぼけた頭で歩いた道だ。

 

その道の真ん中に、軽自動車が一台、横倒しになっていた。

 

運転席側のドアが上を向き、窓ガラスが蜘蛛の巣状に割れている。中に人はいない。いや――いた痕跡はあった。割れたガラスの縁に、乾いた赤黒い筋がこびりついている。何かが、そこから這い出したのだ。

 

周囲は静かだった。

 

静かすぎた。朝の七時前だ。本来なら新聞配達のバイクが走り、ジョギングする老人がいて、どこかの家から味噌汁の匂いが漂ってくる時間だ。今はカラスの声しかしない。電柱の上で三羽、こちらを見下ろしている。

 

遠くで、また煙が上がっていた。駅の方角だ。黒い煙が、灰色の空に一本の柱を立てている。

 

スマホの地図を開く。相模原東高校まで十二・三キロ。徒歩なら二時間半。

 

今の俺の足で、二時間半歩けるとは思えなかった。膝はまだ頼りなく、四日ぶりに浴びる外の光だけで、軽い眩暈がする。

 

まずは、何か食わないと。

 

  *

 

百メートル先のコンビニは、ガラス戸が割られていた。

 

店内は荒らされていたが、空っぽではなかった。棚の半分ほどは倒れ、床に商品が散乱している。弁当とパンの棚は完全に空だった。おにぎりの包装フィルムが、枯れ葉みたいに床一面に散らばっている。

 

レジの奥、バックヤードへ続くドアの前に、制服姿の男が倒れていた。

 

俺は足を止めた。

 

男はうつ伏せで、動かなかった。後頭部が――いや、よく見なかった。見ないようにした。床に広がった黒い染みは、もう完全に乾いていた。

 

再起動個体にならなかったのか、それとも誰かが止めたのか。分からない。分からないまま、俺はできるだけ男から遠い通路を選んで、奥の飲料棚へ向かった。

 

スポーツドリンクが三本、棚の下に転がっていた。一本目を開けて、一息で半分飲んだ。喉を通る冷たさで、涙が出そうになった。

 

カップ麺の棚は手つかずだった。湯がなければ食えないと思われたのだろう。俺は乾麺のままかじった。塩辛くて、固くて、信じられないほど旨かった。

 

三個目のカップ麺を平らげたころ、体の奥で何かが変わり始めたのを感じた。

 

熱、ではない。

 

温まる、という感じに近い。冷え切ったエンジンが、少しずつ油温を上げていくような。こめかみの奥で、あの低いアイドリング音が、今度は穏やかに鳴っていた。痛みはなかった。むしろ――心地よかった。

 

店の隅に、飲料の自販機が一台置かれていた。店内用の、背の高いタイプだ。重さはたぶん三百キロ近い。

 

俺はそれを見た。

 

試してみたかった。アパートの廊下で佐伯さんを押し返したとき、俺は死ぬほど消耗していた。熱も下がりきっていなかった。今は違う。

 

浮け。

 

言葉にする必要はなかった。そう思った瞬間には、もう浮いていた。

 

自販機が、床から離れた。

 

ゆっくりとではない。ほとんど抵抗なく、すっと、三十センチ。背後のコンセントが引っ張られて、ばちん、とプラグが抜けた。照明が消え、コンプレッサーの唸りが止まる。

 

三百キロの鉄の箱が、音もなく空中に静止していた。

 

鼻血は出なかった。頭痛もなかった。

 

俺はそれを、天井すれすれまで持ち上げた。それから左右に揺らした。まるで、発泡スチロールの箱を指でつまんでいるような感覚だった。重さというものが、そこに存在しないみたいだった。

 

「……マジかよ」

 

自販機を床に戻す。着地の瞬間、どすん、と床が震えた。重さは、確かにあった。俺が感じていなかっただけだ。

 

分かったことがある。

 

アパートでの俺は、力が弱かったんじゃない。体が、力に追いついていなかったのだ。熱で弱りきった体が、ブレーキを踏みっぱなしにしていた。そのブレーキが、今、外れかけている。

 

どこまでいけるのか。

 

試すのは怖かった。けれど、知らないまま十二キロを歩くほうが、もっと怖かった。

 

  *

 

コンビニの駐車場に、放置されたワゴン車があった。

 

ドアは開いていたが、キーはなかった。俺には配線を直結してエンジンをかける技術もない。ただ、この車には別の使い道があった。

 

浮け。

 

二トン近い車体が、駐車場のアスファルトからふわりと離れた。タイヤが空転するように、宙で一瞬揺れる。

 

自販機のときより、ほんの少しだけ、手応えがあった。重い荷物を持つときの、腕の筋肉の張り。それが頭の奥のどこかで起きている感覚。でも、苦しくはない。

 

もっと。

 

ワゴン車を三メートルの高さまで上げた。五メートル。電線の高さを越えた。

 

そこで、アイドリング音が変わった。

 

低く穏やかだった振動が、ぐっと太くなった。回転数が上がる。頭蓋骨の内側で、音が反響し始める。

 

同時に――気配を感じた。

 

気配、としか言いようがない。背中の皮膚が、ざわりと粟立つ感覚。どこか遠くで、何かがこちらを振り向いた、という確信。一つではない。いくつも。いくつも。

 

ワゴン車をゆっくりと下ろした。着地させ、力を抜く。

 

アイドリング音が静まっていく。

 

背中のざわつきは、消えなかった。

 

コンビニの角の向こう、住宅街の路地から、足音が聞こえ始めた。

 

ずる。ずる。ずる。

 

一人分ではなかった。

 

  *

 

最初に姿を見せたのは、スーツ姿の男だった。

 

ネクタイが首から垂れ下がり、片方の革靴が脱げている。白い目。開いた口。その後ろから、ジャージ姿の中学生くらいの少年。エプロンをつけた中年の女。パジャマの老人。

 

五人。十人。

 

路地の奥から、まだ出てくる。

 

俺は後ずさった。アパートの廊下で佐伯さんと対峙したときの、あの足がすくむ感覚が蘇ってくる。

 

でも、今は違う。体は動く。そして、力もある。

 

十五人を超えたところで、先頭のスーツの男が、駐車場の縁石を越えた。距離は二十メートル。

 

どうする。

 

逃げるか。どこへ。どれだけの速さで。俺の足では、奴らを振り切れるかどうか怪しい。

 

いや――振り切る必要はない。

 

俺は、さっき下ろしたワゴン車を見た。

 

浮け。

 

ワゴン車が再び宙に上がる。今度は迷わなかった。

 

行け。

 

ワゴン車が、横倒しの姿勢のまま、駐車場を横切って飛んだ。

 

先頭の五、六人をまとめて薙ぎ払い、そのまま路地の入り口に叩きつけられる。金属がひしゃげる轟音。ブロック塀が崩れ、砂煙が上がった。ワゴン車は路地の入り口を、斜めに、完全に塞いでいた。

 

路地の奥から出てこようとしていた残りの連中は、車体の向こうに閉じ込められた。車体を叩く、どん、どん、という鈍い音が聞こえる。

 

俺は立ち尽くしていた。

 

アイドリング音は、今やエンジン全開の咆哮になっていた。頭の中が、音で満ちている。でも痛みはない。むしろ、全身の血が沸き立つような高揚感があった。

 

これが、俺の力だ。

 

その高揚感は、長く続かなかった。

 

背中のざわつきが、爆発的に広がったからだ。

 

さっきまでのそれが「いくつも」だったとすれば、今のは「無数」だった。四方八方から、何かが一斉にこちらを振り向いた。住宅街の奥から、国道の方角から、駅の方角から。距離は分からない。数も分からない。ただ、それが自分に向かって動き始めたことだけは、はっきりと分かった。

 

俺は、自分の頭の中で鳴っている音を呪った。

 

大きな力を使えば、音も大きくなる。そして、その音は奴らに届く。

 

アパートで気づきかけていたことが、確信に変わった。

 

  *

 

走った。

 

どこへ向かうか、考える余裕はなかった。とにかく音から離れたかった。いや、音を出しているのは俺自身だ。離れようがない。それでも走った。

 

膝が悲鳴を上げた。肺が焼けた。四日寝たきりだった体は、三百メートルも走らないうちに限界を訴えた。

 

交差点で立ち止まり、電柱に手をついて荒い息を吐く。

 

背中のざわつきは、少しずつ弱まっていた。力を使うのをやめたからだろう。音が静まれば、奴らは俺を見失う。そういう理屈らしい。

 

ただ、見失ったからといって、集まってきた連中が消えるわけではない。

 

交差点の向こう、国道十六号線の方角を見て、俺は息を呑んだ。

 

国道が、埋まっていた。

 

車ではない。人で。

 

いや、人ではない。白い目をした、かつて人だったものたちで。数百、いや千を超えるかもしれない。片側三車線の広い国道を、端から端まで埋め尽くして、ゆっくりと、うねるように動いている。まるで一つの巨大な生き物のようだった。

 

その群れは、こちらへ向かってはいなかった。さっきのコンビニの方角へ――俺が音を立てた場所へ、流れていた。

 

もし、あそこにまだ俺がいたら。

 

冷や汗が背中を伝った。

 

俺は電柱の陰に身を隠し、群れが通り過ぎるのを待った。力は使わなかった。使えば、あの千の白い目が一斉にこちらを向く。

 

十分。二十分。

 

群れの最後尾が交差点を抜けていったのは、三十分近く経ってからだった。

 

  *

 

学んだことを整理しよう。

 

俺は交差点脇の歩道橋の階段に座り、スポーツドリンクの残りを飲みながら考えた。宅配ドライバーの癖だ。ルートを組む前に、条件を洗い出す。

 

一つ。俺の力は、思っていたよりはるかに強い。二トンの車を投げ飛ばしても、息一つ切れなかった。限界がどこにあるのか、まだ分からない。

 

二つ。力を使うと、頭の中で「音」が鳴る。大きな力ほど、音も大きい。

 

三つ。その音は、ゾンビに聞こえる。聞こえた連中は、音の発生源に向かって集まってくる。

 

四つ。力を止めれば、音も止まる。奴らは俺を見失う。

 

つまり、この力は最強の武器であると同時に、最悪の発信機でもある。

 

使えば使うほど、状況は悪くなる。

 

それでも、使わずに十二キロを歩き切れるとは思えなかった。

 

必要なのは、足だ。

 

俺はスマホの地図を拡大した。ここから北東に二キロ。俺が勤めていた営業所がある。閉鎖された日、所長は配送トラックを全部置いていった。キーは事務所のキーボックスの中。暗証番号は、俺も知っている。

 

二トントラック。荷台は空。燃料は、たぶん半分以上残っている。

 

あれなら、行ける。

 

  *

 

営業所までの二キロは、力を一度も使わずに歩いた。

 

途中、何度か再起動個体とすれ違った。単独でうろついている連中は、音を立てなければ俺に気づかないことが多かった。視力はあまりよくないらしい。五メートルまで近づかれて、ようやくこちらに顔を向ける。そうなったら、静かに距離を取ればいい。

 

一度だけ、路地の角で鉢合わせした。作業着姿の若い男だった。距離は二メートルもなかった。男が腕を伸ばし、俺の肩を掴もうとした。

 

反射的に、力が出た。

 

ほんの一瞬、ほんのわずか。男の体を横に押しただけだ。男はよろめいてブロック塀にぶつかり、俺はその脇をすり抜けて走った。

 

音は、小さかった。背中のざわつきも、ほとんど起きなかった。

 

小さな力なら、小さな音で済む。当然の理屈だが、体で確かめられたのは大きかった。

 

営業所の門は閉まっていた。フェンス越しに、見慣れた白いトラックが八台、整然と並んでいるのが見えた。事務所の窓ガラスは割れていない。誰も荒らしに来なかったらしい。

 

門の南京錠を、力で捻じ切った。ぱきん、と乾いた音。ほんの一瞬のアイドリング。

 

事務所のキーボックスの暗証番号は、所長の誕生日だった。四桁を押すと、かちりと扉が開いた。

 

十二号車のキーを取った。俺がいつも乗っていた車だ。

 

運転席に座り、キーを回す。セルが二度空回りし、三度目でエンジンがかかった。ディーゼルの振動が、シートを通して背骨に伝わってくる。燃料計の針は、四分の三を指していた。

 

ハンドルに額を押しつけ、しばらくそうしていた。

 

エンジンの音が、頭の中のあの音とは違って、ひどく懐かしかった。

 

  *

 

ルートは、宅配の頭で組んだ。

 

国道十六号線は使えない。あの群れがいる。県道五十二号から裏道に抜け、住宅街を縫うように北上する。道幅は狭いが、トラックが通れることは知っている。何百回も走った道だ。

 

最初の五キロは、順調だった。

 

放置車両は何台かあったが、避けられる程度だった。再起動個体も、単独か数体程度。トラックの音に気づいて寄ってくる連中もいたが、時速四十キロで走っていれば追いつかれることはない。

 

エンジン音は、あの「音」とは違う。奴らは普通の物音にも反応するが、力の音ほど強く引き寄せられはしないらしい。いくつか試して、それが分かった。

 

六キロ地点、相模川を渡る橋の手前で、道が塞がれていた。

 

玉突き事故だった。大型トレーラーが横転し、その後ろに乗用車が十台以上、折り重なるように突っ込んでいる。橋の入り口を、完全に塞いでいた。

 

迂回路を考える。下流の橋までは四キロ。上流の橋は、先週から通行止めになっていたはずだ。

 

四キロの迂回。その間に何があるか分からない。

 

あるいは――。

 

俺はトラックを止め、運転席から降りた。

 

目の前の事故車の山を見る。横転したトレーラーは、たぶん二十トン以上ある。

 

二トンのワゴン車は、息一つ切れずに投げられた。

 

二十トンは、どうだ。

 

大きな力は、大きな音を出す。ここで力を使えば、周囲数キロの連中が集まってくるだろう。国道のあの群れも、たぶん来る。

 

ただし――音が届いてから奴らがここに着くまで、時間がかかる。あの群れは遅かった。三十分かけて交差点を通り過ぎた。

 

一気にやって、一気に離れる。

 

それしかない。

 

俺は深く息を吸い、事故車の山と向き合った。

 

まず乗用車から。

 

浮け。

 

一台目が、ふわりと浮いた。二台目。三台目。考えるより早く、俺の中の何かが、目の前の鉄の塊を一つ一つ「掴んで」いく。十台。十二台。すべてが同時に宙に浮き、鉄とガラスの破片がぱらぱらと降り注いだ。

 

アイドリング音が、咆哮に変わる。

 

それらを、川沿いの河川敷へ放り投げた。十二台の乗用車が、雪崩のように土手を転がり落ちていく。轟音が、川面に反響した。

 

残るはトレーラーだ。

 

浮け。

 

手応えが、はっきりと違った。

 

重い。

 

初めて、重さを感じた。頭の奥の何かが、ぎしりと軋む。トレーラーの車体が、地面から数センチ持ち上がり、そこで止まる。

 

もっと。

 

歯を食いしばった。こめかみが脈打つ。視界の縁が白く焼け始める。アパートで佐伯さんを押し返したときと同じ感覚だった。でも、あのときとは違う。今の俺には、まだ余力がある。底が、見えない。

 

もっと。

 

トレーラーが、上がった。

 

一メートル。二メートル。巨大な車体が、橋の入り口の上空に浮かんでいる。荷台から、積荷の段ボールがばらばらとこぼれ落ちた。

 

頭の中の音は、もはや音ではなかった。雷鳴だった。自分の頭蓋骨が、巨大なスピーカーになったような。

 

背中のざわつきが、爆発した。

 

コンビニの駐車場のときとは比べ物にならなかった。四方八方どころではない。俺を中心に、世界中の白い目が一斉にこちらを向いたような――そんな錯覚さえ覚えるほどの、圧倒的な「振り向き」。

 

行け。

 

トレーラーを、川へ投げた。

 

二十トンの鉄の塊が放物線を描き、相模川の水面に叩きつけられた。水柱が、橋の欄干を越えて立ち上がった。

 

道が、開いた。

 

鼻の下が温かかった。手の甲で拭うと、赤かった。鼻血だ。でも、アパートのときほどではない。眩暈もない。

 

俺は運転席に飛び乗り、アクセルを踏み込んだ。

 

  *

 

橋を渡りきったところで、バックミラーを見た。

 

対岸の土手の上に、白い影が立ち並び始めていた。

 

十。百。

 

まだ増えている。住宅街の路地から、国道の方角から、河川敷の藪の中から。白い目の群れが、俺がさっきまで立っていた場所に向かって、なだれ込んでいた。

 

俺がいなくなったことに、まだ気づいていない。音の余韻を追っているのだ。

 

アクセルを踏む足に、力がこもった。

 

  *

 

九キロ地点。

 

住宅街の中の、小さな薬局の前を通り過ぎようとしたとき、声が聞こえた。

 

「――待って! お願い、止まって!」

 

人間の声だった。

 

ブレーキを踏んだ。トラックが軋んで止まる。

 

薬局の二階、窓から女が身を乗り出していた。三十前後だろうか。ショートカットの髪に、紺色のスクラブを着ている。看護師か何かだろう。

 

「そこのトラック! 生きてる人でしょ!」

 

窓を下ろし、身を乗り出す。

 

「生きてます! そっちは!」

 

「七人いる! 子どもが二人! 一階が囲まれてて出られないの!」

 

薬局の正面を見た。シャッターが下りている。その前に、再起動個体が二十体ほど群がって、シャッターを叩いていた。がしゃん、がしゃん、と金属が悲鳴を上げている。シャッターの下端は、もう内側にめくれ始めていた。

 

二十体。

 

力を使えば、一瞬で片づく。でも、使えば音が出る。音が出れば、さらに集まる。川の向こうの群れも、もしかしたら。

 

助けたところで、俺のトラックには七人も乗せられない。いや、荷台なら乗る。でも、俺は詩織のところへ行かなければならない。自衛隊が、熱の下がった人間を連れていっている。詩織にも、熱がある。

 

時間がない。

 

「お願い!」女が叫んだ。「子どもがいるの!」

 

俺は、ハンドルを握りしめた。

 

――おにい、ちゃんと水飲んで。

 

詩織の声が、頭の中で聞こえた気がした。

 

あいつなら、何て言うだろう。

 

分かっている。あいつなら、絶対に止まれと言う。

 

「……くそっ」

 

俺は運転席から降りた。

 

シャッターに群がる連中が、トラックのエンジン音に気づいて、何体かこちらを振り向いた。白い目。開いた口。

 

小さく、速く。

 

浮け。

 

二十体が、同時に地面から浮いた。

 

一体一体を掴む必要はなかった。シャッターの前の空間ごと、まとめて持ち上げるイメージ。薬局の前の歩道から、二十体の体がぶわりと浮き上がる。手足をばたつかせ、宙を掻いている。

 

そして、道路の向かいの空き地へ放り出した。

 

空き地は高いフェンスで囲まれていた。二十体は、フェンスの内側へ、雨のように落ちていった。フェンスの扉は、一瞬で力を使って歪ませ、開かないように噛み合わせた。

 

全部で、三秒もかからなかった。

 

アイドリング音は、トレーラーのときより小さかった。でも、ゼロではない。背中のざわつきが、また広がり始めている。

 

「今のうちに!」俺は叫んだ。「荷台に乗って! 早く!」

 

二階の窓の女は、口を開けたまま固まっていた。

 

当然だろう。二十体のゾンビが、目の前で宙を舞ったのだ。

 

「……あなた、今の」

 

「話はあとで! すぐにもっと来ます!」

 

シャッターを、力で持ち上げた。ぎしぎしと歪んだ金属が、巻き上げ機構ごと上へ引き上げられる。

 

店の奥から、人が出てきた。スクラブの女が先頭で、その後ろに老夫婦、中年の男、若い母親と、その手を握った小さな男の子と女の子。

 

七人を荷台に乗せ、扉を閉めた。スクラブの女だけが、助手席に乗り込んできた。

 

「真壁です」女は言った。「真壁灯子。北里の病院で看護師をしてた」

 

「久遠です。とにかく、ここを離れます」

 

アクセルを踏んだ。

 

  *

 

十キロ地点で、真壁さんが口を開いた。

 

「あなた、白眼熱にかかったでしょう」

 

質問ではなかった。確認だった。

 

俺は横目で彼女を見た。真壁さんは、じっと俺の顔を――目を見ていた。

 

「……分かりますか」

 

「虹彩の縁。銀色の輪がある」真壁さんは言った。「病院で、何人か見た。熱が下がって、意識が戻った患者の中に、同じ目をした人がいた」

 

「その人たちは、どうなったんですか」

 

「連れていかれた」

 

真壁さんの声は、平坦だった。平坦すぎた。

 

「三日前、病院に自衛隊が来た。防護服を着た人たちが、回復した患者を一人ずつ確認していった。目に輪がある人だけを、別の車に乗せて。行き先は教えてもらえなかった。家族にも」

 

俺は、ハンドルを握る手に力を込めた。

 

「その患者たちも、あなたみたいなことができたの?」

 

「……分かりません。俺は、自分以外にこういう人を見たことがない」

 

「あんなことができるなら」真壁さんは、窓の外を見た。「国が欲しがるのは当然ね」

 

しばらく、エンジンの音だけが響いた。

 

「どこへ向かってるの」

 

「相模原東高校。妹がいます。体育館が避難所になってて」

 

「そこにも、自衛隊が来てるんでしょう」

 

「……はい」

 

「妹さん、熱は」

 

俺は答えなかった。答えなかったことで、答えになった。

 

真壁さんは、足元のバッグを探り、錠剤のシートを取り出した。

 

「解熱剤。それと、経口補水液の粉末。薬局から持ってきた」彼女は、それを俺の膝の上に置いた。「白眼熱に効く薬はない。でも、熱が高すぎると脳がやられる。回復する可能性がある人も、そこで死ぬ。下げられるなら下げたほうがいい」

 

「……ありがとうございます」

 

「礼を言うのはこっち」

 

真壁さんは、それから一枚の紙切れを差し出した。走り書きの数字が並んでいる。

 

「無線の周波数。私たち、病院を抜けた職員で小さなグループを作ってる。避難民の手当てをしながら、連れていかれた患者の行き先を探してる」

 

「行き先を?」

 

「私の弟も、連れていかれたの」

 

真壁さんは、窓の外を見たまま言った。

 

「目に、銀色の輪があった」

 

  *

 

十一キロ地点で、真壁さんたちを降ろした。

 

彼女のグループが拠点にしている公民館だった。窓には板が打ちつけられ、屋上に何人かの見張りが立っていた。荷台から降りた小さな女の子が、俺に向かって手を振った。俺も振り返した。

 

「妹さんを連れて、ここに戻ってきて」別れ際、真壁さんは言った。「少なくとも、ここには防護服の連中はいない」

 

「……考えておきます」

 

トラックを出した。

 

バックミラーの中で、真壁さんが、いつまでもこちらを見ていた。

 

  *

 

十二キロ地点。

 

相模原東高校の正門が、見えてきた。

 

そして、その前に並ぶ、深緑色の車両の列も。

 

高機動車が三台。大型トラックが二台。それから、見たこともない形の、窓のない装甲車両が一台。正門の前には、迷彩服に防護マスクをつけた隊員たちが、小銃を手に立っていた。

 

俺はトラックを、正門から二百メートルほど手前の路地に止めた。エンジンを切る。

 

どうする。

 

真正面から行けば、俺の目を見られる。見られれば、連れていかれる。

 

力を使えば、あの隊員たちを蹴散らすことはできるかもしれない。いや、たぶんできる。二十トンのトレーラーを持ち上げた俺なら。

 

でも、それをやったら、俺はもう引き返せない。国家に、はっきりと敵として認識される。そして、頭の中の雷鳴は、半径数キロの白い目をすべて、この学校に呼び寄せるだろう。体育館には、何百人もの避難民がいる。

 

スマホを取り出す。詩織からの新しいメッセージはなかった。最後のメッセージは、一時間前。

 

『おにい、今どこ』

 

『近くにいる』と打った。『いま、正門の近く』

 

既読がつかない。

 

一分。二分。

 

嫌な予感が、背骨を這い上がってきた。

 

そのときだった。

 

トラックが、揺れた。

 

地震ではない。車体そのものが、何かに掴まれたように、ぎしりと軋んだ。フロントガラスに、蜘蛛の巣状のひびが走る。

 

俺ではない。俺は、何もしていない。

 

頭の奥で、音が鳴っていた。

 

俺のアイドリング音ではない。もっと高い、澄んだ、ガラスの縁を指でなぞったときのような音。それが、俺の頭の中の音と重なって、不協和音を奏でている。

 

トラックが、地面から浮き上がった。

 

一メートル。二メートル。

 

俺の意思とは関係なく。

 

「なっ――」

 

とっさに、力で押し返した。トラックを地面に戻そうとする。

 

手応えがあった。何かが、俺の力と拮抗している。見えない手が二つ、同じ車体を反対の方向から掴んで、引っ張り合っているような。

 

トラックは、宙に浮いたまま、ぴたりと静止した。

 

運転席の窓の外に、人影が現れた。

 

黒いタクティカルスーツを着た、細身の男だった。二十代後半だろうか。防護マスクはつけていない。自衛隊の迷彩服でもない。胸に、見たことのない徽章がついていた。

 

男は、宙に浮いたトラックの横に、同じ高さで立っていた。

 

いや――浮いていた。

 

足の下には、何もなかった。

 

男は、ひびの入った窓越しに俺を覗き込んで、にこりと笑った。

 

その目の縁に、銀色の輪が光っていた。俺のものより、ずっと太く、ずっと明るく。

 

「やあ」

 

男の声は、窓ガラス越しなのに、はっきりと聞こえた。

 

「君の音、十キロ先から聞こえてたよ。相模川で何か投げたろ? あれはうるさかった」

 

男は、窓ガラスを指先でこつこつと叩いた。

 

「迎えに来たんだ。妹さんのことも含めて、少し話をしようか。――久遠湊くん」

 

(第二章 了)

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